1話 幼馴染の忠告
ディラック男爵夫人の部屋は主を亡くした後でも毎日掃除がされ、美しく整えられていた。
芳しい茶の香りが漂う室内で、夫人と過ごした日々を思い出したチェルシーの目尻に涙が浮かぶ。
「チェルシー、君には本当に感謝しているんだ」
目の前の席についているディラック男爵は、優しくチェルシーに語りかける。どこか寂しさが滲んだ声だった。
一介の侍女でしかないチェルシーに、彼は長年の友人のように親しみを込めて話している。
だが、今のチェルシーには半分も理解できない。霞がかったように、頭がぼんやりとしてはたらかない。
気がつけば、チェルシーはテーブルに伏していた。
床に転がったカップが視界に映る。つい先ほどまでチェルシーが口をつけていたものだ。そこから飛び散った茶を見て、男爵が自身の兄を毒殺した噂が頭をよぎる。
警戒はしていた。いつか狙われるかもしれないとも思っていた。けれど、今危害を加えるとは思わなかった。
チェルシーの能力ではそれを察知できなかった。できたところで、チェルシーには逃げる術などなかっただろうが。
(……ごめん、マイロ)
自分を心配し、逃がす方法を探ってくれていた幼馴染の顔が浮かぶ。
せめて、彼だけは逃げ切ってほしいと願いながら、チェルシーは意識を手放した。
「ディラック男爵夫人の侍女? お前が? ……やめておけ、ろくなことにならないのは目に見えてる」
幼馴染のマイロは薬草を選別する手を止めないまま、そう吐き捨てた。その声と表情にはありありと呆れの感情が滲んでいる。
チェルシーは溜息をついた。マイロは頑固なところがあり、めったに自分の意見を変えない。それは長い付き合いでよくわかっていた。
だが、こちらもマイロに言われたからと、せっかく決まった優良な就職先を諦めるつもりはなかった。
そもそも勤めていたパン屋も昨日付けで退職していたため、侍女を諦めたら無職になってしまう。それに既に友人たちには話しており、先程お祝いのパーティーも開いてもらったのだ。今更取り消しとなるのは彼女たちにも申し訳ない。
「あんた、あたしを侮ってるわね? おあいにくさま、採用試験で伸び代があるわねって奥様に褒められたんだから」
「それ、褒められたのか?」
「侍女として問題ないって言われたわよ。これから覚えていけばいいって」
「……こんなのを雇おうだなんて、夫人も酔狂な人だな。俺が夫人だったら絶対採用しないぞ。屋敷中のカップを割られてしまう」
「あたしだってあんたみたいなのに仕えたくはないわよ! ……きっと、奥様に気が合うと判断されたのよ。あたしの話を興味深そうに聞いてくださったし」
「あー、夫人は村娘だったっていうからな。礼儀作法が身についたまともな侍女よりは、お前のほうが気は休まるかもしれないが……」
さらりと失礼なことを言いながら、マイロは頭をかいた。
「だが、夫人はともかく、ディラック男爵にはきな臭い噂が多い。関わらないに越したことはない」
マイロの言う通り、ディラック男爵は醜聞に塗れた男だった。嫡子だった兄を毒殺して跡取りの座についただの、気に入らない使用人を虐げ自殺に追い込んだだの、奥様を権力で囲い込んで強引に娶っただのと悪い噂は尽きない。
チェルシーもその噂を信じており、話を持ちかけられた時は困惑した。だが、やむを得ない事情もあり、思い切って男爵家を訪れてその認識は覆った。
「旦那様、とっても良い人だったの。奥様とも仲が良くて……無理やり結婚したなんて嘘よ、あのふたりは相思相愛なんだから。ご子息様もまだ一歳なのにお利口で穏やかで……素敵なご家族だったわ」
「へー」
興味なさそうに相槌を打つマイロに腹が立つが、チェルシーは感情を抑える。これも、いつでも平静でなくてはならない侍女としての訓練だ。
「奥様はもちろん、旦那様もお優しい方よ。直接お会いして確かめたんだもの、心配ないわ」
ぴたりとマイロが手を止めた。大きなため息をついたかと思うと、チェルシーを睨みつける。
「お前、自分を過信するなって散々言ってきただろ。その頭は飾りか?」
「こっちもわかってるって、何度も言ってきたじゃない。力だけに頼るんじゃなくて、状況も見なきゃいけないんでしょ? 子どもじゃないんだから、ちゃんとできるわよ!」
「いーや、お前はすぐに力に頼るだろ。今までは運良く問題なかっただけで、今回もそうだとは限らないんだから用心しろ。特にお前は変に力んだり緊張したりするとヘマをしやすいんだからな。怪しい噂のある奴に近づくな」
マイロの言うことには一理ある。
だが、チェルシーはそれに頷けない理由があった。
「ルーイさんの紹介なのよ。ディラック男爵家はお得意様で、夫人に信頼できる人間を紹介してくれって頼まれたらしくて」
「……それは断りづらいな」
ルーイはひと回り年上の商人だ。そして、チェルシーとマイロの恩人でもある。
彼がいなければ、孤児になったふたりはこの街に来ることは出来なかっただろう。壊滅した故郷の村でその日暮らしの生活をするしかなく、運が悪ければ人買いにさらわれていたかもしれない。
今、ふたりがこうして生きているのは、ルーイがふたりを発見し、この街の孤児院まで連れてきてくれたおかげだ。そんな恩人の頼みを断ることは憚られる。
ルーイは国中の貴族や富豪に商品を売り歩いているため、半年に一度会えればいいほうだ。
そんな彼が先日この街に現れ、チェルシーに侍女の仕事を紹介してくれたのだ。チェルシーならきっと夫人も気にいるだろうと。
「でしょ? それに、ルーイさんも長年男爵家に出入りしてるけど、旦那様の使用人からの評判は良いって言ってたのよ。人が多いのを好まないから、使用人も最低限しかいなくて、長年務めている人が多いそうよ。勤めるのはご子息様がある程度大きくなるまでの間だし、時々長期休暇もくださるから、ここにも顔を出せるわ。だから、大丈夫よ」
マイロは仕方ないとため息をついた。
「でも、気をつけろよ。どんなに評判が良かろうが、貴族にとって平民なんて都合が悪くなったら切り捨てるだけの存在だからな」
「わかってるわ。それじゃあ、あたし仕度があるから帰るわね」
「おい、茶葉を取りに来たんじゃないのか? もうすぐ切れる頃だろ」
「え……あ。そうだった。忘れてた」
「……ったく。しっかりしろよ。ないと困るのお前だろ」
マイロは作業を中断すると部屋の奥の方へと向かい、棚から袋を取り出した。
チェルシーは茶葉を受け取ろうとマイロの方へ駆け寄る。
すると、マイロが血相を変えた。
「! おい、待て! こっちに来るな!」
「え。なんで――きゃあ!?」
地面に空いていた穴に足を取られかけたチェルシーは、慌てて近くの机にすがりついた。
どうにか穴に落ちずにすみ、安堵する。そしてすぐにマイロを睨みつけた。
「どうして、こんなとこに穴が空いてるのよ!?」
「半年前くらいに空いたんだよ。まあ、古い建物だからな。こういうこともある」
この店は築年数が高く、いたるところにガタが来ていた。
店の扉は建付けが悪くて開くたびに耳障りな音を立てるし、屋根も穴が空くことが多くて雨漏りもひどい。
「半年前って……なんでそんなに長く放置してるのよ。落ちたら怪我をするじゃない」
「自分で修理するにしても、材料費がもったいないからな。俺しか使わないから問題ないだろ。ここに穴が空いてることは覚えてるから、お前みたいに落ちることもないし」
またマイロの悪い癖が出ているとチェルシーは眉をひそめた。
これまでこの店は様々な故障があったが、マイロは商品や客に影響が出るものしか修理をしない。扉も屋根も不備が出るたびに直すが、自分にしか影響がないものは放置している。
この穴も一生塞がれることはないのだろう。
マイロは人のことは気にかけるのに、自分のことには無頓着だ。何度も自分を労れというのだが、聞いたためしはない。
「ってことで、お前はここから先に入るなよ。今度は完全に落ちるかもしれないぞ」
「わかったわよ」
「……ほら、茶葉だ。寝る前とか不安な時に飲めよ。ただ、他に薬などを飲む時は事前に言え。滅多にはないことだが、飲み合わせによっては副作用が出るからな。問題ないか確認するから」
いつものように注意事項を告げながら、マイロが茶葉を差し出す。
「ありがと。料金は……」
「いらない。幼馴染のよしみだ」
「そう言って、前もただでくれたじゃない。お金が嫌なら、焼き菓子をあげるわ。昨日、最後の出勤だからお願いしてかまどを使わせてもらったの」
「わかった。なら、それもらう。……まだ、症状はひどいか?」
「うーん。日中にいきなり思い出すことはなくなったわ。……もう、六年も経つからかも」
六年前、当時十一歳だったチェルシーとマイロの故郷の村は地震に襲われた。村は全壊。生存者は近くの森にいたマイロと、両親が身を挺して守ったチェルシーだけだった。
ふたりはルーイの助けにより再建の難しい村を離れ、近くの街の孤児院に保護された。安全な生活を手に入れたかに思えたが、災害の影響は長引いた。
親が自分を庇って致命傷を負い、息絶えるのを見ていることしかできなかった経験は、チェルシーの心に大きな傷を残した。
ふとした瞬間、あの凄惨な記憶が蘇るようになったのだ。眠ることも難しくなり、睡眠不足にも悩まされるようになった。
そんな時、マイロが薬草を配合した茶葉をくれた。苦くて最初は飲みに食ったが、それを飲むと悪夢にうなされることもなく、ぐっすりと眠れるようになった。
『このお茶、すごいね! ありがとう、久々に眠れて嬉しかった。……でも、これ高かったんじゃないの?』
『いや。材料を自分で採って作ったから、金かかってない』
『マイロって、そこまで薬草の知識あったっけ?』
『……なかった。けど、師匠に教わった』
聞けば、マイロは森深くに住む薬師に師事しているらしい。時々孤児院から姿を消していると思ったら、そんなことをしていたのかとチェルシーは驚いた。
マイロの育ての親の叔父は薬師ではあったが、マイロは薬に興味を示さなかったのに。
『もしかして、私のために……?』
『……それも、ある。十五になれば孤児院を出ないといけないからな。手に職つけないと』
ぶっきらぼうに髪をかいたマイロは、照れくさかったのか、すぐに用事があるからとその場を離れた。立ち去るその背を見てチェルシーは誓った。
自分もいつか、マイロの力になるのだと。
だから、ルーイに侍女の仕事を紹介された時、飛びついた。たとえ彼が恩人でなくとも、チェルシーは破格な待遇に引き受けていただろう。
この古いお店の修繕費を出すことができると思ったから。
そうすれば、マイロも無理に食費を削ったりすることもないだろう。あの大きな穴だって、修理できる。
マイロに差し入れができればとパン屋に勤めたものの、日々自分が食べていく分しか稼げない。いつまでも自分のことに手一杯で、マイロに何もできないのは嫌だった。
「手紙、書けよ」
「え……?」
「ここからは距離もあって滅多に会えなくなるだろうから、手紙で近況教えろ」
「! うん! 毎日送る!」
「それはさすがに多い。週一くらいにしとけ」
嬉しさではしゃぐチェルシーに、彼は低い声で釘を刺す。
「お前の力があれば人の嘘は見抜けるかもしれないが、世の中にはすべてを本心で語る狂人もいるんだ。そのこと、絶対忘れんなよ」