09:警護の申し出
静まり返った取調室に、ひときわ小さな呼吸音が響く。
ミラ・アマリは椅子に腰かけ、まだ少し指先に残る震えを意識しながら、深く息を吸い込んだ。呼吸を整えるのが精いっぱいだった。
向かいには柔らかな表情の中年刑事。手元の書類に目を落とし、鉛筆をゆるく回しながら最後の確認をしている。
「証言は助かるよ。あとは現場の防犯映像や証拠と照らし合わせれば……いや、それにしても、君の嗅覚は大したもんだ」
ミラは視線を伏せたまま、ぽつりと応える。
「……ただ、鼻が利くだけです」
刑事はははっと笑い、手元のメモ帳を閉じる。
「今夜はもう帰って大丈夫だ。ああ、ただ——」
ふと、部屋のドアの方へ視線をやる。ガラス越しに、誰かが立っていた。長身の男と白髪交じりの初老の男――ソーレンとイーライだ。
「上からの判断で、君に警護がつくことになった。顔を見られているし、レイブンバンク相手じゃ用心に越したことはない」
「警護……?」
ミラが顔を上げると、扉が音もなく開き、ソーレンが無言のまま室内に足を踏み入れた。
彼女と視線がぶつかる。
「彼なら信頼できる。昔から、こういうのは得意でね」
イーライの声が部屋の外から届いた。
「紹介が遅れたな。元・捜査一課の――」
「ソーレン・ウルフ。今は、個人で動いてる」
刑事の言葉を遮るように、ソーレンは低く名乗った。硬い口調ではあるが、その声には妙な安心感があった。
ミラは小さく会釈する。
「あの⋯⋯ミラ・アマリ……です。カフェで働いています」
「ああ、知ってる」
その答えに、ミラの目が少しだけ見開かれる。
金色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていた。刺すようでいて、不思議と温度のある視線――それが今夜の彼には、よく似合っていた。
夜の空気が、冷たく肌を撫でていく。
警察署の明かりを背に、ミラとソーレンは並んで歩いていた。人影のまばらな歩道に、二人の足音だけが控えめに響く。
街灯の光が、時おりその影を長く引き伸ばす。風が木々を鳴らし、遠くで車のエンジン音が消えていった。
ミラは数歩ごとに深呼吸を繰り返すが、歩調は意外なほどしっかりしている。ソーレンは煙草に火をつけ、黙ったまま隣を歩く。
「……車、使わないんですか?」
「現場に置いたままだ。警察に言えば回収できるが、今夜は歩く」
「そうですか……」
短いやり取りのあと、また沈黙が落ちる。けれどその静けさは、取調室のものより幾分やわらかい。
やがて、ミラがぽつりと漏らす。
「……今夜は、眠れそうにないな」
ソーレンは煙を吐きながら、目を細めた。
「……あんなものを見た後じゃ、誰でもそうさ」
その言葉に、ミラはかすかに笑いかけそうになるも、すぐに視線を落とす。
「……なんだか、“誰でも”って言われると、ちょっと説得力あるような、ないような」
「どういう意味だ?」
「……だって、あなた、眠らなくても平気みたいな顔してるから」
ソーレンは肩をほんの少しすくめて、照れ隠しのように煙草を咥え直す。
「……職業柄な」
彼の輪郭が街灯の下で一瞬だけ浮かび上がった。強く、静かな影。
ミラは息を呑むほどではなかったが、その瞬間、胸の奥がひどく静かに跳ねた。
ふたりはまた歩き出す。無理に会話を続けようとはせず、けれどその沈黙には、わずかな余白と、確かに芽生えつつある信頼が滲んでいた。
やがて、前方に深夜営業のガソリンスタンドの明かりが現れる。
それは、今夜の終わりがほんの少しだけ近づいてきたことを告げていた。




