02:微かな違和感 プロローグ
朝の光が、カフェの大きな窓からやわらかく差し込んでいた。
ミラ・アマリはカウンターの奥で一杯のカップにそっとミルクを垂らす。白い渦が静かに広がり、湯気とともに甘やかな香りが立ちのぼった。
動きに無駄はない。だが、それ以上に際立っているのは、彼女が持つ“感覚”だった。
――この世界の「匂い」を読む力。
「ミラちゃん、おはよう!」
扉が開き、軽やかな声が響く。現れたのは、鮮やかなスカーフを巻いた常連のマダム、モロー夫人。
「おはようございます、モローさん。……今日はレモンチーズケーキですね?」
ミラがにっこりと微笑むと、モロー夫人は驚いたように手にしていた小箱を掲げた。
「まあ、焼いてきたのよ、主人にね。……匂ったの?」
「ええ、レモンと……ほんの少し、薄力粉の匂いが」
ミラはそっと言葉を添える。
「それでしたら、今日はレモンティーにいたしましょうか」
二人分のティーセットを運び終え、ミラは静かにカウンターへ戻った。
この店――ブックカフェ《カフェ・アローム》は、小さくも温かな場所だ。彼女はここでバリスタとして働きながら、本と香りに囲まれた日々を送っている。
店内に流れるのは、穏やかな日常。けれどその裏で、彼女の感覚は常に世界の微細な変化を探っていた。
例えば、袖口に残るレモンの香りから、その果実が今日の朝に絞られたものであると見抜き――
あるいは、古書に染みついたインクの匂いから、どの年代の印刷所のものかさえ、読み取ることができる。
ミラ・アマリの“嗅覚”は、感覚であり、技術であり、そしてひとつの才能だった。
窓の外では、今日も再開発の工事音が響いている。
ラジオから流れるのは、午前の記者会見。市長のヴィンセント・ロウが、壇上で穏やかな声を響かせていた。
「この街の未来のために、美術と文化を中心とした再生を――」
古いものが少しずつ姿を変えていく。
再開発によって、街には新しい風が吹きはじめていた。新駅舎が完成すれば、きっと多くの人々がこの場所に足を運ぶようになるだろう。
「……何かが、始まろうとしてる?」
誰に向けるでもなく、ミラは小さくつぶやいた。
嗅覚が告げる。空気の中に紛れ込んだ“変化の匂い”。それはまだ形を持たないが、確かに何かが近づいている気配だった。
その瞬間、店のドアベルが軽やかに鳴った。
――あの探偵が現れるのは、まだ数日先のこと。
だが、物語は、すでに始まりかけていた。