Chapter1:自慢したいの、そういう年頃②
一週間後、木曜日。
街灯の明かりが眩しい夜だ。
住宅街は昼間の喧噪を忘れ、死んだように寝静まっている。どこの家もカーテンを閉ざしてしまい、外の様子を見ようとする者はいない。冬のしんとした冷たさと静けさが夜をさらに夜たらしめ、闇を深く魅せていた。
街灯の光が差し込まない路地裏で僕はかれこれ二時間近くしゃがみ込んでいる。Tシャツとトレーナーを重ね着した上にコートを羽織り、マフラーを巻き、ポケットにはカイロをしっかりと握る。いつもより冷え込む夜だ。息を吸った途端に体の内側から凍ってしまいそうな気がする。
こうまでして外に居続けるのは、人を二人待っているからである。
一人は大柳春臣という中年の男。山村澄奈をつけ回しているストーカーその人であり、今夜のターゲットだ。普段は空々ヶ丘の精密機器メーカーに努めるサラリーマンという皮を被っている。どうやら随分と化けの皮は厚いようで社内の評判や女性社員からの評判は上々。しかし妻と子どもとはつい最近別れ、懐は豊かだが寂しい生活をしているようだった。
「……遅い」
ため息は白く凍り付いて煙のようにくゆる。もう一人の待ち人は、串田という殺し屋だ。
山村澄奈による殺しの依頼を、殺し屋屋黒川を通して引き受けた殺し屋である。業界最安値という看板を背負ってやってきた彼は、腕は確かだが、遅刻の常習者だった。約束を取り付けても平然と数十分は遅刻してくる。酷い時など半日以上遅刻ということもあった。下手をすれば仕事にならないなどという事態も多い。だからこそ串田との待ち合わせ時間はいつも早めに設定してあった。おかげで僕は必要以上に長い間外での待ちぼうけをくらい、寒さと相まって苛立ちを募らせている。もし相手が殺し屋でなければやってきたと同時にぶん殴ってやるところであった。
「すみません、遅くなりました」
夜と同化した真っ黒な格好で、待ち人の一人はようやく現れた。目深に被ったソフトハットと暗がりのせいで、薄く開かれた口元以外表情は窺い知れない。百八十センチ近い長身はすっぽりと黒いロングコートの中に隠れてしまっている。まるで口元だけが闇夜にぼんやりと浮かび上がっているような、そんな感じだった。
「まったく。遅いっす」
「ごめんなさい」
謝罪の声は、吐息の白に絡めとられて消えてしまいそうなほどに小さい。姿が見えなければ声も聞こえず。夜にあっては、この男はまるで暗闇そのもののように存在感がなかった。
「けど道具の手入れに抜かりはないので」
そう言ってロングコートの内側から取り出したのは、長さ二〇センチはあろうかという鉄串。一瞬月明かりに照らされたそれは、禍々しいくらいの鈍色に輝き、先端は目を凝らしても見えないほど鋭利に研ぎすまされていた。
串屋と自称する彼の専門は、鋭利な鉄串による心臓の刺突。正確無比の早業は道ですれ違うその一瞬でターゲットの心臓を的確に刺し、そして何事もないように去って行く。刺された主はその事実にしばらく気づくことはなく、中にはそのままコンビニに入っていってレジで死ぬという者もいるらしかった。
暗い、と言って街灯に近付いた串田は、自らの仕事道具をうっとりと眺める。街灯の白い光に照らされた鉄串は不気味に輝いて、しかし洗練された一本線の造形は美しさすら覚えた。
「遅刻したのはごめんなさい。でも見てください、私の串」
串田は串の尻の部分を少しだけ指先で折り曲げた。小さく何かの外れる音がして、同時に糸のように細い串の先端がぱっと広がる。四方八方へと開くその様子は花びらのようであったが、決して綺麗なものではなかった。串の先端は相手の心臓の中心部に達すると、指先一つで開花する。傷口を広げ幾つにも分かれた穿部が心臓を内側か
ら広く傷つけ破壊する様は、まさに死の花という言葉が的確であった。
串田の表情は、明るみに出たところで、帽子のつばが落とす影のせいで相変わらず判然としない。薄く弧を描いた唇と、声色の高さからこちらからは見えない彼の顔が恍惚とも言うべき表情に歪んでいるのは想像に容易かった。
「ターゲットは来ましたか?」
「まだっす」
「もう終電もないでしょうし、そろそろ通りがかる頃でしょう」
時計も見ずに串田は言った。
それきり会話もなく、僕と串田は野良猫一匹通ることない真夜中の道でターゲットを待ち続けた。
ささやかな月の光が灰色の雲に覆われ、いよいよあたりが本当の闇に沈み始めた頃、ようやく目線の先に人影が見えた。頼りない街灯の下を、ふらふらと定まらずに歩いてくる男。明かりに照らされた顔は、酒が入っているのか赤みを帯びているが、確かに情報屋から買った写真と一致している。
「あれっすね。大柳春臣」
「なるほど。酷く酔っぱらっているようだ」
今日はいつもより随分と帰りが遅いと思っていたが、どうやら会社帰りにどこかで呑んできたようだった。それも軽く引っ掛ける程度ではなく、かなり深く。民家の塀や電柱に千鳥足で近付いて行っては、ぼやいてまた歩き出す。誰にもぶつけることの出来ない鬱憤を酒で流し、物にぶつけているようだった。ストーカー行為を働いた挙げ句に、妻と子どもに逃げられ八つ当たりする姿は目を背けたくなるほど哀れだ。
「ふーむ。数秒前まで当たり前のように生きていた人間が自覚なく死んでいる、というのが私の殺しの真骨頂なんですがね。ああもふらふらではあまり殺し甲斐がないというものです」
串田は肩を落とした。しかし反面銀色の凶器は彼の指の間でくるくると愉快そうに回っている。
殺し屋がみんな殺しを好きだと思ったら大間違いだよ、と以前この業界に入りたての僕に黒川はそう言った。だが今隣に立つこの男は殺しが好きな殺し屋に違いなかった。文句を言う口に浮かぶのは明らかな笑みなのだ。
「では行きましょう」
串をそっと袖口に忍ばせ、串田は大柳の方へ向けてゆったりと歩き始める。その後ろ姿を、近くの塀に身を隠して見守った。
大柳の顔がよく見えるところまで彼が近付いたところで、「いよいよか」と唾を飲む。彼が相手を殺す瞬間は一瞬でも目を離せば見逃す。身構えて集中して、串田の手の動きを凝視してようやく見ることが出来る。彼の動きには殺しと呼ぶのを躊躇うほどに何もないのだ。あまりに自然であった。それ故に不自然さを感じ、不気味さを覚える。
足下のおぼつかない大柳は、向かいからやってくる串田に気がついた。茹で上がった顔を揺らしながら二人に近付き、呂律の回らない舌で何事かをまくしたてる。酒に身を任せ、ぼくたちの様な人間に絡むしかない大柳はどうしようもなく惨めだった。
串田がわざわざぶつかりに行くまでもなく、大柳は千鳥足で彼に正面からぶつかる。
「じゃまだぼけえ」
彼は罵声を浴びせた大柳を無視して、何事もなかったかのようにそのまままっすぐ歩いていった。寒さが身体の芯から生まれた。
僕はその瞬間を見逃さなかった。
大柳と串田がぶつかったその瞬間。串田は袖口に忍ばせた鉄串をごく自然に大柳の胸に突き刺した。寸分の狂いもなく、まるで適当に針山へ裁縫針を突き刺すような動きだった。しかしその長い鉄串は紛れもなく大柳の心臓を貫いて、先端を開花させた。彼の脈打つ心臓は、彼の知らぬ間に血を流し、動きを止めているに違いない。
どさ、っと重い砂袋でも落ちたかのような音を背に受けながら、串田は振り返ることもなく先の角を折れた。
大柳は固く冷たいアスファルトの上に惨めに死んでいる。胸から流れ出たばかりの暖かい血は冬夜の澄んだ冷気に急速に暖かさを失っていくだろう。身体は寒さを感じずに、氷のように冷たくなっていくのだ。
コートのポケットが震える。串田からの着信だった。
『さて、これで今回の仕事は終わりですね』
串についた血でも拭っているのだろうか。きゅっきゅという音が聞こえてくる。淡々とした言葉からは、本当に一仕事終えたという感じしか受け取れない。
「そうっすね。毎度どうもです」
『では私はこれで。報酬はいつもの口座にお願いします』
静かに通話を切った串田の、そのまま夜の中を溶け消えるようにして去っていく姿が目に浮かんだ。
深呼吸をする。吐息が白く揺れた。手の中に握ったカイロが冷えた身体には嬉しい。殺しに立ち会い、死ぬ瞬間に居合わせたことは、事が済んでしまえばただの些細
な出来事。歩いている最中に小石を蹴飛ばした、その程度だった。
「さむっ……」
大柳の元へ歩み寄ろうとする足を止め、僕は白い息を吐く。どうせ死んでいる。
黒川に任務完了の連絡を入れると、こってりしたラーメンでも食べようと決め、僕もまた帰路についた。