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過去編その一 八澄の兄妹

真夏の砂浜に波が寄せては返し、太陽が照りつける。


その陽射しを避けるように、少年は防砂林の日陰の中に寝転がり海風で涼んでいた。その隣には木漏れ陽を浴びて、白く輝く綺麗な毛並みを持った狼が寝そべっている。少年よりも一回り程大きな体躯を持った狼だが、まるで少年に付き従うようにその傍で身体を休めていた。


その狼が形のいい三角の耳をピクンと立て頭を少し持ち上げた。


「どうかした、白銀しろがね?」


だが危険は無いと判断したのか、再び頭を下ろした。

やがて少年にもその理由が分かった。波音に混ざって少年を呼ぶ声が聞こえてきたからだ。


「…………さまぁ」


その声は段々近づいてきていた。


「……兄様ぁ」


そして砂地を歩く足音が聞こえてくるくらいに近くまでやってきた。


「あ、白銀」


白く輝く毛並みは日陰の中では少々目立つ。


「見つけましたよ、『叢丞そうすけ』兄様」


まだ幼さの残るあどけない顔をした少女が叢丞と呼ばれた少年の顔を覗き込んだ。


「やあ、『涼香すずか』」


涼香と呼ばれた少女は怒っているのか、眉を少し吊り上げていた。だがその表情に威厳など欠片もなく、『八澄やすみ 叢丞そうすけ』はかえって笑みをこぼしていた。


「もう、兄様! 涼香は怒っているのですよ」


「ああ、うん。ごめんごめん」


叢丞は身体を起こし、彼女に向き直って胡座をかいた。


「それで何か用かい?」


「用というか、いつまで経っても剣術の稽古から帰ってこないものですから」


「それでわざわざ迎えにきてくれたのか」


「ええ。行きましたとも、水薙家まで」


「そいつは悪い事をしたなぁ」


叢丞は頭をぽりぽりとかいた。その様子を見て、涼香は呆れるように溜め息を吐いた。


「もう。剣術に夢中になるのは良いですが、たまには八澄の修練にもお出になってください」


「そうは言うけどね涼香。僕があれに出ても意味はないんだよ」


「そんなことはありません! 努力を続ければいずれ〝力〟は……」


「涼香」


叢丞は思いの外語気が強くなってしまった事で少し自己嫌悪に陥った。涼香が萎縮してしまったのだ。


「ごめんよ、涼香。でも僕だって今まで出来るだけのことをしてきたつもりだよ。でも、〝力〟は戻らなかった」


「でも……、ごほッ、ごほッ……」


「涼香!」


叢丞は慌てて咳き込む涼香に駆け寄って背中をさすった。


「あ、ありがとうございます」


叢丞は涼香の額に手を当てた。


「少し熱があるね」


「だ、大丈夫です。今日は調子が、ごほッ……」


「駄目だよ。涼香は身体が弱いんだから、あまり出歩いちゃ……」


叢丞は言いかけて気がついた。


「……ごめん。僕のせいだね」


「いえ。涼香が勝手にお迎えにあがったので兄様が悪いわけじゃ、ごほッ、ごほッ……」


「ほら。もう喋らないで。……白銀」


白銀は叢丞の意図が分かっていたかのように、呼ばれるとすぐに涼香の前まで歩み寄ってその場に伏せた。


「僕が負ぶってあげたいところだけど、ほら、この前負ぶって帰ったら熱が上がっちゃったから」


「それは……」


涼香は叢丞の実の妹である。にも拘らず、近頃彼女は叢丞を一人の男性として強く意識するようになっていた。その為、負ぶってもらった事で舞い上がってしまい、熱が上がったという事は、叢丞が知る由もない。


「それは?」


「なんでもありません。……兄様の馬鹿」


そして不貞腐れるように白銀の背中に横乗りの乗っかってその背に身体を預けた。


「白銀。あなたの背中って何でこんなに心地いいのかしら」


側から見ても涼香が綿毛の中で寝転がっているように見えた。その涼香の評価がお気に召したのか白銀は尻尾を振っていた。


「それじゃあ帰ろうか。白銀、よろしく頼むよ」


白銀はそれに応えるように短く吠えると、涼香の体重などモノともせずに立ち上がってゆっくりと歩きだした。


「涼香は変わらないな」


そう言って叢丞は涼香の頭にぽんと手を乗せた。

その姿は三年前くらいから、まるで成長が止まってしまったかのように変わらない。


それはひょっとしたら涼香を蝕む病のせいなのかもしれないと叢丞は考えていた。

そんな病は彼も聞いたことが無かったが、この世の中には人間が解明していないことがたくさんある。


だから涼香の病が完治したら彼女の成長も再び始まるかもしれない。そう彼は思っていた。


「え……?」


一瞬涼香の表情が凍りついた。


「どうかした?」


「い、いえ。その……変わらない涼香はお嫌いですか?」


そう言って心配そうに、白銀の背中のふわふわの毛に隠れるようにして叢丞の顔を覗きこんだ。


「何を言っているんだ。涼香を嫌いになんてなるはず無いだろ?」


「兄様……////」


涼香が今度は顔を赤めて俯いてしまった。


「涼香! 顔が真っ赤だよ! 熱でもあるかもしれない!」


「あ、い、いえこれは……」


「早く帰ろう! 白銀」


叢丞と共に足早になる白銀だが、不思議なことに涼香には宙に浮いているかのようなふわふわとした感覚しか伝わってこない。そのせいか涼香はいつの間にか眠気に誘われて口に手を当てて欠伸をした。


その様子を見て叢丞は笑みをこぼした。



八澄やすみ家というのは霧ヶ浜周辺を本拠とする道教の流れを汲む祈祷師の大家、谷曇やずみ家の分家である。


昔、霧ヶ浜で暴れ回っていた妖魔を鎮め、その封印を守る為にこの地に置かれたのが、護りの〝力〟に長けた八澄の始まりと言われている。


そういった理由から、八澄の者は〝封印守はかもり〟と呼ばれている。


その〝封印守はかもり〟の家の跡取りとして産まれたのが『八澄やすみ 叢丞そうすけ』であった。


しかし彼には〝封印守はかもり〟としての〝力〟は無かった。正確にはあったのだが、今は失ってしまっていた。



白壁造りの塀が続く長い通りを一人と一匹が早足で歩く。正確には一匹の上にもう一人居るので二人と一匹だ。その一匹の上にいる少女はすやすやの寝息を立てている。


叢丞はその様子を、胸を撫で下ろしながらも笑顔で見守っていた。


やがて立派な門が見えてきた。と同時にその前に停まる豪奢な馬車も必然的に叢丞の目に入った。


「あの馬車は……」


叢丞は立ち止まった。

ちょうどそこへ門の中から帝國陸軍の軍服に身を包んだ一人の男が二人の取り巻きを連れて出てきた。


「兵隊さんがうちに何の…………ん?」


たしかに軍の人間だが、叢丞はその顔に覚えがあった。

周りを見下すような鋭い目付きま間違いようがなかった。


「……『清九郎せいくろう』」


叢丞の呟くような声が聞こえたかどうかは定かではないが、その男はふと叢丞の方を向いた。

そして蔑むような笑みを浮かべた。


「これはこれは、〝義兄上〟殿」


谷曇やずみ 清九朗せいくろう』。

八澄家の本家筋にあたる谷曇家の九男坊である。

未だ〝力〟の覚醒しない叢丞の代わりとなる跡取り候補として八澄家で寝食や修練を共にしている。


その清九郎が叢丞に歩み寄る。

すると白銀が牙を剥いて低く唸った。


「ふん。獣風情が」


白銀を一瞥して、清九郎は再び叢丞へと向き直った。


「今日もまた〝棒振り遊び〟に興じてこられたのですか? 家督から外れたとは言え、お気楽なものですな」


清九郎の皮肉に取り巻きの二人は嘲笑している。


「ははっ、耳が痛いな」


叢丞は慣れた様子でそれを受け流した。


涼香が目を覚ましていれば、「兄様は家督から外れたわけではありません」と言い返して、叢丞が「僕に〝力〟が無いのは事実だから」というやり取りの末に涼香が悲しそうな顔になるという流れになっていたところだが、幸いなことに今は白銀の上で寝息を立てていた。


ああいった手合いは受け流すか無視するのに限ると叢丞は最近悟った。


「ところで、なんでそんな格好をしているんだ?」


「これですか? 実は帝國陸軍から招聘されましてね」


と、まるで自分が選ばれた人間であるかのように誇示した。


「軍から招聘?」


「ええ。谷曇家でも随一の術師であるこの私に、是非とも特殊能力部隊を率いてくださいと直々にな」


「特殊能力部隊?」


「〝谷曇の力〟でもって敵国の邪悪を払い、我が国へと恭順させるのですよ」


そんなに上手くいくだろうかと懸念した叢丞は、清九郎の鼻が伸びてきて自分にぶつかるのではないかと思った。

そのくらい彼が有頂天になっているように見えた。


「それに剣術なんてもう古い」


清九郎蔑むように言った。


「ほう?」


第三の声と共に唐突に清九郎の頭に日本刀の鋒が突きつけられた。


「なっ?!」


突然の出来事にギョッとした清九郎。

だが叢丞はそれ程驚いていなかった。〝彼女〟が接近しているのを事前に察知していたからだ。


「駄目だろ、『咲夜さくや』。そういうのは人間に・・・向ける物・・・・じゃあない・・・・・だろ?」


叢丞は刀の峰を押さえて下ろさせると、呆れたように言って〝彼女〟の方に向いた。


淡い青緑色の着物に濃紺色の袴姿の、燃えるような赤く長い髪を髷みたいに括った少女がそこに立っていた。


「悪い悪い。はてっきり人の皮を被った畜生だと思ってな」


ワザとらしく、ついうっかりといった感じで『咲夜』と呼ばれた少女が言った。


「貴様は……、『水薙みずなぎ 咲夜さくや』!」


清九郎は忌々しげに彼女を睨みつけた。



霧ヶ浜には御三家と呼ばれる古い家がある。


医療系祈祷術師の谷曇家。


神職の龍宮家。


そして霊山・霧園山守護、陰陽道の大家・水薙家である。彼女はそこの次期当主候補の筆頭である。


この国が富国強兵策を敷いてから六十年余り。幾つかよその国との戦争も経験した。


二度目の世界規模の戦争が勃発するのではという噂がまことしやかに囁かれ、男尊女卑の考えの強いご時世に、水薙という家は珍しく女性当主という制度を執っている。


それは水薙の始祖が陰陽道に神道の考えを濃く取り入れたためであった。昔から神託を受ける巫女ふじょが神聖視されていた影響か、当主を神聖なものとして代々受け継いできた。


その次代の当主候補の筆頭に彼女、咲夜が選ばれた。まるで男のような口調だが、れっきとした女性だ。


「それで、わざわざこんな所までどうしたの、咲夜?」


「お前が帰った後にすれ違いで涼香が来たのでな。心配になって探し回ってたのさ」


「心配?」


「あ、あくまで涼香のだぞ」


咲夜は頬を少し赤らめて言った。


「貴様ら! 私を無視するとはいい度胸だな!」


清九郎は怒り心頭で、咲夜以上に顔を真っ赤にして拳銃を抜いた。


その時、両者の間に割り込む影があった。


「おやめください、清九郎様!」


「す、涼香?」


白銀の背中で眠っていた筈の涼香が、清九郎の構えた銃口の前に立ち塞がった。


「退かれよ、涼香殿! この者は本家の人間であるこの俺を侮辱したのだぞ!」


その逆恨みにも似た捏造を聞いて、咲夜はやれやれと肩を竦めていた。


「退きませぬ!」


「夫に逆らうというのか!」


谷曇清九郎は八澄家の正式な跡取りと決まった暁には、涼香を娶るという取り決めになっている。つまりは許婚であった。


「まだ夫と決まったわけではありません!!」


「ふっ。決まっているも同然ではないか。〝力〟の無い者が跡取りになるなど、分家と言えども谷曇の恥。つまりその者に跡取りの資格はないのだからな」


「それでも! 兄様には当主の器があります! 少なくとも、〝力〟にしか目を向けないあなたなんかよりも、兄様の方が余程当主の資格をお持ちです!!」


「なんだとっ!!」


銃口が涼香に狙いを定めた。


「……っ!?」


気丈に振る舞う涼香だが、その顔は真っ青だった。


「涼香っ!!」


「動くなよ、義兄上。最愛の妹を傷つけられたくなかったらな!」


「くっ……」


叢丞の悔しそうな表情を見た清九郎は愉快そうに口の端を歪めた。


「さあ訂正しろ。将来の夫を〝なんか〟と言い、そして反抗した事を!!」


「っ!!」


涼香の顔は真っ青なままだ。しかし、気丈さを失わないその目は清九郎を睨み返している。


「訂正は……しません!」


涼香のその言葉に、清九郎は一瞬この世の終わりの様な顔をしたが、すぐに逆上したように真っ赤になった。


「おのれ! ならば、貴様ら八澄などここでお取り潰しにしてくれる!! その上で……っ?!」


何かを言い続けようとした清九郎がビクッとして身体を強張らせた。


「谷曇清九郎」


咲夜の静かな声が、やけに大きく響く。

その場にいた全員が金縛りにあったかのように身動きが取れなくなった。いや動けば斬られてしまいそうな殺気が辺りに充満していた。


「それ以上の暴挙は流石に見過ごせんぞ」


咲夜の目が鋭い光を放つ。本気の目だ。


の友人に傷一つ付けてみろ。その時は谷曇ごとき・・・潰してやるから覚悟しておけ」


「ひ、ひぃっ!!」


そんな情け無い声をあげて尻餅をついた。


「情け無い。殺される覚悟も無い者が他人を手にかけようなどと。それでよく軍の招聘なぞ受けたな」


咲夜は心底呆れて言った。


「な、情け無いのは女に守られてるそっちじゃないか!」


「男だとか女だとか言う前に、お前には損得無しに守ってくれる人間がいるのか?」


気づくと清九郎の取り巻きはどこかへ消えていた。


「く、くそッ! 覚えてろよ!」


そんな捨て台詞を吐いた清九郎は馬車の御者台に乗ると、御者から手綱を奪って咲夜の殺気で硬直した馬を叱咤して早々にその場から去っていった。


「まるっきり三下の悪役だな」


咲夜が吐き捨てる。


「涼香っ!!」


叢丞が涼香に駆け寄る。


「兄……さま」


涼香はよろけると叢丞の胸にぽすっと収まった。


「ごめん、涼香」


「兄様?」


「僕がもっとしっかりしていれば、さっきみたいなことには……」


「いいえ。兄様は十分しっかりされてます。今はちょっと自信が持てないだけで……」


「でも……」


「ごほッ」


突如涼香が咳き込んだ。


「そういえば具合が悪かったんだね。急いで部屋まで運ばなきゃ」


叢丞は涼香の膝の後ろに手を回してそのまま抱きかかえた。


「に、兄様っ?!」


「すぐに部屋まで連れてってあげるから。大人しくしてるんだよ」


「は、はい……」


毅然と言った叢丞に涼香はぽぅっと熱っぽい視線で彼を見上げていた。


「叢丞」


屋敷に入ろうとしたところで咲夜が声をかけた。


「あ、ごめん咲夜。せっかく心配して来てくれたっていうのにお礼も言わないで」


「いや、いい」


咲夜は呆れたように微笑んだ。


「無事……かどうかは些か疑問だが、まあ無事には違いないしな。気にするな。それよりも早く涼香を休ませてやれ」


「うん。ありがとう」


二人の帰宅を確認した後、咲夜は少し寂しげな顔で帰路に着いた。




「それで、手筈はどうなっていますか?」


清九郎はいきなり御者が話しかけてきたので驚いた。


「手筈だと? そんな事を何故貴様に……ッ!?」


御者帽子を深く被っていたのめ清九郎は気づかなかったが、御者としてそこにいた人間が自分のよく知っている人物である事に気づいた。


「あ、貴方はーーー!!」


御者に扮していたのは清九郎を軍へと招いてくれた人物だった。その人物は彼に静かにするように人差し指を口に当てた。


「それで手筈はどうなっていますか?」


御者は何事と無かったかのように話を続ける。


「それが……、確かに谷曇の文献では八澄の屋敷には過去この国で暴れ回った妖魔が封印されていると書かれています」


「ええ。その妖魔の〝力〟を使い、来るべき戦争で勝利を収める。そういった約束で貴方を軍へと招き入れたわけですが」


「その通りです。私の〝力〟を以ってすれば、妖魔などを使役するのは容易い事です。ですが、中々その場所が掴めないのです」


「だったら、吐かせればいいじゃないですか」


御者は口の端を吊り上げ冷酷に言った。それを見た清九郎の背筋に冷たい物が伝う。


「は、吐かせるですか?」


「ええ。確か貴方は八澄の娘と婚姻の約束を結んでいましたね」


「はい。……ま、まさか!?」


「彼女が知っているなら彼女が、知らないのなら脅せば母親なり兄なりが吐くのではないですか?」


あの兄の性格なら確かに涼香に危害が及ぶと知ればその場所を吐くかもしれない。だが、清九郎はその涼香に危害が加えるという方法を躊躇っていた。


「まあ、それは最後の手段としましょうか」


清九郎はそれを聞いて安堵の息を漏らした。だが御者に扮した人物がアッサリと引いた事に一抹の不安を覚えた。


「それにしても谷曇の文献に詳しく載っていないというのもおかしな話ですね」


「それは確かに」


分家の歴史が本家に伝えられていない筈がない。もしそれらの記述が伝えられていないのだとしたら、分家が隠しているのか、それとも……、


「谷曇が本家で、八澄が分家……なんですよね?」


清九郎はドキッとした。


「は、はい。それは間違いなく」


「そうですか」


御者は意味深な笑みを浮かべて馬車を停めた。


「え?」


「着きましたよ、貴方の家に」


清九郎は言われて初めて谷曇の屋敷に到着していた事に気づいた。


「どうしました? 今夜は谷曇の屋敷に戻って文献を洗い直すのですよね?」


御者は中々降りない清九郎に声をかけた。


「あ、は、はい」


そそくさと清九郎は馬車から降りた。


「それではいい報せをお待ちしてますよ」


そう言い残して御者は馬に鞭打ち、馬車を走らせ去っていった。




薬を飲んで布団でぐっすり眠っている涼香を見て安心した叢丞は、そっと部屋から出て静かに障子を閉めた。


「叢丞様……」


名を呼ばれた叢丞は声のした方を向いた。

そこには麻の帷子に袴姿の年端も行かない少年が、どこか申し訳無さそうな表情でジッと叢丞を見つめていた。


「『宗十郎そうじゅうろう』?」


がまたご迷惑をかけまして……」


谷曇やずみ 宗十郎そうじゅうろう』。

清九郎の弟で彼同様修業を兼ねて八澄家で寝泊まりしている。まだ幼いながら、兄・清九郎に勝るとも劣らない高い潜在能力を秘めていた。


だが清九郎と違って彼は驕ること無く真摯に修練に取り組んでいる。にも拘わらず、修練に姿を見せないサボり魔の叢丞を慕ってよく後をついてきていた。


「迷惑とかお前が気にする必要ないよ」


そう言って叢丞は宗十郎の頭にぽんと軽く手を置いた。


「兄上も昔は優しい方だったんです」


宗十郎は苦笑した。


「宗十郎が言うならそうなんだろう。きっと清九郎は気難しい年頃なんだよ」


「そういう叢丞様と兄上は一つしか違わないじゃないですか」


「僕はまあ、ほら、跡継ぎとか関係無いからさ。〝力〟も無いし」


今度は叢丞が苦笑する番だった。


「叢丞様は〝力〟を失っただけだと聞いています」


宗十郎は詳しい事は聞かされていないが、叢丞には〝力〟が無いのではなく・・・・・・・ある時期を境に失った・・・・・・・・・・ということを知っている。


だから、叢丞の苦笑を見ると胸が締め付けられるような気持ちになる。例え叢丞本人が普通に笑っているつもりだったとしても。


「確かにそうだけど、今現在無い事には違いないから」


「しかし……」


まだ何か言いたげな宗十郎を叢丞は制止した。


「いつまでもここで喋っていると、涼香が起きちゃうよ」


大声を出していたつもりの無かった宗十郎だが、思わず両手で口を押さえた。


「ほら、そろそろ夕餉の時間だよ」


広間に向かって歩く叢丞の後ろをついていくように宗十郎は歩き出した。今になって差し出がましい事を言ってしまったのではという後悔をしながら。




水薙家の敷地には道場がある。

主に剣術を修めるための道場で、いつも竹刀を撃ち合う音と門下生の声で活気に溢れている。


だが、この日の午後はシンと静まり返っていた。


稽古が行われていないわけではない。ただ一組の稽古に門下生全員が固唾を飲んで見守っているからだ。


木刀の撃ち合う音が道場に響く。


しかしそれは最早稽古と呼べるものではなく、鬼気迫る実戦さながらの様相に声が出ないと言った方が正解だろう。


「どうした、叢丞ッ! 守ってばかりではこのから一本なんて夢のまた夢だぞ!!」


発破をかけるのは師範である赤髪の少女・水薙咲夜。彼女は女だてらに剣術を修めているのだが、その腕は超一流で並大抵の剣士では歯が立たない。


「そんなことっ、言われてもねっ。こうやってっ、受けているのでっ、精一杯っ、なんだよっ」


辛うじて彼女の太刀筋を受けるのは一番弟子である八澄叢丞。毎日のようにこの水薙の道場に通って剣の腕を磨いている。


週に何度かこうして咲夜と剣を交えるのだが、いつも咲夜の一方的な猛攻の後の一本で幕を閉じる。


「そろそろから一本くらい取れるようになってもらわないと困るぞ!」


「無理、言う、なっ! ここまで、来るのに、だって、苦労、したんだ、からな!」


「そうだな。ここ最近はでも簡単には一本を取れなくなってきた。少しずつだが腕を上げている証拠だ」


涼しげな顔で咲夜が言う。

その咲夜は肌で感じている。彼は決して弱くない。剣の才能だけだったら自分に匹敵するモノがあると。


しかし叢丞はその生来の優しい性格からか、自分から攻めようとしない。なのに何故剣術なんて物を習っているのか。


そのキッカケは咲夜にあったりするのだが、キッカケはどうであれ、今では叢丞はのめり込むように剣術に打ち込み、砂浜に染み込む波のようにみるみるうちに腕を上げていった。


「……他の奴らも見なくてはいけないからな。そろそろ終わらせてもらうぞ!」


そうしていつも通り、咲夜が一本を奪取する為に撃ち込む。


が……、


刹那、咲夜と叢丞の目が合う。


「ッ!?」


叢丞の鋭い眼光は、まだ彼が諦めていない証だった。



「(来たッ!)」


その瞬間を叢丞は狙っていた。


叢丞は自分が上達していることは実感していたが、それでも咲夜から一本を取るのは困難を極めた。


剣の腕は中々縮まらない。

水薙咲夜は剣の天才だ。それは叢丞も肌で感じていた。凡人が天才に勝つ為には努力でその域に近づくしかないと彼は考えていた。


そう考えるようになったのは咲夜のお陰だった。


叢丞はある時期を境に〝力〟を喪失した。

周りは手の平を返したように彼をぞんざいに扱うようになった。


変わらないでいたのは妹の涼香と飼い狼の白銀、そして幼馴染の咲夜だけだった。


それでも叢丞は自暴自棄になる事もあった。涼香に冷たくしてしまう事もあった。家にいると母親や奉公人達の憐憫の眼差しに耐えられなくて家出することもあった。


そんな叢丞に咲夜は剣術を勧めてきた。

水薙の家に伝わる【心陰水薙流】という名前だと聞いた。


何気なく習い始めた叢丞だが、みるみるうちにハマっていった。

やがて咲夜とも立ち合うようになった。はじめはボロボロに負けたが楽しかった。


そうしていつしか叢丞は咲夜に感謝の念を抱いていた。生きる活力を与えてくれた彼女に恩を返したかった。だから努力をして、天才である彼女に一矢報いる。それが彼の今出来る最上の恩返しだった。


そして中々縮まらない実力を埋める為に、これまで試行錯誤してきた。だが咲夜の猛攻から隙を見つけるのは難しかった。


しかし前回の立ち合いで光が射した。


咲夜の数ある太刀筋のうちのたった一回だったが、彼女の姿勢を僅かに崩した。

一撃を受けた角度が絶妙だったのか、咲夜の木刀が叢丞の木刀を少しだけ滑った。


そこから叢丞は〝受け流す〟という着想を得た。

考えに考え抜いて辿り着いた結論が、渾身の一撃を〝受け流す〟こと。


本番当日、叢丞はいつも通りに受けに受けてその瞬間を待った。気取られはしないかと緊張しながら。


そして、


「……他の奴らも見なくてはいけないからな。そろそろ終わらせてもらうぞ!」


「(来たッ!)」


緊張の一瞬、咲夜と目が合った。


「ッ!?」


その咲夜の目が僅かに見開く。


「(気取られた?! けど……!)」


咲夜の渾身の一撃は既に振り下ろされている。が、信じられないことにその軌道を咲夜は無理矢理ズラした。


「(流石は咲夜。でもーーー!!)」


叢丞は振り下ろされる咲夜の木刀目掛けて、その手の木刀を振るった。



「(何か仕掛けてくる?!)」


咲夜は既に木刀を振り下ろしている。渾身と呼べる一撃はそうそう止める事は出来ない。


だが、そこは天才・水薙咲夜。止める事は出来ないがその軌道をズラした。


と、そこで信じられないモノを見た。


叢丞に撃ち込む筈だった一撃。その軌道をズラした。その木刀が木刀によって打ち払われた。


「なッ?!」


ズラしただけの軌道は、その打ち払いで更にズレて咲夜の姿勢を崩した。それを見てどよめく門下生達。


「しまッーーー!?」


そう言えば、と呑気に咲夜は回想する。

前回の立ち合いでも、一度、たった一度だけ、受け流された・・・・・・


格下の者が格上の太刀筋を受け流すのは簡単な事ではない。その格の差の違いが大きければ尚更。しかしその差が小さければ成功する確率は格段に高くなる。


前回の時点で咲夜は偶然だと思った。

何故なら、叢丞の剣の腕が上がってきているとは言え、彼女との間ではまだまだ実力の差が雲泥程もあると思っていたからだ。


「くッ!!」


だが、それが間違いであった事をたった今・・・・実感した。


彼の腕は、今や自分に切迫する程上達している。そう認めざるを得ない。


そう認識すると咲夜は自然と笑みが浮かんできた。


「(嬉しいじゃないか。の腕を見ても尚、喰らいついてこようとする者がいるなんて。しかもそれが叢丞である事が)」


姿勢を崩した咲夜に致命的な隙が生まれる。そこに叢丞の木刀が振り下ろされる。


「だがなッ!!」


ダンッと咲夜は踏み込んだ。


「まだ負けてやるわけにはいかないぞ!!」


そして振り上げた木刀は、叢丞の木刀を弾き飛ばした。


「ッ!?」


そしてすかさず木刀を叢丞の喉元に突きつけた。


「……まいった」


叢丞は降参だと軽く両手を挙げた。


「ふふ……」


忽ちの内に歓声が巻き起こる。

二人は満足げに笑っていた。




立ち合いの後、二人は道場の入り口で汗を拭いて涼んでいた。


「それにしても驚いたぞ、叢丞。格段に腕をあげたな」


「何言ってるのさ。今日も一本も取れなかったじゃないか。僕はまだまだだよ」


叢丞は謙遜する。


「いや、〝受け流す〟という発想が生まれたのが何よりの証拠だ」


「ほら、僕は咲夜から教わる事が多かったから、今まで真正面から受ける事しか考えてなかった」


「まあな。は付け入る隙を与える前に撃ち倒すからな」


自信満々に咲夜は言う。


「うん。咲夜ならそれが出来る。でも僕にはまだ無理そうだから」


「まだ、か」


謙遜する割には自信があるようだと咲夜は少し驚いた。


「だから発想を変えてみたんだ。全部受けるんじゃなくて、受け流すことが出来たらって」


「やはり前回のか?」


「うん。あれが着想になったかな」


「短い間によく物にしたな。やはり叢丞には剣の才能があるようだな」


「咲夜にそう言ってもらえると自信が持てるよ。でも【心陰水薙流】の教えから外れてしまわないかな」


「流派は関係ない。剣術の基礎なんてものはどこも似たり寄ったりさ。受け流しもその内の一つに過ぎない。それにさっきお前も言ってたが、お前はじゃないし、はお前じゃない。それぞれの闘い方をすればいい」


「そうだね」


叢丞は迷いが晴れたように爽やかな笑みをこぼした。


「負けたというのに、随分と爽やかに笑っていられるのですね」


そこへ萌黄色の着物を着た女性が割り込んできた。肩で切り揃えた髪は赤く、咲夜と瓜二つの顔で冷たい視線を叢丞へと向けている。


「やぁ、『咲乃さくの』。今日の着物もいい色だね」


咲夜の双子の妹である咲乃の嫌味がまるで聞こえていなかったかのように、叢丞は彼女の着物を褒めた。


「べ、別に普通です」


咲乃は少し頬を染めてぶっきらぼうに言った。


「珍しいな、お前が剣道場こっちに顔を出すなんて」


「今日の修練が終わりましたので少し覗いてみただけです」


「お前も真面目だな」


咲乃は咲夜とは違い剣術の稽古には参加していない。昔から身体を動かすのをあまり得意とはしていなかった。


その代わり、彼女は水薙の才能をしっかり受け継いでいる。天才である咲夜には一歩及ばないものの天賦の才に恵まれていた。


そして日夜咲夜を追い抜き追い越さんと修練に励んでいる。


「それで、負け犬な誰かさんは今日も姉様に滅多撃ちにされていたようですが……」


「見てたのか。いやぁ、お恥ずかしい」


叢丞な苦笑した。


「ですが、最後は驚きました。まさか姉様の姿勢を崩して今日こそは……」


「今日こそは?」


咲夜の揚げ足取りに咲乃はキッと姉を睨んだ。


「こほん。よもや咲夜姉様が負けることはないと思っていましたが、とても惜しかったですね」


「え?」


「なんですか?」


「いや、珍しく咲乃が僕を褒めたから」


「べ、べべ、別に褒めたわけではありません。む、むしろそろそろ咲夜姉様が負けた姿を見てみたいのでもっと頑張ってくださいと……」


「なんだ、やっぱり応援してくれてるんじゃないか」


「ぬなっ?!」


咲乃の顔が一気に真っ赤になった。


「ははっ、咲乃の扱いが上手くなってきたな」


「別にそんなつもりはないんだけど」


「む~」


咲乃は叢丞を睨みつけている。


「え、え~っと、僕はそろそろお暇しようかな。また涼香が心配して迎えに来てしまう前に」


叢丞はそれらしい理由をつけて撤退を選んだ。


「おいおい。まだと立ち合っただけじゃないか」


「咲夜と立ち合う以上の稽古なんて僕には思いつかないよ」


そして着替える為にそそくさとその場から立ち去る叢丞。


「あ……」


彼女・・の名残惜しそうな声が聞こえた気がした。




叢丞が着替え終わった後も、活気に満ちた稽古の音が聞こえてきていた。


「やれやれ……」


叢丞は溜め息を吐いた。

その原因はもちろん咲乃である。


基本的には叢丞に対する態度が冷たい咲乃だが、時折その逆にも思える表情を見せることもある。


「本当、女の子ってよく分からないな」


涼香という妹と暮らしていながら、叢丞はそういった機微に疎かった。


「ん?」


門が見えてきたところで、その脇に萌黄色の着物の女性が立っているのが見えた。


「咲乃……?」


引き返すわけにも行かず、叢丞はそのまま歩く。


「塩でも撒かれそうだな」


「……撒いてほしければそうしますが?」


叢丞は呟いたつもりだったが、咲乃の耳には届いてしまったらしい。


「まあ、持ってきていませんし、勿体無いので撒きませんけど」


咲乃は相変わらず・・・・・素っ気なく言い放つ。


「もしかして見送りに来てくれたとか?」


叢丞は軽い気持ちで訊いてみた。


「べ、べ、別に追い返してしまうような態度をとってしまったことを後悔してるわけでは……」


「そうだよね。うん、分かってるよ。咲乃は僕の事が嫌いだもんな」


咲乃から何も返って来ないのは肯定なのだと叢丞は少し寂しかった。


「でもさ、一つだけお願いしたいことがあるんだ」


咲乃からの返事は無いが叢丞はそのまま続けた。


「僕の事は嫌いで構わない。でも、涼香とはこれからも仲良くしてくれないかな」


「……ッ」


咲乃は複雑な表情でジッと叢丞を見つめ、いやどちらかと言えば睨んでいた。


「………………なのに」


「え……?」


咲乃の呟きは叢丞の耳にまでは届かなかった。だが彼女の哀しそうな顔を見て叢丞の胸がズキリと痛んだ。


「いえ。……そんなこと貴方に言われるまでもありませんから」


どこか取り繕うように素っ気なく言うと、咲乃は踵を返して屋敷の中へと入っていった。


「出来たら僕の事も嫌わないでくれたらいいんだけどな。昔みたいに……」


そうして門を潜って外に出たところ、誰かの視線を感じた。


「……?」


辺りを見回すが、烏が数羽いるくらいで人は見かけない。

いや、近づいてくる人間はいる。


「居た居た」


巫女装束に身を包んだ女性が駆け寄ってきた。


「まつり姉さん?」


「はい。『龍宮たつみや 茉莉まつり』お姉さんですよ、叢くん」


龍宮茉莉はにっこりと微笑んだ。


霧ヶ浜御三家の神職・龍宮家。彼女はそこの娘で、今代の巫女である。

そして叢丞の一つ歳上の幼馴染だった。


「もしかして僕のこと捜してた?」


「ええ。ちょっと叢くんに用があってね」


「僕に?」


「そうなの。だからウチまで一緒に来てくれる?」


「ウチって、【龍宮神社】まで?」


「そう」


そして有無を言わさないように茉莉は歩き出した。


「だったら一度家に戻っていいかな? 何も言わないでいると涼香がまた僕を捜しに行っちゃうから」


「その心配は無いわよ。一度叢くんの家に寄って涼ちゃんに話してあるから」


「さすが、涼香の事よく分かってるね」


「お姉さんですから」


大きな胸を張って言った。


「それと涼ちゃんの事だけじゃなくて、叢くんの事もよく分かってるから」


「それもお姉さんだから?」


「ええ」


もちろんとばかりに茉莉は微笑む。


そうして他愛ない会話をしながら海岸沿いの道に出た。すると遠くに一本の巨大な樹が見えた。


「いつ見ても〝御神木〟は壮観だね」


【龍宮神社】の境内にある御神木は樹齢数百年と言われ、神社を取り囲む鎮守の森から頭一つどころか五つくらい飛び出して見える。


「叢くんはウチが何を祀っているか知ってたっけ?」


「もちろん。豊玉毘売神トヨタマヒメノカミだよね」


「そうよ。山幸彦ヤマサチヒコ海幸彦ウミサチヒコ神話に登場する海神・綿津見神ワタツミノカミの娘で、かの初代天皇・神武天皇の祖母にあたると言われているわ」


「たしか、夫である山幸彦に出産の場面を見るなと言ったにも拘わらず、山幸彦は見てしまった。そこには龍の姿となった豊玉毘売がいた。山幸彦が約束を破った事を悲しく思い、豊玉毘売は海へと帰ってしまったんだよね」


「そう。そしてあの〝御神木〟は豊玉毘売がその時が流した涙から芽を出したと言われているの。だから御神体である〝鱗〟に次ぐウチの御神体でもあるのよ」


【龍宮神社】の御神体である一枚の〝鱗〟。大きさが五寸程もある鈍色にびいろをしたそれは、神話で龍となって海に帰ってしまった豊玉毘売の物と言われている。


「それじゃあ叢くん。これは知ってる? この辺りが霧ヶ浜って呼ばれている理由」


「元々、霧が発生することが多いからじゃなかったっけ?」


「そうなんだけど、でも霧って春や秋に多かったり、盆地に多いっていうじゃない。でもこの辺りは季節を問わず発生するし、盆地というわけでもない。地形的にも気候的にも霧が多くなる条件は無いの」


「姉さん詳しいね」


「前にちょっと気になってね。それで、どうしてこの辺りは季節を問わず霧が出る日が多いと思う?」


「それは……話の流れからして豊玉毘売が関係してる?」


「そう。〝本当の姿〟を見られて海へ帰ってしまった豊玉毘売は、約束を破った山幸彦への罰として彼の住んでいた場所を霧で覆い何も見えなくしてしまったという伝承があるの。その証拠に霧はいつも海からやってくるでしょう?」


「海から霧がやってきた日は外に出ちゃいけないって小さい頃言われたけどそういうことだったんだ」


「いたずらに豊玉毘売を刺激しない為に昔の人が戒めたのかもしれないわね」


「なるほど。それで毎年一月八日に行われる『龍神祭』は豊玉毘売の悲しみを鎮める為の神事ってことなんだ」


「ええ。霧がかかってると漁も危なくなるし、その安全祈願にもなるってわけ」


と話している間に【龍宮神社】の参道へと差し掛かった。二人の目の前には参道の入り口である石造りの大鳥居が建っている。茉莉は一礼してそこを潜ると叢丞の方を振り向いた。


「じゃあちょっと先に行って取ってくるから、境内で待っててくれる?」


「取ってくる?」


叢丞の疑問に答えることなく、茉莉は参道を駆けていった。


やれやれと叢丞も茉莉を真似て一礼してから鳥居を潜った。するとふわりと優しい風が吹いた。


「【龍宮神社ここ】はいつ来ても心が安らぐな」


【龍宮神社】の神域はまるで母の胎内のような優しさに満ちていた。その要因は境内にあった。


参道の終わりの鳥居を潜ると社殿が目に入る。そして左を見ると巨大な樹が聳え立っている。〝御神木〟である。


叢丞は〝御神木〟に歩み寄り、そのやけに明るい木陰に立つ。真夏の日差しが濾過されて優しい木漏れ日となって叢丞に降り注ぎ、ゆっくり流れる時間が更にゆっくりと感じられた。


〝御神木〟こそが【龍宮神社】の優しい雰囲気を作り出していた。


「やっぱりここにいた」


背後から掛けられた声に叢丞はハッと我に返った。


「まつり姉さん」


振り返ると茉莉は満面の笑みで叢丞を見上げていた。


「叢くん、本当に〝御神木〟が好きなんだね」


「ここに来ると心が安らぐんだよ」


「うんうん。たまにお掃除の休憩でここにいると寝ちゃうもの」


「あはは、まつり姉さんらしいや」


「もう~どういうこと?」


言い返すものの茉莉の顔は笑っていた。しかしその顔もすぐに心配そうなものになった。


「でも、八澄のお屋敷はそんなに窮屈?」


「窮屈ではないけど、居心地はあまりよくないかな」


彼の妹である涼香は確かに優しいが、家人達の憐れむような目や谷曇の坊ちゃんの傲慢な振る舞いなんかがあっては心の休まる暇が無いに等しい。


「そう。それにしても叢くんもいつの間にか大きくなったわよね。叢くんを見上げる日が来るなんて思ってもみなかった」


「こう見えても男の子ですから」


どう見たって男の子よ、と茉莉は優しく微笑む。


「じゃあ、そんな叢くんに、はい、これ」


茉莉は小さな薄くて平べったい巾着袋のような物を叢丞に手渡した。


「これは……御守り?」


「御守りは御守りでも、ただの御守りじゃないのよ」


何処から見ても普通のお守りだった。透かしても見えるものでもないが叢丞は木漏れ日に翳してみた。だが、やはり何も透けて見えなかった。


「ん……?」


叢丞は持ち上げてみて気づいた。普通の御守りと思っていたので平べったいと思っていたが、少しぷっくりと僅かに膨らんでいた。


御守りは開けて中身を見てしまうとご利益が無くなってしまうようなことを聞いていた叢丞は、そのまま袋の上から触った。すると、球状の物が入っているのが分かった。


「何かの玉が入ってる……?」


「〝御神木〟の実よ」


「それってたしか、あまり実を付けない上に、傷も無い綺麗な状態で落ちていることも滅多にないから、すごいご利益があるとされているあの実…?」


「そうよ」


あっさり肯定する茉莉。お守りの中にある実は確かにまん丸っぽい。きちんとした実の状態のようだ。


「去年見つけたやつを取っておいたのよ」


「いいの? 欲しがる人がいるんじゃ…」


「いいのよ。うちの庭に・・・・・生えている・・・・・木の実・・・を私がどうしようと私の勝手でしょ?」


「そりゃまあそうだけど……」


こういった縁起物は、地元の名士や時には国に奉納される事もあるという。


「でも、何で僕に?」


「何でって今日は叢くんの誕生日じゃないの」


「え……?」


叢丞の思考が一瞬止まった。


「あれ? 合ってるよね?」


「…………言われてみれば、そうだね」


「もしかして忘れてたの?」


「……うん。ちょっと他の事で頭が一杯だったから」


咲夜との立ち合いの対策を考えていた為だった。


「本当に僕がもらっていいの……?」


「もちろん。だって今代の巫女である私が言ってるんだし、叢くんは私の弟みたいなものだし…」


「でも……」


「それでも誰も文句なんて言わないわよ」


「え……?」


「だって叢くん、八澄の子でしょ?」


「あ……」


叢丞は自分の家がそういえば地元の名士になることをすっかり失念していた。彼女の好意を無碍にする程叢丞は冷たいつもりはない。


「……ありがたく頂戴するよ、まつり姉さん」


「よしよし」


そう言って今日一番の笑顔を見せた。


「そういえば〝御神木〟って何の樹なの?」


叢丞の問いに茉莉は少し考える仕草をして、


「……気になる樹だね~」


どうやら知らないようだった。




叢丞が屋敷に帰り着く頃には陽はだいぶ西に傾き烏の鳴き声が響き渡る。


何処からとも無くヒグラシの鳴く声も聞こえてきて、その物悲しい泣き声が黄昏時を一層寂しく感じさせる。


「やっと帰ってきた」


「え……?」


その声にはっとする。


「咲乃……?」


八澄の門の前に何故か咲乃が立っていた。その疑問を口にしようとしたところで叢丞はもう一つの影に気づいた。


「涼香?」


咲乃に隠れるかのように涼香が、門の柱に寄りかかるようにして立っていた。


「すぐにお帰りになるとおっしゃっていたようですが?」


咲乃は少し怒っているようだった。どうやらすぐ帰ると言ったのが叢丞だと勘違いをしているらしかった。


「咲乃ちゃん、いいの。涼香が勝手に待ってただけだから……」


「馬鹿だな。こんな所で待っていることもないだろうに」


「まつり姉様がすぐって言っていたので…」


「ごめん。ちょっと話し込んじゃってね」


そんな素直な妹がとてもかわいく思えて、叢丞はいつもどおり彼女の頭を撫でた。


「いえ、そんな。謝られることなんてありませ……けほっ、けほっ」


「ほら……、入ろう」


「はい……」


涼香の手を引いて家の中に入る。


「咲乃もおいでよ、涼香の相手をしていてくれた礼に茶でも出すよ」


「……そこまで言うのでしたら」


そして少し嬉しそうに叢丞達の後をついてくる。


「ふふっ」


「涼香?」


「咲乃ちゃんって、素直じゃないんですよ」


涼香が僕に耳打ちする。


「す~ず~か~……?」


咲乃にも聞こえてしまっていたようだった。


「くすくす、ごめん」


二人を見ていると微笑ましく思える。


「ところで咲乃はどうしてここにいるんだ?」


「それはですね兄様、咲乃ちゃんは兄様の誕生日を……」


「ちょっと、涼香!?」


「ひょっとして祝いに来てくれたのかな……なんて」


「……っそ、そこまで言うなら祝ってあげなくもありませんね」


咲乃は何故か上から目線だった。


「そうか。咲乃に祝ってもらうなんて久しぶりな気がするから嬉しいな」


「っ……!?」


咲乃は顔を真っ赤にして立ち止まった。


「に、兄様。涼香だって兄様の誕生日をお祝いしたくてお待ちしていたのですよ」


叢丞の袖を引っ張って負けじと涼香は訴える。


「わかっているよ、涼香。ありがとうな」


何故か慌てている涼香の頭を優しく撫でる。


「わ、わかっていただけているのなら結構です」


そして涼香は満足したようで、気持ち良さそうに目を細めた。


「でも涼香は身体が弱いんだ。今度からはきちんと涼しい場所で待っているんだよ」


「……はい、兄様」


その様子を咲乃がじっと見ているのに叢丞は気づいた。


「もしかして咲乃も撫でてもらいたいの?」


「ち、違います! 私はそんな子供ではありません!」


叢丞には少し羨ましそうに見えたが、勘違いだったのかと反省した。


「少し調子に乗ってしまったかな」


「でも、涼香は兄様に撫でていただけるのでしたら、子供のままでも構いません」


「それはそれで問題があると思うよ」


いつまでも傍に居られる訳ではないと叢丞は言いかけたが、躊躇われたので口にはしなかった。


「もう……。涼香は本当にこのお方がお好きなのですね」


「それはもう。世界一優しい兄様です」


そうきっぱりと断言され、叢丞は背中が少しむず痒かった。


「はいはい。それでも咲夜姉様には敵わないけどね」


「咲夜ちゃんも優しいし、将来本当の姉様になっていただけるのがとても待ち遠しいわ」


水薙咲夜は叢丞の許婚である。だから将来的には咲夜は涼香の義理の姉になる。


しかし許婚と言っても叢丞の場合、水薙に婿入りすることが決まっている為、結婚後は水薙の家に住むことになっている。


「そうそう。咲夜姉様から預かり物があったわ」


そう言って咲乃は背中から風呂敷に包まれた細長い物を取り出して叢丞に差し出した。


「これは?」


「咲夜姉様からの贈り物です」


「咲夜からの? 稽古の前にでも渡してくれればよかったのに」


叢丞も受け取ろうと手を差し伸べた。


「稽古を終えてから渡すつもりだと仰ってました」


「ああ。なるほど、咲乃のせいで帰ることにーーーいッ!?」


叢丞の言葉を遮るように、下駄を履いた咲乃が素足に草履を履いている叢丞の足を踏み付けた。


「?」


涼香からは見えない絶妙な角度だった。


「さ、咲乃……」


「キッ!」


咲乃が鋭い目で叢丞を睨みつける。その目は〝それ以上言うな〟と言っていた。


「ともかくそれは姉様からの贈り物ですので」


そう何事も無かったかのように細長い包みを改めて手渡した。


「咲乃ちゃんがどうかしたのですか、兄様?」


「何でもありませんよね、叢丞どの?」


そう叢丞に微笑みかける咲乃だが、目が笑っていない。


「……そうだね。ただ今日も咲夜に負けた僕をこれてもかというほど扱き下ろすものだから、僕はそれに耐えかねてその場から逃げ出したんだ」


「なッ?! ちょっ……」


咲乃が涼香と僕を交互に見るようにして慌てふためく。


「咲乃ちゃん……?」


涼香が冷淡な眼差しを咲乃に送る。

彼女は最愛の兄である叢丞を馬鹿にされると機嫌が悪くなる。酷い時は、先日の清九郎のように食って掛かることもある。


「はぁ……」


だが涼香はすぐに呆れたように溜め息を吐いた。


「兄様」


「ん?」


「咲乃ちゃんはたしかに、兄様にちょっと冷たい態度を取ることがあります」


ちょっとだろうかと叢丞は少し考えてしまう。


「でもそれは恥ずかしがり屋で素直になれない咲乃ちゃんの親愛の証なんです。なんだかんだ言っても、咲乃ちゃんだって兄様のこ……むぐっ」


「す、すす、涼香っ!!」


咲乃が慌てて両手で涼香の口を塞いだ。


「咲乃?!」


「す、涼香ったらいい加減なこと言って……」


「むぐぐっ」


「あ、ごめん」


涼香が苦しそうにしていたので、咲乃はパッと涼香を解放した。


「もう、咲乃ちゃん照れなくたって……」


咲乃が怖い目をしていたので涼香はそれ以上は噤んだ。


「ともかく、兄様」


「ん?」


「兄様はちょっとした意趣返しのつもりかもしれませんが、それで咲乃ちゃんが傷ついていることもあるのですよ」


言われて叢丞は咲乃を見る。咲乃は外方そっぽを向きながら何とも言えないような、複雑な顔をしていた。


「そういうのはあまり兄様らしくなくて好きではありません」


「……そうだね」


涼香に痛い所を突かれ反省した叢丞は自虐的な笑みを浮かべ、咲乃に向き直って頭を下げた。


「えっ?!」


「ごめん、咲乃」


「べ、別に謝ってもらう謂れなどありません。傷ついてもいませんし」


「咲乃ちゃん」


「な、なに涼香?」


涼香の得も言われぬ迫力に咲乃は後退る。


「咲乃ちゃんはもうちょっと素直になった方がいいと思うな」


「わ、私は十分素直ですよ」


「え〜?」


疑いの眼差しを向ける涼香。三十秒ほどで咲乃は耐え切れなくなった。


「……そ、そういえば、叢丞どの。咲夜姉様の贈り物は一体何なのですか?」


そう話題を逸らして誤魔化そうとした。


「感触からすると刀、みたいだね」


叢丞はその話題逸らしに乗ることにした。それが涼香の思い描く叢丞像なのだろうと思ったから。


「刀ですか? 咲夜ちゃんらしいですね」


「まったくです」


二人が笑う。それを見た叢丞は咲乃の話に乗ったのが正しかったのだと実感した。


「どんな業物か見せてもらってもいいですか、兄様?」


「うん」


風呂敷を解く。

現れたのは、柄が七寸五分程、鞘が二尺五分程の全体的に朱色の拵えの一振りだった。


鞘には白い蔦のような模様が螺旋状に施されている。それを辿っていくと頭のような形が見えた。


「(これは蛇……、いや龍……なのか?)」


その頭には鋭い角のような物が描かれているので叢丞には判断がつかなかった。


鯉口を切って刀身を少しだけ引き抜く。


「これは……!」


その刀身はまるで水の中から引き抜いたかのように濡れて見えて、透き通っているかのような透明感があった。


「綺麗……」


涼香が恍惚として呟いた。


「ええ、本当に。でも、こんな一振り水薙家うちにあったかしら……?」


「結構な業物みたいだけど本当に貰ってしまっていいのかな」


「次期当主が選んだのですから、貴方は素直に受け取っておけばいいと思いますよ」


「そっか……。うん、そうだね」


叢丞は刀身を納めた。


「拵えを見る限りだと随分古い物のようだけど、〝銘〟は何だろう?」


「さあ私も見たことありませんから、咲夜姉様に聞いてみればいいじゃないですか」


「そうすることにしよう。それじゃあお茶を……と思ったけど、そろそろ夕餉の頃合いかな」


そこはかとなく漂ってくる味噌の香りを叢丞の鼻が嗅ぎつけた。


「じゃあ咲乃ちゃん、うちで食べていかない?」


「え? でもそれは……」


咲乃はチラッと叢丞を見た。


「じゃあ水薙家むこうには電話しておくから」


「そ、そうですか。でも本当にいいの?」


「大丈夫だよ。咲乃ちゃん一人増えたって。昔はよくうちで食べたり咲乃ちゃん家で食べたりしたじゃない」


「……うん。じゃあお邪魔します」


叢丞が電話すると咲乃の父親が出てすんなり了承された。そして夕餉の後、何故誘わなかったと乗り込んできた咲夜に叢丞は文句をぶつけられ、涼香と咲乃はそれを微笑ましく眺めていた。




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