一月十三日 水曜日②
霧ヶ浜の市街地の東側は小高い丘になっていて、【龍宮神社】はその麓に建っている。
その丘から霧ヶ浜海岸までが一つのリゾート地のようになっており、丘には幾つか別荘が存在する。
その内一番上にある大きなお屋敷のような別荘が、現在木ノ花風花が滞在している木ノ花家の別邸だ。
そしてそのお屋敷の大きな玄関から水薙浅陽が出てきた。
今しがた【異能研】からの連絡を受けて、一人の少女を捜しにいく為だ。
「待って、浅陽ちゃん」
呼び止められて浅陽が振り向く。そこにはお屋敷の今の主とも言うべき、木ノ花風花がいた。
「ごめん、風花。どうやら緊急みたいなの」
「知ってます。だから一言だけ」
風花と目が合う。
見た事が無いような真剣な目だ。それに応えるように浅陽は風花を見つめ返す。
「……兄様をよろしくお願いします」
「兄様? 兄様って薄雲先輩? いくら星明さんの息子さんでも何の〝力〟も持たない一般人を連れて行くわけが……」
「いえ、きっと〝あの方〟はやってきます。優しい方ですから」
風花は自信タップリに言った。
その目は疑いなくそうなる事が分かっているかのようだった。
「……わかったわ。もし遭遇したらあんたの代わりに叱っとくから」
それを聞いた風花は一瞬目を丸くした後、ぷっと噴き出し、春の風に揺れる花のように、可笑しそうに微笑んだ。
「それじゃ、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」
浅陽は木ノ花の別邸を後にする。
玄関の扉から門まで歩いてゆうに五分はかかる。しかし全速力の浅陽なら十秒程で到着する。
そして門に着いた瞬間ーーー、
「なにこれッ?!」
木ノ花別邸の敷地は濃い霧に包まれていた。
「何者かの襲撃? ……ううん、違う。これはーーー」
浅陽はこの地特有の気象を思い出す。
慧太郎は【龍宮神社】の鳥居の内側に立ち止まり、外側の光景に絶句してた。
「何だ、これ……!?」
【龍宮神社】の敷地を取り囲むようにして、数メートルも見渡せないような濃い霧が立ち込めている。
「この神社は神域な上に特殊な結界に囲まれていますので、この霧が入ってくることはありません」
「これが〝豊玉毘売伝説の霧〟なんですか?」
「そうです。こうして神社に入ってこれないのが何よりの証拠です。豊玉毘売伝説はご存知ですか?」
慧太郎はその手の話には明るくない。
だがどういうわけか、浮かんでくるモノがあった。
「山幸彦……?」
「あら、ご存知でしたか」
まつりは少し残念そうに言った。
「いえ、知らないはずなんですけど、何だかそんな名前が浮かんできて……」
「うふふ、なるほど」
今度は嬉しそうに笑みをこぼした。
「それで山幸彦は豊玉毘売とどんな関わりがあるんですか?」
「夫婦です」
「めおと……夫婦?」
「そうです。豊玉毘売の父親である海神・綿津見神に認められ二人は夫婦となりました。やがて二人に子供が出来た。そして出産が間近に迫ったある時、豊玉毘売は出産の場面を見ないようにと夫である山幸彦にお願いしました」
話の流れから慧太郎は続きが想像出来た。
「おそらく想像したとは思いますが、山幸彦は出産の場面を見てしまいます。そこには龍の姿となった豊玉毘売がいました」
「龍……ですか」
「龍は昔から海神や水神として祀られる事が多いのです。それに浦島太郎が亀に乗って行った場所は何処でしたか?」
「龍宮城……龍の宮!?」
「その通りです。つまり綿津見神とは龍の眷属であると推測出来ます。話を戻しましょう。〝本当の姿〟を見られてしまった豊玉毘売ですが、山幸彦が約束を破った事を悲しく思い、海へと帰ってしまいました。そして約束を破った罰として、彼の住んでいた場所を霧で覆い何も見えなくしてしまったという伝承がここ霧ヶ浜に伝えられているのです」
「じゃあこの間の『龍神祭』はもしかして豊玉毘売を鎮める為のお祭りなんですか?」
「よく気がつきましたね」
まつりは背伸びをして慧太郎の頭を撫でた。
「あ、あの……」
慧太郎が照れながら言うと、
「あ、申し訳ありません。ついクセで」
とまつりはいたずらっぽく笑った。
「豊玉毘売の御霊を鎮める事で霧の発生を抑え、海での事故を無くそうというのが『龍神祭』の役割なので…………ッ?!」
突如まつりは顔をしかめて、空を見上げた。
「ど、どうしたんですか?」
慧太郎の声が聞こえていないかのようにまつりはジッと空を見ていた。そして、
「何ですか、これはーーー?!」
浅陽は濃い霧の中を走り続けていた。
この辺りの道や地形は走り慣れているので多少見えないところで支障は無い。
「これが〝豊玉毘売伝説の霧〟ってやつなの?」
ここは彼女の地元なのだが、〝豊玉毘売伝説の霧〟は話に聞いていただけで実際に遭遇するのは初めてだった。
「確かに幽かに霊気というか神気みたいな〝力〟を感じるけど……」
やがて海岸通りに出た。
しかしここも霧が立ち込めていて、波の音は聞こえるが海はまったく見えない。
「それにしても砂浜か〝旧八澄邸〟か」
緊急事態の連絡を受けるまで忘れていた八澄のいう家について浅陽は朧げながら思い出してきた事がある。
連合首都が神獣クラスの怪物に襲われた八十年前の出来事。その原因を作ったのが八澄家の長男だった。
八澄家というのは霧ヶ浜の地で〝封印守〟の役割を持っていたという。
その〝封印守〟の封印を破り、当時の八澄家の長男は世に怪物を解き放ったと言われている。
その怪物は各地の術師達が撃退し、その存在が表沙汰となり、【念晶者】と区別する為に【顕現者】という名が世に広まった。
その事もあって八澄家は、【異能研】の前身である【陰陽寮】によってお取り潰しとなった。
そんな【顕現者】の汚点とも言うべき家に何があるというのだろうかと浅陽は心の中で首を傾げる。
八澄家にあった封印は今は他所に移されている為に残っているのは屋敷のみである。
「……そういえばなんで屋敷を残してるだろ。買い手なんてつきそうもないのに」
名前は忘れたが管理している人間まで付けて金の無駄じゃないかと浅陽は思う。
「っとと、そんなこと考えてる場合じゃない。じゃないんだけど、女の子一人捜すのに少し大袈裟じゃ……」
などと言いかけたその時、浅陽の全身を悪寒が駆け抜ける。
「ッ!?」
浅陽の中の警戒レベルが一気に頂点に達した。
「なに、この空を包み込むような強大な妖気は!?」
空を見上げる。霧がかかっていてよく見えない。だが、その方角と距離から発せられる大体の場所に見当がついた。
「これ……久遠舘から?」
久遠舘学院のある『久遠舘駅』から霧ヶ浜のリゾートに直結している『霧ヶ浜海岸駅』まではおよそ三十分ほどかかる。直線距離にしておよそ三十キロ弱。
そんな距離で感知できる程の強大な妖気。かつてこの国を襲った災厄でも再来したのではないかとも思える妖気だ。
「一体久遠舘で何がーーーッ?!」
次の瞬間、この強大な妖気に呼応するかのように、目の前の(霧がかかって見えないが)砂浜付近から大きな妖気が現れた。
同時に突風が巻き起こって辺りの霧を吹き飛ばした。その中心に一人の女の子がいた。
「もしかしてあれが例の女の子なの?!」
捜索対象である凛と名乗った少女。彼女が現れた晩、星明が彼女を〝世界を破滅に導くモノ〟と言った事が少しだけ理解出来た。
「あんな小さな身体でなんて妖気ーーー、」
『あれは彼女の妖気ではない。彼女の中に封じられている龍の妖気だ』
浅陽の中に眠っている少女の声がした。
「彼女の中に封じられている龍?!」
『今夜は新月でヤツは欠片も出てこられる筈もないが、この強大な妖気に触発されたようだな』
「一体何が……?!」
浅陽の意識が急に遠のいていく。
『すまんな。これは〝私達〟の手で片を付けねばならない問題なのでな』
気づくと浅陽は、いつも通り入れ替わっている時独特の、前世紀の小さな映画館のような、映写機が映し出す映像を観ているような感覚になっていた。
その映像の中で浅陽が左手を前に突き出す。
「五芒の扉 五星の交叉ーーー」
改めて聴く浅陽の声に違和感を抱きつつも、これから起こる事を何一つ逃さないように浅陽は事態を見守る。
「星が導く四獣五皇ーーー」
同じ声の筈なのに、自分の時よりも不思議と力強く聴こえる。
「暁告げる鐘の声 赤烏となって舞い上がれーーー」
身体の周りを風が逆巻き、時々バチバチと放電している。
「疾れ! 雷牙剣閃ーーー!」
そして一際大きなスパークが起こると、浅陽はそれを無造作に掴み取った。
「轟けッ! 鳴神ーーー!!」
それを薙ぐように振るうと、落雷したような轟音と共に一振りの日本刀が浅陽の左手に顕現した。
「始めるとしようじゃないか。八十年前の続きを」
突然の轟音に慧太郎は思わず耳を塞いだ。
「雷?! それもすぐ近くに……?!」
「いえ。雷には変わりないでしょうが、おそらく落雷ではありません。これはきっと……」
その間にも、激しくスパークしているようなバリバリッという音が断続的に聞こえている。
「やはり既に目覚めていましたか」
「目覚めて……?」
「かつてこの海に龍が棲んでいたのをご存知ですか?」
唐突にまつりが静かに問いかける。
「……龍神伝説の事ですか?」
「ええ。正しくは気性の荒い龍を封じた陰陽師の伝説です」
慧太郎はそれとよく似た話を最近聞いた。
「でもそれと雷鳴みたいな音が関係あるんですか?」
「あれはまだ牽制し合っているだけのようですが、もしあの女の子がその陰陽師本人だと言ったら、貴方は信じますか?」
慧太郎にはとてもそんな事信じられる筈がなかった。あくまで彼の知る常識の範囲では。
本人の口からそれを聞くまでは。
まつりのその問い掛けは、本人の言っていた事の裏付けとも言えた。
「たしかに空から降ってきたりとか不思議な出会いはしましたけどさすがにそれは……」
と、その時、慧太郎も軽く気持ち悪さを覚えていた、強大な妖気が突如として消えた。
まつりも緊張から解き放たれ、ふぅっと溜め息を吐いた。
同時に二人の周りに変化が訪れる。
「霧が……晴れていく」
そして雷鳴のような音も止んだ。
まもなく、霧も完全に晴れて砂浜にいる二人の少女の姿が露わになった。
浅陽(達)の前で気流が渦を巻いていた。霧を纏う白い竜巻。
浅陽がーーーと言っても中身は別人ーーー紫電を纏う日本刀を振るうと竜巻に向かって稲妻が走る。
しかしその電撃は竜巻によって弾かれてしまった。その後も紫電を振るうがいずれも竜巻に触れることは叶わなかった。
「……斥力場か」
浅陽が上を向く。セオリー通り上空から中心を攻めようと跳ぼうとしたその時、突如空を覆うような強大な妖気がパッと消えた。
すると竜巻が消え、周りの霧も少しずつ晴れていく。
浅陽が構えを解く。
目の前にいるであろう凛から禍々しい妖気が途絶えたからだ。
やがて霧はすっかり晴れてお互いの姿がハッキリと見えるようになった。
しかし浅陽の前に居たのは凛ではなかった。
いや、姿形は凛という少女そのもの。
しかし黒い髪は黄金色と銀色が融け合ったような色をし、瞳の色は空と海が一体となったような紺碧色をしている。
それでも浅陽は動揺を見せなかった。
「……久しいな」
目の前の少女はそれに微笑みで応えた。
そこに砂地を踏みしめる足音が二つ近づいてくる。
「来たか」
浅陽が二人を迎える。
「久しぶりね……」
まつりが浅陽に微笑みかける。そしてその名を口にする。
「『咲夜』ちゃん」
それに対し咲夜と呼ばれた浅陽は満足げな笑みを浮かべた。
慧太郎は髪と瞳の色の変わった凛ーーーレインと向かい合うと二日前の晩が思い出された。
人間の髪と瞳の色が変わるという不思議な現象を目の当たりにした二日前の晩を。
「龍を身に宿す? それは一体……?」
「自らの身体に封印している、と言った方が正しいでしょうか」
そう言ってレインと名乗った凛は自分の胸の中央に両手を添えた。
「私の胸に埋め込まれたとある魔具がそれを可能としているのです」
「埋め込まれて……?」
「この子は産まれた時から心臓に病を抱えていて、当時の医者は長くは生きられないと診断しました。しかし高齢にしてようやく子供を授かった両親はどうにかしてこの子を長生きさせたいと、禁断の方法に手を出しました」
「それが魔具の移植……」
レインは頷くと話を続ける。
「そのお陰もあって長生きすることが出来ました。……かれこれもう五〇〇年程前の話です」
「ごっ、五〇〇年ッ?!」
慧太郎にとって俄かには信じ難い話だった。
「魔具とはその名の通り魔力を宿したアイテムの事。神話級の魔具にもなると術者に少なからず影響がある。それを承知であの人達はその決断をしたのです」
その想いは慧太郎にはとても計り知れない。
「そして世界を放浪していた私は、ふらりとやって来たこの国で、この国の術者達と協力して件の龍をこの身に封印しました。しかし神話級の魔具でも、神獣と呼ばれる事もある龍を完全に封印することは出来ませんでした」
いつしか慧太郎はその物語のような彼女の告白をじっと聞いていた。
「月に一度。満月の晩には龍の〝力〟が増し、封印から逃れようと私の身体を侵食します。だから私は、私自身を封印することにしました」
「……龍神伝説?!」
自分の中で合致したモノが自然と口から出た。レインは頷くと話を続ける。
「そして八十年前。解ける筈の無い封印が解けました。ある若者の手によって……」
そこでレインは慧太郎の目を見て微笑みを浮かべた。
「優しい目をしていますね」
「……そんなこと初めて言われました」
自然と敬語になる慧太郎。
「ん?」
とそこでレインが何かに気づいたような素振りを見せた。
「どうかしたんですか? まさか龍がッ?!」
「いえ」
レインは少し可笑しそうに笑う。
「あの子が駄々をこねているようで」
「あの子?」
「今変わりますね」
レインが目を閉じる。すると髪の根元から髪の色が黒くなっていく。やがて毛先まで黒く染まると、パチっと目が開いた。
その瞳は赤みがかった茶色に戻り、今しがたまで湛えていた大人びた雰囲気も消え、溌剌としたーーーというよりも無邪気な光がそこにあった。
「そーすけっ!」
一瞬キョトンとした慧太郎だが、
「だから、慧太郎だって」
結局笑いながらそう返した。
そしてレインと二日ぶりの再会を果たした。
「……今夜は満月じゃないですよね?」
「ええ。今夜は新月。ですが……」
レインは北北西の空を見た。
「レイン?」
「……いいえ。何でもありません」
慧太郎に向き直り首を横に振った。
「それよりも、お二人が貴方を見ていますよ」
何かを誤魔化すようなレインのセリフだったが、浅陽とまつりが慧太郎を見ているのは確かだった。
『咲夜って、やっぱり……!』
浅陽とて馬鹿ではない。学業の成績に関しては確かに良い方ではないが。
浅陽の持つ〈鳴神〉というキーワードから浅陽はある程度推測はしていた。
浅陽の三代前に『水薙 咲乃』という人物がいる。その人物は浅陽の曽祖母にあたる人物なのだが、その彼女には双子の姉がいた。
その双子の姉こそ『水薙 咲夜』と言う。
稀代の天才と呼ばれ、呪術にしても剣術にしても彼女に敵う者は居なかったと言われている。
その彼女が突如歴史から姿を消した。それと共に彼女の継いだ愛刀〈鳴神〉も行方不明になった。それが八十年前の災厄である。
『そこまでは分かったけど、何であたしの中に居るんだろう……?』
「その鍵を握っているのは……」
浅陽の目が慧太郎に向く。
「俺……?」
「悪いが、どうやらノンビリとしていられるような状況ではないようなのでな」
浅陽はそう言うとまつりと顔を見合わせて二人同時に頷いた。
「ノンビリとしていられない……?」
それが先程までの状況を指していると慧太郎は気づいた。
それを表情から察したのか浅陽は少し嬉しそうにニヤリとした。
「それでは始めるとしよう」
「始めるって何を……」
訊ねようとした慧太郎の目の前に〈鳴神〉の刃を水平になるように浅陽が翳す。
慧太郎から見ると、刃の真横の地の部分に自分の目が映っている。
「そこにお前の目が映っているだろう? その自分の目をよく見るんだ」
「何で今そんなこと……」
「いいからやるんだ」
浅陽の目がギラリと光った気がした。
「は、はいっ」
有無を言わさぬ迫力に思わず敬語になる慧太郎。
言われた通り地の部分に映った自分の目を見る。
よく見ると稲妻のような模様が薄っすらとある。しかしそれよりもそこに映った自分の目に違和感を覚えた。
いつも鏡で何気なく見ている自分とは、何故かまったく違う物に見える。
具体的に言うなら、ーーー別人。
その時、シャンッという何処かで聞いた音が聞こえた。
「(この音……、神楽鈴?)」
叩き起こされたときのような乱暴な音ではなく、『龍神祭』で聞いたような魔を祓う澄んだ音色。
視界の端に、〈鳴神〉の地に映ったまつりの姿が見える。
幼馴染と歳の変わらぬように見える少女がそこで舞っている。
幼馴染に依れば、彼女が物心ついた頃からその姿は変わっていないらしい。
そんなバカなと思った慧太郎だが、彼の母親である薄雲星明の態度や、何よりまつり自身が醸し出す雰囲気が年相応に思えなかった。
学園にも大人びた生徒はいるが、あくまで大人びているに過ぎず、まつりと比べた時に如何ともし難い経験の差が滲む。
明らかに異質の存在である彼女。
彼女が舞い腕を振り翳す度に神楽鈴が詠う。
やがてその音に導かれるようにして、いつの間にか慧太郎はトランス状態へと入っていた。
その間も自分自身と見つめ合う慧太郎。
心の底から、魂の底から何かが押し寄せてくる。
途端に恐怖に駆られる慧太郎。だが、
「心配はいりません。それは決して貴方を害するモノではないのですから」
まるで慧太郎の心の中を見通しているかのようなまつりの優しい声が全身に染みるように伝わり、恐怖が解けていく。
すべて解けると同時に押し寄せてきた波に呑み込まれた。
「ーーーッ!?」
嵐の海に投げ出されたかのように身体が翻弄されているような感覚に陥った。
だがそれも一瞬の事で、波が過ぎ去ればまるで静かな海中に漂うような浮遊感に包まれた。
しかし息苦しさは無く、むしろ安らかさが満ち溢れていた。
慧太郎は羊水を思い浮かべていた。
赤ん坊は胎内にいた時の事を覚えているという。だいたい三歳前後で忘れてしまうらしいが、母親の心臓の音や水の中に居た事などを、三割ほどの子供が覚えているという研究結果もある。
そして中には命を授かる前の事を覚えている子供もいるらしい。
それは魂の記憶。
連綿と続く一つの魂の歴史。ーーー所謂、輪廻転生と呼ばれるモノ。
俄かには信じ難いが、無いという証明も出来ない。
羊水のような空間に漂う慧太郎に再び波が訪れる。
それは音という波。
静かに押し寄せて引いていくような、穏やかな波の音。
慧太郎はそれを懐かしく思っていた。
「(……ああ、この波の音は………………)」
そして思いを馳せる。
「(……あの日も暑かったな)」
一九四一年八月。
霧ヶ浜海岸の砂浜。
〝彼〟の意識はそこにあった。