1.婚約者
ゾフィーは、父のロプコヴィッツ侯爵マティアスに執務室へ呼び出された。聞かれることは決まっている。婚約者のコーブルク公爵令息ルドルフのことだ。
そう思うと、ゾフィーの足取りは自然に重くなる。だが、執務室の前に着いてしまった。
マティアスは、ゾフィーの足音に気付いているだろう。ノックしなければ、マティアスが出てきてゾフィーは怒られるだけだ。
ゾフィーが深呼吸をしてノックをすると、中から『入れ』と声がした。ずっしりと重たい扉は、まるで今の彼女の気持ちのようだった。
マティアスの用件は、案の定、ルドルフとの結婚話だった。ゾフィーがソファーに座るか座らないうちにマティアスの口撃が始まった。
「ルドルフからまた結婚式の延期要請がきたぞ」
「仕方ありません。領地の土砂崩れの復旧でお忙しいんですから」
「前回は領地の小麦不作だったな。前々回の延期の理由は……」
「もうやめてください!」
「黙れ、私の言葉を遮るんじゃない! こんな時だけ威勢よくして、あんな侍女風情に婚約者を取られて黙っておるのか?!」
ゾフィーは、コーブルク公爵家の赤毛の侍女ゾフィーのそばかすだらけの顔を思い出してうつむいた。ゾフィーが子供の頃から慕っているルドルフには、年頃になってからはそっけない態度をとられている。なのに彼は、あの侍女にだけはとろけるような優しい顔を向ける。
「全くもって忌々しい! アルベルトは甘いな。あんな女なんか、とっとと解雇すりゃいいのに!」
ルドルフの父コーブルク公爵アルベルトは、マティアスに言われずとも、本当ならアンネなど即刻解雇したかった。だが、そんなことをすればアンネと駆け落ちするとルドルフが脅すので、仕方なく雇い続けていた。
「ルドルフも大概だな。いくら粘っても、アルベルトを敵に回してあの平民女を養女にする貴族がいるわけがないのに」
貴賤結婚をすると、シュタインベルク王国の法律では貴族の身分を持っていた配偶者も平民となり、爵位継承ができなくなってしまう。それに加え、この国の爵位継承は男子のみ可能で血縁関係が重要視されるから、赤の他人を養子にして爵位継承は難しい。
爵位を買う裕福な商人が増えた昨今では、平民の結婚相手が別の貴族家の養子になるという抜け道も認められるようになったのだが、ルドルフの両親はそれを許すつもりはない。
「そんなにあの女と別れたくなければ、結婚後に愛人にしていいと私もアルベルトも言っておるのに……全くもって忌々しい!」
「そ、そんな愛人なんて……」
ゾフィーは、膝の上に置いた手を固く握りしめ、うつむいた。涙がスカートの上に落ちないように少し顔をあげたが、マティアスと目が合って慌てて再びうつむいた。
「泣いたって無駄だ。大体、貴族に愛人など、当然ではないか」
ゾフィーは、顔をあげてキッと父親を睨んだ。
「ルディ兄様は、愛人に庶子を産ませるお父様のように不誠実な男性じゃないんです!」
「黙れ! ルーカスは庶子じゃない! この家の正当な後継ぎだ!」
ダン!と目の前のローテーブルに拳を叩きつけられ、ゾフィーはビクッと身体を震わせた。
「で、でも、ルーカスはお母様の子供じゃないから、庶子でしょう?」
「《《あれ》》の養子になっているんだから、庶子ではない」
「それはお父様が離婚をちらつかせて脅したから……」
「うるさい、黙れ! 《《あれ》》はお前しか産めなかったんだから、仕方ないじゃないか! アルベルトだってよそで息子を作っておけば、色にとち狂ったルドルフ以外の選択肢もあったのに、そうしなかったから、こんな羽目になったんだ!」
「おじ様は、お父様と違って誠実なんです!」
「フン! 誠実が何の役に立つって言うんだ! それがルドルフを簡単に切り捨てられない理由なら、皮肉なこったな! ルドルフ以外の選択肢はないも同然だからな」
マティアスは、鼻で笑った。
「ノスティツ家に嫁いだアルベルトの妹の長男は引きこもっているそうだし、次男はただの下級官吏だから、公爵家の後継ぎには到底相応しくない。それに息子が公爵になったら、あの放蕩夫婦は絶対たかるに決まっている。公爵家の分家ラムベルク男爵家にも息子はいるが、あそこも一家そろってダメ人間だ。だから我が家がコーブルク公爵家に縁づくには、とにかくお前がルドルフと結婚するしかないんだ。お前だって私より年上の貴族か金満商人の後妻などになりたくないだろう?」
「そ、そんな……」
「2年も結婚を遅らされてお前ももう20歳だ。そろそろ行き遅れと言われる年齢で婚約解消したら、そうなるのは当たり前だろう? ルドルフを待っている間にその可能性を覚悟してなかったのか? お前も甘いな」
ゾフィーの視界はぼやけ、スカートにポツポツと水滴が落ちた。
「ルドルフだってもう27歳だ。しかも侍女に熱をあげている醜聞を知らない貴族はいない。お前を逃したら、碌な女が縁談相手にならないのは目に見えている。それで婚約解消したら、お互いに不幸になるだけだろう?」
マティアスは、ゾフィーの顔を覗き込んで白々しく猫なで声で娘を慰めた。
「お前はルドルフ以外と結婚するのは嫌なんだろう? 私だって娘の希望を聞いてやりたいんだ」
娘の夫になるルドルフが愛人を作ることを公認するとさっき言ったばかりのマティアスが、娘の気持ちなど思いやるはずがない。ただ色々な政治情勢が相まって双方の両親――特にゾフィーの父――にとって今更婚約解消はありえないだけだ。そのぐらいゾフィーにも分かっていた。
「お前は、それほどルドルフを慕っているのだろう?」
ゾフィーは、父親に恋心を見透かされて赤面してどもった。
「え、ええ……」
「なのにいいのか、あんな平民の侍女風情に想い人を取られて? 悔しくないのか?! お前のほうがよほど美しいし、身分だってあいつに相応しいんだぞ?」
ゾフィーは、言われなくても悔しくて悲しくて仕方ない。だけど、結婚するのは自分だと言い聞かせてなんとか心を持たせている。
「そ、そうは言っても妻になるのは私なんですから……」
「このままだとあの男の心は永遠にあの女のものだな。それどころか、あいつが駆け落ちしたら結婚すらなくなるぞ。それか向こうの有責で婚約解消するか? 多分、ルドルフはそれを狙って何度も結婚を延長しているんだろう。本当にそうなってもいいのか?」
「わ、私は……」
「よくないだろう?」
「そ、それはもちろん……」
「それならお前もどうすればいいか考えなくては」
「どうすればって?」
「ルドルフと結婚できるいい方法がある。やってみないか?」
ゾフィーは、涙で濡れた顔をハッと上げた。
「既成事実を作りなさい。ルドルフは律儀な奴だから、今はまだお前と婚約解消していない以上、あの女とまだ寝ていないはずだ。お前が初めての女になって子供もできれば絆されるだろう」
「そ、そんなことできません!」
「何もそんなに大それたことじゃない。結婚よりちょっと早く子供を作るだけだ。どうせ結婚するんだから問題はない。それにお前がぐずぐずしていると、ルドルフは我慢できなくなっていずれあの女とヤるだろうから、あの女の身体におぼれてますますお前のことなんか見なくなるぞ」
子供の頃から婚約者を愛しているゾフィーは、彼が他の女と抱き合うのを考えるだけで絶望と嫉妬で目の前が真っ暗になり、父親の下卑た言い方に抗議もできなかった。
愛人のところに入り浸りでほとんど帰ってこない父と、そんな父に絶望してゾフィーを異常に束縛する母の元で彼女は育ったから、自分を妹のようにかわいがってくれたルドルフと3歳年上の母方の従兄のハインリヒを慕っていた。
だがゾフィーを束縛したがる母と伯母、その息子のハインリヒはセットだったから、ゾフィーは次第にルドルフに傾倒していった。律儀なルドルフは恋人がいる今も失礼がないように婚約者としてやさしくゾフィーを扱ってくれている。でもゾフィーは、子供の頃と違い、侍女と恋仲になってからのルドルフとは距離を感じるようになっていた。それに2人は7歳も年が離れているため、ルドルフにとってゾフィーは成人後も妹のようにしか思えないようだった。
「今度の公爵家での夜会でルドルフはお前をエスコートする。彼が休憩室に行ったら、お前も行け。その前にこれを飲むんだぞ」
マティアスはそう言って媚薬らしき液体が入った小瓶をゾフィーに見せた。彼は詳しくは語らなかったが、ルドルフにも媚薬を盛るのだろう。
「お、おじ様はこんな計画、ご承知なんですか?」
「当たり前だろう。アルベルトも息子のわがままにほとほと疲れているんだ」
ゾフィーが黙って小瓶を受け取ったことをマティアスは了承と受け止めた。
「ああ、そうだ。ビアンカやハインリヒがルドルフのことで何か言ってくるかもしれないが、無視するように」
ゾフィーの母ビアンカは不誠実なルドルフとの婚約を破棄してハインリヒと婚約しろとかねてから主張してマティアスと対立していた。もっともビアンカがハインリヒを推すのは純粋にゾフィーのためというわけでなく、ハインリヒをゾフィーと結婚させて養子に入ってもらい、ビアンカが憎む妾腹のゾフィーの弟ルーカスに侯爵家を継がせないためだった。
一方、マティアスは先の王位継承闘争で負けた派閥に与した侯爵家が負った打撃を回復させるためにゾフィーとルドルフの結婚による公爵家との繋がりは欠かせないと考えていた。だがルドルフと侍女の禁断愛と度重なる結婚延期により、ハインリヒを推すビアンカに隙を与えてしまっていた。
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