06:昔の話
夜のアルテリオは、昼とはまるで別の顔を見せる。
舗装の剥がれた石畳は、薄いランプの明かりに照らされ、ところどころに影を落としていた。建物の輪郭も曖昧で、細い路地は静けさを溜め込んでいる。
ソーレン・ウルフはその中を一人歩いていた。革のジャケット、手には古びた一眼レフカメラ。シャッター音だけが、やけに澄んだ音で響く。
立ち止まったのは、ひときわ古びた煉瓦壁の前だった。赤茶けた表面に、かすれた白い線がいくつか浮かんでいる。
一見すれば、ただの落書き。だが――
(……これは)
曲線と角度、残された位置。それは“偶然”とは思えなかった。 ソーレンはカメラを構え、音を立てぬよう、慎重にシャッターを切る。
ひどく薄れてはいたが、間違いなかった。ギャラリーゴースト――あの伝説の怪盗団が使っていた印。
彼がまだ子どもだった頃、この街で彼らが何をしていたのかを、ソーレン自身は知らない。けれど、イーライが語っていた「痕跡」という言葉と、この印の形は、脳裏に深く刻みつけられていた。
(まだ残っていたとはな)
30年以上前、この旧市街はギャラリーゴーストの縄張りだった。 今では誰も口にしない。語られるのは、未解決の美術品盗難と、いくつかの噂話だけ。
背後で足音が一度、止まり――また、動き出す。
気配に眉一つ動かさず、ソーレンはカメラをジャケットの内ポケットへ戻す。
(……つけてきたか。素人の尾行だな)
気配を引き連れたまま、彼はゆっくりと路地に身を滑り込ませた。 闇に溶けるように、その姿は夜の奥へと消えていった。
昼下がりのカフェ・アロームには、焙煎したての豆の香りとカップを置く音が穏やかに満ちていた。
テーブル席では、中年の女性たちが楽しげに話している。
「ねえ、新しい駅舎の話、聞いた?」 「聞いた聞いた。美術館から絵が来るんでしょ? あの、昔盗難にあったやつ!」
「ギャラリーゴーストって知ってる?この街にいた怪盗団なんだって」 「いたねぇ、盗むくせにモノを壊さないっていう……なんか映画みたいだったわ」
カウンターでスチームミルクを泡立てていたミラ・アマリの手が、ふと止まった。
「……ギャラリーゴースト」
その響きが、耳の奥に残る。 だがその先の会話が続く前に、やわらかく、けれど確かな声がその場の空気を切った。
「もう過去の話よ」
ふいにカウンターの向こうに現れたのは、アレックス・モローだった。
「ミラちゃん、カフェラテをふたつ、お願い」
白髪が美しく揺れ、口元にはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべている。だが、その調子はあきらかに話題を遮る意志を孕んでいた。
隣にいたルシアン・モローは、何も言わずに微笑んでいた。 まるで、遠い昔の記憶を、そっと撫でるような表情で。
ミラは頷き、ラテを注ぎながら小さく首を傾げる。
(あの微笑み……なんだろう。少し、引っかかる)
湯気を立てるミルクフォームの向こうに、さっきの話がぼんやりと残っていた。 ギャラリーゴースト。名前だけは知っている。けれど、それがなぜ自分の中に、こんな風に引っかかるのか、うまく言葉にできない。
仕上げに小さくラテアートを描きながら、ミラはふと手を止めた。
(あの人……あの黒いジャケットの人が、この話を聞いたら、何を思うだろう)
ただの偶然。でも、頭に浮かんだ。
風がカフェの窓を小さく揺らす。 湯気の向こう、泡の白さに重ねて、彼女は一瞬、なにか懐かしいものの匂いを感じた気がした。
それはたぶん、記憶の底に沈んだ、まだ名のない予感。
そしてそれは、カップの中でゆっくりと冷めていくラテのように、どこか静かに、彼女の胸に残り続けていた。