6.密談
コーブルク公爵アルブレヒトがゾフィーの懐妊をルドルフに告げた翌日、アンネに昼食の食器を下げさせた時に、ルドルフは小さく折り畳んだ紙をそっと皿の下に忍び込ませた。
「ありがとう。ごちそうさま」
「ルドルフ様、もっと召しあがって下さいませ」
「いいや、身体を動かさないんだから、このぐらいで丁度良いよ。それより……ね?」
ルドルフは心配するアンネに目配せをし、皿の下に視線を動かした。ちょうどその時、外から声がかかった。
「アンネ、早く!」
ルドルフとアンネの個人的な接触をなるべく少なくするために、アルブレヒトは見張りの侍女達によく言い含めていた。アンネが配膳したり、食器を下げたりなどする時にぐずぐずしているようなら、彼女達に声をかけさせている。その人員も、なるべくアンネが小公爵に寵愛を受けているのを妬んでいる者をアルブレヒトは選んでいる。
アンネは慌てて見張りに見えないように皿の下から紙を抜き取ってお仕着せのポケットに押し込んだ。
後で1人きりの時にその紙を開けると、『今夜23時にここに来て』と書いてあった。アンネは行くかどうか迷ったが、どうしてもゾフィーの妊娠のことを確かめたくて、やはりこっそりルドルフのところに行くことにした。
ルドルフが夜中に駆け落ちを決行しないように父アルブレヒトが付けている不寝番の騎士には、ルドルフから袖の下を渡してある。騎士達はアンネを妬む侍女達とは違い、皆、古臭い考えに凝り固まっているアルブレヒトよりも、ルドルフとアンネに同情的なので、問題なくルドルフに協力してくれた。
アンネがルドルフの部屋の前にそっとやって来て予め決めた通りにノックすると、すぐにルドルフが扉の隙間から顔を出した。アンネはあっという間に部屋の中に引き込まれ、彼の腕の中にいた。
「ああ、アンネ……やっと君を抱きしめられる。こんな隠れてしかちゃんと会えなくてすまない」
それまで自制して2人はキスをしたこともなかったが、話すのすらままならなくなってしまってから、やっと2人きりで会えたのだ。お互いに愛しさが溢れ出て自然に抱き合いって唇が重なっていた。
「ああ、夢みたいだよ。君とやっとちゃんとキスができた……」
ルドルフの自制心はほぼ崩壊し、婚約者への罪悪感や義務感はどうでもよくなってきた。今まではゾフィーとの婚約を破棄してアンネと結婚するまでは、2人きりのときにせいぜいアンネの手を握ったり、額や頬にキスをしたりするだけにしておくつもりだったし、そうしていた。でも不本意でもゾフィーと子供ができるまでのことをしてしまった今となっては、ルドルフにはそんな自制は意味をなさなかった。
2人は箍が外れて何度も何度も互いに唇と舌を貪った。お互い初めてキスするというのに、自然に舌を絡み合わせ、もっと深く深く……キスをした。
清廉潔白な美しい貴公子も、愛の前ではもはや野獣でしかなかった。夢中でキスを貪られて胸を揉まれ、アンネはハッとしてルドルフから身体を引き離した。
「駄目です!」
「どうして?」
ルドルフは、愛する女性に拒絶され、絶望した面持ちで理由を尋ねた。
「ルドルフ様はもうすぐ身重のゾフィー様と結婚される方です」
「あぁ、もう聞いてしまったんだね! 不安にさせてごめん。実は先月の夜会で媚薬を盛られてこういうことになってしまったようだ。その間の記憶がないから相当強い媚薬だったんだと思う」
「そのことが仮になかったとしても、私には公爵夫人は務まりません」
「ねぇ、アンネ、そんな冷たいこと言わないで。僕には君が一番大切なんだ」
「でも私にはルドルフ様の大切なご家族と爵位を捨てさせることはできません」
「もしかしたらヴォルフガングの家が君を養女にしてくれるかもしれない。そうしたら僕は家族も爵位も捨てる必要がなくなって君と結婚できる」
ヴォルフガング・フォン・ディートリヒシュタインは、ルドルフの寄宿学校時代の友人で、今も親しく付き合っている。ただ、彼はまだ爵位を継いでいないため、アンネを彼の家の養女にするには現当主の彼の父に頼むしかなかったが、それが実現する可能性は低かった。公爵家が反対しているのに別の家門がわざわざアンネを養女にするわけがない。ルドルフもアンネも口には出さないものの、そのことは十分に承知していた。
「それではゾフィー様とお子様はどうされるのですか?」
「子供は君さえよければ僕達の養子にしたい。ゾフィーは父上の養女にして、うちにいたかったらいてもいいし、結婚したいのなら、僕の伝手で良縁を探すよ」
「でも、ゾフィー様を閣下の養女にするなんて閣下はお認めにならないのではないですか? 閣下はゾフィー様とルドルフ様が結婚されることを望んでいますし、もしゾフィー様がルドルフ様と結婚されないのなら、別の良縁を探すのも難しいですよね? 未婚で出産経験のある女性だと、年寄りの貴族か貴族の箔が欲しい金満商人の後妻になるしかないのではないですか?」
「い、いや、そんなことがないように父上を説得するか、良縁を探すよ」
「それに元婚約者の家に養女に入って元婚約者は別の女性と結婚、子供も元婚約者と『泥棒猫』に取り上げられるなんて残酷すぎます。公爵閣下もそんな計画をお許しになるはずがありません」
「『泥棒猫』?! まさかアンネのこと? 誰がそんなこと言っているんだい?」
「公爵家の使用人達は皆そう言っていますし、社交界でも私はそう呼ばれているみたいです。ご存知ないのはルドルフ様だけです。本当にそんな計画はゾフィー様に残酷すぎます」
ルドルフはここ数年、ゾフィーをエスコートしなければならない機会をなるべく避けたくて最低限必要な夜会にしか出席していなかったから、社交界での噂は耳にしていなかった。だが、侍女達の噂経由で自分達の噂はアンネの耳に届いていた。
「大丈夫だよ。心配しないで。双方の両親の陰謀でこんなことにはなってしまったけれども、元々、僕もゾフィーも兄妹みたいな感情しか持っていなかった。それとも、ゾフィーから子供を引き離して彼女だけ修道院送りにすれば残酷じゃないってこと?」
「そんなことあるわけないじゃないですか! 本当に何もお気づきでないのですね!」
「ねぇ、アンネ、僕は君とこんな口論をするためにここに来てもらったわけじゃないんだ」
「では何をされたかったのですか?」
「お詫びと僕たちのこれからのことを話したかった」
そう言うと、ルドルフはアンネを抱きしめ、唇にキスをして舌を絡めた。唇を離すと銀糸が2人の口の間に伸び、もっともっと、という甘美な誘惑が2人の間に流れた。
かろうじて保っていたアンネの理性は、再び吹き飛びそうになった。だが、アンネはゾフィーと公爵家への罪悪感や忠誠心と甘美な誘惑の葛藤に迷いながらも堕落から逃れた。
「駄目です!」
そう叫んでアンネはルドルフを突き飛ばした。ルドルフの瞳は悲しみと驚きで揺れていた。
「どうして僕を拒否するの?」
「ルドルフ様はゾフィー様と結婚されるのです! 私には、公爵閣下から別のお勤め先をご紹介いただけると話がありました。嫁ぎ先も探していただけることになっています。その話を受けることにします」
「そ、そんな! アンネ、考え直して!」
「いえ、こうすることがルドルフ様の幸せにつながるのです。私ももうこれ以上公爵家にお勤めするのは針の筵で辛いです」
「貴女なしでは僕は幸せになれない! 貴女も僕なしでは幸せになれないはずだ!」
「それが他の方の不幸の上に成り立つ幸せでも? 私には耐えられません!」
そう言ってアンネは振り返らずにルドルフの部屋を飛び出していった。だからルドルフの瞳が情欲と愛憎の不気味な光で揺れていたことに気づかなかった。
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*ヴォルフガングの苗字を変えました。(2022/11/7)