エヴァミア様のためなら死ねる
あぁ、もしも。そう、これはもしもの話だ。
もしも人を殺してはいけないという法律がなかったのならば──
「すまない、エヴァミア。僕は君との婚約を破棄する!」
私は嬉々と目の前の男を惨たらしくこの手で殺していただろう。死ぬ覚悟はできているんだろうな、貴様。貴族のお坊ちゃんが耳にしたことがないような品のない言葉で罵って罵倒して、薄っぺらいことしか言えない口を縫い付けてから頸を切り落としたい。あの浮気男の存在を跡形もなく葬り去る方法はないのだろうか。
と、我ながら少々物騒なことを、主人であり光でもあるエヴァミア・フローレンス様の後ろに控えながら考える。
百歩譲って、そう百歩譲って婚約破棄するのは大変腹立たしいが、マァ許してやろう。エヴァミア様は浮気男と結婚することを嫌がっていたから願ったり叶ったりだ。……エヴァミア様ではなく浮気男から婚約破棄をすると言い出したのは腹立つが。クソ。
そして、腹が立つことはもうひとつある。
何故この場で、しかも人が大勢いるパーティー会場で婚約破棄をする必要があるのか、と声を大にして言いたい。
パーティー会場(卒業式ではなく誕生日会)で婚約破棄をする必要などないし、そもそも大勢の前で婚約破棄をするなど非常識なことこの上ない。あの男の身内もこのパーティーに招待されているのでこの婚約破棄宣言を当然見ている。見ているのにも関わらず、驚愕の声も制止の声も何も聞こえない。なるほど、つまりこれは家族ぐるみの計画というわけか。恥晒しめ。エヴァミア様が今平民の間で流行っているらしい悪役令嬢だと言いたいのか貴様。などと、心が荒れに荒れまくる。
ところで、せっかくの誕生日パーティーがこんなくだらないことで台無しにされるなんてパーティーの主役が可哀想、と思うだろう。そう思う必要は一切ない。
何故ならこのパーティーの主役たるエヴァミア様の異母妹マリアベルは。……。マリアベル嬢。訂正。マリアベル様はエヴァミア様の婚約者、否、元婚約者の隣に侍っているのだから。
失礼、侍ってはいなかった。べたべたしている。はしたない、慎みを持つべきだと、眉を顰めるほどべたべたしている。これでもかと元婚約者の腕にパットを敷き詰めた(彼女の侍女から聞いた)胸を押し付けている。
ケッ。もっとしおらしく、嘘でもいいから申し訳なさそうな顔ができないのかってんだ。姉の婚約者に擦り寄った■■■■■が。
エヴァミア様を見下しているあの女ご自慢の顔を傷物にしてやりたい気持ちに駆られ、深呼吸を数回繰り返し、自分に言い聞かせる。
冷静になれ。私が怒り狂ってどうする。エヴァミア様が耐えているのだから私も耐え──
「僕は真実の愛に目覚めたんだ。許してくれ、エヴァミア」
申し訳なさそうに、だけれど、お涙頂戴とでも言うように芝居がかった口調の男に息をこぼす。据わった目を元婚約者に向けるが、元婚約者はそれに気付かずぺらぺらとお芝居を続ける。
殺そう。今すぐ殺そう。何が真実の愛だ。薄ら寒い。どうせエヴァミア様と自分を比較して落ち込んでいた所を隣のクソアマビッチの甘言に乗せられただけだろう。なんて想像しやすいことか。そもそも貴様にエヴァミア様は相応しくなかった。貴様の父親がどうしてもエヴァミア様に婚約者になってほしいと旦那様に頭を下げたことを知らないのか。知らないからこそこんなことができるのだろうな。腹立つムカつくぶっ殺す死ね。
何故従者である私が婚約の裏事情を知っているのかと言えば、旦那様がそれを教えて下さったからで。
話が逸れた。
ゴミクズがこれ以上汚い言葉を吐けないように、これ以上臭い息でこの場を汚染しないように、頸を切り落とそう。そうしよう。その方が世のためエヴァミア様のため。
相手が目上の人間だとか、貴族だとか、そんなの知らない。もうどうでもいい。
エヴァミア様を侮辱する人間に生きる価値などなし。捨てやすいように、燃えやすいように細かく切り刻まなければ。
腰に下げた剣に手を伸ばそうとした直後、視線を感じて手の位置を元に戻す。エヴァミア様が横目で私の様子を窺っているので、変なことなんかしようとしていませんよ、と言う意味を込めて微笑んだ。
しょうがない子、とでも言いたげに私を見たエヴァミア様は浮気男とマリアベル様に視線を移し、
「承知致しました、オットー様」
にこり、と貼り付けた笑みを浮かべた。その笑みに胸がぎゅんとなる。
貼り付けた笑みをお美しいです、エヴァミア様……!
「私がこの場に居ては皆様気まずいでしょう。行きま」
「ローラ!」
エヴァミア様の言葉を遮り、私を呼んだマリアベル様の表情はいつも以上に明るく、声のトーンもいつも以上にねっとりしている。
は〜い、殺しま〜す。という気持ちで、品のない笑みを浮かべるマリアベル様を見る。彼女は周囲の冷ややかな視線に気付いてはいない。
「ねぇローラ、お姉様の護衛なんて辞めて私の護衛になってよ! その方がローラのためだと思うの!」
「そうだな。ローラがマリー(マリアベルの愛称)の護衛になってくれるのなら、僕が傍に居ないときでも安心できる」
流れる動作で剣の柄に手を伸ばそうとする手を空いている片方の手で抑える。
貴様らにローラと親しく呼ばれるいわれはない。喉を潰してやろうか。何故私が貴様の護衛をしなければいけない。削ぎ落として捻り潰すぞ。私のためってなんだ、私のためって。殺す。
などと思いながら、眉間に皺を寄せないよう必死に耐えるこちらの身にもなってほしい。名前を呼ばれた気持ち悪さから鳥肌が立っている。どうしてくれる。
「ローラ、発言を許可しますわ」
「はい、エヴァミア様」
エヴァミア様の美しい声で名前を呼ばれた途端、鳥肌が治まって気持ち悪さが薄れていった。胸がきゅんきゅんして苦しい。エヴァミア様好きです。
瞬きをひとつ、ふたつ。深呼吸は二回ほど。眉を下げ、申し訳なさそうな顔をして話す。
「マリアベル様、申し訳ございません。私は幼い頃にエヴァミア様に拾われ、エヴァミア様に『アウローラ』という名前を頂きました。その日から私はエヴァミア様のために存在しています。私の命はエヴァミア様のものなのです。私がエヴァミア様の護衛を辞めるとすれば、それはエヴァミア様が『いらない』と仰られた時だけでございます」
申し訳ないなんて気持ちはこれっぽちもないのだが建前は大事である。「そんなっ!」と悲鳴をあげるマリアベル様と顔を顰める浮気男に、内心でゲラゲラ笑って『だぁれがてめぇみたいなクソアマビッチの護衛なんかするかよ』と中指を立てた。
エヴァミア様以外に仕えるなんて私には無理だ。仮に、エヴァミア様以外に仕えることになったら舌を噛んで腹を裂いて心臓を貫いて死んでやる所存。
ローラ。と、この世で最も尊き人に与えられた名前を呼ばれる。アメジストがあまく細められていて、鼓動がドッ! と速くなる。
「私があなたに『いらない』と言う日なんてこないわ」
「エヴァミア様……!」
胸がじ〜んとなって、ここに居るのがエヴァミア様と私だけだったらきっと嬉しさのあまり泣いていたと思う。それだけエヴァミア様に「いらないと言う日はこない」と言われたことが嬉しかった。
エヴァミア様は先程と変わらない貼り付けたような笑みで二人を見て、鈴を鳴らしたような可憐な声で言った。
「ご婚約、おめでとうございます。どうぞお幸せに」
はぁ〜〜〜エヴァミア様の顔が良。好き。ずっとお側で見ていたい。一生お仕えします。私の命はエヴァミア様のものです。
***
パーティー会場から離れ、自室に戻られたエヴァミア様は履いていたハイヒールを脱ぎ捨て、天蓋ベッドの上に横たわった。銀の糸がシーツの上に広がる。脱ぎ捨てられたハイヒールを拾いながらため息をこぼし、アメジストを細めて拾う様子を眺めているエヴァミア様に苦言を呈す。
「エヴァミア様、靴を脱ぎ捨てるのはおやめください。淑女のやることでは御座いません」
「オマエはオレの母親か」
パーティー会場で聞いた美しい声ではなく、男性のように低い声。一人称が「私」から「オレ」に変わっている。
この部屋にいるのがいくら私とエヴァミア様だけだからと言って、誰が聞き耳を立てているのかなんて分からないというのに。一応そういう訓練は受けているので、声が聞こえる範囲以内に居る人間は私とエヴァミア様の二人だけなのは分かる。だけど、万が一ということもあるのだ。
「エヴァミア様、声と口調」
「二人だけだからいいだろ、ローラ」
甘えた声でそう言うエヴァミア様に胸がぎゅっと苦しくなる。ゆるみそうになる口を引き結び、瞬きをひとつふたつ、深呼吸は二回。私の様子を楽しそうに見ているエヴァミア様に努めて事務的な声色で話す。
「良くはありませんよ、エヴァミア様。あなた様の秘密が明るみに出てしまったら大変ことになります」
「確かにやべぇことになるだろうな。なんせエヴァミア・フローレンスは女じゃなくて男なんだから」
自嘲的に吐き捨てたエヴァミア様に私はそっと目を伏せた。
──エヴァミア様は女性ではなく男性だ。訳あって女性の恰好をしている。
エヴァミア様の母君、リリアナ様はとても美しい女性だったと聞く。リリアナ様は女の子が欲しかったけれど体が弱く、第三子は厳しいと言われた。どうしても女の子が欲しかったリリアナ様の願いを叶えるために、旦那様は生まれたばかりのエヴァミア様を女性として育てることにしたと云う。
普通、男性を女性として育てるのは無理な話である。だけれど、エヴァミア様はリリアナ様の生き写しだと云われるほど似ていて、誰が見ても女性だと思われる容貌だったために何も問題がなかった。旦那様に似ていたらエヴァミア様を女性として育てるのではなく、孤児院などで女児を引き取るなりしていたのだろう。
……きっと、そちらの方が良かったのだ。そうすれば。
身体の弱かったリリアナ様はエヴァミア様が幼い頃に亡くなられ、旦那様はその一年後に再婚をした。その再婚相手はマリアベル様の母君ベアトリス様。
マリアベル様はエヴァミア様が女性ではなく男性だということを知らない。エヴァミア様が男性であることを知る人間は少ない方が宜しい、という旦那様の考えで知らされていない。ベアトリス様は……どうなんだろう。知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。
ベアトリス様は、エヴァミア様のことだけではなく、実子であるマリアベル様のことも『どうでもいい』と思っている節があるから。
「ローラ、こっち来い」
思考が別な所に飛んでいるとエヴァミア様に呼ばれ、ちょいちょいっと手招きされる。
手招きするエヴァミア様可愛すぎる……!
ハイヒールを置き、エヴァミア様の元へと向かい跪く。白魚の手が伸ばされ、頬に添えられた。
「オマエ、さっきマリアベルとオットー殺そうとしただろ」
ギクリ。肩が跳ねる。
「オレと目が合った時は『変なことなんかしようとしていませんよ』みたいな顔しやがって」
ギクリ。目を泳がせる。
「ああ、そうだ。アイツらがオマエを引き抜こうとした時も剣を抜こうとしてたよな」
ギクリ。エヴァミア様はしょうがなさに笑う。
「いつも言ってるだろ。感情で人を殺そうとするなって、死んだらそこで終わりなんだよって。死なんて楽を与えてやるな。相手が『いっそ殺してくれ』と泣いても、プライドを捨てて懇願してきても生かせ。終わることのない苦痛をお前の気が済むまで与え続けろ」
淑女が言ってはいけないことを口をするエヴァミア様を本来なら諌めなければならないのだが、物騒な発言をするエヴァミア様のお姿はゾクゾクして、もっと淑女が言ってはいけないことを口にしてほしいと思ってしまう。
息を深く、深く深く吐き、エヴァミア様に言われたことを冷静に反芻する。パーティー会場での自分の思考、態度、必要なことを全て思い出していく。そして、結論を出す。あの時の私は些か感情的過ぎた。と。
私の失態は主であるエヴァミア様の失態とみなされる。私があそこであの忌々しいゴミ虫共を殺していれば、婚約破棄をされ婚約者を奪われた令嬢が従者に殺すよう命じたと思われても仕方ない。貴族連中は面白おかしくそれを言いふらし、そこからさらに尾鰭や背鰭がついて平民の間でも噂されてしまう。
不甲斐ない。従者失格だ。養父に「従者は常に冷静でなければいけません」と何度も言われ、養母にも「エヴァミア様のことになるとすぐに感情的になるのはおやめ」と言われているというのに。精進しなければならない。
「仰せの通りに」
「いい子は好きだぜ」
アメジストをあまく細めたエヴァミア様は、その美しくも艶めかしい唇を私の頬にくっつける。柔らかな唇の感触に自分の鼓動が速くなっていくのが分かった。
従者に軽々しくこんなことをしていいのかと当初は思ったものの、エヴァミア様が「主人は従者を褒める時にキスをする」と仰ったから当たり前のことなんだろう。
……旦那様が養父にも同じようなことをしている、と想像するとぞわぁと寒気がするが。
おぞましい光景を想像していると名前を呼ばれ、意識をエヴァミア様に向ける。
「隣に座れ」
「エッ。で、ですが……」
「誰も見てないからいいだろ。命令だ」
命令、と言われてしまえば逆らうことはできない。それを分かっていて言っているのだから、エヴァミア様はなんて狡い人なのだろう。
そんなことを思いながら立ち上がり、人間ひとり分の距離を置いて座る。が、エヴァミア様がその距離を詰め、距離を置かれないようにか腰に手が回された。
さすがにこれは、と諌めようとした直後。
「いい子」
耳元で低い声が囁かれ、息を吹きかけられる。反射的に耳を抑えると、扇子で口元を隠したエヴァミア様のお姿。
こんなところで淑女らしくしなくても……!
肩に重みが加わる。ふわりと薫る甘い匂いはエヴァミア様がつけられている香水で。私の肩に寄りかかるエヴァミア様の口元には笑みが浮かんでいるものの、仄暗い表情をしている。
「婚約が破棄されたことだし、オレはもうお払い箱だ。この家を出る」
「……旦那様が、お許しになるでしょうか?」
「説得するさ。無理そうなら良心に訴えるだけだ。生まれてから十六年、オレはずっと性別を偽ってきた。あの人はいくら母上のためとはいえ、オレを女として育てたことに対して罪悪感があるからな」
柔らかな声音。穏やかな口調。表情から感情は読み取れない。どういう言葉を言うべきなのかも解らない。いつも通りに振る舞うのがきっと、正解なのだろう。
「……では、荷造りをしなければいけませんね。いつ出発致します?」
「……」
「エヴァミア様?」
寄りかかるのをやめたエヴァミア様が、ジッ。と見つめてくる。変なことを言ってしまっただろうか、と不安から背筋に厭な汗をかく。数秒の沈黙は私にとって数時間だった。
「着いて、来るのか」
思わずと言ったように、ぽそりと呟かれた言葉に絶句。「アッ」と口を抑えるお姿に、じんわりと目に涙が浮かぶ。
「わ、私、置いて行かれるんですか……?」
当然私も着いて行くものだと思っていたためにショックが大きい。
私はもうお払い箱なのか、エヴァミア様のいない人生をどうやって生きればいいのだ、と勝手にほろほろ落ちる涙をどうすることできず、今後のことを考えようとすれば「置いて行かねぇよ」と慌てた様子のエヴァミア様に抱きしめられ、こめかみに柔らかな感触。
「エヴァミア様ぁ……」
「あー泣くな泣くな、置いて行かない、置いて行くはずねぇ。さっき言っただろ? オマエを『いらない』って言う日はこないって」
ぐすぐす鼻を啜る。主人に情けない姿を見せるなど従者失格だと思いながら、ぎゅうぎゅうエヴァミア様を抱きしめる。
掃き溜めの中から私を拾ってくださったエヴァミア様。
アウローラという名前を与えてくださったエヴァミア様。
やさしくて、あたたかくて、生きる意味で、私の光。
エヴァミア様のためなら死ねる。エヴァミア様のために死にたい。とわーわー喚いた。
その間、慈しむように額や眦に唇を落とされて。宥めるように名前を呼ばれて。慰めるように髪を撫でられて。
めそめそした気持ちが落ち着き、冷静になった今は別の意味で死にたくて仕方がない。一体どこの世界に主人の前で泣き喚き、主人に宥められ慰められ、主人に涙を拭かれる従者が居るというのか。
……記憶を消す薬、ないだろうか。
「アウローラ」
「……はい、エヴァミ、」
顔にかかる吐息。銀の糸が頬を擽る。熱の篭ったアメジスト。唇に残った仄かな熱は、一瞬の内に消えて冷える。
「死んでもオマエはオレのものだよ」
蜜を溶かしたような、カップの底に沈んだ砂糖のような、愛しさを煮詰めて詰め込んだような声。
死んでも自分のものだ、という台詞は傲慢さが滲んでいて。いくら従者を褒める時にキスをするとはいえ、唇へのキスは意味が変わってくるのでは。もしかしてというか、やっぱり、褒める時にキスをしないのでは。……。
考えないといけないことは山ほどあるのに、頭に浮かんだのは『すき』というたった二文字だけ。
好き。すき。スキ。大好き。誰よりも、何よりも、あなたのことが好き。好きという言葉じゃ言い表せないほど、あなたのことがだいすき。
「仰せのままに、エヴァミア様」
美しい顏が笑みを作る。それにつられても私も笑みを浮かべる。
旦那様に家を出ることを伝えに行く。と言うエヴァミア様だが、靴を脱ぎ捨てために裸足だ。部屋から出るどころか、ベッドから降りることもできない。肝心の脱ぎ捨てられた靴はといえば、ベッドから離れた位置に。断りを入れてから立ち上がり、私が履いたら一分もしない内に転んでしまいそうな靴を持つ。
戻れば、足をパタパタさせたエヴァミア様が「履かせてくれるんだろう?」と視線で語る。それに苦笑しながら踵を持ち上げ、ふと、魔が差した。
「……」
「? ローラ? どうした?」
「エヴァミア様」
つま先に唇を落とす。エヴァミア様を見ると目を見開いていて。この方が驚くなんて珍しい、と笑みが溢れてしまう。
「ずっとお傍に居させてくださいね」
ああ。あまりにも幸せで、息が詰まりそう。