1. 泣くのは、並んでから
「後宮を回すしか能のない女だ。竜の後宮でも回していろ」
わたしは、まだ地面に腹をつけた竜の背にいた。
朝の霜が鞍の革を白くしている。扇をぱちんと閉じ、地上の国王を見下ろす。
「帳簿の読み手、女官四百人の名、朝の点呼! 帳簿は女官頭の棚、名簿は書庫の三段目、点呼は二つ目の鐘ですわ――その働きまでお笑いになりますの?」
「当然の仕事など、ことさら誇るほどのものではない」
「では、その穴を新王妃が本当に埋められますの?」
「新王妃なら十分だ。ようやく愛想のよい後宮になる」
元夫の口元が緩む。愛想。十二年、数えてきた名前と鐘は、その言葉で片づくらしい。わたしは扇を竜の国へ向ける。
「ふふ。でしたら、向こうで仕事を回しますわ!」
「お前の指図が、竜にも通じるものか?」
「ええ、後宮しか回せませんけど、全部回します」
竜の腹が地を離れ、元夫が小さくなる。離縁の朝。ここからが一日目だ。
わたしはヴィオランテ、三十二歳。二十歳で嫁いでから十二年、ロスヴァルトの後宮と女官四百人を取り仕切ってきた女だ。
後宮を回せることを、能だと言ってくれる人はいなかった。
竜王の怒りを鎮めるため、と人間が始めた人質の慣わしは、三十の国に百年続いている。
人間が囲いに閉じ込めた竜の子を、竜王が吠えて連れ帰ったのが始まりだ。
今年は盟主ロスヴァルトにも差し出せと各国が求め、その役が離縁した妻に回る。竜への備えも交易も自国へ集めてきた夫の、最後の采配である。
雲が足元へ抜ける。風は頬を刺すほど冷たいのに、鞍の下からは焼いた石の熱が上がってくる。胃だけ地上に置いてきた気がする。
「低く飛んで、でも速度は落とさないで!」
竜は律儀に低く飛び直す。おかげで木々はさっきより速く流れ、扇をあおぐ手だけが忙しい。
昼、着いた後宮では、戸の陰ごとにすすり泣きが聞こえる。草に埋もれた庭で、白い花が伸びすぎた茎ごと傾いていた。侍女は戸と戸の間で立ちすくみ、竜舎からはみ出した尾が行く手を塞いでいる。
埃と、湿った石の匂い。放っておかれた年月が、息を吸うたび鼻の奥に積もる。
胃薬の瓶を握った老竜人が、丸めた背をさらに折る。ここの家令だという。
「トルヴァンでございます。衣食住は私めが――どうか、姫様方の暮らしにお力を」
「衣食住のほかは、どなたが回しておられますの?」
「……百年、どなたも。私めには、お守りするだけで精一杯でございました」
人数を尋ねると、家令は指を折る間も置かずに答える。
「三十人でございます。皆様、直近五年に十四歳以上でお越しになり、祖国が後任を出す年に交代してお帰りになります」
ここにいる三十人は、ロスヴァルトの同盟国から来た姫たちだ。わたしはその人数には入らない。
家令の話では、竜王陛下は百年、後宮へ入っていないという。
なるほど。回す人がいなかったのね。
「はい、泣くのは並んでから!」
「ひっ……並んでも、泣いていいんですか?」
袖に顔を隠す子へ、扇で列の先を示す。今年来た最年少のリッカ、十四歳だという。袖口は、絞れそうなほど濡れている。
私は大きく息をつくと叫んだ。
「はい、全員並んで! 姫君は背筋、侍女は声、竜は尻尾をしまう!」
庭にはみ出した尾まで、くるりと丸まる。泣き声も列の順に細くなり、靴のつま先がそろいはじめる。
「あの……わたくしども、百年前のお辞儀しか教わっておりませんけれど、膝はどこまで折ればよろしいのかしら?」
「今日からは今のお辞儀ですわ――膝は浅く、目はこちらを見て」
「人質が、顔を上げて見ても……よろしいのですか?」
「ええ、お顔が見えなければ、直して差し上げられませんもの」
伏せられていた顎が、列の後ろまで順に上がる。濡れたまつげに昼の光が触れた、そのとき。門の外の空から声が降る。
「帰りたければ帰れ」
「帰れませんの。離縁されましたので」
黒い巨竜の尾が、ぴたりと止まる。家令が竜王陛下だと耳元で告げる間も、その金の目は庭に向いたままだ。
◇
午後、竜舎の前で、リッカがわたしの袖を遠慮がちにつまむ。干し草の匂いがする中で、竜が荷運びの縄を鼻で押している。
「あの、短いって……昨日も、同じ声で……」
「あなたには、この竜の用が分かりますの?」
「少しだけ……でも、大きな声は怖いです!」
「怖いと分かるのは、聞いている証ですわ」
わたしも並び、竜の鼻先へ向き直る。
「わたしが隣におりますから、縄を長くしたらいいか、聞いてくださる?」
リッカの喉から、息にまぎれそうな細い音が出る。竜は首を振り、前脚で縄の端を押さえた。
「違った……縄全部じゃなくて、ここの輪です!」
「聞き直せたのね――どこまで緩めましょう?」
小さな指の示す分だけ、輪を広げる。竜が荷を持ち上げると縄はぴんと張り、今度は短い鳴き声が返ってくる。
「わたしの声、通じた! 明日もわたしに頼みたいって!」
「あなたも、この仕事を続けたいかしら?」
「はい! 怖いだけで終わるのは嫌ですから、わたし、竜さんの返事を伝えたいです!」
涙の筋を頬に残したまま、あの子が笑う。こんな顔を間近で見るのは、いつ以来だろう。扇を持つ指の力が、ふっと抜ける。
「よくってよ」
「百年、誰も回さなかった後宮を……」
家令は盛大に鼻をかみ、向きのそろった縄を、また揃え直す。
「お部屋から出られなかった姫様が、竜とお話を……」
鼻にかかった声を整え、家令は言葉を継ぐ。
「陛下は人質を望んでおられず、帰国も妨げませんが、一方的に送り返せば祖国が敵意と受け取りますゆえ」
「では、ご自分で選んだ仕事を、お国にもお見せしましょう」
無事を知らせるだけだった便りに、リッカが縄の輪を描き添える。鼻先が紙につきそうだ。各国の都まで竜で片道四時間。今から出せば、祖国から明日には返事が来る。
「ヴィオランテさま、北の都ですね。竜さん、わたしのお手紙を届けてください」
◇
二日目の昼、家令が裾をからげて門へ駆けてくる。握った瓶の中で、薬がかたかた鳴っている。
「北の国の使者がお着きでございます!」
「お国の宝を、お見せしますわ」
「姫は、無事か?」
「わたしが荷運びをご案内しますので……あの、まず、その縄の輪を広くしてください」
使者の荷を竜が背へ受ける。リッカの訳で荷が揺れぬ位置へ収まると、使者は手袋を握る手を緩める。革には、指の跡が白く残っている。
「昨日のお手紙を受け、陛下は国交を望んでおられますが、姫はこちらに残られるおつもりですか?」
「ここで働きたいです――北の荷物も、わたしが竜さんへ伝えます!」
門外の竜王が、使者と姫の前に首を下げる。
「その往来を迎えよう」
最初の国交が結ばれる。使者は同盟を離れる書状を便の竜へ託し、その翼を門から見送る。飛び立つ先は、ロスヴァルトだ。
◇
その夜、ロスヴァルト王宮。ろうそくの火を背に、宰相が竜の運んだ書状を国王へ差し出す。
「北の国から、同盟離脱のお知らせです――姫が竜との荷運びを取り持つとのことです」
「北の国だけの話だ」
杯が指から滑り、敷物へ鈍い音を立てて転がる。葡萄酒の染みが靴先へ広がっても、宰相の持つ書状へは、まだ手が伸びない。
◇
後宮の庭で、わたしはリッカのほどけた三つ編みに手を添える。夜の草の匂いが濃く、指に触れる髪はやわらかい。
「……髪を、結いましょうか?」
「お願いします。わたし、明日もあの竜さんに呼ばれるんです」
結んではほどき、三回やり直す。泣く代わりに髪を結うのは、王宮にいたころからの癖だ。編み目がにじむ。指の震えが収まるまで、リッカは頭を動かさない。
「きれい……! この結び目、みんなにも見せてきます!」
わたしは扇を開き、頬に夜風を送る。廊下には、戸から顔を出す姫たちが並んでいる。二十九の顔が、こちらを見ていた。
「さあ、残り二十九人。明日の朝は、全員、背筋から」




