第八章 蠢動
護衛を買って出てから三日目、ジェラールはまた、放牧中のユラと馬を並べていた。ヤーセミンの相手は、ルクンが引き受けてくれている。話せば話すほど、ユラへの興味は尽きず、ジェラールはどの話題を選ぼうか、苦慮する始末だった。
「ユラ殿は……」
少し迷った末に、ジェラールは続ける。
「どんな相手となら、一緒になってもいいと思われますか?」
ユラが目を瞬いたので、少し穿ちすぎた質問だったかな、とジェラールは慌てた。
「そうですね……」
ユラは真剣に考え込んでいる。どうやら、気を悪くしたわけではなさそうだ。
「こちらの意見を聞いて、尊重してくれるような人かしら。そういう人は、なかなか求婚してくれなくって……」
「意外ですね。ユラ殿は、もっと劇的な出会いを求めておいでで、そのせいで求婚をお受けにならないのかと思った」
「え? どうしてですか?」
「ほら、わたしが詩物語の話をした時、羨ましい、とおっしゃっていたので」
ジェラールが説明すると、ユラはかすかに頬を染めた。
「……別にそういう出会いを求めているわけではないのです。ただ、ルクン殿とノエイル殿は一緒に旅をする過程で、お互いのよいところも悪いところも知った上で、心を通じ合わせたわけでしょう? ノエイル殿は美しい方なのでしょうけど、ルクン殿が彼女を好きになられたのは、外見だけが理由ではないと思うのです。きっと、心が強く結びついているのだろうなあ、と思うと、羨ましくなって……あら、何を言っているのかしら、わたし」
(なるほど、やっぱりユラ殿は、精神的なことに重きを置くんだな)
あまりに美しすぎると、かえってそれが劣等感に変わってしまうのだろうか。これは、腰を据えて、互いに分かりあっていったほうがよさそうだ。
だが、これはジェラールにとっては悪くない話だ。外見にはそれほど自信はないが、心ばえを褒められたことなら、過去に幾度もある。ジェラールは周囲に目を配りつつ、心機一転して、ユラとの会話に勤しむことにした。
「あ、でも、わたしだって、いつまでも夢みたいなことばかり言っていないで、婚姻したいという気持ちもあるのですよ。もういい歳だし……理由もないのに嫁にいき遅れたら、家族にも迷惑がかかるもの」
言い訳をするように、ユラは補足した。
「焦らなくても、ユラ殿なら、きっとご自身にあったお相手が見つかりますよ。ご自分が、どういう恋をしたいか、分かっておいでだから」
自分など、ユラと出会うまでは、何も分かっていなかった。それに比べたら、ユラは相手との心の結びつきを大切に考えている分、遥かに自分自身のことを理解していると思う。
ユラが恋に目覚めた時、その目に映るのが自分だったら、と思うのは、虫がよすぎるだろうか。
ユラは「そうかしら」と、照れたようにほほえみ、ジェラールはそんな彼女の横顔に見惚れた。
楽しい時はあっという間に過ぎ、日が落ちた。昨日もそうだったが、今日も盗賊たちが襲ってくることは一度もなかった。
「やっぱり、俺たちがいるから、奴らも諦めたのかな」
放牧から帰る際にジェラールが口にすると、ルクンは思案顔をした。
「そうかもしれないが、もう少し用心したほうがよいだろうな」
以前はハサーラの神官であり、今はバーブル長老のもとで祈祷師の修練も積んでいるルクンは、第六感が優れている。こういう時は、友の言う通りにしたほうがいいと知っているジェラールは、黙って頷いた。それに、護衛をすれば、ほぼ一日中、ユラと過ごすことができるのだ。
「……ところで、お前は、いつ告白するんだ?」
急にルクンが水を向けてきたので、ジェラールは馬上でつんのめりそうになった。
「まあ、そ、そのうちにな」
ルクンは、人の悪い笑みを浮かべる。
「俺にした助言、忘れたとは言わせないぞ」
「分かってるって。俺は花嫁探しのために、ここにきたんだからな」
ジェラールが小声でルクンに応対していると、ヤーセミンと話をしていたユラが、近づいてきた。
「あら、お二人とも、楽しそう。わたしたちもまぜていただけませんか?」
「は、はい! どうぞ!」
どぎまぎしながら答えるジェラールに、ユラは追い打ちをかける。
「ところで、何のお話をしていらっしゃったのですか?」
「な、何でもありません! 大したことのないような、いえ、あるような話で」
ジェラールが妙なことを口走ったせいだろう。ユラは可憐に小首を傾げている。
助け船を求め、ジェラールはルクンのほうを見やる。ルクンは仕方がない、とでも言いたげな顔つきをしたあとで、無難な話題を振ってくれた。
話に花を咲かせながら、ジェラールはユラたちとともに、チェリク氏族の夏営地に戻った。
***
山羊の放牧後、牛の乳搾りや家事を終えたユラは、一人小用に立ち、天幕に戻る途中だった。
(ジェラール殿、だいぶ気さくに話しかけてくれるようになったわね)
今日一日の放牧で交わしたジェラールとの会話を思い出し、ユラは口元をほころばせた。放牧の時、何故、ルクンではなくジェラールと話す機会のほうが圧倒的に多いのか、最初は不思議に思った。だが、今はそんなことは気にならないくらい、ジェラールとの会話はユラの楽しみとなっていた。
それは、多分、ミル・シャーンの次の氏族長だというのに、偉ぶったところの少しもない、思いやりがあって、温かい、ジェラールの人柄のせいだろう。過ごした月日は短くとも、ユラには彼の人となりがはっきりと分かった。それに、今まで他の部族から訪れた男たちとは違って、彼は自分のことを、嫌らしい目つきで見たりしないのだ。
彼のことを思う時、ほんのりと胸の奥が温かくなる。今まで、家族以外の男衆には感じたことのない、この感情は何なのだろう。
「ユラ殿」
突然、声をかけられ、びくっとして振り返ると、ナスルが立っていた。
「ナ、ナスル殿、どうなさったのですか?」
実を言うと、ユラはナスルのことが苦手だ。他の求婚者たちとも明らかに違う、絡みつくようなねっとりとした彼の視線が、不気味だったのだ。
「実は、チェリク氏族を離れることにしたので、最後のご挨拶に伺いました」
「まあ、そうでしたか」
密かに安心しながら、ユラは言葉を探す。
「わたしではお役に立てませんでしたけど、他の氏族で、よい出会いがあるといいですね」
「いえ、その必要は、なくなりました」
ナスルは奇妙な笑みを浮かべた。
次の瞬間、ナスルは動き、ユラの視界から消えた。
(え? 一体――)
ユラが辺りを見回そうとしたその時、腹の辺りを抱きすくめられ、背筋がぞわりと粟立った。声を上げようとしたが、口を塞がれ、呻き声しか出すことができない。身体をよじり、何とか逃れようとしても、ますます強い力で押さえつけられてしまう。背後から、潜めた声が聞こえる。
「あなたが悪いのですよ、ユラ殿。わたしの求婚を断った上に、あんな連中を護衛にして。奴らのおかげで、わたしたちは、あなたをさらうのに失敗したというのに……」
ユラは息を呑んだ。ナスルとその連れは、合わせて三人。盗賊たちも三人。あの時の盗賊たちは、ナスルとその連れだったのだ。
連れの一人は、ジェラールに腕を矢で射られたはずだ。怪我をしたことを周到に隠し、もう一度、ユラをさらう機会を虎視眈々と狙っていたのだろうか……。
「獲物を捕まえたか」
背後から別の男の声と、馬の息遣いが聞こえた。すぐにユラは猿轡を噛ませられる。手足を縛られ、頭から足まですっぽりと布にくるまれると、視界がせばまって恐怖が増す。担ぎ上げられたその直後、鈍い衝撃が腹部に走り、馬の背に積まれたことが分かる。
(助けて――!)
声にならないユラの言葉は、夜の静寂に吸い込まれ、消えていった。
***
一家の天幕では、夕餉の時になってもユラが戻ってこないことで、ちょっとした騒ぎになっていた。彼女は今まで、夕餉に遅れたことは、ほとんどないという。
姉の様子を見てくるために席を立った、ユラの弟のエンフが、血相を変えて戻ってきた。
「父さん、大変だ! 姉さんがどこにもいない。叔父さんや隣近所にも訊いてみたけど、誰も見た人がいないって!」
ジェラールが思わず立ち上がりかけると、その前に顔色を変えたルクンが、エンフに問いかける。
「ウラス氏族のナスル殿を見たという人は?」
「え? ナスル殿のことは聞いていませんけど……」
「そうか……。わたしたちもユラ殿のことを捜してきます」
ルクンは立ち上がり、腰を浮かしているジェラールに厳しい顔を向けた。
外に出たジェラールは、思わずルクンを質した。
「おい、ルクン、どういうことだよ! ユラ殿がいなくなったことと、ナスル殿と、一体、どういう関係があるんだ!」
「ナスルがユラ殿をさらった可能性がある」
「な……」
ジェラールは言葉を失った。それ以上の質問を受けつけるのを拒むように、ルクンはナスルの天幕があるという西へ、ツァク・ラックに乗って向かっていく。ジェラールも彼に続いた。途中、立ち寄った天幕でナスルの天幕の正しい位置を教えてもらい、ようやくその場所に辿り着く。
「ないな……」
ルクンが乾いた声で呟いた。ナスルの天幕が張ってあるという場所には、ただ空き地が広がっているだけだった。ジェラールは頭が混乱していて、何も考えられない。ルクンは顔をしかめる。
「これで間違いない。三日前、ヤーセミン殿を襲おうとした賊は、ナスルたちだ」
ようやく頭が動き出したので、ジェラールは疑問を口にする。
「ちょっと待てよ。じゃあ、何故、あの時、奴らはユラ殿じゃなく、ヤーセミン殿を狙ったんだ」
「ユラ殿に求婚し、断られた奴自身に、疑いの目が向かないようにするためだろう。最初にヤーセミン殿を狙い、それからユラ殿をさらうことで、いきずりの賊がやった、と見せかけるつもりだったのだと思う。だが、俺たちが現れ、護衛を買って出たことで、奴らの計画は崩れた……」
何て狡猾な奴だ。ジェラールの麻痺していた感情が、怒りに染まっていく。だが、まだ疑問が残っていたので、ルクンに尋ねる。
「それで、仕方なく、ユラ殿が一人の時を狙ったのか――ルクン、お前、ナスルと初めて会った時から、奴が怪しいと気づいてたな。どうしてだ?」
「三日前、俺が戦った賊と、ナスルの身ごなしと声が似ていたからだ。……すまない、ジェラール。気づいていながら、ユラ殿がさらわれるのを防ぐことができなかった……」
「お前のせいじゃないさ」
苛立ちを抑え、ジェラールは応じた。ナスルの本性に感づけなかった自分が、ただただ腹立たしい。
(あの男――ユラ殿の心配をするふりをしやがって!)
ジェラールは馬首を草原に向けた。ルクンが前に回り込んで叫ぶ。
「ジェラール! 相手の居場所も分からないのに、どうする気だ! それに、相手は手負いの者がいるとはいえ、三人だ。お前一人では危険だ!」
「止めるな! こうしている間にも、ユラ殿は怖い思いをしているかもしれないんだぞ!」
ジェラールの知る遊牧の民の間には、戦などで略奪された他部族の女人を男と婚姻させる、略奪婚という風習がある。無理矢理さらわれたユラには、ナスルの妻になる未来しかない。そう思うだけで、ジェラールの頭は怒りで焼き切れそうになる。
ルクンはジェラールに負けない剣幕で、反論した。
「俺だって、ノエイルが同じ目に遭ったらと思うと、いても立ってもいられないよ! だがな、俺はアイスン殿やノエイルたちから、お前のことを任されているんだ。お前をみすみす死なせるわけにはいかない! お前は次の氏族長なんだぞ! その自覚を持って行動しろ!」
ジェラールは何も言い返せなかった。ルクンの言うことは正しい。妻を娶るのは氏族長になるためで、その花嫁候補のために死んでしまっては、元も子もない。
(それでも、俺は――)
ユラが好きだ。彼女の笑顔を、もう一度見たいと思う。
思えば、氏族や家族とは無関係のことで、何かをしたい、と、心の底から切望したのは生まれて初めてだ。
この気持ち、きっとルクンなら分かってくれる。ノエイルを深く愛している義弟なら。
そして、ジェラールは思い出していた。ユラに、ご自分の命を危険に晒すようなことはなさらないで、と言われたことを。
叱責され、頭の冷えたジェラールは深呼吸をするように、ゆっくりと口を開いた。
「分かった。もう、無茶をしようとは思わない。――だから、力を貸してくれ、ルクン」
ルクンが、先を促すように、視線を送ってくる。
「三人を相手にするだけだったら、俺たちだけで充分だろう。だけど、あとからナスルに、ユラ殿と自分は駆け落ちするつもりだった、と言われでもして、部族間のいざこざになったら厄介だ。だから、証人も兼ねて、ユラ殿の親族についてきてもらおうと思う。今は時が惜しいが、全ては彼らに事情を説明してからだ」
ジェラールの頭は、もはや一点の曇りもなく、冴え冴えとしていた。重大な決断を下す時、父も同じような心境だったのだろうか、と、不意に思う。
「了解した。氏族長」
ルクンは笑みとともに、深く頷いた。