後編
「奥様のせいです!」
再度声をあげて、愛人は私に詰め寄った。間近で見た彼女の顔にはボコリと膨らみがある。化粧で隠しているようだが、噂通り完治はしていないようだ。
まだ開かれた扉からベティが青い顔をしながら入ってきた。どうやら廊下で彼女を止めていたのは彼女だったようだ。私に詰め寄る愛人の姿を見て、体が震えている。
私は敢えて可愛らしい愛人から距離を取らず、首を傾げた。
「何故私のせいなのですか? 肌荒れが治らないと言うので薬を手配しましたでしょう? 夫も喜んでおりましたよ」
愛人は白々しいと吐き捨てる。
「だってあなたの化粧水を使っててこうなったんですよ! 奥様のせいに決まってるじゃないですか!」
本当に彼女は子供のようだ。今だったら薬のせいに出来たのに、何故「化粧水」と断定したのか。
そもそも此処へどうして来たのか。
(ああ、ラモーナが良い仕事をしたのね)
先程のラモーナの笑みを思い出し、私もくすりと笑う。
きっと少しの種を彼女が蒔いたのだ。その種は不安や怒りが栄養である。それがじわりじわりと芽吹き、今開花した。私がラモーナを重用する最もな理由の一つが種蒔きの上手さだ。結果が出るまで教えてくれないが、いつも私が望む以上の結果をもたらしてくれる。
私は可愛らしく怒る愛人とは対照的に穏やかな表情をして見せた。彼女にしてみれば正妻の余裕のように見えたのかもしれない。更に顔が歪む。勿論、私にそんな意はないが。
「私はあなたに化粧水を贈った事はないわ。夫が勝手に私のものを贈ったの?」
腕を組み、自身の頬に触れる。
愛人は夫という言葉を聞いて、びくりと肩を震わせた。しかし、直ぐに私の発言に乗る。
「そう、そうです! テオ様がくれました! あなたの肌が綺麗だから使ってみてと!」
「そう、夫は私が何を使っているかなんて知らないと思っていたわ。それに夫の出金履歴にもない。もしかして私のものを黙って持ち出したのかしら」
「そうです! そう言ってました!」
きっとこの子は何も理解せず、物を言っているのだろう。その同意が如何におかしい事だと分かっていないのだ。
屋敷のものは全て帳簿にて管理されている。月中、月末に二回棚卸しが行われ、差異が無いかみているのだ。
犯罪は小さな横領から始まる事が多い。それを未然に防ぐ為に我が侯爵家では代々細かく管理をしている。それこそ針の一本、ボタンの一つまでも。
それを知っているベティの震えが更に大きくなった。
「ベティ、テオドルを呼んでくれる?」
ベティは震えを自身で止められないようだった。大きく肩を跳ねさせると、おぼつかない足で一歩後退した。返事をしようとしているのかも知れないが、口は開いているだけで音にはなっていなかった。
「待って! 違うわ、間違えたわ!」
愛人はベティへ振り向くと、彼女の動きを止めるように手を伸ばした。まるで、犬に「待て」と指示しているような動作だ。
まあ、確かに愛人にとってベティは犬なのかもしれないが。
「間違い? 夫があなたにプレゼントしたのではなくて?」
「えと、そうなんだけど。あの、侍女が、テオ様からだってくれたからそう思ってたんだけど。だからテオ様が」
「だから夫が贈ったのではなくて? そう言われたのでしょう? 私は夫があなたにプレゼントしたそれを何処から出したのか知りたいだけ」
しどろもどろに説明をする愛人の姿を見て、やはりまだ子供のようだと思った。フロリアンが子供だった頃をつい思い出してしまった。
「もう! なんでそんなに意地悪な事ばかり言うんですか! あなたの化粧品を使ってこんなになってしまったのに! それなのに謝りもしないなんて酷過ぎます!」
「酷い? 何故です? 何故私があなたに謝らなければならないのです? あなたは夫からのプレゼントで肌が荒れた、これの何処に私が謝る要素があるのですか。……なんだか私とあなたの話はどうも噛み合っていないですね。整理しましょう、あなたは何故此処に来たのです?」
子供相手であれば仕方ない。私は諭すように尋ねる。しかし、それは愛人の癪に触ってしまったらしい。愛人は真っ赤な顔で足をダンッと鳴らした。
「だから! あなたの化粧水を使ったら肌が荒れたの! 赤いニキビがたくさん出てしまったの! あなたのせいなんだから謝ってよ! そしてもっと良いのを私に贈りなさいよ!」
「そう、それはそれは。でも先程も伝えたように夫が私の知らぬところでプレゼントしたものに対して私が謝る謂れはないの。だから謝罪もしないし、物も贈らないわ」
「テオ様は関係ない! だってずっと使ってて調子良かったのに此処最近よ!? 急にニキビが出来て! 絶対あなたがなんかしたのよ! だから謝って!」
私はわざとらしく口元に手をやった。
「そんなに前から使ってらしたの。一体どのくらい夫は私のものに手を出したのかしら。あら、ベティ、まだいたの? 早くテオドルを呼んできてくれる?」
そこにベティがまだいる事は分かっていたが、今気付いたとばかりに声を掛ける。だがベティはやはり震えるばかりで動きはしなかった。
「ベティ、もしかしてあなた具合が悪いの? だとしたら大変ね。ラモーナ、代わりに呼んできてくれるかしら」
「承知致しました」
恭しく腰を曲げたラモーナが部屋から出ていく。その背中に向けて愛人が引き留めようと声を出した。
「まっ、」
しかし、それは彼女の愛犬によって遮られる。
「奥様! 申し訳ございません!」
ベティは床に座り込み、頭を下げた。私は心配そうな表情を作り、ベティへ近付く。
「急にどうしたの? ベティ」
声色も表情に合わせ、少しだけ腰を曲げた。背後の愛人が何かを話していたが、それよりもベティの声の方大きかった。
「私が、私があの方に頼まれて奥様の化粧品を盗んでおりました!」
「ちょっと! あなた!」
慌てた愛人が足音を立て、近付いてきた。今にもベティに掴みかかりそうな雰囲気だったが、彼女の手が伸びるよりも早く名を呼ぶ。
「ベティ、どういう事か教えて」
ベティは床に座り込んでもまだ体を震わせていた。震えが激しいからだろうか、額が完全に床についている。
「お、奥様の化粧品を使いたいから盗んできてと……お金をあげるからと言われて……それで」
私は威圧感を与えないよう、柔らかく声を出した。
「うちの給金だけじゃ少なかったのね、そう……」
この言葉の意味をベティは正しく理解したようだった。震えは止まり、体から力が抜けていく。
私は机にあるベルを鳴らした。その音に廊下で様子を窺っていた執事が入って来る。
「ベティが横領をしたらしいの。別室で話を聞いて貰える?」
「承知致しました」
そして部屋に残ったのは私と愛人の二人。愛人は真っ青な顔をして、私を見ていた。悪い事をした自覚はあったようだ。しかし、そう思っているなら何故わざわざ謝罪を求めてくるのか。甚だ理解できない。
(まあ、とても扱い易くて良いけれども)
私は愛人と向き合い、彼女に微笑み掛けた。
「そんな犯罪みたいな事をしなくても、言って頂ければ差し上げたのに」
「嘘よ! そんな訳ないわ! だってテオ様はあなたの事ケチだって言ってたもの! だから一緒にいても旨味は無いって!」
「そう、では夫はあなたの事は何て言っていたの?」
「私? 私のことは一緒にいると安らぐって。肌も弾力があって気持ちが良いって言っていたわ! あなたの事はもう女には見えないらしいわよ!」
勝ち誇ったように愛人は言ったが、それは私にとっても同じ事。そう思われていたとて、何も思わない。
「教えてくれてありがとう。夫はそんな事を言っていたのね」
礼を言ったのが気に食わなかったのだろう。愛人は顔を醜く歪ませた。最もこの場に来てからは夫と散歩をしている時のような可愛らしい顔は一切していなかったが。
「あなたはこれから生まれる私とテオ様の子供の為にせっせと働き続ければ良いんだわ!」
私は視線を愛人の腹部へ移す。まだ平らだ。それにヒールも履いている。恐らく子供は出来ていないだろう。だが、その発言は問題でしかない。
「アリィ、君は」
開け放っている扉の向こうから夫の声が聞こえた。酷く困惑している声である。
目の前にいる愛人は私越しに夫を見つけると狼狽した。
「テ、テオ様」
動揺が感じられる声だ。息が多く入っている。
彼女はそんな頭で色々と一瞬で考えたようだ。焦りの中に喜色を滲ませ、夫へと擦り寄った。
体を夫に預け、上目遣いで訴える。
「奥様が酷いんです! 奥様がいけないのに私を虐めるんですよ!」
彼女はそう言えば彼が私を叱責すると思ったのだろうか。夫は縋り付く愛人の肩も抱いていない。ただ困惑の表情をしていた。
それはそうだ。この家において一番の権力者は私である。彼は婿、私に何か言える筈もない。だからいつも一言我慢をしているような顔をしているのだ。
私は視線を彷徨わせる夫に何が起きたか伝えた。
「彼女が私の化粧品を盗んでいたようですわ」
流石の夫もこの家で物が無くなる事の意味を理解していたようだ。見開いた瞳を愛人に向けた。そして胸に縋る彼女をやんわりと離す。
愛人は夫に見放されたは終わりだ。必死に離された手で再度夫にしがみついた。
「ちが、違うの! 侍女が勝手に私の為にやってたみたいで、私は盗んだなんて知らなくて!」
「私の侍女の一人が金銭を彼女から受け取り、事に及んでいたようです。詳細は後程お話し痛いしますが、端的に言えば彼女は犯罪者です」
夫の愛人を見る温度が変わる。
「問題の侍女は今トールの取り調べを受けています。必要であれば、騎士団に正式に捜査を依頼しますが?」
愛人、アリカ・ローデは私の言葉に頭を垂れた。騎士団という言葉に恐ろしくなったようだ。足の力も無くなっていったのか、崩れるように床へへたり込む。その光景を何故か夫が冷ややかな目で見ていた。
その瞳には愛など一切が消えていた。
程なくして、騎士団の捜査を入れるまでもなくアリカは別邸を去った。アリカから金銭を受け取っていたベティも同様だ。どうやらベティは入れ込んでいる男娼がいたようで、給金やアリカからの金は全てそこに注ぎ込んでいたらしい。そんな女性には見えなかったので少し驚いた。
息子の同級生繋がりの話だと、アリカはどうやら結婚をするらしい。相手は50過ぎの商人だとか。後妻のようだが、年上好きのアリカの事だ、上手くやる事だろう。
あの時、子供の事も言っていたので「もしや妊娠しているのでは?」と思い、検査させたが結果は陰性。どうやら今後、夫との間に生まれるかもしれない子供の事を言っていたらしい。
何とも浅ましい発言だ。
別邸からアリカが去り、夫が本邸に戻ってくる。
別邸に運んでいた荷物も全て本邸へと戻り、本人も何食わぬ顔で愛人が出来る前の姿に戻っていた。まるでアリカの事など無かったかのように。
フロリアンはそんな夫の姿を蔑んだ目で見ていた。全ての顛末を知り、父親への情を無くしたようだ。もう完全に脳が夫の存在を遮断しているようで、廊下ですれ違っても認識出来ないらしい。
食事の場もそうだ。フロリアンは私とばかり話し、夫の問い掛けにはほぼ答えない。答える確率は二割くらいだりうか。息子に無視をされる夫はムッとした顔をよくするが、怒る事はしない。彼の中でフロリアンはまだ小さな子供なのだろう、最終的に「しょうがない」という顔で黙々と食事をしている。
そんな元の日常に戻ったある日の夜。寝室に夫がやってきた。相変わらずノックも無しに入ってくると、私のベッドに断りもなく座る。
「どうしましたの? こんな夜に」
「夜だから来たんだよ」
「まあ」
夫は私の手から読んでいた本を取り、慣れた様子で私に覆い被さる。そして当たり前のようにキスをしようとした。私は落ちてくる夫の唇を手で止める。手が触れるのも不快だったが、唇にされるよりはマシである。
夫は私の行動に驚いているようだった。見開いた目は「何故?」と語っていた。しかし、私がそうする理由も分からなくもないと思ったのだろう。苦笑と共に顔を離した。
「少し話をしようか」
そう言って夫はベッドから降りた。
「アリィの、アリカの件は本当にすまなかった。何故あんな人を愛人にしたのか今になっては分からない。僕にはこんなに素敵な奥さんがいるのに」
私は夫が独り言のようにソファーで話しているのをドレッサーの椅子に座りながら聞いていた。背も彼に向け、櫛で髪を梳かしながら、鏡越しに夫を見る。自分に酔っているような口調が少しおかしかった。
「キスを拒絶する気持ちも分かる。君は僕の事が好きだから」
そんな彼の話を聞きながら、私は夫とアリカの調査票を思い出していた。
夫がアリカと出会ったのは一年前の社交シーズンである。アリカは私の息子であるフロリアンに心を寄せていたらしい。だからその夜会でフロリアンにアプローチを掛けようと思っていた。
しかし、残念ながらフロリアンは急遽その夜会に欠席をした。理由は学友であった王太子殿下に他の夜会に誘われたからだ。本来なら急な欠席は許されないが、王太子殿下の命令は絶対である。欠席は許された。
アリカはフロリアンを探し回ったようだ。そして急遽欠席となった話を聞き、一人庭園のベンチに座った。夜会の庭園は基本令嬢一人で行動してはいけないのが暗黙の了解だが、どうやらアリカはそれを知らなかったらしい。
アリカは不届者に襲われそうになった。手を引かれ、休憩室へ連れ込まれそうになったところに現れたのが夫だ。
夫は地味で体格も良くない。しかし、夫の顔は広く知られていた。私の、ルプレヒト侯爵の夫という肩書きで。
我が侯爵家は中々の権力を持っている。不届者は夫の顔を見て退散した。
アリカはすんでのところを助けられ、夫に感謝した。
そう、それで終われば良かったのだ。
それなのにアリカは欲をかいた。フロリアンに近付く為に夫を利用したのだ。完全に悪手である。
何処の世に父親の愛人を好きになる息子が居ようか。自分と同い年の愛人など、彼にとっては嫌悪の対象だろう。
それは私も一緒だが。
「君の気持ちが落ち着いたら、子供をもう一人作らないか? ほら、フロリアンはまだ反抗期だけど、もう立派な成人だ。君の仕事も手伝っている。君に似たフロリアンも良いけど、僕に似た女の子も欲しいよね」
夫は愚かだ。思えば彼に対して尊敬の念を一度として抱いた事はない。
何故、夫は目先の事しか考えないのだろう。私が別邸に愛人を住まわせるのを何故許可したのか、それを少しでも疑問に思っていればもう少し猶予があったかも知れないのに。
私はドレッサーの中から一枚の紙を取り出した。それはラモーナがフロリアンが成人したその日に取り寄せてくれたもの。
ひらりと紙を揺らしながら、夫の対面に座った。そしてそれをテオドルの前へそっと置く。
「旦那様、離縁してくださいませ」
私は左手の薬指にある指輪を引き抜き、紙の上に乗せた。愚かで幼い夫はもういらないのだ。
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