第四章 サレッカルの領域にて
ミル・シャーン氏族の夏営地がある山を越え、北の山岳地帯を進んでいくと、どこまでも広がる高原が目の前に開けた。ルクンがハサーラから持ってきた方形の天幕で、何日も露営を繰り返してのことである。
ここには、遊牧の民サレッカル部族の夏営地が点在するという。サレッカルは、母、アイスンの出身部族だ。実を言うと、ここにきたのは、あらかじめ母に勧められたからなのだが、そんなことは関係なく、ジェラールは見知らぬ土地を目にしたことで、気分が高揚するのを抑えきれなかった。
「やっぱり、旅はいいなあ。移動してると、気持ちがすっとする。俺、遊牧の民でよかったよ」
隣でルクンが少し呆れたように笑う。
「俺も旅は嫌いじゃないが、お前ほどではないな。早く、ノエイルのもとに帰りたいよ」
「ノエイルといえばさ、お前、あいつに何て言ったんだ?」
「え?」
「ほら、お前が旅に出ることになって、悲しがるノエイルにだよ。どうやってあいつを納得させたんだ?」
「ああ……」
ルクンは、一瞬、目を泳がせ、口をつぐんだ。
「何だよ、教えてくれよ」
ジェラールがしつこく食い下がると、ルクンはぼそりと口にした。
「……出立の日まで、毎日励むから、機嫌を直してくれ、と言った……」
少しの間を置いて、言葉の意味を理解したジェラールは、帽子越しに頭を掻きつつ、さりげなく視線をそらした。
「……そうか……。もう俺の知ってるルクンは、どこにもいないんだなあ」
「うるさい! お前が話せと言ったんだろう!」
珍しく激昂するルクンを後目に、ジェラールは話題を転じた。
「それはそうと、これからどこに向かおうか。俺の聞いたところによると、ここから北東に進めば、チェリク氏族の幕営地があるらしいが」
話題が真面目なものに移ったからか、ルクンは落ち着きを取り戻した。
「そうか。ちょうど、水筒の水が少なくなってきたから、その幕営地を目指すのもいいかもしれないな。幕営地があるということは、泉か川があるということだからな」
二人は北東へ向けて、馬を進ませ始めた。泉を探しながら、「ところで」と、ルクンが言う。
「ジェラールは、どんな女人が好みなんだ? もしかしたら、チェリク氏族でよい娘に出会えるかもしれないからな。理想像は明確に持っていたほうがいい」
不意を突かれ、ジェラールは思わず考え込んだ。今まで、牧者としての仕事や、狩りに武術の訓練と、色々と忙しかったせいか、あまりそういことを考えた記憶がない。
「……そうだなあ。うちは母がとにかく強いから、母や、それからノエイルとうまくやっていけそうな人かな。それで気立てがよければ、言うことなしだ」
ルクンはため息をついた。
「お前、それは好みではなくて条件だぞ。その条件、女人の前では絶対に口にするなよ」
「え? そうなのか?」
いまいち理解できないジェラールを前に、ルクンは肩をすくめた。
首を捻りながら、ジェラールは視線を遠くへ向ける。辺り一面に広がる丈の高い草原に交じって、午後の太陽を反射して煌く一点が目に入る。ジェラールは自分の視力には自信を持っている。あれは泉か水場に違いない。ジェラールはその場所を指で示した。
「ルクン、多分、あれが泉だ。確認してくる。水筒を貸してくれ」
「分かった。俺はあとからいくから、気をつけろよ」
ルクンから手渡された空に近い水筒を、乗馬の鞍のうしろに括りつけると、ジェラールは泉目指して馬を走らせた。草原に出たことで、馬はぐんぐん速度を上げていく。風を切る感覚とともに、目的地が近づいてきた。
(やっぱり、あれは泉だ)
そう確信した時、ジェラールは泉のほとりに人と馬がいることに気づいた。自分たちと同じ旅人かと思い、ジェラールは泉の手前で馬を止め、近づいていく。
その人は、泉の前に屈み込み、手で水をすくっていた。ノエイルと同年代の娘だ。掌に満たした水を飲むと、息をつき、立ち上がる。服装はマーウィルのものと似て、右側に打ち合わせのある、膝下よりも長い立襟の上衣に帯を締め、ズボンと長靴をはいている。腰から下げているのは、矢筒と短刀だ。
何より、ジェラールの目を奪ったのは、娘の顔立ちだった。淡い褐色の卵形の顔に、きらきらと輝く利発そうな瞳、すっと通った鼻筋に、端麗な薄紅色の唇。長い黒髪は編まれ、前に垂らされている。
今まで、客観的に見ても、ノエイルが一番美しいと思ってきたジェラールだが、どうやら考えを改める必要があるようだった。
娘はジェラールに気づくと、ちょっと驚いたような顔をした。
「……旅の方ですか?」
「あ、ええ」
ジェラールは答えた。心臓が高鳴り、声が自分のものではないように感じられる。
「お邪魔して、すみません。その、水を汲みに……」
ジェラールがつけ加えると、娘は美しい微笑を浮かべた。
「そうですか。わたしはすぐどきますので、どうぞお使いください」
「は、はい……」
ジェラールが返事をする間にも、娘は馬に乗り、その場を駆け去ってしまった。
ジェラールは、呆然として彼女のうしろ姿を目で追った。その先には、たくさんの小さな点がゆっくりと動いている。おそらく山羊か羊の群れだろう。あの人は牧者なのだ。
(そういえば――名前を訊き忘れた)
それが、とんでもない失態だということに、今更、ジェラールは思い至った。
「ジェラール」
うしろから声をかけられ、ジェラールは飛び上がるほど驚いた。振り返ると、バヤードの口綱を引いたルクンが、馬上で不思議そうな表情をしている。
「どうした? そんな顔をして。水はもう汲んだのか?」
水のことなど、すっかり忘れていた。いや、そんなことは、もうどうでもいい。
説明する暇さえ惜しく、ジェラールはルクンを急き立てる。
「ルクン、あの人を追いかけるぞ」
「は? あの人?」
訝しげに問いを重ねるルクンには構わず、ジェラールは愛馬に飛び乗った。