34:日常への帰還
午後の光が静かに差し込むカフェ・アローム。白と木目を基調とした落ち着いた店内に、コーヒー豆の香ばしい香りがふわりと漂っていた。棚には書籍が並べられ、ラジオニュースが小さく流れている。
扉のベルがチリンと鳴ると、奥のカウンターで食器を拭いていたアレックス・モローがふと顔を上げた。
「……あら」
すぐにその目がほころぶ。
「ミラ……!」
アレックスは思わずクロスを置き、店内を軽やかに歩いてくる。ミラが笑顔で小さく手を振ると、彼女はそっと両手でミラの頬を包み込んだ。
「本当に、無事でよかったわ……」
「ごめんなさい、心配かけて……でも、ただいま戻りました」
「ええ、おかえりなさい」
そのやりとりの後ろで、少し遅れて入ってきたソーレンの姿を見て、アレックスの視線が鋭くなる。
「……あら、ずいぶんと」
ソーレンは頬に貼った絆創膏を指で軽く触れ、「派手に転んだだけですよ」と苦笑するが、その声にルシアン・モローの声が被さった。
「その“転び方”で、ミラは無事に帰ってこれたんですね」
奥のギャラリーから出てきたルシアンは、白髪をきちんと撫でつけ、今日もループタイをきゅっと締めていた。静かに笑みを浮かべ、ソーレンの肩に手を置く。
「……ありがとう、ソーレンさん。彼女を守ってくれて」
「俺ひとりの手柄じゃありません。ミラが強かったんです」
「謙虚だな。ますます好感が持てますよ」
ルシアンは小さくウィンクし、アレックスの横に並ぶ。夫婦の姿が並ぶと、どこかこの空間が完成するような、不思議な安心感が満ちた。
ミラは改めて店内を見渡した。数日ぶりの、けれど何年も離れていたような懐かしさが胸に広がる。
棚に置いたままのメモ帳、少しだけ曲がっていたカップの列、いつもソーレンが座っていた窓辺の席。変わらない日常が、そこにはあった。
「……戻ってきたんですね、ちゃんと」
ミラが呟くように言うと、アレックスが微笑んだ。
「ええ、もう安心して。今度はあなたがコーヒーを淹れる番よ」
ソーレンが店内のテーブルに腰を下ろしながら、肩の傷を気にして軽く顔をしかめると、ルシアンがティーカップを手渡す。
「冷やすものなら、厨房にありますよ。レクシーが氷嚢を作るのが得意でね」
「……ありがたく、お言葉に甘えます」
ミラはカウンターの中に入ると、慣れた動きでミルを取り出す。ソーレンに一杯、ルシアンとアレックスにそれぞれ、そして自分にも。
カフェにコーヒーを淹れる音が響きはじめると、それだけで世界が平らになっていくようだった。
日常とは、不思議なものだ。ひとつひとつの所作が、静かに心の波を鎮めてくれる。
カップから湯気が立ち上る。誰も急がず、誰も騒がず、その香りを味わう。
窓の外、交差点では今日も工事車両が音を立てていた。
ラジオからは新駅舎の完成式典のニュースが流れてくる。
「……平和って、案外こういう味かもしれないな」
ソーレンの言葉に、ミラはそっと頷いた。
「きっと、そうですね」
カフェ・アロームには、コーヒーと微笑みが静かに溶けていた。
続きのお話を7/18に投稿予定です。




