前編
私の夫は若い子が好きらしい。
執務室から見える庭に目をやれば、夫と愛人が散歩をしていた。愛人は18も下の19歳。息子と同い年である。
はたから見れば親子に見える、と言いたいところだが元から年齢よりも下に見える童顔故、そこまで違和感はない。
私は仲睦まじく寄り添いながら歩いている二人から視線を外し、備え付けの本棚に手を伸ばした。目的の資料は前年の税収資料。それを手に取り、執務室の指定席へと腰を下ろす。
私の名はヘレネ・ルプレヒト。女だてらに侯爵を名乗っている。所謂女侯爵だ。
夫は婿である。私と夫は同い年で17の年に結婚をした。勿論恋愛結婚ではない。政略結婚である。自分の知らぬ間に決められた婚約だったので夫が選ばれた理由は知らない。恐らくだが、彼の生家である伯爵家が中立派で害が無かったからだろう。
別に夫に愛人が居ようとどうでも良い。嫉妬をする間柄でも無い。若い頃の性への好奇心と血筋を残すという義務感で子供は作ったが、それ以上の感情は育たなかった。きっとそれは夫も同じで、だからこその現状である。
しかしながら私には家族としての情はあった。燃えるような愛、静かな愛、全て包み込むような愛は彼に対して生まれなかったが、確かに彼に対して家族としての愛はあった。だが今はそれも無い。
消えたのはいつ頃だったか。少なくとも彼から愛人を紹介された時は「そうですか」という気持ちだったと思う。情が消えたのはそう、彼女が息子と同級生と知った時だ。息子と同い年の女と愛人関係になるなんて気持ちが悪い。一瞬にして湧いた嫌悪感は夫への感情を全て消し去った。
私は資料を指でなぞり、目を左右に動かす。目的の数字は几帳面な形をしていた。読みやすい文字は一昨年から仕事を手伝ってくれている息子のもの。自然と顔が綻んだ。
今日分の仕事を終わらせ、夕食の時間。給仕が運んでくる食事は二人分のみ。私と息子フロリアンの分である。夫は別邸で用意される。愛人と共に食べるからだ。
私もフロリアンも夫がいない事に違和感を感じない。愛人が出来る前は確かに三人で食卓を囲んでいたが、いなくても変わらず食事は出来るし、息子と会話も出来る。寧ろいない方が話し易かった。
夫には仕事という仕事を与えていなかった。だから食事の時は夫を気遣い、仕事の話はしなかったが今はその気遣いも不要である。雑談と仕事の話半々で、三人で食べていた時よりも食卓は賑わっている。
別に最初から仕事を任せていなかった訳ではない。最初の頃は私の父から教えられ、少しずつ独り立ちをしていたのだが、父からストップが掛かったのだ。
『彼に大きな仕事を任せない方が良い。彼は権力を持つと勘違いするタイプだ』
その話を聞いた私は成程と納得した。どうりで高級なものや流行り物ばかり欲しがるものだと。
我が家は国の中でも三本の指に入る程資産がある。買おうと思えば国宝と呼ばれるものも買えるだろう。その資産に彼は目が眩んだのだ。
父はよく言っていた。金は人の本性を見せると。まさに夫は金で本性を現した。
それから彼へ教えていた仕事を徐々に減らした。自然と、彼が疑問に思わぬように。元々彼も仕事の量が多いと思っていたようで問題は起きなかった。
そんな私の師である父も五年前に亡くなり、私は父の死と同時に爵位を継いだ。流石にその際は何か仕事を、と欲しがったが忙しい事を理由に何も教えていない。
「父上は相変わらず、別邸に入り浸っているのですね」
メインの魚料理を音も無く、ナイフを入れながらフロリアンが言った。恐らく彼も自身の執務室から庭を散歩する二人を見たのだろう。夫の話は見掛けなければ話題に出る事はない。彼の中での存在感が減っている証拠のように思えた。
「あなたも仲睦まじく散歩している姿を見たのね」
ワイングラスに口をつけ、笑えば苦虫を噛み潰したような顔をされた。
「父親のあんな姿見たくもなかったのですが、つい目に入ってきてしまって」
「長い散歩だったものね」
まるで見せつけるようにゆっくりと庭を歩いていた二人。使用人達も気まずげに見ていたのを気付いていただろうか。特に仕事をしていた庭師は気まずさを通り越し、不快さを隠してもいなかった。きっとそれにも二人は気付いていないだろう。
執務室から見ていた私は笑ってしまったが。
その光景を思い出し、思わず笑みが浮かぶ。
「良いのですか?」
フロリアンは私の笑みが自嘲から来るものだと勘違いしたらしい。気遣わし気な瞳をこちらに向けた。私と同じ色をした瞳と目が合う。男の子は女親に似るというが、本当にフロリアンは私にそっくりである。小さい頃は夫の要素もあったが、今はもうほぼ私と同じ顔だ。産んだ身としては何とも嬉しい。
「何が?」
「目障りではないですか?」
それはどちらの事を言っているのだろう。息子の顔を窺うが、どちらとも分からず、自身もそれに合わせ返事をする。
「こちらに害が無ければ、別にどうでも良いわ」
私の返事にどう思ったのかフロリアンがどう思ったのか分からない。少なくとも納得はしていないのだろう。何か言いたげな顔をしていた。その顔は子供の時と変わりがない。零れた笑みを愛しい息子へ向け、名を呼ぶ。
「フロリアン」
「はい」
「ごめんなさいね、変な事を心配させて」
本当にどうでも良いの、と安心させるように言う。腹の中を見透かされないように、母の顔を貼り付けて。
最近、化粧品の減りが速い。以前は一月に一本の消費だったが、今はそれよりも数日早く空になる。化粧品全般消費が速いが、減りが顕著なのは基礎化粧品だ。直近だと二週間前に新しいものに変えたものがもう底をつきそうである。
「本当におかしいこと」
私はドレッサーに座り、一人の侍女に話し掛けた。
侍女は私の視線の先にある化粧水の瓶を手に取り、中を覗くと眉根を寄せた。
「こんなあからさまに減らす馬鹿がいます?」
侍女の名はラモーナ。元は私の乳母の娘で、幼い頃から共にいる気心知れた友人である。多少口は悪いが、そこが気に入っている。
瓶は揺らすとちゃぷんと高い音がした。あと1センチ程となった中身に顔を見合わせる。
化粧品が減り始めたのは三か月前。ちょうど愛人が別邸に住み始めた頃からである。当時は分かり易い答え合わせに苦笑しか出なかった。しかしそんな馬鹿な事があろうかとちゃんと調査もした。ラモーナの言葉を借りるならば「こんなあからさま」な事を愛人がするだろうか、と。結果は何の捻りもなく愛人だった。愛人が私の侍女の一人を買収し、少しづつ盗んでいたのだ。
もしかしたら愛人をよく思わない誰かが愛人を嵌める為にしているのかもしれない。よく知りもしない愛人を最初から疑うなんて悪い事だわ、と少しでも思った私の情を返して貰いたい。
最初こそ少量であったし、欲しいのであれば同じものをあげるものを、と思っていたが、こちらから声を掛けプレゼントするのも違う気がしてそのまま放置。
そして三ヶ月後の今、この有様だ。これで気付かれないと思っているのだろうか。それとも煽られている?
全く理解出来ない。こんな事をしなくとも夫に強請る事も出来ただろうに。
昼間見た愛人の顔が浮かび、呆れから溜息が出る。
「何も私の化粧品使わなくても、若いなら若い人向けのものを使えば良いと思わない?」
ラモーナは鏡越しに私を見ると、何とも言えない顔をしてコットンに拭き取り化粧水を染み込ませた。湿らせたコットンを優しく優しく肌に滑らせていく。
「ヘレネの肌は綺麗ですからね。年齢の割にとかでは無く、誰の目から見ても綺麗というか……」
「そう? だとしたらあなたのお陰じゃなくて?」
「そう言われれば嬉しいですけど、元のポテンシャルが凄いんですよ。ヘレネの肌は子供みたいに毛穴が無いですし、年々出てくるくすみもない。彼女はヘレネの肌に衝撃を受けたんじゃないですかね」
「どういう事?」
「だからヘレネみたいに綺麗な肌になりたいって思って」
19歳にそう思われるのは嬉しいが、どう考えても30代の肌よりも10代の肌の方が綺麗な筈だ。
鏡に映る手入れを施されている顔を見る。生まれてこの方、肌に不満を感じた事は無い。肌を褒められる事も多い。
10代に肌が綺麗と思われるのは嬉しい事だ。しかし、だからと言って愛人の行為が許せるかといえばそうではない。
もし、彼女が自分の置かれている状況を上手く判断し、私に擦り寄って来たら可愛がってあげるつもりであった。夫は気持ち悪いが、愛人は息子と同い年。娘のように可愛がる事も出来るだろうと思っていたのだが、彼女は賢くなかった。
「愚かよねぇ」
パッティングされている肌はつるりと光っていた。漏れた本音にラモーナが苦笑する。
「どうしたら良いかしら」
さして困ってもいないのに、わざとらしく「困ったわ」と言えばラモーナの手が止まった。それと同時に短い笑い声が聞こえてくる。私は顔を悪戯に動かし、口端をにんまりと上げた。
「何か良い案はある?」
私の問いにラモーナの唇も弧を描く。それは肯定を意味していた。
読んで頂き、ありがとうございます。
面白かったら評価、いいねをお願い致します!