『金ヶ崎の戦い』の真実 其の二
おまたせです。
今、書き終わりました。
『金ヶ崎の戦い』の真実 其の二
- 小谷城 -
浅井氏の居城、小谷城。
標高495mの小谷山に築かれた小谷城は、戦国屈指の山城として知られる。
1516年(永正13年) 長政の祖父である、亮政が小谷城を建築したとされている。
小谷城は、北陸と東海、そして畿内とをむすぶ水陸交通の要地に位置している。
京都を起点とする東山道は、箕浦付近で北と東に分かれる。
東が東山道。そして北への分かれ道が、小谷道(山西街道)である。
小谷道は、北上して小谷城下で北国道(北国脇往還)と合流する。
北国道は越前(福井県)と美濃(岐阜県)とを結ぶ幹線道路(現在のR365)だ。
この両道の交差点付近(小谷城下)を流れる田川の舟運は、さらに姉川を経て琵琶湖の湖上交通につながっていた。
秀吉が作った長浜城が、ひたすら治世のための城であるのに対し、小谷は守りを主眼に置いた城構えである。
江北は、たびたび戦禍にまみれ、六角軍や朝倉軍に蹂躙されている。
小谷城は、まさに戦国の城郭といえよう。
1566年(永禄9年)
長政は、信長が美濃を手に入れる前から高島への進攻を開始している。
1568年(永禄11年)
信長上洛開始、そして、それを阻む六角氏を討つ観音寺攻めを開始した。
その一方で、長政は朽木元綱を降した。浅井家は、敦賀との交易を盤石なものとした。
長政は、高島郡の朽木氏を服属させて、江北の領有を確立し守護・京極氏を完全に圧倒した。
六角氏との泥沼な敵対関係も、観音寺落城でケリを付けることに成功した。
浅井家は、ようやく独立した戦国大名としての地位を確立した所である。
江北には、久しぶりの安寧の時が訪れていた。
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その小谷城下、搦め手道すぐ下の御屋敷にて主従は密談をしている。
ひとりは、浅井長政、もう一人は彼の右腕ともいえる遠藤(喜右衛門尉)直経である。
「直経、義景殿はまだ上洛をせんのか?」
長政の表情は、いつになく深刻である、
「はっ、ご当主、朝倉義景殿が、信長づれに従う理由はないと上洛を頑なに拒んでおられます」
直経も呆れて物が言えない様子だ。
朝倉は、京に上ることを許否している。
いや、織田信長に従うことを嫌っているというべきか。
織田(弾正忠)家は、斯波家の守護代の一つ『織田大和守家』に仕えるたかだか三奉行のうちのひとり。
斯波家の守護代の朝倉家のほうが、格が上であると云いたい訳だ。
「戯れ言を、義景殿は家柄にこだわるあまり、ものの道理がわかっておられぬ」
長政は、苛立しげに膝を叩く。
「いかにも、苦労知らずなかたゆえ」
「将軍への拝謁の要請を断るなど、暴挙じゃ! まともではないわい、奴めは阿呆じゃ!!」
興奮のあまり、口角泡を飛ばしてしまう主である。
「誠に厄介なことになり申した」
頬に付いたツバをさり気なく拭いながら、主を宥めるように応える。
何しろ、信長との同盟に条件をつけたのは、浅井家である。
いわゆる、『朝倉に対しての不戦の誓い』というやつだ。
実を言うと、朝倉家に義理があるというのは、方便である。
ああ見えて、信長は金にうるさい男なのだ。
津島の経済は、代々弾正忠家に牛耳られている。
楽市楽座というのも、人を集め、金を集めるための手段にすぎない。
長政が思った通り、堺は信長によってケツの毛まで抜き取られた。
浅井家としては、信長に朝倉家との交易を邪魔されたくなかったというのが、偽らざるところだ。
とはいえ、世間ではそうは思っていない。
いかに戦国の世とはいえ、『義』というものは重要である。
なのに……、
「朝倉家のおかげで、とんだ災難じゃ!」
信長からは度々、朝倉家を上洛させるようにと書状が来ている。
それはもう、辟易するくらいにしつこい要請だ。
長政には、朝倉に対して思うところが多々ある。
朝倉義景は、子供のように我を通す。
朝倉家だって主君を見限って、『下克上』を果たし大名化したくせに。
斯波家の家臣としての古臭い序列にこだわっているのだ。
確かに室町幕府においては、多少は序列が絡むこともあるかもしれない。
だが、『副将軍・管領』を辞退したのが、織田信長という男である。
義景など、所詮戦国大名の器ではないのだ。
いずれ、滅びるしかなかろう。
長政は、そう達観していた。
もちろん家臣にまで、心の中を打ち明けるつもりはない。
浅井長政は、義兄である織田信長という男を高くかっていた。
明らかに、今、流れは織田にある。
とはいえ、敦賀まで信長にとられるつもりはない。
浅井家にとって海を得ることは、信玄の如く政治・戦略的悲願なのである。
ある意味、京を取るより喉から手が出るシロモノなのだ。
どれくらい重要であるか? 一例をあげようと思う。
古来より東北・北陸、山陰から大坂への輸送は、琵琶湖を経由するのが、一番効率がよかった。
平和な江戸時代に西回り航路での海上輸送が、コスト的に引き合う事が確認されたとはいえ、その地位は盤石だった、京都への輸送では未だに有利であった。
天候や、瀬戸内海の治安まで加味すれば、明治時代に至っても敦賀から琵琶湖を経由して京・大坂に運ぶことが、コスト的にも時間的にも、安全の面でも最適解であったのだ。
明治政府もまた、琵琶湖の輸送を最重要視していた。
瀬戸内海に、海賊が跋扈する時代である。
堺商人といった大勢力や近場の輸送を除けば、独り勝ちの状態だ。
そしてそれ以上に、敦賀である。
たかが敦賀5万石と、侮るなかれ。
よく思い出してほしい、敦賀の城主(大名)といえば。大谷(形部)吉継である。
秀吉に「100万の兵を指揮させたい」と言わしめた男である。
病を得て、不遇をかこったとはいえ、敦賀の地を彼に与えた秀吉は慧眼である。
北国の物資の集散地、敦賀を譜代家臣に任せることは当然の処置だった
彼と、佐和山城主、石田三成の近江-敦賀のラインが、当時いかに重要だったかが伺える。
京・畿内を抑える上で、無くてはならない土地なのだ。
ここを手中に収めれば、日本の物流を分断し10万の兵を自在に動かせるのである。
浅井にとって、朝倉との関係がいかに大事なものであるかが、お判りいただけよう。
- 閑話休題 -
若狭と近江を繋げれば、莫大な利益が約束される。
せめて、敦賀の町一つでもいいから欲しいものだ。
浅井家としては、信長にプレッシャーを与えつつ、戦働きで敦賀・小浜あたりを掠め取りたいと思っていた。
長政としては、朝倉家への義理立てはもう十分だった。
もともと、大して世話になっているわけでもない。
宗滴の代など、どれほど迷惑を被ったことか……。
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長政は今、出陣の決断をしようとしていた。
すでに織田・徳川の連合軍が若狭を攻略中である。
永禄13年4月末、織田信長は徳川家康とともに3万の軍勢を率いて京を出陣したという。
織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀といった畿内の武将、公家の飛鳥井雅敦・日野輝資も従軍しているらしい。
長政の策は、こうである。
遅ればせながら、信長軍に参陣する。
信長の行動が、将軍の意向を踏まえたものであると、裏付けするのだ。
「正当性は、織田にあり。 逆賊、朝倉を打つ」
そういえば良い。
金ヶ崎攻めは、ともかく静観する。
『一乗谷攻め』に加われば、浅井家の面目が充分に立つ。
朝倉一族の助命でも願い出れば、周囲も浅井家は義理堅いと納得しよう。
そして、朝倉の旧領の一部を拝領する。
ただ、それだけである。
浅井との約定を破った信長のほうが、敦賀を差し出すだろう。
分家を立て、お市が産んだ次男に跡を継がせるとでもいえば信長なら乗る。
うまくすれば、越前を取れるやもしれぬ。
浅井が、『対上杉の最後の砦』となるなら、織田としても損はないであろう。
「信長殿は、越後の謙信を異常に恐れているからな」
長政は、そう踏んでいた。
徳川が、『対武田の砦』の役割を担って、遠江を任されているという先例もある。
長政と信長にとってまさしく、最高の落し処(win-win)になるはずであった。
「金ヶ崎が落ちれば、朝倉派(現状維持)の父も黙るであろう」
出陣の下知を伝える支度を整えつつ、長政は側近の直経に話しかけた。
「御意、久政公も内心では分かっておられますゆえ」
直経も先代当主に関して、いささか申し訳なさ気に応えた。
いきなり息子に当主の座を奪われた久政としては、長政の行動に対して何かに付け文句を言わざるを得ない立場なのである。
今回も、信長の暴挙に対し「約定が破られた」と息巻いている。
久政に同調する、朝倉親派の家臣もいる。
というのは、表向きの話でしかない。
長政に不満を持つ者を統制するのが、彼の役割なのだ。
長政が英雄型ならば、久政は調整・調停型なのだ。
こと調停に関しては、久政の手腕はなかなかのものなのである。
(我々は、長政の勇猛ぶりと生き様に目を奪われがちである。)
浅井家の急成長の裏には、息子を陰ながら助ける久政の涙ぐましい努力があった。
息子長政が、野良田で六角氏に勝ってからは、ワザと不満を周囲に漏らしている節がある。
ある意味、ご意見番といえるだろう。
少しばかり浮いてしまっているのが、気の毒ではあるが……。
「父上には、すまぬ事をした」
長政だって、判っている。
「浅井家の御為でござる」
「そのためにも、此度は形に見える成果が必要である」
「敦賀ですな」
「うむ」
信長の同盟に対する約定違反を、世間(信長の味方)に対して十分に吹聴した。
あとは、それに見合う利益に預かるだけである。
主従には悲壮感はまるでなく、決まった手順を確認し合うのであった。
「直経、爺を呼べ! そのあと、城の大広間へ皆を集めよ、評定じゃ! 下知をいたす!!」
「ははっ」
喜び勇んで駆け出す直経の姿は、まるで童のようであった。
「新しい浅井家が始まる」
直経の後ろ姿を見送りながら、長政はつぶやいた……。
新緑の季節をむかえた小谷の山。
そして、向かいに見える虎御前山が、浅井家の門出を静かに見守っていた。
時勢を読んだ、長政でした。




