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第一章 ルクンの悩み

 初夏の白々とした空から射す夕暮れの光は、いつの間にか消え、山の中腹にある草原は薄闇に包まれ始めていた。辺りには、三百頭を超える黒毛の山羊の群れが散開し、草を食んでいる。


 馬上のジェラールは、先ほどまで暮れなずんでいた空を見上げながら言った。


「そろそろかな」


 その声を合図に、草原に口笛の音が響き渡る。口笛を吹いたのは、天女かと見まがう、美しい少女だった。目の覚めるような青い瞳と淡い茶色の肌を持ち、青銀色のおさげ髪を背に垂らしている。いかにも遊牧の民の娘らしく、足首まである長衣の下に、ズボン(ロン)をはいて馬に跨っていた。


 山羊たちは、少女の口笛に耳を動かすや否や、顔を上げ、いっせいに歩き出す。


「帰ろうか、ノエイル」


 妹である少女に声をかけると、ジェラールは放牧用の杖を手に、馬を歩かせ始めた。

 ジェラールは、今年で十八歳。日焼けした肌に、褐色の髪、穏やかな藍色の瞳を持つ。引き締まった端正な顔立ちは、均整の取れた体格と相まって、日に日に、少年というより青年としての印象を強めている。


「ルクンも、もう帰る頃かしら」


 ふと、ノエイルが紅を引いた唇を動かし、呟いた。


 ルクンとは、最長老のもとで医師見習いをしている若者の名だ。以前、その医術でジェラールの命を救ったこともあるルクンは、食客として、一家とともに暮らしている。ノエイルが化粧を始めたのは、彼のためだと知っているジェラールは、にんまりと笑った。


「気になるのか?」


「ち、違うわよ!」


 ノエイルは、顔を真っ赤にして首を振った。


「……昨日は急な患者さんがきたとかで、帰るのが遅くなったでしょ。だから、今日はどうなのかなって。いつ帰るかで、食事を用意する頃合いも変わってくるし」


 どう考えても、言い訳にしか聞こえない言葉を連ねるノエイルの姿が、ジェラールには、ほほえましい。


「やっぱり、気になっているじゃないか」


 もう一度からかうと、ノエイルは「知らない」と、そっぽを向いた。


 二人がミル・シャーン氏族の夏営地に帰り着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。昼間よりも温度が下がり、吹き抜ける夜風が心地よい。ジェラールとノエイルは、山羊たちを寝床に連れていったあとで、自分たちの天幕エッルに戻る。


 低い円錐形の屋根と、筒型の壁を持つ天幕の前に、背の高い人影が立っていた。見覚えのあるその人物に、ジェラールは声をかける。


「ルクン、どうしたんだ?」


 近づいていくと、頭巾イトゥバの下に覗くルクンの浅黒い精悍な顔が、星明りに照らされ、青白く浮かび上がった。ジェラールのうしろに佇むノエイルに、ちらっと目を向けたあとで、ルクンは酷く真剣な顔をする。


「話がある」


「うん。何だ?」


 ジェラールが問うと、ルクンはまごついた。


「いや、ちょっとここでは……」


「何だよ、ノエイルの前では言えないようなことか?」


「…………」


 どうやら、図星だったらしい。ジェラールはピンときた。


(ノエイルのことだな、これは)


 ルクンはノエイルと二人だけで旅をしたことがある。旅を終え、一旦は故郷に戻ったルクンが再びミル・シャーンを訪れたのは、密かに想いを寄せるノエイルに会うためだった。


 ジェラールにしてみれば、不思議な話だ。互いに想い合っている二人なのに、未だに気持ちを伝えられずにいるのだから。それに、想いを寄せ合う若い男女が、旅をしている間、全く何もなかったというのも、少し呆れてしまう。


 ともあれ、これはノエイルの将来にもかかわることであるし、ルクンは大切な盟友アダッシャだ。ジェラールは彼の話を聴くことにした。ノエイルに断りを入れ、天幕から少し離れた山羊たちの寝場所に、ルクンと連れ立って移動する。


 座り込んで休んでいる山羊の群れを横目に、ジェラールはルクンに視線を送った。ルクンは意を決したように口火を切る。


「実は、ノエイルのことで相談がある」


「そうだろうと思った」


 表情を緩めたジェラールに対して、ルクンはますます思い詰めたような顔をする。


「俺がここに戻ってきてから、もう一月だ。それなのに、どうしても、ノエイルに……その、想いを伝えることができない……。どうしたらいいか、分からないんだ」


 ルクンは途方に暮れたような目をしたあとで、切羽詰まった様子で問いかけてくる。


「俺は、どうすればいい? どうすれば、彼女に想いを伝えられる?」


 ジェラールは、両手を軽く掲げて見せた。


「少し頭を冷やせって」


「頭を冷やしてもどうにもならないから、相談しているんだ」


 ルクンは語気を強めた。ジェラールはため息をつく。


「あのな……誰がどう見ても、ノエイルはお前を好いてるよ。あとは、お前かあいつが、腹をくくって告白するかどうかだ」


「そうだろうか……」


 ルクンは自信なさそうに、睫毛の濃い目を伏せる。


「俺には、彼女の気持ちがよく分からない。前は、俺のことを好いているのかもしれない、と思うこともあったが、時間がたてばたつほど、分からなくなってくるんだ……」


(これは、相当参ってるな)


 どう助言したらよいものか迷いながら、ジェラールは言葉を選ぶ。


「大丈夫だって。それにな、ルクン。想いは伝えなければ、相手には分からないままだ。お前がノエイルの気持ちが分からないのも、それが原因だろ? 勇気を出してみろよ」


「だが、何と言えばいいのか……」


「思っていることを、そのまま伝えればいいじゃないか」


 ルクンの故国、ハサーラでは、恋愛をする者は少ないと聞く。二十二になるのに、今まで誰にも恋愛の仕方を教えられることがなかったルクンを、ジェラールは気の毒に思った。もっとも、ジェラール自身も、恋愛経験となると、からっきしなのだが。


「思っていることを、そのまま……」


 ルクンは復唱すると、生真面目な顔で頷いた。


「分かった。何とかなりそうな気がしてきた。ありがとう、ジェラール」


「どういたしまして。それなら、天幕に戻ろうか。きっと、ノエイルと母上が料理を用意して待ってる」


 ジェラールは、ほほえむと踵を返した。


   ***


「ジェラール、あなた、そろそろ花嫁を迎えてはどうかしら」


 夕餉を終えた頃、母、アイスンが口にした一言に、その場にいた三人は凍りついた。ノエイルとルクンは顔を見合わせたあとで視線をさまよわせ、当のジェラールは、しばらくの間、絶句してしまった。


「――は、母上、いきなり何を……」


「あなたたちの父上が亡くなってから、もう一年がたつわ。そろそろ、あなたに氏族長の位を継いでもらわなければね。でも、あなたはまだ妻帯していないでしょう。これでは、氏族の皆に、あなたが一人前だと認めてもらえないわよ」


 ジェラールとノエイルの父は、ミル・シャーンの先の氏族長だった。ジェラールは長老たちに次の氏族長に指名されてはいるものの、まだ若く、婚姻していないこともあって、氏族長代理を母に任せている。

 正論を述べる母を前に、ジェラールは冷や汗をかいた。


「確かにそうですが……」


「今まで口出ししなかったけれど、あなたは全然その気にならないのだもの。いい加減、花嫁探しの旅に出なさい」


 ミル・シャーン氏族の属するマーウィル部族の男たちは、妻を娶る年齢になると、伴侶を探すための旅に出る。マーウィルでは、部族内での婚姻を禁じているからだ。ちなみに、他の部族でも同じような慣習があるらしく、ミル・シャーンにも、花嫁を探しに、様々な部族の遊牧の民が訪れることがある。


(突然、そんなことを言われてもな……)


 ジェラールとて、妻帯の重要性は分かっている。特に父が亡くなってからは、婚姻という言葉が頭をよぎることも多くなった。それでも、旅出ちに踏み切れなかったのは、家族や氏族の皆と遊牧を続ける今の生活が、充実していたからだ。


 しかし、いつまでも氏族長位を継がず、母に氏族長代理を任せているわけにもいかない。いい加減、腹をくくらねばならないのだろう。


 ジェラールは内心でため息をつくと、母の目を見据えた。


「……もう少し、考えさせていただけませんか、母上。まだ、どの部族を目指して旅立つべきかも、決めておりませんし」


「ええ。できれば、二、三日の間に答えを出しなさいな。どうせ、花嫁候補と出会えば、嫌でも迷うことになるんですからね」


(急かすなあ……)


 密かにげんなりしたジェラールは、逃げるように、天窓を閉めるために絨毯から立ち上がった。そこで、ふと、あることを思いつく。


「ルクン、天窓を閉めるのを手伝ってくれ」


「……? ああ、分かった」


 通常、天窓を閉める仕事は、大人なら一人で充分だ。訝しげに席を立ったルクンと、そろって外に出ると、ジェラールは彼に耳打ちした。


「早く、ノエイルに告白しろよ」


「なっ……」


 大声を上げそうになるルクンを、ジェラールは手で制す。


「お前とノエイルのことが片づかないと、俺も安心して花嫁を迎えられない。期限は、二、三日だ。いいな」


 途端に緊張で顔をこわばらせるルクンに苦笑しながら、ジェラールは天窓を閉めるために、屋根から垂れ下がっている縄を引いた。

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◇ルクンとノエイルが活躍する本編◇

『水の供人』
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