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03:その香りの名は


午後三時。

カフェ・アロームは昼の喧騒を抜け、まるで深呼吸でもするように静寂を取り戻していた。

店内にはゆるやかなクラシックが流れ、コーヒー豆の香りがほんのりと漂っている。


ミラ・アマリは本棚の整理をしながら、ふと気配を感じて顔を上げた。


そこに立っていたのは――見覚えのない男だった。


背が高く、肩幅もしっかりしている。革のジャケットは年季が入っていて、無精髭も気取らずそのまま。

三十代、前半くらいだろうか。


目が合った。その瞬間、心臓がひとつ跳ねた。


その目は鋭かった。けれど、冷たいわけではない。

見透かすようでいて、どこか穏やかでもある。奇妙な安心感と緊張が同時に胸をくすぐる。


そして、ふわりと香りが届いた。


(……煙草、オークの木、それから――血?)


記憶の奥をそっと撫でられたような、妙に懐かしい気配。

なのに不快ではなかった。むしろ、心地よいとさえ思えてしまう。


(……日向の匂い?)


洗いたてのシャツを干した午後の光。

土と血の匂いに交じって、ほんの少しだけ――陽だまりの温もりが潜んでいる。

矛盾する香りが共存しているようで、それなのに自然だった。


どちらも仮面のようで、どちらも彼自身のような気がして、ミラは不意に目を逸らした。





「ようこそ。お席、お選びください」


声をかけると、男は無言でうなずき、店の奥――窓際のテーブルへ向かう。

動きは落ち着いているが、ミラの目には“観察者”のようにも映った。

まるで、耳と鼻と視線のすべてを使って、世界を絶えず測っているかのよう。


彼女はゆっくりと歩み寄り、メニューを差し出した。


「お決まりでしたら、お伺いします」


男が顔を上げた。金色の瞳が、真っすぐにミラを射抜く。思わず呼吸が浅くなる。


「……そうだな。おすすめは?」


その声を聞いた瞬間、ミラの耳に熱が差した。


低く、どこか掠れた音色。

狼が静かに唸るような声音なのに、不思議と心地よく響く。

声の余韻だけが耳の奥に残り、消えそうで消えない。


「……あ、えっと――おすすめは、“アローム・ブレンド”です。少しスパイスが効いています」


「ではそれを」


言葉の切り方が端的で、けれど不躾ではない。

ミラは軽く会釈し、カウンターへ戻った。



---


やがて、カップが男の前に置かれる。


湯気が、ふわりと立ちのぼる。その匂いは、どこか彼自身と似ていた。

静かで複雑で、だけど不思議とあたたかい。


「……ありがとう、ミス・アマリ」


ちらりとネームプレートを見てから、彼は視線を戻した。

その目がまたまっすぐに自分をとらえて、ミラは胸の奥がきゅっとなるのを感じた。


「……どうぞ、ごゆっくり」


やっとのことでそう言葉を返すと、男はカップを持ち上げ、一口すする。


「いい香りだ」


そのひと言が、やけに深く響いた。


「……ありがとうございます」


それだけのやりとりなのに、なぜだろう。

ミラには、はっきりとわかった。


この瞬間、何かが始まった。

それはとても静かで、でも確かに、彼女の心に刻まれた。

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