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17:香りなき部屋、匂いだつ記憶

郊外の集合住宅。その一室、ミラの部屋には静寂が満ちていた。


整えられたリビングには、必要最低限の家具だけが置かれている。色味を抑えたインテリアと広めの余白が、どこか病室のような清潔さと虚無を感じさせた。窓は固く閉ざされ、外気も音も入ってこない。まるで世界から切り離されたかのようだった。


ソファにはソーレンが腰掛けていた。シャツの袖をまくり、腕時計を外して脇に置きながら、ただ一点――寝室の扉を見つめている。その表情は静かだが、わずかに堅さが残る。どこか落ち着かず、今にも立ち上がりそうな雰囲気を漂わせていた。


その奥、寝室――。


ミラはベッドに横たわっていた。シーツの上、静かに寝息を立てていたが、次第に眉間に皺が寄り、呼吸が浅くなっていく。


まぶたの下で眼球が細かく揺れる。夢を見ているのだ。



---


【夢(記憶)】


小雨の夜。郊外の道路を走る一台の車。


運転席には父、助手席には母。後部座席には十四歳のミラ。制服姿の彼女は窓を少し開けて、顔を近づけていた。


風に乗って、湿ったアスファルトの匂いと、遠くの花の香りが混じって鼻をかすめる。車内には微かに母の香水の香り――。


「帰ったら、何か温かいものにしようか。スープ?」と母が軽やかに言った。


「……うん。ミントティー、ある?」とミラが答える。


「あるわよ」


穏やかな時間だった。


だが、バックミラー越しに異様なヘッドライトが映る。


「なんだ……?」と父が眉をひそめた。


重く大きな車体が猛スピードで迫ってくる。追い越す気配もなく、背後にぴたりと張り付いたまま。


――ドンッ!!


突如響いた衝撃音。


後方の車が追突していた。ハンドルを切る父。母の叫び声。車体が大きくバウンドし、悲鳴を上げるタイヤ。


回転する視界。ガラスが砕け、ミラの体が後部座席の窓から投げ出される。


空が、ぐるりと回る。


次の瞬間、轟音とともに地面が迫り――。


ミラの耳に、鉄が軋む音。ガラスの破片が遠くで砕ける音。濡れた制服。泥。頭から流れる血。


体が動かない。音だけが遠くに聞こえる。


燃える車の音。パチ、パチ……焦げるような音。


そして――重い足音。


見上げる先に、黒い影があった。


炎の赤に照らされ、輪郭だけが浮かび上がる。その男は、ただ一言吐き捨てるように言った。


「……ガキか……ちっ。運が悪ぇな」


血とガソリン、焦げたタイヤの臭い。その中に混じる、革が焦げたような、野獣のような匂い――。


声は出ない。


男は一瞬立ち止まり、ミラを見下ろす。何も言わずに踵を返し、炎の向こうへと消えていった。


視界が傾ぐ。


空と炎が滲み、最後に残るのは――あの匂いだけだった。



---


寝室。


「……はっ」


ミラが短く叫び、がばっと身を起こした。肌着は汗で湿り、髪が頬に張りついている。肩が震え、呼吸が乱れる。


暗く静まり返った寝室。匂い一つない澄んだ空気。


だが、胸の奥には、あの焦げた革の臭いだけが、はっきりと残っていた。


額を手で覆い、ミラは身をかがめる。


そのとき、リビングから気配。


ソーレンが立ち上がる音がした。


「……ミラ?」


ドアの外から、低く優しい声が届いた。




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