第1話 「拭いきれない不安」
カーテンの隙間から差し込んでくる月明かりだけが部屋の中を照らしている。箪笥もテレビも、月光によってなんとかその輪郭だけをうっすらと浮かび上がらせているだけで、はっきりとその形は判別できない。明は自分が闇の中に溶け込んだような錯覚を覚えた。
暗闇は人の精神を肉体から切り離して、哲学者や詩人にさせる。明は急に寂しい気分になり、まるで自分が一人きりになってしまったような気がした。明はなんだか不安になり、布団の中で右手を伸ばす。
手の甲が隣で寝ている遥のわき腹に触れる。生き物だけが持つ心安らぐ暖かさが、遥に触れた部分を通して明に伝わる。
遥はちゃんとそこにいた。明はほっと胸をなでおろす。明は体を横にして遥の顔を見つめた。遥は気持ち良さそうに寝息を立てている。明は幸せというものを改めて実感した。
明は今のように眠っていると時折不安になることがある。暗闇の中に包まれていると強い孤独を感じるようになってしまったのだ。そうなると遥が隣にいることを確認しなければ、もう眠れない。
数日前には、ふと目が覚めて隣を見ると遥がいないことに気がつき、顔を青くして慌てて布団から飛び出したこともあった。しかし、遥は喉が渇いたので烏龍茶を飲みに居間に行っていただけだった。遥は明の慌てようを見て笑った。明も照れ隠しで笑った。
明は、自分でも最近の遥を失うことへの不安は少々異常だと思う。こんなことは遥にはとても言えないが、こんな調子ではもし遥が明の前から姿を消すようなことがあれば、明は間違いなくノイローゼになってしまうだろう。
明はそんな自分の姿を想像して、しっかりしろ、と自分を叱咤した。遥は俺の前から姿を消したりはしない。しかし、遥がいなくなってしまうという、嫌な想像はなかなか打ち払うことが出来なかった。
自分がこんな状態になってしまった原因を、明はわかっている。
一ヶ月前のあの出来事が影響しているのだ。あの病院での佐々木という医師との問答は明の精神を少々狂わせた。無論、あの男の言い分を少しだって受け入れたわけではない。ただ、これまで自信を持っていた『自我』というものに不安を感じるようになってしまったのだ。自分とは一体何なのか。自分が今感じていることは本当に『心』というものから生じたものであるのか。そもそも『心』とは何か。
人には踏み込んではいけない領域というものがある。佐々木はその境界をやすやすと飛び越えてしまった狂人なのだ。確かに佐々木の成したことは他の人には真似のできない凄いことだった。しかし、それは常人の神経を持っていれば到底認めることの出来ないものだ。
あのように狂わなければ、人間は神の領域と呼ばれる真理には到達できないのかもしれない。だが、狂うことでしか真理に到達できないのなら、俺は真理など知りたくもない、と明は思った。
現に、世の中の多くの人々がもし『倫理観』というものを持ち合わせていなければ、あの男の話も実は素晴らしいことなのかもしれない。だが、俺の心はあの男の思想の全てを拒絶した。佐々木の思想を受け入れるわけにはいかなかった。俺は人間の心を持ち続けたかったから。
佐々木は人間の心というものを持っていなかったのだろう。
だから、あの男は自らの偉業を理解しようとしない俺のような人間を奇妙に思っているはずだ。
今思い出しても身震いする。もし、遥があのままあの病院にとどまっていたら‥‥
この安らかな寝顔を永遠に失っていたかもしれない。明は遥を見つめながら、そう思った。
明は遥が目を覚まさないように気をつけながら、その前髪を右手でそっと掬い上げた。痛々しい額の傷跡がさらけ出される。あの事故で負ってしまった傷跡。遥は未だに気にしているようだが、それも無理のないことだろう。これだけの深い傷を負ってしまったのだから。あの男が言っていたように、この傷跡はおそらく一生消えることはなさそうだ。明は中指で、そこを優しくなぞった。
明も始めはショックを受けた。だが、よく考えればこの傷だって遥の一部なんだ。俺はそのままの遥を愛したいんだ。明はようやく眠れそうな気がしてきた。
明日の朝目覚めたときにも、遥は必ず隣にいてくれる。一ヶ月前、遥と一緒にあの病院から逃げ出した俺の決断は間違っていなかった。そう確信して、明は目を閉じた。
‥‥十分後。明は深い眠りに落ちた。子供のような顔で眠り続ける明。夜はまだ長い。
だが、その明の隣に遥はいなかった。
第一話だけではまだジャンルがよく判らないと思いますが、一応ホラー系?みたいな感じです。でも、それだけではなくて、いろんな要素をごった煮にしたような感じで、かなり気合を入れて書いた作品です。
読んでくださるだけでも本当に嬉しいです。さらに感想批評などいただけた時には飛び上がって喜びます。
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