第二章 ルクンとノエイル、その恋の行方
翌日、太陽が中天に届くと、ルクンは医術と祈祷の師であるバーブル長老に断りを入れて、愛馬のツァク・ラックに乗り、アイスン一家の天幕に戻った。昼餉をいただくためであるが、今回は別の目的もある。
(ノエイルに告白しなければ)
昨夜、ジェラールに背中を押されてからというもの、ルクンは、ずっとそれだけを考え続けていた。
今のままでも、ノエイルの傍にはいられるではないか。
弱い自分が、何度もそう囁いたが、その度にルクンは、それではだめなのだ、と否定した。気持ちを抑えたままでは、ノエイルを想う気持ちが強すぎるゆえに、いずれ、二人の関係はぎくしゃくし始めるだろう。そうなれば、ますます告白などできなくなる。
……と、まあ、そんなことをぐるぐると思い続けていたせいで、昨夜は一睡もしていない。こんなことを続けていては、告白する前にどうにかなってしまうと思い、ルクンは、ついに覚悟を決めることにしたのだった。
昼餉を食べ終わり、家事を始めようとしたノエイルをルクンは呼び止めた。もう少し時間がたつと、彼女はアイスンを手伝って山羊の乳搾りに取りかかってしまうから、ぐずぐずしているわけにはいかないのだ。
「少し――いや、だいぶ込み入った話があるんだ。話せないか?」
「ええ、いいけど」
ノエイルは小首を傾げたあと、話を待つように座り直した。そういう彼女の仕草がいちいち可愛らしく感じられて、ルクンは、はやる気持ち抑えるのに必死だった。
「ああ、ええと、ここではちょっと話し辛いことなんだ。外に出よう」
ジェラールとアイスンに目をやったあとで、ルクンは促した。ノエイルは頷く。
もう一度ジェラールのほうを見ると、彼は応援するように、にっと笑った。少し勇気づけられながら、ルクンはノエイルを伴って外に出た。ルクンはあらかじめ決めておいた場所に、ノエイルを連れていく。
そこは、アイスン一家の所有する駱駝たちの寝床だった。とは言っても、今は駱駝の群れは氏族全体の駱駝たちとともに放牧に出ている。ルクンの相棒である駱駝のバヤードも、今頃は彼らと一緒に、放牧地で草を食んでいるはずだ。
ノエイルに大切な話をするならここだ、と、ルクンは以前から決めていた。前に、ノエイルと、彼女にまつわる極めて重要な話をした時も、駱駝の寝床だったからだ。あの時は、ここからずいぶん離れた冬営地で、寒気に包まれながら長い話をしたものだったが。
「それで、話って?」
ノエイルに尋ねられ、ルクンは心臓が縮み上がりそうになった。つい気弱になってしまう自分を鼓舞しながら、ノエイルの目を見つめる。
心の中で、ジェラールの助言を繰り返しつつ、ルクンは意を決して口を開いた。
「ジェラールのことだが……」
無意識に話題をそらせてしまった自分を、ルクンは心の中で罵った。そうとは知るよしもないノエイルは、相槌を打つ。
「ええ。仕方がないけれど、何だか、かわいそうになったわ。全然、乗り気には見えなかったもの」
話を戻さなければ。ルクンは、ますます慌てた。今は、ジェラールの話をしている場合ではない。
「……ノエイルは、その、今、夫を迎えろと言われたらどうする?」
「え……」
ノエイルの澄んだ青い瞳が揺れた。
「わたしは……嫌だな。――好きな人だったらいいけど……」
「好きな人……?」
ノエイルの想い人が自分だと、ジェラールから聞いていたルクンは、はっとした。
ノエイルが好きなのは、本当に自分なのだろうか……。
不安が頭をもたげてきて、ルクンは立ちすくんだ。もし、ジェラールの読みが間違っていた場合、自分が報われることはない。
今、想いを伝えるべきではないのだろうか。ルクンは躊躇した。不意に、ノエイルを見ていることが辛くなり、視界が揺れる。
(――いや、こんなことではいけない)
ルクンは自らを叱咤した。
結果がどうあれ、ノエイルに自分の想いを伝えたい。今は、ノエイルを恋い慕うことすら許されなかった、以前とは違う。もう、自分たちを隔てるものは、この心以外、何もないのだから。断られたら、その時はその時だ。ノエイルにふさわしい男になって、また挑戦し直せばよい。
ルクンは、もう一度、ノエイルの瞳をまっすぐに見つめた。
「ノエイル、俺の妻になってくれ」
「え?」
ノエイルの瞳が、大きく見開かれた。ルクンは続ける。
「俺は、あなたのことが好きだ。あなたと顔を合わせる、ずっと前から……。もし、あなたが俺のことを好きでないのなら、それでもいい。俺に機会をくれないだろうか。必ず、大切にするから……」
ノエイルは呆然と立ち尽くしていた。やがて、言葉もなくルクンを見上げていた彼女の目から、涙が一粒こぼれ落ちた。
そんなに自分と婚姻するのが嫌だったのだろうか。どうしたらよいのか分からなくなったルクンは、思わず彼女の名を呼ぶ。
「ノエイル……」
「違うの……嬉しくて……」
ノエイルは細い指先で涙を拭う。
「わたしも、あなたのことが好きだから」
ノエイルはルクンを見つめ返して、はっきりと口にした。
「気づいていなかったでしょう? わたしが故郷に残らずに、全てを置いてここに戻ってきたのは、あなたにもう一度会うためでもあったの」
ノエイルはジェラールの実の妹ではない。以前二人でした旅は、彼女の本当の故郷を目指す旅で、血の繋がった双子の弟や家族は、ここから遠く離れたところにいる。ノエイルの決断の理由が自分だと知って、申し訳なさを感じると同時に、ルクンの胸は熱くなった。ノエイルの心は、とうの昔に決まっていたのだ。
ノエイルは、ほほえむ。
「是非、わたしをあなたの妻にしてください」
ルクンはノエイルとの距離を詰めた。ノエイルは身じろぎせず、ルクンに瞳を据えている。心臓が痛いくらいに脈打っていた。ルクンは答えの代わりに、ノエイルの頬に手を添え、青い瞳を覗き込む。頬を染めた彼女が、ゆっくりと瞼を閉じる。以前はできなかった口づけを、ルクンは彼女の唇に落とした。
***
ささやかな楽しみである昼餉のあとの午睡を我慢して、ジェラールは天幕の外で、ルクンたちの帰りを待っていた。
やがて、ルクンとノエイルが連れ立って帰ってきた。ジェラールに気づくと、ルクンは大きく手を挙げる。
(うまくいったんだな!)
ジェラールは自分のことのように嬉しくなり、顔をほころばせて、二人を天幕の中に迎え入れた。中で織物を織っていた母の前に、ルクンとノエイルは、きちんと座った。緊張した面持ちで、ルクンが切り出す。
「アイスン殿。実は――娘御をわたしの花嫁に迎えたいのです。ご許可を、いただけますか」
母は藍色の目をみはった。
「それは、ノエイルをハサーラに連れていく、ということですか?」
「いえ。わたしは故郷に身の置きどころのない身。ゆえに、ノエイルの婿として、正式にミル・シャーン氏族の一員となりたいのです。むろん、バーブル長老のもとで働いて、身を立てていく所存ですので、ノエイルに苦労させるつもりはありません」
ルクンが真摯に答えると、母は深々と頭を下げた。
「娘をよろしくお願い致します」
「アイスン殿、お顔を上げてください」
恐縮するルクンに、母は顔を上げて微笑した。
「これからは、わたしのことを母とお呼びください。ルクン殿、あなたのような方が、娘をもらってくださるなんて、こんなに嬉しいことはありません。ノエイル、あなたも、今日から妻としての自覚をお持ちなさい」
ノエイルが頬を赤らめて答える。
「はい、母上」
その光景を今まで黙って見守っていたジェラールは、満面に笑みを浮かべた。
「よかったな、二人とも。ルクン、これからは、俺のことを義兄上と呼んでくれ」
「……分かった」
複雑そうな顔で受け答えをするルクンの背中を、ジェラールはぽんと叩く。
「冗談だよ。俺たちは今まで通りでいい」
「ジェラール、予備の天幕を出しなさい。今から、ノエイルとルクン殿の新居を設営するわよ」
急な母の命令に、ジェラールは思わず固まったが、それ以上に驚いていたのは、ルクンとノエイルだった。
「ア、アイスン殿、いえ、義母上。ハサーラでは、男女は正式に婚姻するまで、二人だけで暮らすことはないのです。これまで通り、四人で――」
「そうですよ、母上。まだ早いわ」
赤面して、必死にやめさせようとする二人に、母はきっぱりと言い放った。
「ルクン殿、マーウィルを含めたこの辺りの遊牧の民のしきたりでは、男は見初めた娘と婚姻前に、二人だけで暮らすのです。そうしないと、いざ夫婦になった時に、こんなはずではなかった、ということになりかねませんからね。あなたたちはもう婚約したのだし、天幕も余っているのだから、なおさらのことですよ。ミル・シャーンの一員になるからには、こちらのしきたりに従っていただかなくては」
一度言い出したら、母は余程のことがない限り、てこでも動かない。ルクンとノエイルは顔を見合わせ、しばらくすると、困ったような照れ笑いを浮かべた。