1.紅茶
「マスター、あったかい紅茶が飲みたいんだけど、ありますか?」
マスターを探していたら、そんな声が聞こえる。いい声。私の好きな声。
私の好きな歌を紡ぐ人の声、に似ている、声。
このダイニングバーは、バーと言いつつお料理もしっかりしている。
お酒はもちろん充実していて、お料理とお酒、どちらも楽しめることで、有名。
でも、マスターのこだわりで、一度も雑誌やテレビに紹介されたことはない。
繁華街からはほんの少し離れているけれどさみしくない、絶妙な位置に絶妙なバランスで存在するお店だ。
いわゆる「隠れ家」的なお店として評判も高い。有名な人がこっそり訪れていたり、もする。
「うー、それが丁度茶葉を切らしてて…。どうしようか、ちょっと待ってくれたら買ってくるんだけど…。」
そんなマスターの声が聞こえた瞬間、私は思わず口走っていた。
「あの、もしよかったらこの紅茶、召し上がりませんか?」
ほんの親切心のつもりだったが、私の声に振り向いた二人に、息をのむ。
正確にいうと、マスターに、ではなく、マスターに話しかけていた人を見て、だ。
「おお、アサミじゃないか!どうしたんだ?しかもそんな恰好で!」
ここに来るときは、いつもはジーンズにシャツみたいなラフな格好が多いから仕方ない。
仕方ないけど!その人の前でそんなこと言わないで…。
今日の私は、ちょっとした用事のために、ピンストライプのパンツスーツに淡いピンクのシャツ。
なかなかのピンヒールなので、マスターよりも背が高い。
マスターは相変わらず、満面の笑みを浮かべて私を迎えてくれる。元気そう。
でも前より少しおなかが出ているな。
一回り下の溺愛している奥様、芹菜さんに、健康面で気にされてダイエットしなさいって言われてるんじゃないかな。
そんな現実逃避をほんの一瞬脳内で繰り出して、でももう後戻りはできない、と、少し腹をくくる。
「ご無沙汰してます。ちょっと顔見に。これ、お土産の紅茶なんです。
マスターにと思ったんですけど、もしよかったら。」
浮かべた笑顔が不自然でないように、全身全霊で祈りながら、言葉を紡ぐ。
「え、でもマスターへのお土産なんでしょう?俺が飲ませてもらったら悪いでしょう。」
ちょっと困ったように私の方を見て、その人は言う。それにマスターはまたも笑顔で答える。
「ああ、こいつはうちの元アルバイトでなんです。
口も確かだし、うまい紅茶だと思います。俺が保証します。
いずれにしろ今はここに紅茶がないし、もしコウさんさえよかったら、いかがですか?」
う、マスター、やっぱりコウさんって言った、言ったよね?
「・・・はい、じゃあマスターとあなたがいいのなら、ぜひお願いします。」
そういって、少し笑った。うわ、笑った!
「よし、じゃあ、って、呼ばれてるなぁ。アサミ、ちょっと時間あるか?」
「はい、大丈夫ですけど。」
嫌な予感しかしませんよ、マスター。
「今、ケンがちょうど買い出しに行ってるんだよ。
頼むから、紅茶、淹れてあげてくれないか?お前、上手だし。
コウさん、こいつに任せてもいいですか?ちゃんとおいしく入れますから。重ね重ねすみません。」
にっこり笑って、マスターは去る。
「・・・」
「・・・」
さっきくくった腹だけど、もう一段階上のくくり方をしなければならないようだ。
唖然としている場合ではない。マスターに悪気はないのだ。…ちょっとお茶目だけど…。
かすかに深呼吸をして、覚悟を決める。
「あの、突然現れたやつに淹れられるのもどうかと思いますけど、よろしければカウンターに座ってください。
多分、そんなに悪い味には淹れないと思いますから。
あと、この紅茶のパッケージ、ご自分で開けてください。」
話しかけた私に、ちょっと驚いたような顔を返す、彼。
「え?」
ほんの少しぎこちないであろう笑顔だが、ないよりましだ。全力で微笑む。頑張れ、私の表情筋。
「突然来た女だし、何が入れられてもおかしくないと、気持ち悪くないですか?
せめてパッケージをご自分で開けて、淹れている手元を見てもらったら、少しは安心かなって。」
彼は私の言葉に、少し驚いたような顔をして、一瞬の間の後、微笑んでカウンターに座った。
「そこまで心配はしないけど、わかった。じゃあお願いします。」
よかった。息を吐いて、自分としてはとびきりの笑顔を向けてみる。
「はい。ではどうぞ。」
浄水器から勢いよく水を出し、やかんに入れて火にかける。
以前と場所は変わっていないことにホッとしながら、ポットとカップを取り出す。
マスターの好みで、丸いポットはガラスのもの。
丸い方がしっかり茶葉がジャンピングするんだ、と言っていたっけ。
カップも紅茶用と珈琲用を分けるこだわりは、もうバーではなく喫茶店ではないかと思う時がある。
それほど珈琲や紅茶を頼む人は多くないはずだが。
紅茶用のカップの中から、迷って銀と青が美しいものを手に取る。
恋愛の神様が愛した女性の名前のこのカップ、軽さと持ちやすさが気に入っているのだ。
手元を見てください、と言ったはいいものの、手元を見られながら紅茶を淹れるというのは、こんなに緊張するものか。
丁寧にお湯を注ぎ、砂時計をひっくり返す。
「すごく手つきがいいね。紅茶の淹れ方、習ったりしたの?」
ずっと手元を見るだけで何も話さなかった彼が、砂時計を見つめながら話しかけてきた。
「そうですね。もともと紅茶は好きで、少し習ったこともありました。
でも、どちらかというと私、カナダにいたんですが、お世話になったのがイギリス人の家だったので、そこでしつけられました。」
「そうなんだ。」
「はい。」
…話が続かない。早く砂時計、落ちて!
「はい、どうぞ。お好みでミルクをどうぞ。」
ようやく落ちた砂にホッとして、ポットから一杯、カップに注いで渡す。
残りは温めておいた別のポットに紅茶をすべて注いだ。
私は少し濃くなった紅茶も好きだけど、これは人それぞれ。
こうしておけば、これ以上濃くならず、ゆっくり飲んでもらえるだろう。ポットカバーをかけて。
さて、お味は…。
「おいしい!」
お砂糖は入れず、一口飲んだ彼は、笑顔で言った。
「よかったです。」
心からほっとする。
「ありがとう、アサミさん」
息が止まりそうになる。この人が私の名前を呼ぶなんて。
落ち着いて、不自然な間を作らないよう、ドキドキしながら急いで答える。
「いえいえ、星川コウさん。」
紅茶をまた一口飲もうとした彼は、名前を呼ばれて驚いたように私を見た。
「俺のこと、知ってるんだ。」
「ええ、ファンなもので。」
ここでひるんではいけない。そう思って堂々と答える。内心はもうぐちゃぐちゃだが。
「そうなんだ、・・・えーと、光栄です。」
すこしはにかんで笑う。どうしよう、倒れそう。
「いえいえ、すみません、こちらこそ。
今日のライブにも伺っていまして、その後、一緒に行った友人とご飯を食べていて。
ここが近かったのでマスターに少しだけ挨拶して帰るつもりだったんです。
そうしたら紅茶の話をされていたので、つい。
あ、でも、一生懸命淹れましたから、紅茶。」
一息に言い切った私に、相変わらずいい笑顔で答えてくれる。
「うん、おいしかったよ。」
「そうですか、よかった。」
にっこり微笑み合って、ひと安心。と、向こうでコウさんを呼んでいる声がする。
話しながら片づけも終わった。よし、いいタイミングだ。
「あ、呼ばれてますね、あちらで。急に失礼しました。」
「あ、うん。あの、紅茶ありがとう。」
「いえ、ほんとうに、こちらこそ。今日、とても楽しかったです。じゃあ。」
コウさんはにっこり笑って、呼ばれた方に向かった。よかった、ミッションコンプリートだ。
と、そこにようやくマスターが戻ってきた。
「アサミ、すまなかったな。あれ、コウさんは?」
「ああ、紅茶を一杯飲まれて、あちらで呼ばれたので向かわれましたよ。」
マスターは、確認するようにコウさんを見て、私に向き直った。
「それにしても久しぶりだな。なんだ、休暇か?」
この質問に笑顔でこたえられるようになった私は、少し成長しただろうか。
「ええ。カナダは一旦引き払って、こちらに戻ってきました。
しばらくゆっくりして、また職探しです。」
「…そうか。うちだったらいつでも来てくれていいぞ。お前なら芹菜も大歓迎だ。」
「ありがとうございます。」
マスターは、ほんの少しだけ間を空けて、でもいつも通りの笑顔で言ってくれる。
だから私も、笑顔のまま答える。
「じゃあ、今日は本当に忙しそうですから、改めてまた来ます。
これ、芹菜さんに渡しておいてください。」
「ああ、また来いよ、待ってる。」
マスターと笑顔で別れ、ふとコウさんの方を見る。
バンドのメンバーと笑い合っているコウさんは、まるで男の子だ。
きっとこんな経験は二度とないだろう。役得だった。そう思って、楽しく帰ることにした。
のんびり更新になると思います。のんびりおつきあいください。




