僕は静かな小説が書きたい
瞬くと、遠くで萎びた外灯に浮かび上がった階段が不定期に明滅していた。
両耳を塞ぐイヤホンから、爆音で音楽が体に流れ込む。
でも、自分の息する音はしっかりと聞こえる。
正確には、音は聞こえない。
体の内側が震えるのが分かるのだ。
僕は正しいリズムで呼吸することを心がけながら地面を蹴っていた。
階段に辿りつくとゆっくりと走る速度を落とし、音楽を止め、同時にネックウォーマーを取った。
イヤホンを取ると、まるで水中から上がったときのように一気に周りの雑音が耳に飛び込んでくる。
部屋にたどり着くまで、自分の呼吸音を階段を上るリズムに合わせて徐々に落ち着かせていく。
ドアは立ち止まった僕と対峙した。
ごくごく庶民的な独身男性に似つかわしい薄っぺらいドア。
それは何も語らない。
でも、言いようのない圧迫感が扉の向こうに予感めいたものを感じさせた。
仕方なくドアを開けるとそこは暗闇で、1時間前に出た時と同じように流し台に一つコップが見て取れるだけだった。
僕はシャワーを浴び髪を乾かすと、部屋の明かりをつけ、テレビを点け、パソコンを開き、ソファに腰掛ける。
一息つき、ふと思い出すともう一度キッチンにコップ一杯の水を注ぎに行き、ソファに戻る間に本棚から一冊の本を抜き出した。
音量ゼロのテレビの画面では若いアイドルが笑顔を振りまいている。
パソコンは白紙のワードが開かれたウィンドウが煌々と光を放っている。
僕はソファで毛布をかぶり膝を抱え、何度目かのカフカの「変身」を読み返していた。
お尻の位置が定まらないうちに恋人が帰って来る。
ほとんど会話することなく彼女は散らかった部屋の掃除を済ませ、キッチンで湯を沸かす。
テーブルに二人分のココアがおかれる。
ホットカーペットがついているにもかかわらず、彼女はわざわざ僕の向かいに腰掛ける。
そして毛布の中の僕の足に自分の足を絡め「冷たい?」と訊いた。
肯きながら、僕はその本当に冷え切った足を擦ってやる。
彼女は猫のように背を丸め、両手でココアの入ったマグカップを包み、そしてそれを時々すする。
僕は本を読み、彼女は何をするでもなく毛布に包まっている。
「それ、だれの本?」
興味なさげな質問に僕が、「カフカは知ってる?」と尋ねると、彼女は、「名前くらいは」と応えた。
「とても有名な作品を何作か出している、確か百年くらい前の作家だよ」
やはり興味の無い肯きをした後、彼女は「どうしてあなたは昔の本しか読まないの」と訊く。
その問いにしばらく逡巡した挙句、僕は結局、答えを見つけられなかった。
変わりに本を置き、無造作に彼女を抱き寄せた。
特に何を言うでもなく、その体温を感じながら僕はぼんやりと天井を眺める。
「あなたは質問に真正面から答えられない人」
抱きしめられながら彼女は言う。
ごめん、と謝ると、怒ってるわけじゃないと彼女は笑った。
「あったかくなった。ありがと」
そう言われると僕は抱きしめた手を解くしかない気になった。
「ココア、冷めちゃうよ」
彼女の声は角の取れた大根おでんみたいに優しかった。
彼女は間違いなくやさしい。
でも、その優しさをしっかり受け止められるかどうかは自分に掛かっていると僕は思い、そして微かな救いをマグカップに求めた。