一月十一日 月曜日
水薙浅陽は〈焔結〉を継いでから二度目のこの年末年始を実家のある霧ヶ浜で過ごした。
水薙家が地元霧ヶ浜の『龍神祭』の主催者側である上、彼女自身が祭で奉納する神楽舞の守護者役に選ばれているからだ。
そしてその役目も無事に終え、日曜日のうちに久遠舘へ帰る予定だったのだが、急な仕事が入った為にもう暫く霧ヶ浜に残る事となった。
期間は二週間。
仕事内容は護衛。
護衛対象は病弱なお嬢様、と浅陽は聞いている。
その初日。
浅陽は〝日課〟を終えて待ち合わせ場所である【龍宮神社】の大鳥居前で護衛対象が来るのを待っていた。
「本当ならこっちが家まで迎えに行くべきなんだろうけど、対象の要望じゃあね」
などとボヤいていると、遠くから如何にもといった黒塗りの高級車がやって来た。
「どうやらお越しのようね」
浅陽の予想通り高級車は大鳥居の前に停まった。そして運転手が降りてくると、浅陽の目の前の後部座席のドアを開けた。
「あなたが水薙家の次期当主、浅陽様ですか?」
春に吹く柔らかな風のような声が後部座席から聞こえてきた。
立っている浅陽からは護衛対象の顔は見えない。が、扉から覗く少女は思っていた以上に華奢で小柄なように見えた。
「あ、はい。あたしが今日から護衛につく水薙あさ……」
浅陽は上半身を少し傾けて覗くように車の中の護衛対象を見た。
そこには息を呑むほど可憐な少女がいた。
「はぁ……」
薄雲慧太郎は登校中に大きな溜め息を吐いた。
「なによ新学期早々溜め息なんて吐いて」
隣を歩く龍宮恭香が呆れたように慧太郎を見て言った。
「恭香も知ってるだろ。昨日は一日、凛にあちこち連れまわされてたの」
「ああ……」
ご愁傷といった風に恭香は乾いた笑みを漏らす。
「おかげで休日に子どもの相手をする父親の気持ちが分かった気がするよ」
「よかったじゃない。将来きっと役に立つよ」
「何の役にだよ」
「子どもの扱い?」
「何で疑問形なんだよ」
「あははー。なんでだろうねー」
彼女の僅かな雰囲気の変化を慧太郎は感じ取った。
「怒ってんのか? 連れてかなかったから」
ただその雰囲気の変化が何によるものかまでは気がつかない慧太郎であった。
二人の通う【霧浜学園】は、ごくごく普通の県立高校で、地元の人間は余程の事がない限りここに進む。
制服も一般的でネイビーのブレザーに男子はグレーチェックのスラックス、女子はグレーチェックのプリーツスカートとなっている。
そしてその余程の事がない二人がその校門を潜ろうとしたその時、黒塗りの高級車が校門の前に停まった。
登校中の誰もがその珍しい高級車に足を止めた。
視線の集まる中、運転手が降りてきて後部座席のドアを開けた。
降りてきたのは、臙脂色のブレザーに、白地に黒と臙脂色のタータンチェック柄のプリーツスカート姿の女子だった。
「あの制服は、たしか【久遠舘学院】じゃないか?」
「そうだけど、そもそもあれ……」
制服のブレザーの下には白いパーカー、スカートの下は黒いハーフスパッツ、黒ソックスに茶系のハイカットスニーカー。
明るい赤髪のストレートのボブに、襟足から腰の辺りまである尾長鶏の美しい尾羽のような髪。
「……どっからどう見ても浅陽じゃない」
恭香は浅陽に歩み寄る。
「あさひって、たしか水薙の妹の?」
慧太郎は立ち止まったまま恭香の後ろ姿を見送る。
「あ~さひっ♪」
不審人物(?)の接近を察知した運転手がドアを閉めようとした。しかしそれを浅陽は止めた。
「大丈夫です。というより『龍神祭』の舞姫をご存知ないんですか?」
「左様でしたか。これは失礼致しました」
運転手は恭香に向かって頭を下げた。
「あ、いえいえ、そんな。私なんてただ舞ってただけですから」
「その舞の稽古を一生懸命やってたのは誰でしたっけ?」
「もう、浅陽ぃ」
「あはは。冗談ですよ。でも〝大役〟なんですから、恭香先輩もそこまで謙遜することないですよ」
「そ、そうかな」
恭香は頬を薄く染めて照れていた。
「浅陽様。そろそろ職員室へと赴かなければ……」
「おっと、そうね。転入初日から遅刻なんてわけにもいかないですからね」
「え? 浅陽、【霧浜学園】に来るの?」
「あたしじゃないですよ。あたしはただの護衛です。転入するのはこちらの……」
浅陽が車の中へと目を向ける。
その車の中から、息を呑むほど可憐な少女が降りてきた。
瞬間、まるで時が止まったかのように、すべての音が止んだ。…………気が浅陽はした。
そして俄かにザワザワしはじめ、人集りが出来上がった。
その様子に運転手は警戒し、浅陽はやれやれと溜め息を吐くといつでも少女を抱えて人垣を飛び越えていけるように備える。
一方少女の方は、そんな浅陽の気持ちを知ってか知らずかニコニコと可愛らしい笑みを振りまいている。
顔にあどけなさが残るものの凜としていて、肩より少し長いくらいの濡羽色の髪がその雰囲気を際立たせている。
そして少女の目が正面にいる恭香に向いた。
「あなたは先日の『龍神祭』で舞われた当代の龍宮の巫女ですね」
その可憐な見た目通りの柔らかく透き通った声。
「え? ええ、そうですけど」
少女があまりに可愛らしくて見惚れていた恭香がハッと我に返った。
「まだ荒削りではありますが、心の籠った良い舞でした」
「ありがとうございます……?」
「お嬢様。お時間の方が……」
運転手が心配そうに声をかけた。
「そうですね。先生方にご迷惑をかけるわけには参りません。舞姫様、また後ほどご挨拶に……」
「どうせなら職員室まで案内しますよ。浅陽だってさすがに【霧浜学園】の職員室の場所までは知らないでしょ?」
「……知らないですね」
浅陽は【久遠舘学院】の職員室ですら場所が曖昧だった。
「それじゃ行きましょうか」
そう言って恭香が二人を先導する。
「ありがとうございます」
恭香の後ろを少女が付いていき、殿を浅陽が歩く。すると氷の海を砕いて進む砕氷船のように人垣が割れていった。
やがてその隊列が慧太郎の前に差し掛かろうとしたその時、浅陽の前を歩く少女が不意に立ち止まった。
黒塗りの高級車から可憐な少女が降りてくるなり出来上がった人集りに、慧太郎は弾き飛ばされ、今はその輪の外からその様子を見ていた。
「あれ、あの子どこかで……」
あれほどの美少女ならそうそう忘れることはないだろうと記憶を巡らすと、割とすぐに答えに辿り着いた。
「そうだ、祭の晩に出会った子だ。転入生だったのか」
と、俄かにまた騒めきが大きくなった。
見ると恭香を先頭に人垣を割って近づいてきているようだった。
そして慧太郎まであと数歩という所まで恭香が来た時、その後ろを歩く少女が不意に立ち止まった。
「ん?」
慧太郎と同時に少女の更に後ろを歩く浅陽が、「どうしたんだろう?」といった顔をした。
その慧太郎の顔を見た恭香が後ろを振り向いてようやく少女が立ち止まった事を知った。
そしてその立ち止まった少女はというと、ただ吸い寄せられるように一点を見つめている。
ただ真っ直ぐ、薄雲慧太郎を見つめている。
「(……俺?)」
そういえばと慧太郎は思い出す。
祭の晩に出会った時も、同じように熱い眼差しで見つめられていたことを。
慧太郎は不意に、心の底から湧き上がってくる温かいモノを感じた。それは親しい人間に久しぶりに再会した懐かしさに似ていた。
「(何だ、この不思議な感覚は……? まだ彼女に会ったのは二回目だっていうのに……)」
少女が慧太郎に歩み寄る。
まるで彼女にだけ動くことが許されているかのように、周りはしんと静まり返っていた。
やがて少女は慧太郎の目の前までやってくるとこう言った。
「……またお会い出来ましたね、兄様」
「……にい、さま…………?」
刹那、少年の脳裏に再び目の前の可憐な少女と雰囲気の似た見知らぬ少女の姿が浮かび上がった。
「(丁寧な言葉遣い……。柔らかい物腰……。……す…………)」
何かが慧太郎の頭を過った次の瞬間、目の前の少女が慧太郎の胸に飛び込んだ。
「え……?」
慧太郎は何が起きているのか理解が追いついていない。
「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
突如巻き起こる怒号・絶叫・悲鳴の大合唱。
そうして薄雲慧太郎は、学園一の有名人となった。
その時、チクリと針でも刺さったかのような微かな痛みを浅陽は感じた。
「……なに、今の?」
まさかとは思いつつも、しばらく頭から離れなかった。
放課後ーーーと言っても新学期初日で半日だったが、その半日足らずの僅かな時間で慧太郎は精神的に疲弊していた。
原因は朝の〝事件〟である。
その〝事件〟のおかげで、始業式では全校生徒(主に男子)からの突き刺さるような視線を浴び、教室に戻ってきてからは龍宮恭香の無言のプレッシャーに当てられていた。
そして今現在も不機嫌そうな顔をした龍宮恭香が昇降口までぴったり後ろをついてきていた。
「(いったい何怒ってんだ、恭香のヤツ……?)」
慧太郎はそういった機微には疎かった。
「(ってか、怒ってんならついてくることないだろうに)」
と、そんなことを思っている慧太郎の前に小さな影が現れた。
「おっと、すみません」
お互いに立ち止まり衝突は免れた。
「ん……?」
なんとなくではあるが、慧太郎の中には予感めいたモノがあった。
「あ……」
朝出会った転入生の少女に、もう一度逢うのではないかという予感が。
「先輩……も今帰りですか?」
「そうだけど……」
気まずいような照れ臭いようなそんな空気が流れる。
「こんちは。恭香先輩。……と、薄雲、先輩」
少女の後ろを歩いていた浅陽がその横に並んだ。
「って『風花』、〝先輩も〟って、話があって待ってたんでしょ」
「ちょっ、浅陽ちゃん。それは言わないで……」
風花と呼ばれた転入生の少女は頬を赤く染めた。
「なに言ってんの、ほら」
浅陽はそう言って少女の背中を押した。
残念ながら想いの叶う事がなかった自分の親友とどこか似たこの少女を、浅陽は応援していた。
チクリと浅陽の胸が痛む。
「(だから何だってのよ、この痛み)」
「浅陽ちゃん?」
少女が浅陽の顔を心配そうに覗き込む。
「な、なんでもない。それより」
浅陽は少女の両肩を掴んで無理矢理慧太郎の方を向かせた。
「ほら」
「……うん」
少女が慧太郎の顔を見上げる。
「あの、今朝は大変失礼いたしました」
「え、あ、う、うん……」
そんな風にしか慧太郎は応えることが出来なかった。
「役得だった~とか思ってるんじゃないですか、先輩?」
浅陽の口からそんなセリフが飛んできた。
「はぁ?! な、何言ってんだよ?!」
正直なところ役得とは思っていたが、それ以上になんとも不思議な温かさが胸を満たしていた。
「そ、それで、謝るためだけに待ってたのか? えっと……」
そう誤魔化した慧太郎だが、浅陽が呼んだ名前を呼んでしまっていいものか躊躇った。
「あ、申し遅れました。私『木ノ花 風花』と申します。………………〝今〟は」
少女は自分の名を告げ、最後にボソッと呟いた。
「(今は?)」
少女の謎の呟きが慧太郎はやけに気になった。
「木ノ花風花さん、か。私は聞いたことないけど……」
恭香が慧太郎の顔を見た。
「いや、俺にも覚えはない」
慧太郎のことを知っているのなら高い確率で恭香も出会っている。だが二人とも覚えが無かった。
同じクラスにもう一人付き合いの長い幼馴染がいるのだが、生憎なことに家の事情で休みだった。
「あ。……ふんっ」
恭香は何かを思い出したかのように、すぐ慧太郎から顔を背けた。
「(誰かどうにかしてくれ……)」
理由の分からない幼馴染のお憤りに、慧太郎は溜め息しか出てこなかった。
「……それで、朝もそうだったけど水薙はその子に付きっ切りなのか?」
幼馴染のお憤りはひとまず脇へやって、浅陽がこの場にいる理由を訊ねた。
「いちおう護衛なので」
「護衛?」
「はい。風花が慣れるまでの二週間程度なんで、短期留学みたいな物だと思ってください」
仕事上、詳しい内容を話すわけにもいかないので浅陽は予め用意しておいた通りに回答し軽く頭を下げた。
「まあ、そうよね。お嬢様みたいだものね」
恭香が勝手に納得したので浅陽はホッとした。
「それで、そっちの子は?」
恭香が浅陽達二人の陰に立つ三人目を指した。すると二人が道を開けて三人目が前に出た。
「わ、私、龍宮先輩のファンです」
セミショートのダークブラウンの髪の、猫目を少しキラキラさせたように輝かせてたその下級生が恭香に駆け寄った。
「フ、ファン? 私の?」
戸惑う恭香は、慧太郎と顔を見合わせ、そして慌ててまたぷいっと顔を背けた。
「はい。『龍神祭』の巫女舞、感動しました」
「あ、ありがと……」
その熱意と勢いに押され気味の恭香。
「私、『織村 由梨』って言います。今日友達になった木ノ花さんと水薙さんが先輩の下に赴くというのでご一緒させていただきました」
「そ、そうなんだ」
と、恭香は浅陽の方を見ると彼女は乾いたような笑みを浮かべていた。
転入生である木ノ花風花はともかく、地味目な制服の霧浜学園の中で一人違う制服を着た浅陽はとても目立つ。
おそらく同じようなテンションで迫られたのだろうことが予想された。
「私は薄雲先輩に会いに行くって言ったんだよ、由梨ちゃん」
「うん。だって薄雲先輩の所に行くってことは龍宮先輩もそこに居るってことだもん」
初対面の後輩にそのひと呼ばわりされたくらいで腹を立てる程慧太郎は器は小さくなかった。
「それどういうこと、由梨ちゃん?! まさか二人は……」
オロオロと風花は慧太郎と恭香を交互に見た。
「ただの幼馴染だよ。昔から何するにも一緒なことが多かっただけ」
「そ、そうよ。ただの幼馴染よ」
恭香は顔を真っ赤にしつつも下級生二人に抗議した。
「そうなんですか? 結構有名ですよ、長年連れ添った〝夫婦〟だって」
「〝夫婦〟……」
織村由梨の証言に恭香の顔が益々赤くなった。
「マンザラでも無さそうですよ」
浅陽が慧太郎をからかうように言う。
「ないない。他にも何人か幼馴染はいるんだけど何故かこいつとの組み合わせになるってだけで」
「それはこっちのセリフよ」
ふんっと恭香は飽きずに慧太郎から顔を背けた。
「許婚とかでも……?」
「許婚っていつの時代だよ」
「そうですか」
風花は胸を撫で下ろした。
「それよりも、〝兄様〟って慧太郎を呼んだように聞こえたけど、どういうこと?」
恭香が慧太郎を指差して訊いた。
「それは、あの……」
風花はチラッと慧太郎を見た。そして、
「……今は詳しい事はお話出来ませんが、薄雲先輩は私にとっては〝兄様〟なのです」
そうキッパリと断言した。
その後も会話の弾ませる女子達。
そんな中唯一の男子である慧太郎。普通の思春期男子なら期待膨らむ光景であろう。
だがその顔ぶれが良過ぎる。
学園中で話題沸騰中の転入生・木ノ花風花。
幼馴染にして【龍宮神社】の舞姫・龍宮恭香。
更に恭香のファンを豪語する織村由梨も劣らぬ美少女だ。
そして一人別の学校の制服を着た水薙浅陽。
彼女の地元である為知ってる者も少なくないが、久遠舘学院での彼女の評判やその実態まではあまり知られていない。
外見だけで言えば先の三人にも決して劣ってはいないので密かに注目を浴びている。
そんな四人に囲まれている慧太郎を羨ましいと思わない男子がいるだろうか。
この霧浜学園にはそんな男子は一人としていない。現に慧太郎には通りすがりの嫉妬の視線がザクザクと突き刺さっている。
針のムシロに座っているどころか、全身に被せられているような状態だった。
「……どうかしたんですか、薄雲……先輩」
そんな慧太郎に話しかけたのは浅陽だった。何故か声をかけていた。
「どうかしたって?」
「居心地悪そうにしてますよ」
「居心地悪そうなんじゃなくて、正直居心地悪い」
「恭香先輩も含めてこんなに可愛い子達に囲まれてるのに?」
「……囲まれてるからだよ」
「囲まれてるから? ……ああ、そういうコトですか」
浅陽は遠巻きにギラギラした視線を慧太郎に送る男子連中を見て納得した。
「ところで水薙」
「なんです?」
「『龍神祭』の晩に俺を助けてくれたのは、お前だよな?」
「……あたしですけど、それがどうかしたんですか?」
一瞬躊躇ったが、浅陽はそう答えた。
「そうか。なんだか話し方が今とあの晩とで違う気がしたんだけど」
「気のせいじゃないですか? 先輩はあの時は緊張状態にあったと思いますし、記憶違いだと思いますよ」
「そう、だったかな……?」
改めて思い返してみると、慧太郎は彼女の言う通りのような気がしてきた。
「浅陽ちゃん。そろそろお迎えの時間ですけど」
木ノ花風花が、私ももっと先輩と話したいのにといった視線を向けつつ浅陽に言った。
「迎えって朝みたいに校門の前まで車が来るの?」
「その予定です、龍宮先輩。皆さんとご一緒出来ないのが残念です」
そう言って風花は恭しく一礼すると、浅陽を連れ立ってその場から辞した。
迎えの車が走り去って慧太郎と恭香、そして恭香のファンだという織村由梨が校門前に残された。
「私こっちなので」
織村由梨は恭香と帰り道が逆方向なのを別れ際までとても悔やんでいた。
恭香の近くで由梨を見送っていると、慧太郎は不意に視線を感じた。
振り返ると金髪にブリーチした髪をオールバックに固めた如何にも不良のような出で立ちの生徒がジッと慧太郎の方を見ていた。
「あれは……」
一学年下に素行の良くない生徒がいるとは慧太郎も聞いたことがある。
慧太郎と目が合うと、金髪ブリーチの生徒はその場から去っていった。
「あれ、士郎じゃない?」
恭香が金髪ブリーチを見て言った。
「士郎? 士郎ってまさか『緋野 士郎』か?」
慧太郎の一つ下の幼馴染に『緋野 士郎』という人物がいる。
それが慧太郎の記憶にある彼とはあまりにかけ離れていたので気づかなかった。
「私も聞いた話なんだけど、中三に上がってからある日突然あんな頭してきたらしいわよ」
「なんかあったのか?」
「だから私も聞いた話なんだって」
「そうか……」
慧太郎は追いかけて声をかけようとも思ったが、遠ざかる背中になんとなく拒絶を感じて踏み出すのが躊躇われた。
「ねえ、帰りに麻衣んとこ寄ってこうと思うんだけど」
何気なくそう切り出した恭香に、慧太郎は一瞬ポカンとしていた。
「行かないの?」
「え? 俺も行っていいのか?」
「なによ、私とは行きたくないの?」
「いや、お前さっきまで怒ってたじゃないか」
「別に怒ってないわよ」
「いやいや。明らかに不機嫌だったじゃないか」
登校してから放課後までの間ずっと不機嫌そうな顔で、一言も会話を交わさなかったのはさすがの慧太郎でもそう感じるだろう。
「あれは…………、ううん。なんでもない」
「なんでもないことないだろう」
「なんでもないったら、なんでもないの!」
ズンズンと商店街の方に歩いていく恭香。
慧太郎は訳も分からぬままただそれを見送っていた。
「お憤りは続行中か」
と、前方で恭香が立ち止まって慧太郎の方を振り返る。その目は口調とは裏腹に弱気に「来ないの?」と問いかけているようだ。
「しようのないヤツだな」
呆れつつも慧太郎は恭香と同じ方向に歩き出した。
帰りの車の中、浅陽は隣に座る少女の印象が、まだ半日程度の付き合いではあったが随分変わってきていた。
「(ただのお嬢様かと思ってたけど、なかなか芯の強い子みたいね)」
その辺りが久遠舘学院の親友と似ていて個人的に好感が持てた。
「(まあ、『木ノ花』のお嬢様って時点で〝ただの〟お嬢様じゃないんだけどさ)」
浅陽は自分もお嬢様であることはスッカリ忘れていた。
「どうかしましたか、浅陽ちゃん?」
「あたしの親友に似てるなって思って」
「親友って久遠舘学院のですか?」
「そうそう。あたしをちゃん付けで呼ぶとこまでね。そういや、あんたは初めっからあたしをちゃん付けで呼んでたわね」
「駄目でした?」
上目遣いで風花は浅陽の様子を窺う。
やっぱり可愛い子は上目遣い破壊力が半端ないなと浅陽は改めて実感した。
「ううん。別にいいよ」
元々断るつもりもなかったのでそう答えた。それを聞いた風花はよかったと胸を撫で下ろした。
「……私も、浅陽ちゃんが昔の友達に似ていたものだから、つい」
「昔って、小さい頃のか何か?」
「そんなところです。姉になるはずだった女性でした」
「姉になるはずだった? 『木ノ花』ってあんた以外に子供いたっけ?」
浅陽は『木ノ花』家には子供は一人だけだと記憶している。
「いいえ。今の『木ノ花』で跡取り候補と呼べる者はいません。だから婿を取るしか今のところ家を存続させる方法はありません」
「そっか。あたしらみたいな古い家じゃ普通は男が家を継ぐんだよね」
古い家や格式の高い家等では男児が家を継ぐ仕来たりの残っている家も多い。
「そうですよ。水薙家が特殊なんです」
呆れたように風花は溜め息を吐いた。
「それであの薄雲慧太郎があんたの中で一番の婿候補なんだ」
「だったらいいなと思っています」
「なんでそんなにあの薄雲慧太郎にご執心なわけ?」
「あの方は特別なんです」
「特別?」
「はい。〝私〟が産まれてからずぅ〜っと、特別なんです」
風花は何かを懐かしむように、車の窓から遠くを見ている。
浅陽はその横顔がとても大人びて見えた。
「(恋かぁ……。あたしもいつかするのかなぁ)」
小さい頃から厳しい修行を受けていたり、悠陽との別れがあったりと、浅陽には異性を気にする暇など無かった。
だから秋穂や風花といった恋をしている同年代の女子にはある種の憧れがあった。
「(でもまあ、あたしが恋なんて想像も出来ないけど)」
自嘲するような笑みを浮かべると、もう一度風花の横顔を見た。不安と希望が入り混じったような表情をしているが、とても幸せそうな顔をしていた。
気づくと、慧太郎は砂浜に立っていた。
「え? ここは……?」
不意に海からの強い風が吹き付けた。
「うっ……」
思わず目を瞑る慧太郎。
風が止み目を開けた瞬間、穏やかな波が押し寄せる真っ黒な海と、そこに映る真円を描いた月が目に飛び込んできた。
それは息を呑む程綺麗な光景であるにも拘らず、慧太郎は寒気が止まらない。
その時月に雲がかかって辺りが暗くなった。
「そう、す……け?」
聞き慣れてきた声がして、慧太郎は声がした方を向いた。
「凛……?」
闇の中で紅い瞳が慧太郎を捉えた。
「え……?」
再び月が顔を出し、彼女の姿を照らし出す。
「!!!」
腕に―――、
脚に―――、
そして顔に―――、
無数の、まるで蛇のような鱗が―――。
「……り、ん?」
紅くなった瞳が輝きを増す。
手には鋭い爪。
髪はまるで鬣のように潮風になびいてて………………………………、
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
慧太郎はガバッと布団から起き上がった。
「ハァッ、ハァッ……!」
ドッドッドッと慧太郎の心臓が激しく脈打つ。
そして周りを見回す。
そこが最近寝泊まりしている龍宮家の客間だったので慧太郎は胸を撫で下ろした。
「夢、か……」
あまりに恐ろしい内容だったので、夢であったことにもう一度安心した。
「っ……」
軽く尿意をもよおした。
夢の事もありトイレに行くのが躊躇われたが、そのままでは眠れそうもないので慧太郎は止む無く布団から出てトイレに向かった。
その帰り。
慧太郎は玄関の引き戸が静かに閉められた音を聞いた。しかし、誰かが入ってきた様子はない。
「こんな時間に誰かが外に……? まさか、泥棒?」
靴を履いて引き戸を静かに開けて、慧太郎はキョロキョロと見回した。
すると、一瞬だが本殿の角を曲がり境内の方に向かう人影を見つけた。足音を潜めて後を尾ける。
そして本殿の影に身を潜めてその姿を確認すると、慧太郎はギョッとした。
「凛……?」
慧太郎の脳裏に数分前に見た夢が蘇る。
「ッ!?」
無意識に引いた足が境内を敷き詰める砂利を踏みしめて予想以上に大きく音が響いた。
「だれ?」
凛が音に振り返り辺りを見回す。
その顔には鱗などは無く、瞳も赤くない。
それに安心した慧太郎は本殿の影から凛の前に姿を現した。
「そーすけ?」
「こんな夜中に何してるんだ?」
「月をみてた」
「月? もうほとんど新月だからこの時間はもう沈んじゃってると思うぞ」
「そうか」
少し残念そうに、凛は再び夜空を見上げた。
その時、一陣の風が吹いた。
『……ぁ…………ぁ……ん……』
「ん?」
慧太郎の耳に何か声のような物が届いた気がした。
「そーすけ?」
慧太郎の様子に気づいた凛が声をかけた。
「いや、なんでもない」
『ぅ……ぁぁ……ぁぁぁ…………ん』
と、慧太郎の耳に、今度は幾分ハッキリとした〝声〟が届いた。
「(これは、泣き声……?)」
聞こえてきたのはとても悲しみに満ちた泣き声だった。
ドクンと慧太郎の心臓が強く脈打つ。
そして気付いた。
凛がじぃっと慧太郎を見つめていることに。
「凛……?」
二人の目が合う。刹那、慧太郎の視界が歪み、そこに大粒の涙を流し泣きじゃくる凛の姿がダブって見えた。
「え……?」
目を擦る慧太郎。
しかし目の前の凛は涙など流していなかった。
「今のは……?」
「そーすけ、だいじょぶか?」
慧太郎は我に返ってもう一度凛に向き合った。
「……君は一体何者なんだ?」
「凛は凛。……だけど」
凛は微笑みむと、すっと両目を閉じた。
すると目を疑うようなことが起こり始めた。
「なッ……?!」
凛の黒い髪が根元から白く、いや星明かりに映える金と銀が混ざったような美しい色に変わっていく。そして髪の先まで染まり終わると再び目を開いた。
その瞳はいつもの赤みがかった茶色ではなく、青くというより紺碧く変わっていた。
「お久しぶりですね」
目の前の少女はそう慧太郎に微笑みかけた。