08:遭遇
裏通りを抜けたミラは、ふと足を止め、鼻をひくつかせた。
夜気に混じる生温い鉄の匂い――それは、明らかに「血」の気配だった。
(……まさか、こんな場所で……?)
慎重に匂いの源を探っていくうち、古びた一軒家の前にたどり着く。小さく開いた扉が、どこか生々しく見えた。
一歩、足を踏み入れようとした瞬間――
中から黒衣の人物が姿を現した。マスクをつけた男、その背後には粗暴そうな数人の男たち。手には布袋と光る刃物。
一瞬、時間が止まったように、場の空気が凍りつく。
最前に立つ男――ホークがミラを見つめ、目を細めた。何の感情も見せないその視線の奥に、静かに滲む殺意。
(……動けない……)
ミラの中で、記憶の奥底に封じ込めていた夜が蘇る。両親が事故で亡くなった夜。鉄臭い血の匂い、冷えきった孤独、そしてどうしようもない恐怖。
足が震え、世界がぐらりと揺れる。逃げなきゃ、と頭では叫んでいるのに、身体がその声に反応しない。
(……逃げなきゃ、でも……)
ソーレンは路地を駆け抜けていた。モズの影はとうに見失っていたが、ふと脇道から漂ってくる気配に立ち止まる。
鼻を突く、なじみ深い臭い――血。そして、悪い予感が当たってしまったのを知る。
(……ミス・アマリ!?)
物陰からそっと覗き込んだ視線の先。ミラの前に立ちはだかるのは、レイブンバンクの雑兵――ドードーだ。ナイフをちらつかせながら、ゆっくりと歩み寄っている。
ソーレンは、即座に銃を抜くこともできた。だが彼女に当たる危険性もある。
選んだのは、声だった。
「――下がれ。彼女には触れるな」
低く、よく通る声。男たちが一斉に振り返り、場の緊張が一気に跳ね上がる。
そのとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
ホークがちらと部下に視線を送り、小さく呟く。
「時間切れだ。行くぞ」
まるで訓練された部隊のように、男たちは一糸乱れぬ動きで退却し、裏手の非常階段から闇に紛れて消えた。
静寂が、ようやく戻ってきた。
古びた一軒家の前には、赤と青の灯りが交差していた。警察車両が通りを封鎖し、遺体にはビニールシートが被せられる。
ミラはその少し離れた場所に佇み、鼻を押さえて震えていた。顔はうつむき、表情は見えない。それでも――彼女には匂いで分かる。
(見えなくても、わかる……この匂い……血の……)
その肩に、そっと温かな重みが置かれる。
「大丈夫だ。もう終わった」
低く、穏やかな声。ソーレンだった。
ミラは、震える手で彼のジャケットの裾をそっと握る。それだけが、現実に繋ぎ止める綱のようだった。
そこへ、親しげな刑事が一人近づいてくる。
「ソーレン・ウルフ!やぁソリじゃないか。通報はおまえか?」
「久しぶりだな。すぐ来てくれて助かった」
ソーレンが軽く肩を叩かれ、応じる。
「なに言ってんだ、ソリ。おまえなら、捜一時代からこういうのは朝飯前だったろ?……で、彼女が目撃者か?」
「そうだ。ただ、その……聴取は少しあとにしてやれないか」
「もちろんだ。彼女についててやってくれ」
刑事が背を向けて去っていくと、ソーレンは再びミラに目を向けた。
今度はさらに低く、柔らかな声で、彼女の世界を包む。
「……大丈夫。これ以上は、嗅がなくていい」
その言葉に、ミラはようやく小さくうなずいた。
震えながらも、その頷きには確かに――感謝と安堵の色が宿っていた。