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『金ヶ崎の戦い』の真実 其の一

皆様、大変長らくお待たせいたしました。


『長浜ものがたり』 戦国編


はじまります。

                   

『金ヶ崎の戦い』の真実



 現在の長浜市と敦賀市の市境からわずかに10kmほど(2里半)。

敦賀湾の最奥、天然の良港を見下ろす小高い山。

そこに、金ヶ崎の城がある。


ここが歴史の大舞台となるのは、二度目のことである。



~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ 



 浅井長政は、確かに不満を抱いていた。

信長に同盟を体良ていよく利用されたのだ。

足利義昭を奉じた上洛戦のどさくさに、狙っていた六角家の旧領をほとんどネコババされた形だ。



長政の面目は、丸つぶれである。



 信長で例えるなら、こういう状況だ。

同盟した長政が、西美濃三人衆以下美濃の国人を配下に取り込んだようなものである。

稲葉山城に入れなかった信長を想像していただこう。

おそらくは、烈火のごとく激怒するに違いない。


 更に長政が伊勢方面に兵を進めてしまえば、どうなるのか?

信長であれば、情報を得た途端、単騎で飛び出して行ってしまうであろう。


『もはや、同盟など知ったことか』 というかもしれない。


 そうしないと信長には、もはや周りに攻め入るところは無くなってしまう。

いて言えば、長島の願証寺くらいか。

まさか、三河に兵を向けるわけにもいくまい。

一体どうしろというのか?


 こうなってしまっては、まさしく雪隠詰めである。

今後、織田家はどこにも勢力を伸ばせなくなるということだ。

そうなれば、巨大化した浅井家に服従し、半ば家臣化するしかあるまい。



 大名が、鉢植えのようにコロコロ所領を代わるのは、信長が覇権を握って以降の話である。

一所懸命の武士が、己の所領を離れるなど、よほどの栄転でもない限りあることではない。

ましてや地域に根差す国人が、『諾』というわけもないのだ。

反乱は必至であろう。



 長政が近江を放棄して、柴田勝家の代わりに北陸方面の司令官になるということは、まずはあり得ないのである。



 ご想像いただけたであろうか?

そう考えれば、長政の行動にもある程度理解を示せる。



今の浅井家は、三河の家康どのより、置かれた状況がはるかに悪い。

江南を盗られ。

ましてや、海へとつながる若狭を獲られてしまっては、浅井家は立ち行かない。




 長政に不満があったことは、京での行動として記録にも残っている。

相当、鬱憤がたまっていたようである。


逆に、信長のほうが気を使っているくらいである。



 一つのエピソードがある。


 永禄11年(1568年) 

織田信長は、第十五代将軍となる足利義昭を奉じて入洛を果たした。

義昭は本圀寺を仮御所としていた。

ところが、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が本圀寺を包囲した。

大失態である。


 この時は明智光秀・池田勝正らの奮戦により事なきを得た。

岐阜から驚異的な速さで駆けつけた信長によって、敵の思惑を撥ね返した。

信長はこの教訓から、より堅固な居館を造営することを決めた。

2月から普請に入り4月半ばには御所を移したという、信じられない速さである。


 普請に当たって、洛中の公家屋敷や寺社から庭石や墓石を徴発して建材に充てたのは有名である。

また、信長が作業中に通りすがりの女性にちょっかいを出した男を一刀のもとに斬り捨てたというエピソードが、信長の厳格さを示すとしてよく知られている。


 しかし、二条御所の造営の折り、浅井長政の重臣三田村国定の家臣が、佐久間・柴田と乱闘を起こしたという伝承はあまり知られてはいない。

死傷者は、あわせて800名を超えた。ともいわれている。


死傷者800名は、もはや本格的な合戦であるので信憑性は疑わしいが、厳格であるはずの信長はそれを黙認したようである。




 つまり、それくらい浅井家家中には不満があったともいえるし、信長が長政に対してことさら気を遣っていたといえよう。



 将軍を奉じての上洛戦だったとはいえ、信長が美味しい所取りした事実は変わらない。

取り分99:1では、仕方あるまい。



 信長が飛躍的に勢力を拡大する一方で、浅井家は、以前から狙っていた高島郡に影響力を拡げただけであった。



 長政としても、父久政をはじめとする親朝倉派の行動をに止めるつもりはなかっただろう。

「おまえのせいで、家臣が不満を持っているぞ」と、信長への牽制ぐらいには使えると考えたのかもしれない。




 とはいえ、情勢を読める者ならば。

将軍を手中にしている信長に従うしかないことは、分かりきっている。



 ではなぜ、浅井長政は、朝倉に味方をしたのだろうか?



 いや待て、これは歴史が確定してからの資料である。

長政の考えは、いかがなものだったのであろうか?



金ヶ先の戦いが始まる、その前の状況を見てみよう。



~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ 



 織田信長の思惑


 永禄11年(1568年) 将軍を奉じて、念願の上洛を果たした信長であった。

しかし、周辺の大名の反応は、信長が思い描いていたようにはいかなかった。


敵対した守護大名六角家を滅ぼしたものの、積極的に服従したのはどれも小勢力(小物)でしかない。

島津や相良、毛利は、将軍家に対して使者を送ったに過ぎない。


 信長は、皆が適当にお茶を濁して状況を見守っていると感じた。

遠方の大名、有力大名の対応は、信長にとって手ぬるくて反応が鈍いとしか感じられなかった。

三好家などは未だに敵対し、淡路・四国へと逃れたままである。



 「全国の大名が上洛し、将軍に拝謁してこそ天下が定まるのだ」


 将軍義輝公への目通りを果たすために、僅かな供回りで上洛した経験がある信長にとって、諸大名の対応は許し難かった。


 いかに天下布武を標榜する信長とはいえ、武力だけの男ではない。

政治・外交というものの重要性は認識している。


 まずは先例を作るのだ。

古臭いものをありがたがる輩には、調度よい手段であろう。

将軍とも縁がある朝倉家あたりが、手頃だろうか。


 浅井家を通じて朝倉が上洛をすれば、将軍家にも箔がつく。

お飾りの将軍であっても、それなりの権威は必要なのだ。



 信長は辛抱強く、朝倉家に上洛を促す手紙を出した。

この際、浅井家とのよしみを利用させてもらおう。




- 岐阜城 -



 1567年(永禄10年)信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山城へと移していた。

古代中国、周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのにちなんで「岐阜」と改めた。


信長が、天下布武を高らかに宣言した城である。


この城に移ってすぐ、信長は上洛の切符(義昭)をつかんだ。

信長にとって、たいそう縁起のいい城である。




 信長は苛立っていた。


「朝倉めぇ!」

 そう吐き捨てながら、書状を破り捨てる。

イライラと膝を揺する様は、怒りの限界を超えている合図しるしである。

彼の発言はいつも端的で短いが、今回ばかりは誰でもあるじ、信長の気持ちがわかる。



「殿、お気をお鎮めください」

「お、おちついてくださいませ」

近習たちは慌てて、信長を慰める。


 しかし、有象無象が何を言っても耳には入らぬ信長である。


「殿」


と、そこに声を発した人物が居た。

足利義昭から信長へと、鞍替えした男である。



「よろしいではありませんか?」


「なに?」

思わぬ意見に、貧乏揺すりを止め前を向く信長。

その目つきは猛禽のように鋭いものがあった。


「明智殿、お戯れを」

近習は信長の怒りを恐れ、あわてて光秀を止めようとした。


「申せ!」

信長は、将軍から引き抜いたこの男をかっている。

そういえば、この男は朝倉とも少なからぬ縁を持つはずである。

信長は興味を持って、耳を傾けた。


「ですから、将軍家に逆らう守護代など無用でございまする。攻め滅ぼしてしまえば、よろしいかと」


「朝倉を攻めよと申すか?」


「御意、守護の六角に比べれば、たかが守護代の朝倉など、ものの数ではございますまい?」

明智光秀は、なにか含むような笑顔を信長に見せた。



 この話の裏には、朝倉と織田家の確執がある。

朝倉の言い分など、信長にしてみれば馬鹿馬鹿しいほど些細なことではあるが。

……その結果は、苦々しいものだった。



「朝倉を滅ぼすか、悪くない」


信長は、久しぶりの笑顔を見せるのであった。

 


~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ 



 意外なことに、織田家と朝倉家は少なからぬ因縁がある。

朝倉家は、ことある事に尾張の織田家(とくに弾正忠家)に対抗してきたのだ。

そこには、斯波家の家臣としての序列問題があったといえる。

(甲斐家が一位、織田家が二位、朝倉が三位である。但し、信長はその下の奉行の家柄)


 朝倉は、格下の弾正忠家の台頭がとにかく気に入らないのであった。

また、過去には美濃の土岐家に関しても、横槍を加えてきていた。



 美濃の斎藤道三によって国主.土岐頼芸が追放されたおり、信長の父信秀は彼を保護した。

一応の大義名分を得た信秀は、同じく道三と敵対していた朝倉家と連合し斎藤道三を攻めた。

さしものマムシ道三も、為す術もなかった。


 しかし、朝倉家は斎藤道三と、頼芸の守護退任を条件に和睦した。

もとより、朝倉家の息がかかった土岐頼純を守護につけるのが狙いだったのだ。

(土岐頼純は、朝倉孝景の甥に当たる。)


 信秀はその後も道三と争うが、斎藤方の援軍として敵対した朝倉宗滴に敗れている。

一時は大垣城を奪うほどの勢いだった信秀であったが、これを機に美濃から手を引くこととなる。

織田家躍進の芽が摘まれた、苦い戦いであった。 



まったく忌々しい、朝倉家であった。



 信長は、岐阜城の一室でひとり考える。


「朝倉は将軍家に楯突たてついている。 ならば、滅ぼしてもよかろう! 」


「これも親父殿へのはなむけとなるじゃろう」


かくして信長は、『朝倉攻め』を決意するのであった。





いかがでしたでしょうか?


時間の許す限り、頑張ったつもりです。

ぜひとも応援の方、よろしくお願いいたします。


                       ひさまさ

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