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絶望に咲くアネモネ

作者: 万葉

「この世界はクズだな」


 私の元恋人はそう言った。いつ死ぬともわからないこの世の中で、私たちの関係は刹那的なものに過ぎなくて。それでも愛してくれていると、そう思っていた。けれど、程のいいただの発散口だったと教えてくれたのは彼の友人。そんな男を選んでしまった事に、その時の私は絶望していた。


「…ト!ミコト!」


 銃声と爆発音の中、私の名前を低い声が切羽詰まった様子で呼ぶ。


「…っ!?はい!」

「無事か!?」


 その言葉から、少し前の記憶を手繰ると私は近くの爆発に巻き込まれて吹き飛ばされた事を思い出した。軽く起き上がり、周りを見回すと安全だった筈の土嚢で囲まれた場所からは少し離れており、周りは自然に出来た穴ぼこに埋まる様にして二人が辛うじて入れる場所を確保していた。背中や右肩を中心に鈍痛がするが、四肢が動く事を確認し、頭に被っていたヘルメットを締め直すと、ようやく言葉を返した。


「無事のようです!」


 隣にいるにも拘らず、大声を発しないと言葉が届かない。会話の相手は視線をこちらに一切向けず、岩の間から銃口をだし、時折射撃している様だった。


「ならここから離脱するぞ!合図と同時に後ろへ全力で走れ!ここからだと第五防衛ラインが近い!」

「え?」


 先程までいた場所は第二防衛ライン。決して第五防衛ラインは近くはなかった。どういう事か考えていると、怒号が飛んだ。


「わかったら返事!」

「は、はい!」


 半ば反射で返事をすると、すぐにカウントダウンが始まった。


「1ぃ!」


 合図と共に何も考えずに走り出す。途端に先程隊長が居た辺りから連続して射撃音が聞こえた。

ー援護してくれている。このままでは隊長は取り残されるー。

肩に掛けた銃を確認する。弾も込められ、補充の弾薬が胸にある事を確認すると、手頃な物陰を探し滑り込み、息を吸った。火薬の臭いが肺を満たす。


「援護します!…三、二、一ぃ!!!」


 銃口を見えない敵に向け、引鉄を引く。耳元で銃声が弾け飛ぶ。恐らく気を失った際に痛めたであろう肩が反動に悲鳴をあげた。それを何とか食いしばって耐える。隊長が腰を低く落としながらこちらへと走る。自分と少し離れた物陰に隠れるのと同時、込められた弾が切れた。


「ど阿呆!!!」


 その声と共に再び銃声が轟く。視線が一度かち合った。一つ頷き、カウントダウンが始まるとまた後ろへと走る。銃に新たな弾を込める事も忘れなかった。


 何度も後ろへ走っては銃を打ちを繰り返すと、その内合図をせずとも相手がどうするかがわかってくる。この瞬間、世界は二人だけのもので、誰よりもお互いの事がわかり、何よりお互いを大事に想っていた。

 ー少なくともミコトはそう感じていた。

 何度繰り返したのか、補充の弾薬ももう切れ、ただ二人で走るようになって数十秒。やっと土嚢の壁が見えた。

段々と近づいてゆく壁。しかしそこには味方の姿はない。途端に絶望が心を侵食していく。足ももう限界で、ふ、と速度を緩めたその瞬間、背中に何時からか添えられていた手が力強く背中を押した。


「馬鹿野郎!諦めんな!」


 野太いその声に息も絶え絶えに悪態をつく。


「野郎じゃ、ないっ…です!」


 土嚢の切れ目から頭を突っ込むように壁の後ろへと潜り込んだ。

 肺が痛い。呼吸音も、喘息のようにひゅー、ひゅーと普段聞けない音で身体の限界を主張していた。私が力なく座り込んでいるこの瞬間も、隊長は周りを見回し、敵の方を探っていた。


「…案外余裕だな?」


 安全が確保出来たのか、ニヤリ、と口角を上げて一瞬こちらを向くと隊長は胸倉を掴み、唇に噛み付いた。勢いと裏腹に触れるだけの優しいキス。一瞬互いに呼吸が止まる。限界だった私の肺はそれに耐え切れず、咽せるように咳を出す。


「ゴホッゲホっ…ゴホッ…!」

「そんなに嫌だったか。…上官に口答えした罰だ。受け容れろ」


 そう言いながらも咽せ返る私の背中を優しくさする隊長に、嫌ではなかったと伝えたいが、咳はそれを許さなかった。

 そうしている内に、遠くに聞こえていた銃声が止む。代わりに拡声器の音が聞こえ、妙に甲高い男の声が響き渡った。

 ー曰く、私たちの所属していた国は降伏をした。直ちに抵抗を止めるように、と言うものだった。


 さぁっと血の気が引いていく。捕虜になった女兵士の行末など決まっている。やっと咳が止んだと言うのに今度は身震いが止まらない。背中に置かれた手だけが暖かくて、その手に縋る様に隊長を見上げた。


「お前…」


 隊長は私の顔を見ると有無を言わさず抱き締めた。


「大丈夫だ、お前は俺が必ず守る」


 その場凌ぎの言葉だろうに、私は酷く安心して、堪えていた涙が頬を伝った。



 絶望して、軍に入った。戦争を何十年も続ける祖国の軍に入ることは容易かった。女性は少なく、訓練は厳しかったが、何も考えずに済む事はあの頃の自分にとって都合が良かった。このクソッタレの世界を変えたくて、死ぬ前に一矢報いたかった。あの男に出来ない事をしてやろうと、愚かにも思った。半年前、初めて隊長に出会った。その頃はまだ隊長でも副長でも無く、ただ初めて戦場に出た自分を一番フォローしてくれた先輩だった。直ぐに隊長も副長も死に、隊長が隊長になった。他のメンバーも、全て入れ替わっていた。こんな場所なのに、一戦力と認めながらも女として扱ってくれたこの人は、優しいのだろう。そして、酷い戦場でも生き残ってきたその力量は、かなりのものだった。この人なら守ってくれるかもしれない、という一縷の希望と。巻き込んではいけないという良心がせめぎあった。


「…隊長?」

「…落ち着いたか?」


 そう言って身体を離した彼は優しい表情をしていた。決してかっこいいとは言えないが、様々な戦場を乗り越え鍛え上げられたものを感じるその顔は酷く愛おしく感じた。


「…殺して、ください」


 目を見開いて、そして何かを堪える様に目を瞑って。そして彼はもう一度私を抱き締めた。そして聞かん坊の子供に聞かせるようにゆっくりと言葉を重ねた。


「俺はお前が好きなようだ。…だから死んでほしくないし、他の誰かに良いようにもさせたくない。させない。だから…殺せない」

「……わがまま」

「あぁ」


 拗ねたように言葉を紡いだ私が身を任せた事に気がついたのか、僅かに身体が離れ、また唇が触れ合う。今度は触れるだけでなく、深く深く、何度も何度も押しては返す波のように、甘く優しく私を蹂躙する。そして力が抜けた私を抱き抱え、近くの天幕へと誘った。


「ここ…」


 弾薬やら予備の銃やら、物騒な物がひしめくそこは防衛ラインの要である倉庫だった。咎められたように感じたのか、隊長は苦笑を浮かべ、私を降ろした。


「悪いな、こんなトコで」

「…ヤル気満々じゃないですか」


 今度こそ咎めるように言うと、隊長は満面の笑みで再び謝罪を口にした。


「ははっ、すまない」


 そう言いつつも、近くにあった寝袋や布を地面に敷き、そこへ私を再び抱え上げて降ろした。そして何かに気づいたように少し待て、と言い置いて外へ出た。人が来たのかと警戒したが、外から微かに水音が聞こえ、また天幕に戻って来た彼を見て呆れた。

 戻って来た彼の手は濡れていて、彼は頻りに手を振っている。


「汚い手で触れて病気にでもなられたら嫌だからな」


 その言葉から、少なからず大事にしてくれていると感じ、不覚にも胸が少し跳ねる。言葉を返す前に唇を再び塞がれ、彼は不安そうに最終確認をする


「同意の上、で良いんだよな?」


 何も言わず、唇で返すと、今までの遠慮がちなキスやハグとは違い、彼は少しの強引さを持って私を押し倒した。甘やかに、夢中だと言うように無言で、ただただ私の快楽を高めていく。涙を流した私が懇願してやっと彼は自分の欲望を取り出して、私と一つになった。


「…この世界も最高だな」


 私の肩を抱いて彼はそう呟いた。それに大ゲサ、と返すと彼は大真面目に言葉を紡いだ。


「こんな世界じゃなきゃ、ミコトに出逢えなかった。やっぱりこの世界は最高だ。俺は今最高に幸せだ」

「…私も」


 そう言って頬に柔らかな暖かさを感じて既に疲労困憊だった私は意識を手放した。



 起きた時、隣にあった温もりは消えていた。身体を拭き清められ、軍服から普通の女性が着るような服に着替えをさせられている事に気づいた私は頬を赤らめながらも天幕の外へ出た。そこには既に敵国だった国の兵士がおり、私に名前を訊いた。名前を聞いた彼らは、何もしない、と言い置いて私を違う場所へと案内した。そこには多くの女性がおり、彼女らは皆、どうやら敵軍に保護された者たちだった。

 そうして私は捕虜の扱いを受ける事もなく、半月後紳士的な兵士に付き添われて誰もいない実家へと帰り着いた。

 帰り着いた私は、いろいろな物を使って隊長の事を調べた。しかし、私を待っていたのは、彼が捕虜となり捕らえられていると言う事実と、自分が妊娠しているというコトだけだった。


 終戦したとは言え、制圧された街で女一人。出産し、産んだ子供を育てる事は生易しいものではなかった。それでも私は、父や母の形見を売り、やっと見つけた仕事と育児の傍ら、隊長のいる施設を探し歩いた。いつも背中に負ぶさる子供は、訓練や行軍の中背負わされるリュックよりは軽かった。それでも挫けそうになった時は、耳の奥で隊長の罵声が聞こえた。


 やっと見つけた彼がいるという場所。鈍い色の塀が取り囲み、重々しい門を数人の兵士が守っていた。門を見上げ、立ち竦む母娘に訝しんだのか兵士が近づいてきた。


「どうした?ここは戦犯の中でも性犯罪を犯した者が収容されている所だ。貴女たちのような女性が近づくべきではない」


 その言葉に衝撃が走った。ずっと不思議には思っていた。兵士だった私が保護された理由。隣にいた筈の彼に会えなかった理由。込み上げてくる嗚咽と、涙を何とか堪える。そうして出された声は震えていた。


「…ここに、いる人はどうなるのですか」

「死ぬまで重労働に従事する事になる」

「……冤罪だとしても、ですか」

「何?」


 自分がどうなろうとも、彼がいなくなる事の方が耐えられなかった。あの時感じた恐怖は、彼という存在がねじ伏せてくれていた。今はただ、彼に会いたかった。この数年で染み付いたただの街人として生きる為のおどおどとした態度を掻き消し、胸を張る。足を半歩横に広げる。兵士としての所作。彼が与えてくれた背中の温もりが、重さが私を励ます。


「…私は、元王国軍第六師団第十二大隊第七小隊所属ミコト・ロンデマン少尉です。私を守る為に冤罪を被った人がここにいます」


 兵士たちは笑った。何を可笑しな事を、と。それでも私は食い下がった。


「この娘の父親なんです!終戦のあの日、私たちは同意の上で結ばれた!その証拠なんです!会わせてください!」


 私の血を吐くような想いが伝わったのか、気迫に感じるものがあったのか、兵士らは黙った。しかし告げられた言葉は私の要望を拒絶するものだった。


 それでも私は毎日そこへと通い詰めた。徒歩で1時間弱もかかる道。生きるだけでも辛い毎日に、更に負荷をかけてでも、隊長に会いたかった。救われた事を伝えたかった。既に尉官までは一部を除き恩赦されている。私はもう、捕らえられる心配もないのだ、と伝えたかった。そしてもう一度触れ合いたかった。

 その想いだけで通い詰めること2ヶ月。既に門番とは顔見知りだ。一番位の高いであろう門番に呼び止められた。


「ミコトさん。少しよろしいですか?」

「はい」

「貴女が面会を希望しているのは同じ隊の隊長だったケイン・マスタング中佐で間違いありませんか?」

「…っはい!生きて、いますか?」


 名前を聞いただけで心が震える。期待と、怖さが喉を震わせた。


「はい。彼は模範囚の様ですよ」


 生きているという事実に、熱いものがこみ上げる。


「会え…ませんか?どうかっ…」


 込み上げたものが零れ落ちるのに時間はかからなかった。幼い娘が心配するように握った掌を引っ張って顔を覗き込んでくる。


「ママ、だいじょーぶ?」

「大丈夫、嬉しかっただけ」


 優しい我が子を安心させるように頭を撫で、微笑む。目の前に立つ軍人は小さなため息をついて、困ったように言った。


「今日は無理です。少し時間はかかりますが、必ず会えるように取り計いましょう。とりあえず、今日はもう帰ってください」

「ありがとうございます…!ありがとうございます!」


 心の底から出た謝意に、自然と頭が下がった。そんな私に迷惑そうにもういいから、と言って軍人は背を向けた。その背中にもう一度お辞儀をし、娘を連れて帰路へとつく。

 そしてそれから1月。待ち望んだその日がやって来た。小さな個室に机と向かい合う椅子。そしてその間にガラスが横たわっていた。娘も自分も、この日は少しおめかしをしてそこに座っていた。心臓が知らず、早くなる。

 ガラス越しに見える扉が開く。この間の軍人の次に現われたのは、紛れもなく隊長だった。手は厳重に重そうな枷で自由を奪われ、僅かに頬はこけているが、それでも元気そうで。顔を見ただけで涙が零れ落ちた。


「隊長っ…」


 私を目にした瞬間、隊長の顔が驚きに染まった。


「助けてもらったお陰で、貴方の娘を産めました。責任取って、結婚して下さい…!」


 用意していた言葉は、可愛くないものにすり替わって。隊長はその言葉を聞いた瞬間、愛おしくて仕方がない、と言った優しい笑顔を見せた。


「お前は…いつまでも変わらんな」

「変われませんよ、そう簡単には」

「…それにしても。1回でデキる、て流石俺だな」

「なんですかそれは。私を褒めてくれる所じゃ無いんですか、そこは」

「…そうだな。…この三年、辛かっただろうに。こんなに大きくなるまで一人で育ててくれたんだな」


 このガラスが無ければきっと、頭を撫でてくれただろう雰囲気に、過去に戻ったかのように錯覚する。


「…寂しかったです!夢かと、思ったんですよ!」


 起きたら隣に貴方がいなかったから。


「親も、亡くなってるし!家しかなくて!悪阻も酷くて!働きながら一人で育てるのは大変で!…早く、私の傍に戻って来てください!」


 涙はもう止め方が分からなかった。ぼろぼろと、拭う間もなく零れ落ちて。可愛く無い言い方しかできなくて。拗ねて、泣いて。最低だ。


「悪かったなぁ」


 それら全てを受け止めて、哀しそうに笑う隊長の表情を見て、やっと頭が冷えた。


「ごめん、なさい。私が、泣きついたから…助ける為に…そこに、いるのにっ!」


 出たくても出れなくて辛いのは自分の方だろうに。


「ころころ変わるな、相変わらず。……ミコト?」

「なん…ですか…?」

「悪ぃ。もう一度、わがままを聞いてくれ。…お前はもう、ここには来んな。まだ若いんだから、他のやつ、見つけろ」


 その言葉の裏にあるものは死の覚悟で。それを感じ取った瞬間、血の気が引き、私の身体はまた身震いした。


「ぉ願いだから…しなないで…」


 小さな声で願いを口にした。隊長はこう、と決めたら頑として譲ってくれない事は知っていたのに。隊長はもう、私の言葉に表情一つ変えない。諦めた様に首を小さく振るだけだった。重々しくなった空気の中、成り行きを見ていた娘が隊長を見て、にこっと笑った。


「ぱぱ?」


 隊長の表情が変わる。目を見開いて、嬉しそうに笑って、次いで辛そうに顔が歪む。


「……名前は?」

「ケイナ・マスタングです」

「ぱーぱ?」


 隊長を指差して、再びパパ、と確かに言う娘。隊長は不自由な両手で顔を覆った。


「…俺も…お前達と…生きたい…生きたかった…」


 小さく漏れる言葉に、返す言葉が見つからない。私も一緒に生きたいと言うと、隊長を追いつめてしまいそうで。ただただ涙が零れ落ちた。そこで軍人がタイムリミットを非常にも告げた。隊長は再び俺の事は気にするなと、もう来るなと言って静かに扉の奥へと消えた。


 季節を感じさせる淡い色の花が咲き乱れ、視界の端々に映る。


「またケーキ食べたいなぁ」

「誕生日の時に食べたケーキ、そんなに美味しかった?」

「すっっっごく美味しかった!また作ってね!」

「うん、わかった。頑張るね」


 娘は五歳になった。一月前、一部の将校がまた恩赦を受けたと報道がされたが、彼からの連絡はない。

 平和で、変わり映えのしない毎日。こうして月日を重ねるといつか隊長の事を忘れるのだろうかと、考えるがいつも無理だと言う結論にいたる。嬉しい時、辛い時、いつも心に想うのはただ一人で。今もまた、目蓋の裏に隊長を想い描いていた。


「あれー?お客さんかなぁ?」


 娘のその言葉に、家を見ると男が訪ねて来た様だった。期待に胸を膨らませて早足で向かう。


「よぉ」


 そこにいたのは元恋人。辛うじてわかると言う程にやつれ果て、身につけている服はぼろぼろだった。


「何しに来たの」

「…子供がいるのか」


 娘を見るその目が虚ろで、恐怖を感じる。咄嗟に娘を庇い、この場を離れさせる。


「ケイナ。豆腐屋のおばさんの所行ってきなさい」

「え?…うん、わかった」


 ぱたぱたと小さな足音が遠ざかっていく。娘は歳の割に大人びていて、わがままも殆ど言わない。苦労をかけさせたからなのか、だがそれは今非常に助かっていた。向き直ると、男は鼻を鳴らし、私を威圧しようとしているのか、汚い言葉を吐く。


「旦那はどうしたァ?おい。…いないんだろ。俺が、なってやろうか?」

「何しに来たの。お生憎様。旦那はいるし、いなかったとしても、もう二度とあんたなんか選ばない」


 とっとと帰って、と続けたその瞬間殴りかかってくる。でもそれも兵士としての訓練を僅かとは言え受けた私にとっては生温いと言える動きで、無意識に身体が動き、身動きの取れないように地面に押しつけ両手を拘束する。何日もお風呂に入っていないのか、つんとした臭いが鼻腔を打つ。


「てめぇ!こんなことしてどうなるとでも!」

「どうなるんだろうな」


 喚く男の戯言に答えたのは野太い声。背後を取られたと、即座に拘束を解き、離脱する。そこにいたのは、夢にまでみた、彼。


「旦那の登場だが、何か文句あるか?」


 最後に見た時よりも血色が良く、こけていた頬も戻っている。僅かに白髪が混じるその髪は彼が過ごした月日を物語っていた。そして、彼の後ろには娘がいた。涙を堪えて、ただ彼を見つめていると元恋人は這々の態で去っていった。視線が混じり合う。隊長は優しい笑みを湛えていた。


「遅くなった。旦那は、俺の事で合っているか?」


 言葉もなく、私は隊長の胸の中に飛び込んだ。びくともしない身体に、彼の強さを感じて。堪えていた涙が愛しさと共に溢れ出す。


「…おかえりなさい」


 そう言って唇を塞いだ。



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