一月九日 土曜日
丑三つ時を過ぎた頃、慧太郎は物音で目を覚ました。
「ん……?」
ギシギシと廊下を忍び足で進むような音だ。
「(誰か……がトイレに、でも……)」
睡魔のせいか思考が働かない慧太郎は、そのまま目を瞑り誘われるままに眠りに落ちていく。
ふとその耳に波の音が聴こえてきた。
波の音は心を落ち着かせる効果があると言われている。
そのせいもあってか慧太郎の意識は深く、より深くへと泥沼に沈んでいくように落ちていく。
ーーーーーー……
ーーーー……
…………
シャンシャンシャンッ!! と慧太郎の耳元で鈴が騒がしく鳴った。
「なっ、なにごとっ?!」
ガバッと慧太郎は布団から飛び起きた。同時に朝の陽射しがその目に飛び込んできた。
「っ!?」
慧太郎は右腕を翳して陽射しを遮る。
「おはよう、慧太郎」
枕元から朝の挨拶が聞こえた。それはとても優しい声色だったにも拘らず、冬場の冷え切った手水でも背中に流されたかのようにゾクリとした。
慧太郎が恐る恐る振り向くと、肩で切り揃えた鳶色の綺麗な髪に巫女装束を纏った少女がとてもいい笑顔でそこに正座していた。
昨晩巫女神楽を舞っていた時とは随分雰囲気が異なるが、慧太郎にとっては長年見続けて見間違いようのない幼馴染み『龍宮 恭香』だった。
「お、おはよう、恭香」
ゴゴゴという効果音がしそうなくらいの殺気が部屋に満ちていて、一気に覚醒してしまった。
「い、一体何だってんだ? うちまで来てそれをかき鳴らすなんて……」
慧太郎は幼馴染みの持つ神楽鈴を指差して布団から出ようとした。
「……ん?」
出ようとしたのだが、何かが慧太郎の腕に絡みついている。
「……ん。そー……すけ……?」
「え……?」
そこにいた見知らぬ少女を見て硬直する慧太郎。
「星明からうちに泊まることは一応聞いてたけどさ。これはどういうことかなぁ〜?」
「うち?」
慧太郎は改めて見回すと、そこは見慣れた幼馴染みの家であることにようやく気づいた。そして昨晩の出来事を思い出す。
「慧太郎くん〜?」
凍えるように寒い冬の朝のはずなのに、全身から汗が吹き出しそうなプレッシャーが慧太郎を襲う。
「お、俺にもよく分からないんだよ。昨夜この子が……」
言いかけて慧太郎は留まった。
【異能研】に所属している自分の母親や水薙家の人間ならいざ知らず、ただの神社の娘である彼女に「この子が空から降ってきて、いきなり懐かれた」なんて信じるだろうかと思ったからだ。
【顕現者】や【念晶者】という非日常な存在が世間に認知されていても、〝力〟を持たない一般市民にとっては非日常は非日常でしかないのだ。
「その子が、なによ?」
「この子が……、そう、迷い子になっててさ」
慧太郎は昨晩のうちに星明と口裏合わせをしていたのを思い出した。
「それは聞いてるって。迷い子で親とも逸れちゃったみたいだから一時的に保護しようって。私が言ってるのはそういうことじゃなくて」
ちらりと慧太郎の手に絡みつく少女を見て、少し頰を赤くして恭香が言った。
「なんでそんなに懐いてんのよ。って、まさか懐いてんのをいいことに……!?」
「バ、バカ言うな。そんなことするわけないって! それくらいわかるだろ?」
「まあそうよね。慧太郎にそんな度胸があるわけないわよね。……ないけど、なんだか腹が立ってきたわ」
「なんで?!」
恭香が神楽鈴を振りかぶる。
「ままま、待て! 話せばわかる!」
それが大した威力を伴わないのは明白だったが、慧太郎は思わず身構えてしまう。
「問答無用っっっ!」
「……っ!」
恭香の攻撃を防ごうと慧太郎は頭上に手を翳した。
その瞬間、部屋の中に風が吹き荒れた。
「きゃっ!?」
驚いた恭香がその場に尻餅をついた。
「恭香!」
慧太郎が恭香に手を差し伸べようとしたその時、
「そーすけを……いじめ、る、な…………」
慧太郎が声のした方を向くと、いつの間にか凛が起きていた。……と思ったらパタンと布団に倒れこんで既に寝息を立てていた。
「凛……?」
気づくと風が止んでいた。
「今の風は凛が……?」
と、慧太郎は奇妙な感覚を覚えた。
「あれ? 前にもこんな事が…………」
「いつつ……」
恭香の声で慧太郎は我に返った。
「大丈夫か?」
慧太郎は改めて恭香に手を差し伸べた。
ちょっとお尻を打ったけど、大丈夫」
恭香は慧太郎の手を取って起き上がった。
「にしても、今のは一体なに?」
「俺にもよく分からない。でも……」
慧太郎は眠っている凛の方を見た。
「え? まさかこの子がさっきの風を起こしたって言いたいの?」
「たぶん、……そうだと思う」
ーーー「その子は、あなたを破滅に導くかもしれない」
母・星明のそんな言葉を思い出す。
「(俺を破滅に導くかもしれない、か……)」
たとえ高名な占い師である母の言葉ではあるが、慧太郎にはとても想像がつかない。
「あれ? ねえ、あなたちょっと……」
徐ろに恭香が凛に近づく。
「なんだ?」
「あなた、これどこで手に入れたの?」
恭香が目にしたのは、凛が首からペンダントのようにぶら下げている御守りだった。
それは慧太郎にも見覚えのある物だった。
「それは……御神木の御守り?」
【龍宮神社】の境内には、樹齢千年以上と言われる大きな楠木がある。
その樹には不思議な〝力〟があり、夏の強い陽射しも、冬の吹き荒ぶ寒さも、その周りでは涼風のように穏やかになる。
それは結界の役割も果たし、【龍宮神社】の境内では、妖魔の荒れ狂う意志も、悪者の欲に塗れた心も、一切働かなくなる。
その樹が数年に何度か実を落とすことがある。
それは神聖なる天からの贈り物として扱われ、昔から時の権力者等に御守りとして献上されてきた。
最近では数年前に皇族に贈られたと慧太郎も聞いている。
それを凛が持っていたのだ。
恭香が驚かないわけがない。
「これはそーすけから貰った」
「そうすけ? 誰?」
恭香に訊かれるが慧太郎も知らないので首を横に振った。
「それが誰かはいいとして、ずいぶんと古い感じよね」
「たしかに。誰か昔貰った人のお孫さんか何かかな」
「なるほど。それは考えられるわね。後でお母さんに訊いてみるわ」
「そういや、うちの母さんは? 一緒にここまで来たと思うんだけど……」
「星明なら朝早く出掛けたわよ」
「出かけた?」
「うん。うちのお母さんも一緒に出掛けたから【異能研】関係じゃないかな」
「【異能研】、か」
おそらく凛が関係しているのだろうと、慧太郎はなんとなくそんな気がしていた。
慧太郎が【龍宮神社】で目を覚ました頃、水薙本家で霧ヶ浜御三家を中心とした緊急会議が行われていた。
霧ヶ浜御三家とは、
神職の龍宮家、
医師の谷曇家、
そして陰陽道の家系である水薙家の三つの家を指す。
その他には【異能研】の幹部や周辺の有力者が会議に参加していた。
水薙家では現当主代行である『水薙 燦惠』とその娘であり次期当主である浅陽が出席していた。
〝次期〟といっても〈焔結〉を継いでいる為、実質浅陽が当主である。だがまだ未成年で経験も浅い為に公の場には燦惠が随伴していた。
「(こういうとこ苦手なんだよなぁ)」
心の中で溜め息を吐く浅陽。その間にも緊急会議は続く。
議題は前の晩に空から降ってきた少女についてだった。その時の経緯をちょうど星明が説明し終えたところだった。
「そう。彼女が……」
上座に座る女性が誰にも聞こえないような声で呟いた。
浅陽とそう変わらない年頃に見える女性は、その外見に似合わない風格を漂わせていた。
「何かおっしゃいましたか?」
舞姫の母親であり、前の舞姫である『龍宮 希莉香』が上座の女性に訊ねた。
「なんでもありませんよ、希莉香」
笑顔で応える上座の女性。
見た目は希莉香の方が上なのに、立場はまるっきり逆だった。
「なるほど。以前あなたが話していた予見の少女。その彼女が現れたということですね」
上座の女性が星明に向かって訊ねた。
「はい」
「あの世界に破滅をもたらすかもしれないという……?」
希莉香が発言に星明が頷く。
「ならいっそのことその少女を……」
「いえ。このままの方がよいと、私の占いではそう告げています」
「そうですね。そうすることによって災いは大きくなってしまうかもしれない」
「ではどうすれば……?」
「その少女の件、私に一任してもらえませんか、希莉香?」
その上座の女性の一言で会議の場が俄かに騒がしくなった。
「(騒がしくなるのも当然ね。【異能研】の代表自ら動くっていうんだから、それほどの事件ということなんだろうし)」
浅陽はちらりと上座の女性を見た。
「(【異能研】代表『龍宮 茉莉』様。八十年前の災厄の生き証人っていう話だけど……)」
異能史の授業でもやった八十年前の世界的な災厄。
裏社会で活動していた【顕現者】が、表舞台に立つようになった歴史的な出来事だ。
「(あの見た目でもうすぐ百歳とかどうなってんだろ。まあ八十年前にそうなっちゃうような何かがあったって考えるのが普通よね)」
「しかし、【異能研】代表であらせられる茉莉様自ら動かなくても……」
希莉香の抗議に龍宮茉莉は首を振った。
「いいえ、希莉香。これだけは私がやるべき事なのです。この時の為に私は生きてきたのですから」
「私の占いではあの少女を中心として星が八つ見えたの、希莉香」
「八つの星……?」
希莉香が首を傾げる。
「茉莉様を含めた八つの光。それが世界を破滅から救う希望であると」
「八つの希望の光……。それはかつてこの地に存在したあの家のこと?」
「おそらく」
「(かつてこの地に存在したあの家……? 何て言ったっけ? 前に聞いたことあったと思うんだけど……)」
喉の辺りまで出かかっていたがどうにも浮かんで来ない。
「(それはともかく、星明さんの占いにも出た、茉莉様が自ら成し遂げなければいけないという、昨晩空から降ってきたあの女の子に関する事案。それから……)」
浅陽は星明を見た。
「(あの少女とあたしの中にいる〝彼女〟が『そうすけ』と呼ぶ、星明さんの息子、薄雲慧太郎。……一体何がどうなってるのやら)」
浅陽はふと視線を感じた。
その先には【異能研】代表龍宮茉莉がジッと浅陽を見つめている。
「(あたしを見てる……。ううん、違う気がする)」
一世紀近く世界を見てきた茉莉の明るい茶色の瞳に見られると、まるで心の中まで覗き込まれているようだった。
「星明の言う通り、どうやら役者は揃っているようですしね」
希莉香はいつになく決意の籠もった茉莉の眼差しに納得せざるを得なかった。
「……分かりました。茉莉様にお任せします」
「ありがとう、希莉香」
「いえ。私は酸いも甘いも噛み分けた茉莉様の半分も生きておりませんので。その心中を察するなど恐れ多いことです。ですが、こうして集まっていただいた通り、我が家だけの問題ではありませんので」
希莉香は残り二つの家の代表の顔をそれぞれ見やる。
「水薙家としても異論はございません」
「ありがとうございます。それとですが、水薙の若きご当主のお力をお借りしたいのです」
「あ、あたしですか……?」
突然の指名に浅陽は少しだけ戸惑いを見せた。
「ええ。およそ百年ぶりに産まれた水薙家の正統後継者であるあなたの〝力〟が必要になると思いますので」
「水薙家の正統後継者……」
「はい」
浅陽は隣に座る母・燦惠を見た。
「茉莉様直々のご指名なのだから、しっかりお役目を果たすのよ」
「そりゃまあ依頼っつうんなら断る理由は無いけど」
「ありがとうございます」
浅陽に礼を述べると、茉莉は沈黙を守り続けている最後の御三家へと目を向けた。
「谷曇家総帥『谷曇 宗十郎』殿も異存はありませんか?」
顔に刻まれた深いシワと仙人のような白い髭が風格を感じさせ、齢九十近くになってもなお背筋は曲がらず現役でいる谷曇家の当主は、遠くをみるような眼差しで茉莉を見ていた。まるで遠い昔を思い出しているかのように。
「儂の方も問題はありませぬ」
まるで納得していないかのような谷曇宗十郎の重々しい声が広間に響く。そのまま重苦しい雰囲氣が漂う。
「ありがとうございます」
天然なのか、わざとなのか、茉莉は変わらぬ調子で言った。
「大まかな方針も決まりましたので、これでお開きにしましょう」
茉莉が会議の終了を告げると、参加者達はぞろぞろと退場していく。
「それで〝彼女〟はまだ【龍宮神社】に?」
「ええ。まだ目を覚ましたという報告は来ていません。〝彼女〟が真に邪悪な者なら〝御神木〟の結界の中にいる限りは目を覚まさないかもしれませんね」
「たしかに〝御神木〟には邪な意志を抑える〝力〟があります。ですが、〝彼女〟は目覚めるでしょう。なにせ無邪気な子ですから」
「無邪気、ですか?」
茉莉が頷く。
「茉莉様」
浅陽が茉莉の前に立った。
「なんでしょう?」
「あたしは……何をすればいいんですか?」
「そうですね。差し当たっては私の護衛とか?」
「護衛なら既につけていますが」
茉莉の言に希莉香が反論する。
「今回の件に限っては浅陽さんのご助力が不可欠なのですよ」
「もしかして、あたしもさっきの〝八つの光〟ってのに入ってるんですか?」
「どうしてそう思うのですか?」
「さっき茉莉様、あたしの方を見た後に〝役者は揃ってる〟って言いましたよね?」
それを聞いて茉莉はまたニッコリと微笑んだ。
「半分正解といったところでしょうか」
「半分、ですか?」
「ええ。あなたを見ていたのは、昔の友人にあまりにもそっくりだったものでして」
茉莉は懐かしそうに浅陽を見ている。
「そのご友人にソックリなだけで半分ってことですか?」
「うふふ……。そのうち分かりますよ」
誤魔化されたと浅陽は感じた。
「……分かりました。それじゃああたしは何があってもいいように心の準備だけはしときます」
「お願いします。それで学院をお休みしてこちらに滞在してもらうわけですが……」
「(おっ、これは公に学校サボれる流れ? ラッキー!)」
テンションの上がった浅陽は誰にも見えないように小さくガッツポーズをとった。
【異能研】の仕事を理由に学院を休まざるを得ないことがしばしばある。公欠で出席扱いになり、勉強嫌いの浅陽にとっては有難い口実であった。
「(仕事だから休みってわけじゃないけど、退屈な授業に出るよりはマシよね)」
などと浅陽が考えていると、
「しばらくこちらの学校に通ってもらいましょうか」
「えぇ〜〜……」
茉莉の言葉に一気にテンションの下がった浅陽は思わず不満の声を正直に漏らしていた。
「くすっ。どうやら浅陽さんはよほど勉強がお好きなようですね」
茉莉は見た目相応ないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あっ、いや、その……」
「学生の本分は勉強。……と言いたいところですが目的は別にあります」
「別の目的……?」
「とある人物の護衛をしてもらいます」
茉莉は真剣な眼差しでそう言った。
慧太郎は龍宮家で朝食を摂った後、外をぶらついていた。
凛に街を案内してあげようとしたのだが、当の凛はいつの間にか外出していた。
彼はその後を追っているわけなのだが、なんせ昨日会ったばかりの女の子だ。行き先も行動範囲も分からない。
そう思いつつぶらぶら歩いているうちに慧太郎は旧市街地に足を踏み入れていた。
「ここは……」
霧ヶ浜の外れの一角にある旧家や名家のある地区。インフラ等もしっかり整い、昔ながらの景観を損なわないように電線は埋設されている。
その街並みを歩く慧太郎。一瞬タイムスリップしたような感覚に陥った。
「……?」
そして何故か無性に落ち着く自分が居ることに慧太郎は気づいた。
そんな不思議な感覚を抱いたまま慧太郎は足の赴くままに旧市街を歩く。
やがて一軒の屋敷の前に出た。
「ここは……」
立派な門構えから名家なのは窺えた。
敷地面積は、霧ヶ浜御三家の一つ、〝水薙家〟と比べても遜色なく思えるほど立派な上に広い。
だが人の気配、というか生活感というものがまるで感じられなかった。
「もしかしてここが噂の空き家……?」
市街地の外れにもう何十年と誰も住んでいない屋敷があるという噂は慧太郎も聞いたことがあった。
慧太郎が生まれた頃には既に誰も住んでいなかったとも聞いていたが、そのわりには綺麗にされているようだった。
慧太郎が今見上げている門だけ見てもかつての隆盛が窺える。
「表札は……掠れてて読めないな」
こんな立派な屋敷から誰もいなくなってしまうような理由が慧太郎にはすぐには思いつかない。
「此処で何をしている」
「え……?」
背後からの声に慧太郎は振り返る。
するとそこには見知らぬ男が立っていた。
すらりと背が高く、やたらと長い黒髪を後ろで束ねている。身に纏う雰囲気と鋭い眼光が只者ではないと物語る。
―――番人。
そんな印象を慧太郎は受けた。
「ここは私有地だ……ぞ……」
その目が微かに見開かれる。
「君は……」
「はい?」
「……いや、私の良く知った人に似ている気がしたのでね」
「はぁ……」
「それより君は何でこんな所に……」
男性が慧太郎に問おうとした瞬間、
「そーすけっ!」
不意に聞こえた聞き覚えのある声に慧太郎は、呼ばれたわけでもないのに振り返ろうとした。
だがそれよりも速く、条件反射と思われるほどに、慧太郎の目の前の男性が声のする方を向いた。
「あれはっ……!」
「え……?」
出会って間もない少女の事を知っている風な男性の様子に、慧太郎は何故か既視感を覚えた。
そんな慧太郎に、凛はタックルをかま……走ってきた勢いそのままに抱きついた。
「ぐふっ!」
その勢いのままに慧太郎は押し倒された。
「…………っ!」
慧太郎は意識を失いかけたが、なんとか持ち堪えた。
「そーすけ、だいじょぶか?」
自分でやっておいてと思う慧太郎だが、年下(と思われる)女の子に怒るのも大人気ない気がしたので怒りたい気持ちをグッと呑み込んだ。
「あ、あまり大丈夫ではないかも……」
「だらしがないな。むかしはもっと強かった」
「昔?」
覚えの無い慧太郎は、また誰かと勘違いしているのだと思った。それこそ今しがた出会った男性が知り合いと似ている気がしたというのと同じものだと。
「……ん?」
ふと慧太郎の頭を何かが過ったが一瞬過ぎて一ミリたりとも理解出来なかった。
「……もしや貴方様は」
男の呟きで慧太郎はハッと我に返った。
「ほら、また誰かと勘違いしてるから。俺の名前は薄雲慧太郎」
「うん。そーすけ!」
「だから……」
そこで慧太郎は先程の男がジッと見ていることに気づいた。
「えっと、ここ私有地なんですよね。すみませんでした」
慧太郎は立ち上がると男に向かって頭を下げた。
「あ、いえ。その件に関しましては問題ありません」
男の態度が先程までとは打って変わり礼儀正しい物になっていた。例えて言うなら主を前にした僕のような態度だ。
「(そういえは、この人さっきあなた〝様〟って言ったか?)」
もちろん慧太郎にはそんな関係の人間等いないし、自分自身が誰かの上に立っているなんて考えたこともなかった。
「(ということはもしかしてこの子のことか?)」
とも思ったが、男は慧太郎の方を見ていた。
「薄雲慧太郎様。もしや星明どのの?」
「あ、はい。星明は母です。母をご存知なのですか?」
「国内で星明どのを知らぬ者など居りますでしょうか」
「たしかに」
慧太郎は自分の母が超が付く程の有名人であることをすっかり忘れていた。
それに少し話して気づいたが、目の前の男はまるで昔から付き合いがあるかのようにとても話しやすく心地好いものがあった。
「ですがまあ、同じ組織に所属する者としてよく存じております」
「やっぱりそっちの知り合いでしたか。えっと……」
「申し遅れました。私『三峰 カムイ』と申します」
三峰カムイと名乗った男は折り目正しく頭を下げた。
「私はここの管理を任されておりますので、お気軽にいらしてください」
「でも私有地なんじゃ……?」
「貴方様なら問題ございません」
「俺なら……?」
私有地とい言いつつ気軽に来ていいとも言われ慧太郎は困惑した。
「はい。歓迎いたします」
三峰は人懐こい笑顔を浮かべた。
その笑顔を見た途端、何故か慧太郎の中の困惑は綺麗サッパリ消えてしまった。
「……そうですね。なんだかここにいると心なしか落ち着く気がするし」
「落ち着く、ですか?」
「はい。なんだか自分家に帰って来たみたいな不思議な感じがします」
「そうですか」
三峰の優しい眼差しが慧太郎に向けられている。
「せっかくですけど、今日はお暇します。この子にこの辺を案内しようかと思ってまして」
「ですが凛どのはそこに」
三峰の指した方を見ると、凛は門柱にもたれ掛かって眠っていた。
「護衛、ですか。本当に茉莉様のじゃなくてですか?」
「はい。本当に私のではなくて」
茉莉はニッコリと微笑んで否定した。
「『木ノ花 善助』という人物をご存知ですか?」
「『このはな』って、もしかして〝五行家〟の『木ノ花』ですか?」
かつて土御門で学んだ五人が立ち上げ、それぞれの進化を遂げた家系を〝五行家〟と呼ぶ。
『〝水〟薙』をはじめ、『〝火〟宮』、『穿〝土〟』、『〝金〟指』、そして『〝木〟ノ花』。
と、それぞれ『木・火・土・金・水』の五行を冠しており、【異能研】の中でも強い発言力を有している。
「でも『木ノ花』と言えば〝五行家〟のトップですよね。そして『善助』といえば現当主の名前だったはず」
「はい。ですが正確には彼ではなく、その孫娘の護衛をしてもらいます」
「孫娘、ですか……?」
「ええ。大変恵まれた資質をお持ちなのですが、生まれつき病弱なのです。それで療養するために霧ヶ浜に移住することに決めたそうです」
「え、でも、『木ノ花』のお嬢様なら無条件で久遠舘学院に入れると思うんですけど」
「久遠舘学院は血の気の多い方が多いですから」
「ああ……」
抜群に納得のいく理由だと浅陽は思った。
「幸いこの辺りも温泉には事欠きませんし、静かな場所ですから。ですが……」
茉莉が顔を曇らせる。
「例の〝彼女〟ですか? 本当に〝あんな子〟が災厄を呼ぶんですか?」
「極めてその可能性が高いでしょう」
茉莉はそう断言した。
「……わかりました。でも、そんなに長くは出来ませんよ」
「そうですね。差し当たっては二週間ほどお願いします」
「二週間何も起きないかもしれないじゃないですか」
「おそらくそれはないでしょう。それに……」
「それに?」
「年末の事件の功績を鑑みて、貴女なら解決出来ると思ったのですよ。〝継承者〟の貴女になら」
「あれはあたし一人の〝力〟じゃ……」
「大丈夫です。今回もきっと貴女は独りじゃないから」
茉莉はそう力強く断言した。
無人の屋敷を辞した慧太郎と凛は旧市街地を出て駅前商店街に差し掛かろうとしていた。
「凛はあんな所で何してたんだ?」
「凛、あのいえにすんでた」
凛は少し遠い目で空を眺めながら言った。その様子は外見の年齢に見合わないほど儚く美しかった。
「あそこは凛の家だったのか」
「ちがう、そーすけの家」
慧太郎の目を見て言う。
しかし慧太郎は〝自分〟が見られているようには思えなかった。
「おぼえてないか?」
「覚えても何も、俺はあそこに住んでたことなんて無いよ」
「そーか……」
凛は少し寂しそうな顔をした。
「それで凛は〝あの家〟で何をしていたんだ?」
「だれかいるとおもった。でもだれもいなかった」
「誰かって、あの家はずいぶん前から誰も住んでないみたいだよ」
そこで慧太郎ははたと気づいた。
凛は此処に住んでたと言った。しかし慧太郎の記憶では〝あの家〟にはもう何十年も誰も住んでない。
「君は本当に何者なんだ……?」
「凛は凛」
凛はまっすぐに慧太郎の目を見ている。
「それは……何度も聞いたから知ってる」
「ここにすんでたのはナンジュウネンもマエだって、〝れいん〟が言ってる」
凛は自分の胸元に手を置いて言った。
「れいん? 誰……?」
凛は応えない。
そんな彼女に不気味さを募らせる慧太郎。しかし、それを中和するかのように小さくあたたかい何かが胸の奥にあった。
と、その時ーーー、
ぐぅぅぅ……と、大きな音がした。
「お腹、空いた……」
「もう? さっき食べたばかりだろ」
そう言いつつも慧太郎は商店街に目を向ける。
霧ヶ浜駅前商店街。
海岸近くの商店街の例に漏れることなくマリンスポーツ関連の店があちこちに見られる。
そして景観を利用した喫茶や食事処、宿泊施設もそれなりにあり、雑誌に載った店も幾つか存在する。
その一角にある【食事処つじかわ】。
慧太郎の馴染みの店であり、幼馴染みの一人の家でもある大衆食堂だ。
「……ん?」
その【つじかわ】の前に立ち尽くす人物がいるのが見えた。仙人のような立派なヒゲをたくわえた老人だった。風格もあり結構な歳のように見えるが、背筋はピンとまっすぐだ。
「あれは……」
【つじかわ】でよく見かける、所謂常連の客だった。
その老人も慧太郎達に気づいたのか目が合った。その時、一瞬シワが深く刻まれた顔を強張らせたように慧太郎には見えた。
「明けましておめでとうございます」
「……うむ。おめでとう」
顔を強張らせたのが慧太郎の気のせいだったのか、老人は目を細めてにこやかに応えた。
「中に入らないんですか?」
「これじゃよ」
と老人は指差す。そこには臨時休業と書かれた札が掛かっていた。
「昨夜は『麻衣』もおばさんも元気そうだったけど……」
「お二人にも都合があるのじゃろう。残念じゃが別の店に行くことにするかの」
老人が他所に向かおうと踵を返したその時、
「いまのはなんのジュモンだ、そーすけ?」
凛の一言に老人の足がぴたりと止まった。
「じゅもんって?」
「あまけしておでめとごじゃまいす?」
器用な間違い方に慧太郎はプッと噴き出した。
「〝明けましておめでとうございます〟だよ。新年の挨拶」
「しんねん?」
「新年ってのはだな……」
とそこで慧太郎は老人が立ち止まり、自分達の方をジッと見ているのに気づいた。
「……どうかしましたか?」
慧太郎が訊ねると老人はハッと我に返ったように顔を背けた。
「……いや、君らの姿が遠い昔の知人に似ていた気がしての」
この日慧太郎が知人に似ていると言われたのはこれで二度目だ。
「(……よくある顔ってことなのかな。まあ偶然だよな)」
そう慧太郎はこの時思っていた。