10:眠れない夜
ときおり住宅街に差し込む車のヘッドライトが、アスファルトに長く影を落としていた。街灯の光も控えめで、あたりは静まり返っている。風に揺れた木々が窓ガラスをかすかに叩き、その音だけが夜気に紛れて耳に残った。
ソーレンはふと足を止めると、前方に並ぶアパートの一角を指差した。
「……着いた。三階、あれだ」
声は低く、どこか気遣うようでもある。
ミラは黙ってその背を追った。身体は重だるく、意識の輪郭も曖昧だ。それでも、目だけは妙に冴えていた。眠気を我慢しているのではない。ただ――今夜という夜を、まだ気を緩めて受け入れてしまっていいのか、その判断がつかずにいた。
階段を上がりきり、ドアの前でソーレンが小さく息を吸った。
カチリ。
鍵が回る音とともに扉が開き、ふわりと木の香りが鼻をかすめる。夜風の冷たさとは対照的に、部屋にはどこか柔らかく、静かな温度が漂っていた。
ソーレンの部屋は、外観の素っ気なさに反して、思いがけず静謐だった。彼は無言のまま靴を脱ぎ、玄関脇の棚にきちんと揃えて置く。
「……失礼します」
ミラは靴を脱ぎながら小さく呟いた。誰かの部屋に入ることが、こんなにも慎重になるとは思っていなかった。久しぶりの感覚だった。
「土足でもいいけど、俺は家じゃ脱ぐ派でね」
照れたような笑みと共にそう言われ、ミラもそっと靴を揃えた。室内は少しひんやりしていたが、不思議と落ち着く空気がある。
目に映るのは、丁寧に使われた家具たち。使い込まれたソファ、素朴な木のダイニングテーブル、小さな本棚。窓辺では観葉植物が微かに葉を揺らしている。
壁には何一つ飾られていない。それでも寂しさはなく、「飾らないことを選んだ」静かな意思がそこにあった。無骨というより、むしろ余白のある部屋。人が暮らしている温度が、どこかに確かに感じられる。
「ここなら安心できる。今夜はここで休んでくれ」
ソーレンが合鍵を差し出す。「玄関は内側からも施錠できる。鍵も渡すよ」
「……いいの?」
「もちろん。もし警戒したいなら、ベッドルームのドアを閉めても構わない。気配で起こすようなことはしない」
ほんの一瞬、躊躇うようにしてから、ミラは小さくうなずいた。
部屋の隅にある本棚に目をやると、硬質な資料用の専門書が無造作に並んでいる。その一角――そこだけ、息遣いの違う本が並んでいた。
『灰色の猟犬』、『霧の館の三日間』――重ねられたペーパーバックの背表紙に、どこか懐かしい響きがある。
名を見れば作者は、どれも一癖ある推理小説や探偵譚で知られる作家たち。
事件に立ち向かう者たちの話。
嘘を見抜き、正義の手で真実をすくい上げる者たちの物語。
……こういうの、子供の頃から好きだったんだ
胸の奥で何かが小さく光った。声には出さなかった。ただ、心の中で確かにひとつ、肯いた。
この人の根っこには、おそらくちゃんとした「光」がある――そう思いたくなるような空気が、彼にはあった。
「君がコーヒーを飲めるなら、淹れるけど?」
キッチンの方からソーレンの声が届く。いつもの店で聞くよりも、幾分か近く、濃く感じられた。
低く掠れた声。まるで狼が喉の奥で小さくグルグルと鳴らすような、男の体温を孕んだハスキーボイスが部屋の空気を震わせる。
静けさに沈んだ室内。その中でその声だけが波紋のように広がっていく。
ミラは、すぐに言葉を返せなかった。喉の奥に残る乾きと、耳に残った余韻とを意識する。
「……ブラック、で」
ようやく搾り出したその声は、自分でも驚くほど小さく、頼りなかった。
酔ったわけじゃない。彼の声に、ではなく――あの夜の出来事に、まだ心が波打っているのだ。
“誰だって、そうなる”と、自分に言い聞かせながら、ミラはそっと目を伏せた。
カップに注がれるコーヒーの音が、またひとつ、夜の静けさを深く染めていく。
窓の外で風が枝をかすめる音がした。
それすら、今夜はやけに遠く感じられた。
11話からは毎日21:00投稿予定です