Chapter2:仁義なき戦い〜アイドル頂上決戦〜①
困っていた。
握ったペンが先ほどから紙の上のごく狭い範囲で右往左往を繰り返し、ふと思い立ったように大きく動かせば、直後にしょぼしょぼと元の位置へ戻って来る。かれこれ一時間近く紙の白さに変化はなく、まだしばらくは変化しそうになかった。
例によって客入りゼロの店内。午前中にいつものやつれた女性が一人、それから挙動不審な若い男が一人と、さえない大学生風のデブが一人。朝八時の開店から四時間で三人の客しか来なかった。僕が居座り続けるレジは今日で三回しか稼働していない。合計稼働時間をみれば一分にも達しないかもしれなかった。
店は世界滅亡後のように静まり返って暇だったが、僕の心中はそんな状況とは裏腹に焦燥に満ちていた。
一週間後に提出を控えたレポートが、まだそのプロットすら出来上がっていないのだ。大学ノートは一面に雪の積もった地面よりも白く、胸中の冷えは隙間風だとか暖房器具の故障だとかいう問題とはまた違う。意味もなく傍に積み上げた参考文献の塔から一冊抜いたり、適当にぱらぱらとやってみたりするがなんの進展もない。頭の代わりに指の間のシャーペンがくるくると回転を繰り返し、ちらちらと頭に浮かぶ単語たちは決して互いに結びつこうとせずに明後日へと飛んでいく。
殺し屋手伝いに日々を割く僕だが、本業は大学生。何より金と単位を欲する生き物である。他人の死地や危機にかまけている間に、自らが深い縦穴の淵まで追いやれていたことに気づけないでいた。よりによって必修科目のレポートだ。落とせば来年もまた同じ授業を取らねばならない。
まさかアルバイトに足を掬われてしまうとは思いもしなかった。コンビニにしては割のいい給料と楽そうな仕事内容になんら不信感も得ずに飛び込み、結果想像だにしなかった非日常の世界に着地した。あるいはこの上なくブラックな世界の中に放り込まれてしまっていた時点で、すでに足を掬われていたのかもしれない。
とにかく僕にとって重要なのは糴州羅の町で血まみれ散歩を繰り返す連続殺人鬼よりも、自業自得で死んでいくどこの馬の骨とも知れぬ人間よりも、今目の前に広がる赤ん坊の心のように真っさらな大学ノートにレポートの骨子を組み上げることだった。とりあえずその一段落がつくまで誰が何人死のうと、何リットルの血が流れようと、何十発の弾が撃たれようと自分の身に降りかからない限り関係のないことだった。
ひとかけらでもいいから何か知恵を振り出そうと、手にしたシャーペンで後頭部をコツコツと突く。飲み終えたコーンスープ缶の底に張り付いた粒たちを何とかして口にしようとするように。
しかし集中力を欠いた頭は次第に知恵をひねり出すことにどうでもよくなり、気がつけば後頭部を叩くシャープペンシルは店内放送で流れるアイドルソングのリズムに合わせて音を鳴らしているだけだった。
僕と、相変わらず床掃除に勤しむ緑川しかいない店内に流れるのは車市のローカルラジオ番組。二人分の声量を足して三倍してもなお及ばない音量で、可愛らしい声のアイドルソングを流している。最近どこへ行っても聞く曲だ。スーパーに行っても、大学の売店でも、駅前のゲームセンターでも流れている。ついこの間行ったカラオケでも友人が歌っていた。
詳しいことは知らないが、“アインシュタイン”というのがこの歌い手たちの名前らしい。現在進行形で人気急上昇中の、車市ローカルアイドルだという。十五歳から十九歳までの少女たちで構成された六人組で、その甘さとあどけなさに満ちた可愛らしい歌声があらゆる世代の人々を虜にしているそうだ。
「しんやのぉ〜らぁめんわぁ〜ふふんふんふん」
レジ奥のドアが開き、鼻歌交じりの黒川が事務所から出てきた。正確には、地下から這い上がってきた。
「黒川さん知ってるんすか、この曲」
「んーふんふ〜いやんふーふうーとんこつぅ〜これだけいろんなところで流れてたらぁ〜っはっはイェイェイェ〜嫌でも覚える〜よっと」
「歌いながら言われると全然聞き取れないっす」
ほとんど歌詞を知らずに適当にリズムだけとって、黒川は雑誌コーナーとお菓子コーナーを回って適当に漁る。途中すれ違った緑川に「おはよう! 今日もいい天気だね!」と声をかけていたが、瓶底メガネの奥の濁った目が一瞥くれただけで、ほとんど無視と同じだった。
「連続殺人鬼くんはまだ見つからないの?」
レジに戻ってきた黒川が訊く。カウンターに店の商品をどさっと撒き散らしたが、勿論会計はしない。その場で封を開けて食べ始めた。
「まだですね。容疑者すら浮かび上がらない状況らしいっすよ」
「うわー糴州羅警察署は何やってるんでしょうねえ。無能警官ばっかなんだろうかー」
偉そうに愚痴をこぼすが、少なくとも少年誌を読みながらスナック菓子を貪る殺し屋が口にしていい文句ではなかった。しかし無能の警官と言われて瞬間的に頭に浮かび上がってしまう輩もいるのが残念である。レポートで一杯の脳内に、草むらを掻き分けるようにして現れた三十路の警官は、この店に暇つぶしの感覚で仕事を依頼しにくる常連中の常連だった。
「この殺人鬼くん、うちの店で雇いたいね。ちょっと訓練したらかなり有能な殺し屋になりそう」
「そうっすか? こういうサイコパス的な野郎ってビジネスとしての殺しには向いてないですよ。きっとターゲットを殺すついでにそばにいる関係ない人も殺しますよ。そしたらうちの店の信用は失墜っす」
殺し屋稼業に一般客からの信用があるのかどうかは謎ではあるが。
「んーじゃあ遠隔操作の爆弾でも腹に巻きつけて常時モニタリング。関係ない人に手を出そうとしたらボタン一つで殺人鬼君はボンッ」
「市街地でやったらスペイントマト祭りみたいになりますよ、それ」
「それもそうか」
と、そこまで話して僕は視界の隅に映った緑川の姿に一瞬焦る。レジの方など気にすることなく雑誌棚を雑巾掛けしている彼だから会話の内容は聞こえていないようだが、もう少しトーンを落とさねば。表向きはただのコンビニ。緑川だってただのコンビニ店員としてここで働いているのだろうから。殺しだの爆弾だのといった物騒な単語は控えめにするべきだと自分に言い聞かせた。
黒川の開けたスナック菓子が一袋なくなったところで、丁度客の来店を告げるメロディーが有線の音楽に割って入った。僕と黒川はレジカウンターに置いてあった余計なものを全て乱暴にレジの内側へと投げ捨て、即座に営業スマイルを顔いっぱいに広げた。
「こんちはっ。おでん具なしちくわ長めでお願いします!」
「なんだお前か」
見知った顔に、白けたように僕は笑顔を崩した。
嫌になる程甘ったるい声でそう文句を言うのは、制服姿の少女だった。肩の辺りまで伸びた髪は色の抜けた栗色で、毛先が内側にカールしている。くっきりとしたガラス玉のような目に、無垢な笑みを浮かべる口元はまだあどけなさが残り、本当に今年大学受験を控えた高校三年生なのか疑わしくなるくらいだ。それでいて適度に着崩した制服と、主張の激しいスタイルとが、顔立ちからは考えようもない艶やかさを醸し出していた。
名前は天姫。勿論、本名ではない。
殺し屋屋黒川白介と専属契約を結んでいる殺し屋の一人だ。
可愛らしい顔立ち、整ったスタイル、子猫の甘えるような声、それらは全て彼女の殺し屋的性格を形作る要素であった。本当の彼女がどこのなんという人間なのか、黒川はともかくとして僕は知らない。
「あ、トベさんパーマかけました?」
あざとい上目遣いは、どんな男であろうとその心を鷲掴みにする。僕は多少のことには動じない自信があるが、彼女の前ではお経でも念じていないと心を絡め取られてしまう。今でこそ大分慣れてはいるが、天姫と初めて顔合わせをした時は自我を失いかけるほどだった。
「うらべ、だ」
顔を背けながら修正する。この少女はきっとサキュバスの親族か何かだ。
「トベさんのパーマ新鮮ですねっ。似合ってますよ」
「そうかい。そりゃどうも」
実は山村澄奈の依頼が入る数日前からパーマをかけてはいたのだが、黒川は何一つ指摘してこなかった。言うまでもなく緑川の反応は無。学校の友人以外では天姫が初めて気付いてくれた相手だ。彼女のこういう小さな積み重ねが、布に染み込む水のように徐々に男心を浸食していくのだ。
「えートベミネくんパーマかけてたの? 気付かなかったー」
「白々しいっすね」
「ワカメでもかぶってるのかと思った。帽子の代わりに」
言って黒川は自分で笑った。
「で、どうした?」
黒川を無視し、レジを挟んでニコニコと僕らを見守っていた天姫に問いかける。
「この間の結果報告に来ました!」
「電話でいいのに。わざわざ店に来なくても」
「だってー。暇なんですもん」
カウンターに肘を突き、天姫は頬を膨らませた。
「よしよし。じゃあちょっとおじさんと裏に行こうか」
だらけきった笑顔で黒川は言う。オールバックの髪をさらにかき揚げ、まるでエスコートするように天姫の手を取った。
「はぁい!」
レジ裏の扉に消えていく二人の背中を見て、僕も追いかけるように事務所へと入る。店の業務は緑川に丸投げした。二人に続くのは、断じて天姫の魅力に引き寄せられたからでは、ない。
地下に降り、殺し屋屋の方の事務所に入ると三人はそれぞれ適当な椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。黒川はラックからA四ファイルを取り出し、天姫は肩から下ろしたスクールバッグをゴソゴソとやり、僕は早急に完成させるべきレポートの骨組みを必死に考えている。
「どうだった? 今回の相手」
ファイルから書類を取り出しては、これじゃないと投げ捨てながら黒川は訊ねた。
「ちょろかったですよ、とっても」
「張り合いなさすぎた?」
「結局はただの性悪な医者でしたからね。ヤる時も殺る時も全然。空気の入った人形でも相手にしているみたいで」
「だよねー。でもイケメンではあったでしょ?」
「人は顔でセックスしないんですよー。というか賢者タイムって、何のためにあるか知ってます? 無防備な行為中の状態から、すぐに冷静な状態に戻って天敵から自分とパートナーを守るためにあるんですよ。それなのに終わった後にぐったりベッドに横になってちゃ、オスとして欠陥しかないですよね」
黒川は何の反論も出来ないようだった。
彼女の専門は色香でターゲットの懐へ潜り込み、確実にその息の根を止める、いわゆるハニートラップという手法だ。その細い指は何人もの男の心を絡め取り、引き金を引いてきた。そうして生き抜いてきたからこそ彼女は女子高生という身分を逸脱した魅力を持ち合わせている。
「まー常に暗殺とか襲撃の警戒する必要のあるお偉い人じゃないからね。しょーがないしょーがない」
「セックスも殺しも激しいのが好きなのになー。前者はプライベートで賄えるとして、後者は基本的に仕事でしか味わえないんですよ!」
桜色の唇を突き出してぶーたれる天姫は、漁っていたスクールバッグの中から可愛らしい水玉の化粧ポーチを取りだした。白いジッパーを開き、中から取り出すのは香りの付いたグロスやファンデーション、手鏡の類ではない。
デスクの上にタオルを引き、その上にゴトリという確かな重さを持って置かれたのは鈍色に輝くコルトガバメント。消音器に、マガジン。そしてリップの代わりに溢れたのは火薬をふんだんに詰め込んだ真鍮の弾。
どれもおよそ女子高生の化粧ポーチに収まるべき物ではない。幼さの残る笑顔で手際よく自動拳銃を分解していく天姫の様子には、絶対的な齟齬が生じていた。しかし決して噛み合わないパズルピースのはずが、どういうわけか僅かほどの隙間を生じさせずに噛み合い、そして逆に彼女が拳銃に不慣れな姿という方がよっぽど違和感の塊のように思えた。
「ところでなんでお前はここで銃の清掃を始めるんだ?」
僕が問うと、
「えーだって汚れちゃったんですもん。さっき学校帰り暇だったので、ちょっと射撃練習しちゃって」
ぺろりと舌を出して天姫は答える。微かだが、確かに彼女の服からは火薬の匂いがする。
「お前、アホか」
「舐めないで下さい! 私だって一応プロです! こーいうのはですね、ばれなきゃいいんです。ばれなき
ゃ」
「ばれちまえ」
「ひっどー! 前から思ってたんですけどトベさん私への当たりきつくないですか!?」
「うらべ、だよ」
参考文献として大学図書館から借りてきた本をぱらぱらと流しながら、プロットを考える。ようやくぼんやりとしたイメージ程度は浮かび上がってきた。案外客の来ないレジで悶々と悩み続けるよりは、人と喋っていた方が捗るのかもしれない。
あれでもないこれでもないと片っ端からファイルをひっくり返していく黒川に、天姫はのんびりと声をかける。ただし、その手元では無骨なコルトガバメントを分解清掃しながら。
「そういえば、黒川さん」
「ん? どうしたの?」
「黒川さんアインシュタイン好きなんですか?」
店の方で流れていたアイドルソングを指しての問いかけだった。
「んーああ。好き、というか車市じゃあどこいってもあのグループを前面に押し出してるからね。やぱり流行には乗らないと」
「え〜じゃああんまり好きじゃないんですか?」
「うーんというかどんな女の子なのかも知らないんだよねえ……興味も」
「ほんとにぃ〜?」
ちらりと本から視線を上げてみれば、デスクの向こうの黒川へ天姫は身を乗り出し、顔を近づけていた。誘惑するような上目遣いに黒川は鼻の下を伸ばす。てらてらと光るオールバックがだらしなく前に垂れてきそうだった。
「好きじゃ……ないんですか?」
「すすすすす好きだよ! 大好き! 可愛いよね! アインシュタイン!」
「えへへっ。近々セカンドシングルが発売されるんですけど、それ、貸してあげます!」
「わーははーい! やったー!」
女子高生のものとは思えぬ色気で迫られ、黒川の口から「興味ない」という言葉が出ることは無かった。
「それにしてもそんなに人気なの? アインシュタイン」
「んーグループ自体でみたらそんなでもないんですけど、リーダーの日村アリアってこがすっごく可愛いんです! 他の女の子も彼女の引き立て役として丁度良い可愛さなんですよ!」
「な、なるほど」
「彼女一人でグループが成り立ってるようなもんですよ」
天姫の表情はどこか誇らしげであった。
そんなアイドルグループがあっていいのか、と思わず突っ込みたくなる。可愛いさこそ力なりを地でいくアイドルを評価するのに「引き立て役」という単語は場違いに思えた。日村アリアという美少女はどうやらその力を振りかざし、グループの中で一騎当千状態のようだ。これは近々仕事が転がり込んできそうだな、と予感した。
しばらくして黒川は目当ての書類を見つけると、ペンと一緒に天姫へ差し出す。彼の背後にはまるでこの部屋で銃撃戦でもあったのかというくらいに紙やファイルが散乱していた。
「ここ、ここ、ここ、あとここにサインして」
「はぁい」
ちんまりとした丸文字で彼女は書類に書き込んでいった。
基本的に仕事には僕が同行し、報告書や死亡の確認、後援などの役割を担う。しかし毎度毎度の仕事に同行できるわけもなく、そういう場合は仕方なく殺し屋本人に全てを任せているのだった。
「今度は、もう少し張り合いのある仕事を手配して欲しいなあ」
「どっちの張り合いだい?」
「欲を言えばどっちもですけどー、殺しの張り合いの方が欲しいかなっ。むきむきマッチョなお兄さんとか、いないんですか?」
「うーん今のところいないなあ」
「もしそういう依頼が入ってきたら絶対私に回して下さいね!」
書類を書き終えた後も彼女は一時間近く居座り、適当な世間話だけをすると、「宿題があるんです」と言い残して帰って行った。
暇だから事務所に駄弁りに来る殺し屋は果たしてどうなのか、とも思う。まるでサークルのたまり場感覚だ。しかし敢えて突っ込まずに僕はひたすら部屋の隅で本を読んでいた。巻き込まれないように、自分は部屋に置かれた観葉植物の一つだと言い聞かせて。