第六章 チェリク氏族の夏営地
ユラは今からでも幕営地に向かえると申し出てくれたのだが、ジェラールは謝絶した。まだ日は高い。すぐに帰ってしまっては、山羊たちが充分に草を食べられないだろうと思ったのだ。しどろもどろになりながらも、ジェラールがそう説明すると、ユラは「お気遣い、感謝します」と言ってくれた。
岩場に座って編み物をしながら、ユラとヤーセミンはジェラールとルクンの話し相手になってくれた。初め、ジェラールは花嫁探しにきたことは伏せていた。ユラの前でその話をするのは、どうにも恥ずかしかったのだ。
「ジェラールは、花嫁探しの旅の途中なのですよ」
唐突にルクンがそう言い出したので、ジェラールの心臓は跳ね上がった。
「まあ、そうなのですか。よいお相手が見つかるといいですね」
ユラの返答に、ジェラールは心を滅多打ちにされたような思いがした。
……まあ、ユラはこの通り美しいから、引く手あまたなのだろう。いや、もしかしたら、既に夫か婚約者がいるのだろうか。
ジェラールが考え込んでいる間にも、ユラたちは話を進めていく。
「ルクン殿も、花嫁探しに?」
「いえ、わたしは既に婚約者がいるので、単なる付き添いです。実はジェラールの妹と婚約しておりましてね。彼は盟友でもありますが、未来の義兄というわけです」
「残念。ルクン殿なら、きっと氏族の娘たちにもてるのに」
そう言ったのは、ヤーセミンだ。十三、四歳くらいに見える彼女は、ユラに目元がそっくりだ。
「いえ、わたしは女人に好かれるような男ではありませんよ。取り得といえば、背が高いことくらいで」
そう否定したものの、ルクンは、ミル・シャーン氏族の女たちに老若を問わず好かれていた。それに、身長だけでなく、異国情緒に溢れた彫りの深い顔立ちは、なかなか悪くない、とジェラールは思う。加えて、彼の穏やかで誠実な人柄が、安心感と好感を与えるのだろう。
「ジェラール殿、姉なんかどうですか? 姉はもてるのに、求婚を断ってばかりなんですよ。いい加減、身を固めないと」
ジェラールは表情の選択に迷った。とにかく、ユラが独り身だと分かり、ほっとする。
「こら、ヤーセミン。余計なことを言うんじゃありません」
ユラは渋い顔をする。
「あの人たちは、わたしの見た目に惹かれただけよ。わたしは、そういうのは嫌なの。それに、そんな相手じゃ、一緒に暮らし始めても、すぐに逃げ出すに決まっているわ」
ジェラールの心は、一気に重くなった。自分も、ユラの容姿に惹きつけられた男の一人に過ぎないからだ。しかし、彼女の気持ちも分からないでもない。ノエイルもルクンと出会う前は、同じようなことを言っていた。そんな妹を、ジェラールは不憫に思ったものだし、外見だけで判断されたら、自分だって腹が立つだろう。
(俺は、まだ、この人のことを知らなすぎる……)
ジェラールが悶々としている間にも、話題は別のことに移り、やがて、日が暮れ始めた。ユラとヤーセミンは山羊たちを集め、ジェラールとルクンを伴い、夏営地へと向かう。
放牧用の杖を手に、山羊たちを追うユラたちの姿に、懐かしい氏族の女たちが重なり、ジェラールは郷愁を誘われた。ルクンもノエイルのことを思い出しているのか、無言でツァク・ラックとバヤードを歩ませている。
だいぶ移動し、辺りが宵闇に包まれた頃、高原に点在するチェリク氏族の天幕が見えてきた。ユラとヤーセミンは他の牧者もするように、まず、山羊たちを寝床に追っていく。
ジェラールとルクンは待っているように言われたが、彼女たちについていくことにした。昼間のこともあるし、幕営地に入ったとはいえ、夜空の下を娘二人だけに歩かせるのは、心配だったのだ。
突然、馬に乗った人影が、ぬっと暗闇から現れた。驚いたジェラールは、とっさにユラたちを守ろうと、前に出ようとした。
「あ、ナスル殿。どうされたのですか?」
ユラが相手を知っているようなので、ジェラールは動きを止めた。代わりに目を凝らし、ナスルと呼ばれた人影――よく見ると若者――を観察する。歳は二十ほど、なかなか美しい顔立ちをした、体格のよい青年だ。
「あの話を、考え直していただけないかと思いまして。……ところで、ユラ殿、そちらの方々は?」
「マーウィル部族のジェラール殿とルクン殿です。昼間、お知り合いになりました。襲われそうになっていた、ヤーセミンとわたしを助けてくださったんです」
「何ですって?」
若者の顔が険しくなる。
「そんなことになるのなら、わたしもご一緒していればよかった。そうすれば、あなたがたを守れたのに」
悔恨の表情を浮かべる若者を、ジェラールは複雑な気持ちで見やった。この男は、ユラとどういう関係なのだろう。
「あの、あなたは?」
ジェラールが問うと、ナスルは我に返ったようにこちらを見た。
「ああ、自己紹介がまだでしたね。初めまして、わたしはキルメジェト部族のひとつ、ウラス氏族のイスメトの息子、ナスルと申します」
「ほう、キルメジェト部族のご出身ですか。あちらには、知人がおります」
ルクンが応対すると、ナスルはしげしげとルクンを見つめた。
「あなたは見たところ、砂漠の民のようですが……」
「今は、ミル・シャーン氏族の一員です」
「これは失礼しました。有能な者を進んで招き入れるのが、我ら遊牧の民のよいところですからね。こちらには何のご用で?」
「花嫁を探すために」
ジェラールが宣言するように答えると、ナスルは笑った。
「奇遇ですね。実はわたしもそうなのです。――もっとも、わたしが目的を成し遂げられるかは、ユラ殿にかかっているわけですが」
それはもしかして、彼がユラに求婚したということだろうか。
「……ですから、ナスル殿。そのお話は、以前、お断りしたはずですが」
ユラが困惑した顔をすると、ナスルは人目があるにもかかわらず、彼女をじっと見つめた。
「ユラ殿、考え直していただけませんか」
ユラは琥珀色の目に強い光を宿し、首を横に振った。
「申し訳ありませんが……。別の方をお探しください」
「……そう、ですか。そこまでご意思が固いのなら仕方ありませんね……。わたしも諦めることにしましょう。では」
そう言って、蹄の音を残し、ナスルは去っていった。
ジェラールは我知らず、ため息をついていた。その横で、静寂を破ったのはルクンだ。
「ユラ殿、あの御仁はどちらにお泊りですか?」
「え? 確か、お連れの方たちと、夏営地の西で天幕を張っていらっしゃるはずですけど」
「そうですか……」
ルクンはひとつ頷くと、低い声でジェラールに囁いた。
「あの男、注意したほうがいい」
「……どういうことだ?」
ジェラールが問うと、ルクンは真剣な目で顎に手を当てた。
「まだ確証がないから、はっきりしたことは言えないが――とにかく、ユラ殿のことは、お前が守ってやれ」