7話 逃亡準備
「おい、大丈夫か?」
マイロの声に、チェルシーははっと顔を上げた。
目の前には穏やかな昼下がりの公園の景色が広がっており、昼休憩に来ていることを思い出す。
「ごめん、ぼーっとしてて……」
「ここしばらく、夫人の葬儀の準備で忙しかったもんな」
つい先日、男爵夫人の葬儀が行われた。
優しかった夫人の死に、参列者は涙し、別れを惜しんだ。使用人たちも目を赤くし、チェルシーもその日はずっと涙が止まらなかった。
最愛の妻を亡くした男爵の悲しみは深く、周囲の目も憚らず墓に縋って泣いたほどだった。
「うん。……でも、そろそろ気持ちを切り替えないとね」
いつまでもクヨクヨしているわけにはいかない。安全に、速やかに男爵家を出ていかなければいけないのだから。
「紹介状は見つかったか?」
「……まだ」
夫人が書いてくれると言ったチェルシーの紹介状。確実に男爵家を去れる理由になるそれが、どこにもないのだ。
「奥様は夜には書き上げて机に置いておくから、朝になったらとってねと言われていたのに……」
「亡くなる前日だったからな、夫人も具合が悪くて書けなかったのかもしれない」
「そんなはずないわ! 奥様は約束されたことは必ず守られる方よ。それに、お坊ちゃまの乳母の方も、夜中にお坊ちゃまを迎えに行った時に机の上に封筒のようなものがあったと言っていたんだから」
あの乳母は視力がよく、記憶力もいい。見間違いでも記憶違いでもないはずだ。
「夫人が確実に紹介状を用意してたのなら、捨てられたんだろうな」
「……それしか考えられないわよね」
誰に、とは尋ねなかった。チェルシーも薄々は彼の仕業だろうと思っていたから。
「夫人の話では、馬車の手配は男爵がすると言ってたよな。男爵は何か言ってたか?」
「ううん。……旦那様にはお会いできてないから」
夫人の葬儀の後、男爵はすべての仕事を投げ出して自室に籠もっていた。誰ひとり部屋に入ることは許さず、子息にも会おうとはしなかった。
その状態の男爵に、馬車のことを問うことなどできるはずもなかった。
「旦那様は……あたしをこの屋敷から出さないつもりなのかしら。……もしかしたら、あの村に行ったことがバレてる……?」
「……どうだろうな。まあ、理由はともかく、お前を逃さないつもりなのは確かだ」
「なんで旦那様はそこまでして、あたしをここにいさせようとするのかしら」
「お前が、夫人のお気に入りだからだろ夫人が亡くなってしまったから、なるべく彼女が好んだものを置いておきたいんだよ」
断言するようなマイロの口調に、チェルシーは首を傾げる。
マイロは慎重な人間で、他人のことを簡単に決めつけるような人間ではなかったのに。
「マイロは旦那様と親しいの?」
「いや。……だけど、なんとなくわかるんだよ。男爵は俺と似てるから」
「……え?」
チェルシーはまじまじとマイロを見つめた。
平凡な茶髪に茶の瞳。決して不細工ではない。だが、かっこいいわけでもない。いたって普通だ。
お世辞にも、あの美形の男爵とは似ても似つかない。
「言っておくが、顔じゃないぞ」
「でも、性格だって似てないでしょ。旦那様はいつも穏やかで笑顔が絶えない方だもの」
「……俺だって、そんな仏頂面ばっかしてないだろ」
マイロは不服そうに眉をしかめたが、すぐに話題を切り替えた。
「執事の話だと、男爵は一週間後に友人の領地に行くらしい」
「それじゃあ、その時に屋敷を出る?」
「できるならそうしたいけどな。……こっそり逃げたんじゃ、すぐに追われるだけだ。それに、男爵はそんな隙を見せるやつじゃない」
「……見張られてるってこと?」
チェルシーは慌ててあたりを見回した。
人影はないが、チェルシーが気づいていないだけで、どこかに潜んでいるのだろうか。
「さすがに四六時中監視してはないと思うから安心しろ。だが、お前が不審な動きをしたらすぐに察知できるようにはしてるはずだ」
「……不審な動きって、荷造りとか?」
「ああ。あと……お前には難しいかもしれないが、なるべく他の使用人にも変わらず接しろよ。男爵と接することがあっても変に避けようとするな。勘付かれるかもしれない」
チェルシーはぎこちなく頷く。
危険な人物に行動を監視されていると思うと、ひどく居心地が悪かった。
「……あの茶は忘れずに必ず飲んどけよ」
「うん。じゃないと、嫌な夢見そう……」
チェルシーは大きなため息をついた。
「チェルシー、今、いいかな?」
マイロと会話を交わした数日後。
チェルシーが夫人の部屋の掃除をしていると、男爵が現れた。
「は、はい……! なんでしょうか……?」
「いきなり話しかけてすまない、驚かせてしまったね。……少し、お茶でも飲みたいんだけど」
「はい! すぐに用意いたしますね」
チェルシーは掃除道具を隅に置いた。
男爵とふたりきりになるのは恐ろしいが、下手に怯えては怪しまれる。平静を装って部屋を出ていこうとしたチェルシーを、男爵が止める。
「頼むよ。ああ、席はふたつ用意してくれ」
「お客様が来られるのですか?」
「いや、君の分だよ」
「……え」
「君とお茶をしたくてね。無理にとは言わないけれど……付き合ってくれると嬉しいな」
男爵は微笑む。穏やかだが、断れないその圧にチェルシーは頷くしかなかった。