第三章)深き海の人喰い鮫③ L・L・B
「あら、女の誘いを袖にするとは、つれない殿方ですこと」
そう嘯くのは、普段ならば生唾を飲むような妖艶な美女だった。
おそらくはベルモンド一家の用心棒か、かなりの手練だ。
歳の頃は、俺より少し上、三十路には届かない程だろう。
やや青みがかった深い黒の髪は、濡れたように艶やかに、そして日も落ちかけた空の暗がりに溶け込むように美しい。
色白の肌は水どころか光すら弾くだろう程にきめ細かい。
こういうのを白磁の肌というのだろう。
纏い様式、たしか東国ではキモノとか言ったか、作りは浴衣に似ているが、それとは全く異なる優美さがある。
純白の布地に淡い青のグラデーション。
袖の付近では、まばらに蛍のような光が浮かび上がっている。
いっそ質素であるように見えるのに、何故か大輪の華にも通じる艶やかさも感じるのは、その色彩の為か。
腕周りの袖が異様に広く、僅かな動きや風にたなびき、その艶やかさをさらに強調している。
下半身は、これも東国のスカート、ハカマだ。
上半身の白に対し、まるで深い海のような黒に近い蒼。
巻き付くような紐を腰で縛り、そこに刀の鞘を刺している。
その手に握るのは、見間違いがなければ、つい最近、ディレルの奴に売った、ジーベックの下っ端から奪ったダンビラソードだ。
手入れはともかく、そこそこにいい品だとは思っていたが、まさかあのデカい鉄のタンクをぶった斬るほどとは。
その見た目の美しさから刀の愛好家は多いが、こいつは明らかに厄ネタの類いだろう。
慎ましやかに微笑んでこそいるが、人間を斬りたくて斬りたくてたまらないという人斬りの目だ。
不意に風が吹き、タンクから零れた水が一滴、肩に当たった。
──ヒュオッ
その瞬間、鼻先を刃が通り過ぎる。
まさか、自分の前髪が斬られる様を目の前で見ることになるとは思わなかった。
けして目を離した訳では無い。
こんな剣侠相手によそ見をするほど、マヌケでもない。
ただ、肩に水が当たった、それだけの意識のぶれを突かれたのだ。
「ほぉ。私が 太刀を二度もかわされるとは」
「へっ、そんな見え見えの攻撃なんぞ当たるかよ」
大嘘である。
タンクの上からの攻撃も、今の一太刀も全く視認できなかった。
先程も、分かって避けた訳ではない。
ただ、体が勝手に危険だと感じただけだった。
こんな曲芸、受けに回っていればすぐにボロが出る。
ギリッと右手の銃を握りしめる。
こんなバケモノ相手に、この“鐡”じゃあ遅すぎる。
一発はでかいが、一度に三発しか撃てないし、早打ちにも向かない。
こいつとやり合うなら、もう一つの魔法銃、“銀”しかない。
だが、今、銃を持ち帰るようなスキを見せたら、それこそ命はないだろう。
何より、まだ“銀”を見せていないというアドバンテージを手放すわけにはいかない。
銃の切り替えこそ、最大の難関であり、唯一の勝機なのだ。
「おや、見え見えときましたか。それではもう少しだけ疾くしていきましょうか?」
「っ、ちぃぃっ!」
──キキキキキキキキキキンッ
もはや鉄と鉄がぶつかる音がひとつにしか聞こえない。
体感としてはもう数十分もやり取りしているような気もするが、実時間では数秒も経っていまい。
「ぶはっ」
これまでの力を溜めるような呼吸法などではない。
ただのみっともない息継ぎだ。
だが、息などしている余裕もないほどに全力を振り絞らねば、こいつの剣速についていけない。
先程までの意識の虚を突くような攻撃と違い、真っ向から斬りかかってくるから、何とか反応できるだけだ。
迫る刃筋を見極め、その剣速が乗る直前を鐡で弾く。
真上からの唐竹を銃身で、左からの袈裟斬りを銃把で、右からの胴薙ぎを銃身で弾く。
「ふふ。それ、それ」
──キキキキキキキキキキンッ
くそっ、こっちは必死だと言うのに、こいつはまだまだ力をセーブしているのが分かる。
嬲る意図こそなさそうだが、自分が長く楽しみたいという一点のみで、俺の力量ギリギリを攻めてきやがる。
「ふふ。大したものです。私の太刀は、鉄を斬る。ただ当てるだけではそんな銃だけで何度も受けきれるものではありません。0.1秒以下の精度で衝突の瞬間を見切り、手の内を緩めなければ受けきれない。ああ、これ程の昂りはいつ以来の事でしょう」
「ぜぇっ、ぜぇっ。そいつぁ喜んでいただけて嬉しいぜ」
くそ、こっちが精神削って必死にもちこたえてるっていうのに、余裕で軽口挟んでやがる。
だが、まだだ。
もう少しでこいつのクセが掴めそうだ。
正確には、奴が意識的に作ったクセであり隙のはずだ。
この女、こっちがまだ奥の手持ってるのを察して誘ってやがる。
だが、クセ以前にその油断こそが最大の隙だと教えてやる。
「さて、参ります。今度は一矢報いてみせてくれますか?」
「さてな、期待してくれよ!」
──キキキキキキキキキキンッ
三度、息をもつかせぬ連撃。
一見、適当に見える乱撃だが、僅かにパターン化されているものがある。
左上、右、上、そしてこの次は、
「ここだぁ!」
左下からすくい上げるような右切り上げ。
その出鼻を銃口で押さえ、今度は弾かず、そのまま引き金を引いた。
特大の爆炎弾。
それを刀越しに奴の足元へ向けて撃ってやったのだ。
その瞬間にバックルから“銀”を抜き、奴の眉間、心臓、腹に二発ずつの高速射撃。
そして、爆風に乗って後ろに跳んで間合いを離した。
正直、もう一度やれと言われてもできる気がしない曲芸もどきだ。
だが、このバケモノは更に上の曲芸を披露する。
“鐡”の一撃で、やつの刀をへし折ることには成功した。
だが、その後の六連射、0.8秒での高速射撃を、折れた刀で撃ち落としやがった。
「期待はしていました。ですが、新入りとはいえ、まさか私が刀をおられるとは」
土煙が晴れた向こうでは、女が無傷で立っている。
だがその表情には、これまでのような恍惚とした笑みは無い。
口角は僅かに上がっている。
それは、野蛮で凶暴な、俺もよく知るタイプの笑いだ。
お遊びではなく、倒すべき敵を見つけた獣の顔だ。
ともかく、ここでようやく俺も本来のスタイルに戻ることが出来た。
左右の銃を入れ替える。
右手に高速連射と精密射撃の“銀”。
左手に高威力の圧縮魔術弾の“鐡”。
これが俺の戦闘態勢だ。
──怨
突如、空気が重くなる。
酸素を奪われたように息苦しくなる。
まるで、水の中、深く暗い海の底のようだ。
この女の、異次元の殺気がそう思わせる。
「見事です。私は、戯れではなく、斬ると定めた相手には、この長太刀を振るうと決めています」
折れた刀を鞘に戻し、腰の巾着の中へとしまう。
どうやらあの小さな袋の中に、空間拡張の魔術で武器をしまいこんでいるらしい。
代わりに取り出したのは、長い、いや長すぎる刀だった。
ここでようやく、この女の正体に思い至った。
「銘は無し。代わりに私はこう呼んでいます。無銘・空断」
これでも俺は、そこそこに目端が利く。
ダンビラソードもとい、東国発症と言われるの刀という剣は、その特殊な形状と外装も含めた美しさから、美術品としての商品価値も高い。
だがそれ以上に、実際にその刀を振るう剣士からは、鋭さ、しなやかさ、そして硬さというそれぞれに相反する要素を高度に合わせ持った理想の剣として好まれている。
だが、この刀は違う。
そんな生易しい解説が似合うような優美な代物とはかけ離れている。
ゆるりと弧を描く独特の形状は間違いなく刀。
しかし、直剣でいう両手剣並に長大なその刃は、並の刀の倍はあろう。
刃の部分だけでおよそ1.2m、長く作られた柄の部分まで含めれば女の身長とほぼ変わりないほどだ。
全体としては細身。
だが、その長さによる重量に負けないだけの剛健さも兼ね備えている。
確かに刀としての流麗な美しさ、鋼の頑強さ、刃の鋭さは確かに兼ね備えている。
しかしそれら以上に、その身に宿る人の生命を狩る武器としての格が、餓狼の牙のような凶暴性が明らかに他の刀とは一線を画しているのだ。
こんな冗談じみた代物を使う人物など、一人しか心当たりがない。
人呼んで“L・L・B”。
または、この帝都で〈厄災〉と呼ばれる四人の一人、〈北の“人喰い鮫”〉である。
「この空断を振るう相手は久々です。ふふ。早々に死んで終わり、なんてさせないでくださいな」
「へっ、こっちもようやく身体が暖まった頃合だよ」
この化け物刀の出現は予想外だったが、こっちも“銀”を構えることが出来た。
ようやく、ようやくここからが本当の戦いの始まりだ。
濃密な死の気配が一段と濃くなり、第二ラウンドが幕を開ける。




