土の指輪を月に透く
カーナビの時計に視線を移して、もうすぐで日付が変わるな、と思った。高速道路に入ってから、数十分ほど経っている。ちらりと隣を見た。助手席に座っているサキ先輩は、背もたれを少し倒して外を眺めている。面白い風景が見れるわけでもなく、視界に映るのは、等間隔に道を照らすオレンジ色のライトくらいだった。運転をしていると、その消失点へ吸い込まれていくような気分になる。
連絡が来たのは、今日の夕方のことだ。一年以上も連絡を取っていなかった相手に、「行きたいとこあるから車出して」なんて図々しいメッセージを送ってしまえるのは、サキ先輩の悪いところだ。そして、それを断らないのは、きっと、私が悪いのだろう。
仕事を終え、夜ご飯を食べてから待ち合わせ場所へ迎えに行くと、待ちくたびれたとでも言いたげに、あるいは寒くて縮こまっているのか、サキ先輩は二本のシャベルを杖のようにして体重をかけて立っていた。車を路肩に停めて声をかけると、こちらに気づいて近寄ってくる。
「アヤノ、久しぶり」
私と目が合った瞬間に綻ぶ顔は、高校生のときと変わらないな、と思う。
「久しぶりです……それ、何に使うんですか?」
「土を掘るんだよ。シャベル知らないの?」
「いや、分かりますけど……」
サキ先輩は後部座席の足元にシャベルを置いて助手席に乗り込むと、勝手にカーナビをいじり始める。「ここだったかな……」と言いながら設定した目的地は、東京の端にある山の駐車場だった。
「登山するんですか?」
「そんな格好に見える?」
もちろんそんな格好には見えないし、登山であればシャベルは使わないだろう。私は登山をしたことがないので、確証はないけれど。
「まあ、話すと長くなるからさ、移動しながら話すよ」
カーナビに表示されている到着予想時刻は、およそ二時間後だ。時間はたくさんある。かちり、とシートベルトを締めた音が聞こえ、私はゆっくりと車を発進させた。
そうして出発してから一時間ほど経ち、今に至る。外をぼーっと眺めているサキ先輩に、話を始める気配はない。仕方なく、私から話を切り出すことにした。
「先輩、綺麗になりましたね……顔」
急に話しかけられたサキ先輩は、きょとんとした表情で「顔……?」と呟いてから、腑に落ちたのか、乾いた声で小さく笑った。
「アヤノと最後に会ったのいつだったっけ?」
「一年半前です。夏にルリの結婚式やったじゃないですか」
「あー、あのときか。そっか。よく覚えてるね」
「まあ、みんなぐでんぐでんに酔ってたので私くらいしか覚えてないと思いますよ」
その日、サキ先輩はルリの結婚式を欠席したが、やっぱり直接お祝いしたいからと、四次会にだけ顔を見せた。四次会と言っても大層なものではなく、私とルリを含めた高校時代から仲の良かった四人で宅飲みをしていただけだ。夜も更けて、みんな酔って寝かけていた頃にようやく来たサキ先輩は、ルリに御祝儀を渡して「結婚おめでとう」と言うと、たった数分でその場を後にした。
すぐに帰った理由も、そもそも結婚式に来なかった理由も、なんとなく察している。コンシーラーで誤魔化していたけれど、サキ先輩の顔には、殴られたような痣や、引っかかれたような跡があったからだ。この顔を見られたくなかったからだろう。
サキ先輩に暴力を振るう人物には心当たりがある。恋人のユウカさんだ。私は数回しか会ったことがなく、暴力を振るうような人には見えなかった。しかし、サキ先輩から「彼女がたまにぶってくるんだよね」という愚痴は聞いていた。そのときは痣もなかったし、少し大袈裟に言っているのだろうと思っていた。サキ先輩も冗談めかして言っていたから、食い下がることはしなかった。
そんなこともあって、今こうして綺麗になったサキ先輩の顔を見て、もう殴られていないんだな、と安心した。可能性が高いのは、ユウカさんの癇癪が落ち着いたか、ユウカさんと別れたかのどちらかだ。おそらく後者だろうと踏み、サキ先輩に訊ねた。
「うーん、別れた……か、そうだね。そういうことになるのかな」
らしくなく、歯切れの悪い言い方だった。別れたかどうか曖昧ということらしい。まあ、わざわざ別れ話をしなくても、日に日に離れてしまって、いつの間にか別れたような感じになっていたというのも、よくあることだろうと思う。
「私さ、あの頃ユウカと同棲してて、同棲っていうか、まあユウカ働いてなかったし、私が世話してたみたいな感じなんだけど。それで、前にちょっと話したかもしれないんだけど、たまに殴られたりしててさ」
少し黙り込んだサキ先輩は、覚悟を決めたように、あるいは諦めたように、ふうと一息ついてから、再び口を開いた。
「去年の冬だから、ちょうど一年前か。その日も殴られてさ、私も、私も仕事して疲れて帰ったのに、ユウカが怒鳴ってきて。なんで言い合いになったか思い出せないけど、多分どうでもいいことだったんだろうね。いつもはやりかえしたりしてなかったんだけど、そのときは私もかっとなっちゃって、近くにあった灰皿で殴ったんだよ」
喉が、乾く。
「そしたらさ、ユウカ、動かなくなって」
わずかにうわずった声が、鼓膜を通り過ぎた。
「私、ユウカを殺しちゃったんだ」
サキ先輩が、ユウカさんを殺してしまった。
人を、殺す。信じ難いことだった。それはドラマや映画で見る架空の出来事でしかなくて、ここに実在しているものだという手触りがまるでない。サキ先輩はよく冗談を言う人ではあるけれど、声から、表情から、これが本当のことなのだと理解してしまった。直感的に理解し、思考では受け入れることができない。
「そんなつもりなかったのになあ……」
じっとりとした重さのある声を聞いて、ハンドルを握る自分の手が汗ばんでいくのが分かる。
「血だってそんなに出てなかったし、頭と灰皿にべとってついててそれだけで、びしゃって飛び散ったりしてなくて、だから、大丈夫だと思ったのに」
指先がやけに熱く、脳は冷えていた。人を殺したという衝撃の告白に焦りながら、同時に、やけに冷静で察しの良い自分がいる。今、こうしてここにサキ先輩がいること。つまり、ユウカさんが死んだことは、サキ先輩が殺したことは、知られていないのだ。
「それで……」
「……埋めたよ」
返事を聞く前に、思わず疑問を口にしたときには、すでに答えに辿り着いていた。持ってきたシャベルと、目的地の山。一年前にサキ先輩がユウカさんを殺して埋めていたこと。それらが繋がっている。
「今向かってる山が……」
「うん」
「そのときは誰に手伝ってもらったんですか?」
「いや、なんとか一人でやったよ。実家の車借りてさ。一晩かかったけど」
「そう、ですか……」
サキ先輩に訊きたいことはたくさんあった。どうして、相談してくれなかったんですか。どうして、殺してしまったんですか。どうして、ユウカさんと付き合ったんですか。どうして、私を呼ばなかったんですか。どうして、私を呼んだんですか。どうして。しかし、そのどれもが、ただ責めるための空っぽな問いに思えたし、きっと、空っぽな答えしか返ってこないだろうと思った。
「今日さ、記念日だったんだよ」
「記念日?」
「ユウカと私の、結婚記念日。もちろん女同士だから結婚できないけど、私がユウカのことを大切に思ってるって分かってほしくて、プロポーズしたの。三年前に。指輪を渡してさ、一生ユウカを大切にするから、って」
唐突に始まった話は、意外なものだった。サキ先輩はいつもへらへらとしていて、その口から結婚なんて言葉が出るとは思わなかったし、ユウカさんとそんなに真剣に付き合っているとも思っていなかった。
「その指輪が高くてさ、プラチナのやつで、40万円くらいして」
「えっと、もしかして……」
「あはは……。その指輪をつけたまま埋めちゃったから、取りに行きたくて」
「はあ、呆れました」
先程までの重い空気が、少し和らいだ。人を殺したというのに呑気な性格だと思う。らしいといえばらしいけれど、死体を掘りに行く理由が、まさか高い指輪のためだとは思わなかった。
それから、サキ先輩はぽつりぽつりとユウカさんとの思い出を話し始めた。出会ったときのこと。遊んだときのこと。付き合い始めたときのこと。旅行したときのこと。プロポーズしたときのこと。
ユウカさんのことを話しているサキ先輩は、とても穏やかな表情をしていて、どうしてこんな結末を迎えてしまったのだろうと思ってしまう。話しているうちに時間が経っていて、次の出口で高速道路を降りるようにカーナビが指示していた。
「高速、降りますよ」
それから数十分ほど運転して、ようやく目的地に到着した。他の車は停まっていない。至近に登山口とトイレがあり、確かに登山する人のためにある駐車場なのだと分かる。車のライトを消すと、辺りは暗く、まるで何も見えなかった。
車から出たサキ先輩が、後部座席のドアを開けてシャベルを取り出した。私も続いて外に出る。寒い。真っ暗な空間で、自分の吐いた白い息は見えた。サキ先輩が後部座席をごそごそと漁りながら「ライトないの?」と言うが、そんなものは車に常備していない。心もとないが、私はスマートフォンのライトをつけて近くを照らした。
「それでいっか」
私に倣ってスマートフォンのライトをつけたサキ先輩が、シャベルの片方を渡してくる。二本あったので当然そうなるとは思っていたけれど、掘るのも手伝わされるのか。渋々とシャベルを受け取ると、金属の持ち手がとても冷たくて、手袋を持ってくればよかったと悔いながら、温度に慣れるために強く握りしめた。
サキ先輩が登山口とは反対のほうへ歩いていく。「確かここだったかな」と言い、シャベルで茂みを掻き分けながら林へ入るサキ先輩に続いて、私も進んでいった。一歩、一歩、土と落ち葉を踏みしめて歩いていく。林の中は暗く、空も曇っていて、スマートフォンの明かりだけが頼りだ。ときどき木の根を踏んだ感触が足の裏に伝わる。
「それにしても、よく警察とかにバレませんでしたね」
「ユウカ、親と縁切ってこっち出てきたらしいし、友達も私しかいなかったし、しばらく仕事もしてなかったしさ。いつの間にか私の家にずっといるようになったから、住所不定みたいな感じだったんだよ」
サキ先輩は「だからさ、多分、ユウカがいなくなったことって、誰も気づいてないんだ」と続けた。それは、きっと、絶望だ。いなくなったことに気づかれない人は、行方不明にすらなれない。
話しながら十分ほど歩いていると、サキ先輩が立ち止まった。「あった。この木とあの木の間に埋めたんだよ」と言って、中心のほうへ向かっていく。ユウカさんを埋めたであろう位置に辿り着いたサキ先輩が、ゆっくりとシャベルで土を掘り始めたので、私もそれに続いた。
「先輩、どうして、ユウカさんと別れなかったんですか?」
「うーん。どうしてなんだろうね。まあ、ずっと続くとも思ってなかったけどさ」
「そうなんですか?」
「私は、ずっと大切にするって覚悟してたよ。でもさ、些細なことで怒って殴ってくるし、物投げてきたり、怒鳴ったり。そのくせ夜になると死にたい死にたいって言いながら泣き続けるから、眠れるまであやしてさ。私は次の日も仕事なんだけどね。だからさ、きっと、私の覚悟は私の心に勝てないんだろうな、って、心のどこかで思ってたよ」
「それは……」
「ユウカも色々あってさ、生きるのがしんどかったんだよ。私は、そういうのに同情してただけなのかもしれない。分かんないや。恋愛感情があったかどうかも、もう分かんない。プロポーズしたけどさ、指輪も、別れたときのために、ユウカが一人で生きていくことになったときのために、売ってくれればいいって思ってあげたんだよ。だから無理して高いの買ったの。私とじゃなくても、ユウカに幸せになってほしかった。悲しそうなのが、許せなかった。笑ってほしかった。それだけだった。生きてほしかった」
堰を切ったように想いを零したサキ先輩が、何かに気づいて掘る手を止めた。土の中に白っぽい何かが見える。布だ。ユウカさんが着ている服なのだろう。サキ先輩はシャベルを地面に置いて膝をつくと、手で必死に土を掘っていく。少しすると、ユウカさんの顔が見えた。
「ユウカ……」
土の中に一年間埋まっていたユウカさんの顔は酷く、平静な気持ちで見ていられる状態ではないけれど、サキ先輩は気にしていないようで、赤子を慈しむようにユウカさんの頬に手を当てていた。ユウカさんに触れながら目を瞑るサキ先輩は、きっと私には分からないことを考えている。ここには、サキ先輩とユウカさんだけがいた。
しばらく経ち、周りの土をさらにどかして、ユウカさんの左手が露わになった。そこから指輪をすっと抜き取って立ち上がったサキ先輩は、埋め直すこともせずに、ユウカさんのことを眺めている。
きっと、そのために呼ばれた。
私の言うべきことは、決まっていた。
「先輩」
「うん?」
「警察に、話しましょう」
サキ先輩は、少し間を置いて「どうして?」と訊ねてきたが、そう言われることがなんとなく分かっていたような顔に見えた。高校生のときから、変わらないな、と思う。サキ先輩も、私も、察しが良いのだ。
「先輩、今日なんで私を連れてきたんですか?」
「それは、掘るのを手伝ってもらおうと思って」
「違いますよね。人を埋めるのと比べて、掘るのはもっと簡単だと思います。一人でなんとか埋められたのに、わざわざ、知る人を増やすようなリスクは取らないはずです」
知られたくないことは、隠すものだ。それならば、どうして、隠さなかったのか。知ってほしかったからだった。
「ユウカさんが死んだことを、知ってほしくて、私を、ユウカさんと会ったことのある私を、呼んだんじゃないんですか?」
「そうなのかなあ。自分でも、よく分かんなかった。今日も最初は一人で来るつもりだったんだけど、なぜか、アヤノを連れていきたくなったんだ。でも、そっか。そうかもなあ」
サキ先輩は、自首を勧められたとは思えないくらいに、憑き物の取れたような清々しい顔をしている。久しぶりにサキ先輩の素顔を見れたような気がした。それで良かった。サキ先輩がユウカさんにただ幸せを願ったように、私もサキ先輩にただ幸せを願っていた。それだけだった。
「罪を償うべきとか思ってるわけじゃないです。ただ、このままだと、本当に、ユウカさんがいなくなったことさえ気づかれないままじゃないですか。それが、悲しいと思ったんです」
「私、どこで間違えちゃったたんだろう。ただユウカに幸せになってほしかっただけだったのになあ」
「ずっと、間違ってたんだと思います。でも、だから、ユウカさんに生きていてほしかったです。先輩に生きていてほしいです」
「あはは。意味、分かんないよ」
「先輩、その指輪、私にください。先輩が戻ってくるまで、私が預かっておきます」
サキ先輩は暗闇で静かに頷いて、指輪を私の手に握らせた。手元がよく見えず、私は枝々の隙間から見える月に指輪を透かした。土で汚れている指輪は、されど存在を証明するように、月の光を帯びて輝いていた。




