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第11話:0.5秒の静止と、鎧を脱ぐ足音

 ガシャンッ。


 銀色のトレイが床を跳ねる甲高い音が、熱狂を切り裂いた。


 もつれた足を踏みとどまれず、葵はフロアのど真ん中で崩れ落ちた。客たちの息を呑む気配が、さざ波のように教室を伝播する。


「あ……ご、ごめんなさーい! ちょっとドジっ子しちゃった、えへへっ」


 すぐさま立ち上がり、顔に「完璧な笑顔」を貼り付ける葵。だが、声はひどく掠れて震えていた。


 見開かれた瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。口角は不自然なほど吊り上がっているのに、とめどない涙が無残にファンデーションを洗い流していく。浅い呼吸がマイクを拾い、「ヒュー、ヒュー」とスピーカーから漏れ出していた。


 異常だ。限界を迎えて壊れていくのは、誰の目にも明白だった。


 それでも客席のレンズは、無遠慮に「エラーを起こした偶像」を撃ち抜き続ける。


 俺は反射的に、PA卓のマスターフェーダー(音量つまみ)に手を伸ばした。


 マイクを切り、BGMを落とし、機材トラブルだとアナウンスして幕を引く。それが一番「安全な」事態収拾だ。冷たいプラスチックのつまみに指が触れる。


 ――しかし。


 俺の手は、空中でピタリと止まった。


『悠真は、いつでも安全な場所から見てるだけのくせに!』


 指先から嫌な汗が滲む。ここでフェーダーを下げれば、俺はまた「安全な観客席」からこの惨劇を終わらせることになる。葵の魂が擦り切れていくのを眺め、ただ電源を切って蓋をするだけ。中学の時、俺のノートを笑って捨てた連中と何が違う?


 脳内の冷徹な分析官が警鐘を鳴らす。


『表に出るな。お前はもう、ただの無関係なクラスメイトだ。今さらしゃしゃり出て何をする? せっかく手に入れた「傷つかない安全な日常」を、自分から捨てに行くつもりか?』


 そうだ。ここを出れば、俺はもう「モブ」ではいられない。


 打算の契約という言い訳すら失った今、あそこへ踏み出すことは、俺が星野葵という人間に狂おしいほど執着していると、世界に晒すことと同義だ。


 だが、脳裏をよぎったのは、再生数のグラフでも、完璧な「Aoistar」の笑顔でもなかった。


 口の周りにケチャップをつけて、ハンバーガーを頬張りながら馬鹿みたいに笑っていた、あの不器用で等身大の「ただの星野葵」の顔だった。


「――これは、プロデューサーが解決する問題じゃない」


 俺はとっくに、そんな便利ないいわけを捨てていた。


 他人の人生を傍観し続けてきた俺が、自らの意思で安全圏を飛び出し、親友の待つ舞台へと駆け出すまでの体感時間。


 俺の人生最大の決断は、この「0.5秒」に凝縮されていた。


 フェーダーから手を離し、立ち上がる。


 ガタンッ。パイプ椅子が倒れる鈍い音。


 一歩、前へ。


 最も恐れていた、大勢の視線が交差する明るい舞台フロアへと足を踏み出す。


 暴力的なスポットライトの熱と、数百の好奇の目が、一斉に「ただのモブ」である俺へ突き刺さる。肌が粟立ち、足がすくむほどの恐怖。


 それでも俺は、泣きながら無理に笑い続ける親友のもとへ、まっすぐに歩みを進めた。

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