12:カフェ・アロームの日常
夜明けの光が、そっと窓辺を撫でていた。
ミラ・アマリは、目覚めたというより、眠りから解き放たれたように目を開けた。
ソーレンの家は、まだ静けさをまとっていた。
昨夜の出来事は夢ではなかった。記憶と匂いはあまりに鮮やかで、簡単には拭えない。
キッチンに立つ男の背中が見える。
湯が沸く音、カップを並べる音、そのひとつひとつが静かな生活の鼓動のようだった。
「……もう大丈夫か?」
ソーレン・ウルフの声は、今日も低く落ち着いていた。
ミラは軽く頷いた。まだ不安が残っていたが、その声に含まれる温度が、少しだけ肩の力を抜いてくれる。
「しばらく、俺が警護を続ける。安全が確認されるまで」
彼はそう言い、まるで報告書でも渡すかのように淡々とカップを差し出した。
「ありがとう」と小さく呟き、ミラはそのカップを両手で包み込んだ。
午前九時。開店準備が整った《カフェ・アローム》に、ミラはいつものように立っていた。
制服のエプロンを締め直し、湯を落とす音に耳を澄ませる。
背後で、ドアベルがやさしく鳴った。誰かがやってきたのだ。
振り返らずとも、誰かは分かる。
窓際の席に腰を下ろすのは、黒いジャケットの男――ソーレン。
手にした新聞を広げるでもなく、ただ通りの様子を眺めていた。
(見張りじゃない。ただの“常連さん”の顔をしてるつもり、なんだ)
ミラは心の中で小さく苦笑した。
「おはよう、ミラちゃん」
カウンターに現れたのは、アレックス・モローの明るい声と、ルシアンの控えめな頷き。
「おはようございます。いつもの、ですね」
ミラがカップを温めはじめると、アレックスは肩からマフラーを外しながら笑う。
「ええ。ここで一杯飲まなきゃ、階段も登れないのよ」
ミラはふっと笑った。二階のギャラリーに上がる前の、夫婦の小さな習慣。それはこのカフェの朝を形作る、大事な一片だった。
カップに口をつけ、新聞を広げたルシアンの眉が、わずかに動いた。
昨夜の強盗事件が一面に載っており、“武装集団による襲撃”と犠牲者の存在が大きく報じられていた。
「……野蛮な仕事だ。命まで奪うとは。これでは、ただの略奪者だな」
静かに呟かれた言葉は、湯気立つコーヒーの上で、刃のように冷たく光った。
「ええ、本当に酷いわ……」
アレックスはそっと彼の手に自分の手を重ねる。
ミラは昨夜の恐怖を思い出し、手にしたカップがわずかに震えそうになる。
昨夜の血の匂い。ホークの、あの目。脳裏を掠めた映像に、喉がひりついた。
いけない、普通にしていなければ。
記事でも目撃者の話は載っていなかったのだから。
ミラが気持ちを切り替えようとしたその時
「それにしても、あの青年。今日はまた、ずいぶん自然に席に座ってるわね」
アレックスが声を落とすように言う。
「……え?」
ミラは身じろぎした。
「ほらワイルド系の彼。最近よく来てるじゃない?いつも窓際の席を選んで。たまにあなたの事見てるわ」
「ち、違います。ただの……お客様、知人です」
ミラはあたふたと答え、カップで顔を隠す。
アレックスは悪戯っぽく目を細めた。
「ふうん、知人。……ええ、きっと“特別な”知人ね」
赤くなった耳を隠すように、ミラはコーヒーに視線を落とした。
ふと顔を上げると、ソーレンの姿が視界を横切った。
立ち上がり、出口へ向かうその背中。
そして、カウンターの前を通る瞬間――
「……今日は、夜。また来る。閉店の少し前に」
彼は小声で、誰にも聞こえぬよう呟いた。
警護のため、などという理屈は口にされなかった。
だが、その眼差しがすべてを伝えていた。
ミラはそっと頷く。言葉にはしない。ただ、そのまなざしを受け止めるように。
鈴の音がひとつ、控えめに鳴った。
「ほらね、“知人”って、ずいぶん律儀なのね。迎えに来るなんて」
アレックスが肩をすくめる。
「アレックスさんっ……!」
思わず返したその声は、どこか柔らかく笑っていた。
頬の熱を誤魔化すように、ミラはカウンターの道具へ手を伸ばす。
向こうで新聞をたたんだルシアンが、アレックスへと軽く会釈を送った。
その表情には、かすかな安堵がにじんでいた。
言葉にしなくても伝わるものが、確かにある。
“守られている”という感覚は、行動の端々に宿っていく。
静かで、穏やかな――けれど、どこか頼もしい日常の一場面だった。