05:午後の残り香
カウンターの陰から、そっと視線を送る。
ミラが彼の顔をまともに見るのは、これで四度目だった。
初めてこの店――《カフェ・アローム》に現れたときは、無愛想な印象がすべてだった。
目元の鋭さと、感情の読めない表情。用件だけを伝えて、必要以上の言葉を口にしない。
だが、回を重ねるうちに、そこには別の輪郭が見えはじめていた。
言葉の選び方は丁寧で、質問には必ず相手への配慮がある。
そして、声。
低く、少し掠れた声が、聞き慣れるうちに、妙に心に残るようになった。
土と風、あるいは初夏の森林を思わせる、素朴で深い響き。
――目元は鋭いけれど、睫毛が長いのね。
ふと、そんなことを思う自分に気づいて、ミラは小さく瞬きをした。
「……気づくのに、時間がかかるタイプ」
口には出さず、心の中でそっと呟く。
王子様のようなキラキラした美男ではない。けれど、なぜだろう――目が離せなかった。
「ありがとうございました。またどうぞ」
その背中が扉の向こうへと消えていくのを、ミラは少しだけ名残惜しげに見送った。
黒いジャケットの背中が、道路の向こうに消えてゆく。
静かな余韻が、カウンターの内側まで届いていた。
(……変わった人)
テーブルに残されたカップには、まだ微かに温もりが残っている。
スパイスの香りとともに、彼の匂いが漂っていた。
それは決して香水のようなものではない。
もっと素朴で、身体に染み込んだ何か――陽だまりの匂い、とでも言えばいいのだろうか。
「ミラちゃん、どうしたの。変な人だった?」
階段を降りてきたアレックスが、からかうような声をかけてきた。
隣には、ルシアン・モローの穏やかな笑み。
ミラは肩をすくめて、少しだけ笑う。
「変っていうか……なんて言えばいいんだろう。獣っぽい空気なのに、すごく人間らしい。落ち着いてて、無骨で――でも、なんか懐かしい」
「ふぅん?ああいうワイルド系が好みなの? 確かにあの人、よく見ればハンサムよねぇ」
「ち、違いますよっ」
「レクシー、若い子をからかってはいけないよ」
慌てて否定したものの、自分でも頬が熱を帯びているのを自覚していた。
客として見れば、特筆すべき点はない。
マナーは良く、注文も素直。
けれど、なにかが違っていた。
――あの一瞬。目が合ったとき。
ただ「見られている」というのではなく、「測られている」と感じた。
体温、呼吸、あるいはその奥にあるものを、静かに測られていたような。
(……いや、考えすぎ)
頭を軽く振りながら、カップを片づける。
キッチンへ戻ろうとしたとき、不意に窓の外へ目をやった。
午後の街は、いつもと変わらぬ風景を映しているはずだった。
それなのに、どこかが違って見えた。輪郭が、少しだけ鮮やかに感じられる。
(あの人が見ていたのは……私じゃなくて、この街)
そんな気がした。けれど、それが何を意味するのか、うまく言葉にできない。
ただ、確かなのは――
その残り香のような気配が、しばらく自分の中から抜けそうにないということだけだった。
まるで、お気に入りの柔軟剤がふと衣服に残った朝のように。
それは、ごく些細で、けれど確かに心を撫でる感触だった。