第三章 ジェラールの旅立ち
辺りには、夜の静寂が訪れている。
ルクンとノエイルがいなくなり、広くなった天幕の中で、ジェラールは布団をかけて仰向けに寝転がっていた。円い天井を見上げながら、これからのことに思いを馳せる。
花嫁を探す旅に出、氏族長夫人にふさわしい女人を見つけ出す。婚約したら、しばらくともに暮らし、彼女を連れ帰って祝言を挙げる。そのあとで、正式に氏族長となる……。
一年近くはかかるであろう、あまりに長い道のりに、ジェラールはため息をついた。そもそも、相手が見つかるのか、せっかく見つけ出した相手が、自分を夫として認めてくれるのかどうかも分からない。
だが、これは、誰が代わってくれるわけでもない、自分がなさねばならないことだ。父を含めた氏族の男たちが代々してきたように、まだ見ぬ将来の妻を探しにいくしかない。
ルクンも勇気を出したのだ。自分も一歩を踏み出すしかないだろう。
ルクンとノエイルの、はにかんだ幸せそうな顔を思い出し、少しだけ寂しい気分になりながらも、ジェラールはふっと笑った。
翌日の早朝、天窓と出入り口を開けたジェラールは、母の前に座って言った。
「母上、花嫁探しの旅に出るという決心がようやくつきました。しばらく留守にしますが、氏族をよろしくお願い致します」
「ジェラール、よく決心してくれたわね。準備を充分にして、気をつけていってらっしゃい。……ああ、そうだわ」
微笑していた母の顔が、ふと曇った。
「母上、ジェラール、おはようございます」
ノエイルの声がした。見ると、天幕の入り口からノエイルとルクンが現れた。ノエイルの表情は、今までに見たことがないほど満ち足りていて、彼女を見慣れているジェラールでも驚いてしまうほど、美しく見えた。うしろに佇むルクンは、落ち着いた優しい表情で、ノエイルのことを見守っている。
「ちょうどよかったわ。二人に話があったのよ」
母は複雑な表情で、二人を招き寄せた。ルクンとノエイルは顔を見合わせたあとで、天幕内の出入り口で靴を脱ぐと、絨毯の上に座る。
「実はね、ジェラールが花嫁探しの旅に出ることを決心してくれたのだけれど――」
「まあ」と、ノエイルが反応する。彼女を見て、母は言いにくそうに言葉を継いだ。
「ジェラールは次期氏族長でもあるし、一人でいかせるのは少し心配なの。そこで、ルクン殿に付き添っていただければ、と考えているのよ。……いかがですか、ルクン殿。その、ノエイルと婚約したばかりで、申し訳ないのですが」
ジェラールは驚いて、母とルクンを交互に見やる。自分が一人旅ができないほど軟弱だとは思いたくない。けれども、確かにルクンがついてきてくれるなら、これほど心強いことはない。
何と言っても、ルクンは旅慣れているし、武芸に優れている上に、医術の心得まである。ノエイルが無事に旅を終えてミル・シャーンに帰ってきたのも、ルクンのおかげと思えばこそだ。
ただ、せっかく結ばれたばかりの二人を引き離すのは、生木を裂くようで何とも心苦しい。案の定、まるで世界が終わってしまうかのような悲しげな顔をして、ノエイルはルクンの横顔を見つめている。
ルクンは考え込んでいたが、やがて言葉を発した。
「……分かりました。お引き受け致しましょう。ジェラールはわたしにとっても、義兄であり次期氏族長でもあるのですから」
それから、目を潤ませているノエイルの耳元で何かを囁く。ノエイルは顔を赤らめて、小さく頷いた。
何を言ったんだろう、と思いながらも、ジェラールはノエイルに声をかける。
「悪いな、ノエイル。ルクンをしばらく借りるよ。できるだけ早く返すからさ」
ジェラールがさっさと花嫁候補を見つけて、晴れて一緒に暮らすことになれば、いち早くルクンを解放できる。
ノエイルは気丈に応じた。
「分かったわ。ジェラール、急いでいても、ちゃんと後悔しない相手を選ぶのよ」
***
七日後の朝、出立の準備をすませたジェラールとルクンは、母やノエイルを始めとした馬上の氏族の皆に見送られ、旅立とうとしていた。ルクンはノエイルとともに旅立った時のように、荷を駱駝のバヤードの背に積んで、ツァク・ラックに乗っている。
皆、心のこもった言葉をかけてくれ、最長老のバーブルは、「昔を思い出すわい。ま、あまり気張らずに、お前さんのよさを分かってくれる相手を探しなさい」と、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。家臣のミールザー一家も、それぞれに激励してくれた。
ルクンとノエイルは、いったん馬から降り、しばし見つめ合ったあとで、固く抱き合って別れを惜しんだ。その姿は、まるで仲睦まじい夫婦のようで、少し前の彼らからは想像もつかないような熱愛ぶりだった。
自分にも、このような相手が現れて、手を携えて氏族に戻ってくる日が訪れるのだろうか。そう思うと、ジェラールは不思議な、というより奇妙な気持ちになった。
(まだ、どんな女人と出会うのかさえ、分かっていないっていうのにな)
ジェラールは、心の中で苦笑した。胸のうちに燻っていた一抹の不安な気持ちは、皆から温かい言葉をもらったことで、ほとんど消えていた。それに、自分には頼もしい友がついている。
ノエイルが押し殺した声で言葉をかける。
「気をつけてね、ルクン。必ず無事に帰ってきて」
「ああ、必ず」
別れを惜しみながらもノエイルから身体を離し、ツァク・ラックに跨ったルクンに、ジェラールは視線を送る。ルクンは目を合わせたあとで、ノエイルに「じゃあ、いってくる」と、よく通る声で告げた。
「母上、バーブル長老、いって参ります。それじゃあな、ノエイル、皆。また近い内に会おう」
ジェラールは大きく手を振ると、馬首を翻し、前方に向けて歩き出す。バヤードの口綱を引いたルクンが、横に並んだ。