王子は知らぬ間に心を奪われる
一方カナスは、腕を組んだまま屋敷の入り口に立っていた。周りで屋敷の護衛兵たちがおたおたとしているが、それには目もくれず御者が馬車をつける柱に背中を寄りかからせている。
シェーナは家にいるときは部屋から一歩も出てこなくて捕まえられないので、帰りを待ち伏せるほかないのだ。
(我ながら、何をやってんだか・・・)
いつもカナスは余裕があった。
相手に好かれているという自信があったし、逆に好かれたいという感情を強く持ったことがなかったからだ。
だが、今は余裕がない。ラビネの言うとおりだ。とはいえ、指摘されるとむっとする。
(あいつは何でも間に受けるしな・・・考えれば考えるだけ、駄目なほうにいっちまう奴なんだから、釈明しなきゃならないのは仕方ねえだろ)
が、そんな風に言い訳をつけてしまうのも、情けなくて、自分が許せないような歯がゆい気持ちになった。
不機嫌な表情のまま黙り込んでいるカナスを、兵たちは遠巻きにしていた。きっと彼のこんな姿に驚き、そして滑稽だと笑うのだろう。
(ああ・・・また、むかついてきた)
どちらかといえば短気な性格だと知っているが、このところ本当にずっとむかむかとして仕方がない。それがシェーナのせいだと分かっているのも、また腹立たしいような気持ちになった。
不穏な目つきでふと遠くを見つめたときだった。
大きな白馬に引かれた馬車が、屋敷に入ってきた。
先に下りた双子に両手を引かれてシェーナがとん、と地面に降りる。薄紅のロープの裾がふわりとなびき、サンダルを履いた白い足が見えた。
相変わらず小さいシェーナだが、そういえば少し背が伸びた気がする。いや、姿勢がよくなったのかもしれない。うつむいてばかりいたシェーナは、ちゃんと前を見るようになっていた。
こうして客観的に見てみれば、シェーナは随分と変わった気がした。
「・・・あ・・・」
だが、彼女は柱の影にいるカナスに気がついた途端にさっと青ざめ、フードを深くかぶりなおして、うつむいてしまった。
気がつかなかったふりを決め込む体勢のようだ。ジュシェとニーシェの陰に隠れてやりすごそうとしているのがみえみえだった。
双子はシェーナの意志が最優先のようで、カナスに何も言わない。見るからに震えながら、前を通り過ぎようとするシェーナに、カナスは声をかけた。
「おい」
びくん!とシェーナの足が止まった。逃げればいいのに、とその反応を愚かに思いながらも、都合のいい状況を逃すわけはない。
カナスは、固まったシェーナの腕をつかんだ。
「話がある」
「・・・な・・・・ない・・・です・・・」
シェーナは弱々しい声で首を振る。だが、カナスは無視した。強引にしなければ、この先に進めない。
「俺にはあるんだよ、来い」
「・・・っや・・・やめてくださ・・・!」
ぐいっとカナスが手を引っ張ると、震えていたシェーナの足がもつれて転びかけた。慌てて抱きとめてやると、ますますシェーナがぎくりと固まったのがわかった。
それにちっと舌打ちをしてしまう。
「お前、リベカに会ったんだってな?」
逃がさないように抱きしめたまま、カナスは尋ねた。すると一瞬間を置いて、シェーナはぶんぶんと首を振る。
「し・・・しりま・・・せん・・・」
「会ったんだな?」
その動きを後頭部を押さえることで止めさせると、シェーナはしばらく黙りこんで、それからようやく頷いた。
「何を言われた?」
「・・・ご・・・ごめ・・・んなさ・・・ごめんなさい・・・」
「何を言われたんだ?ベルにも会ったんだろ?」
「・・・・ごめんなさい・・・わたし・・・」
「何を謝るんだよ。あのな、何を言われたとしても、だ。あいつの言うことは気にするな」
意味のない謝罪を繰り返すシェーナに、カナスはできるかぎり落ち着いた声で言った。
「シェーナ、俺を信じろ。リベカより、俺の言葉が信用できないのか?」
「・・・・・・・・」
けれど、シェーナは答えてくれない。
どうしたらいいのか、迷っているようだった。
姉妹や兵たちが傍観するなか、カナスはシェーナの肩を軽く揺さぶった。
「ちゃんと俺を見ろ、シェーナ」
「・・・・・わ、たしは・・・」
「何だ?」
「わたしは・・・カナス様が、よく、分かりません」
「え?」
顔をあげないまま、今にも消え入りそうな声で、シェーナは呟いた。
「私は、カナス様をよく知りません。だから、き、気がつかなくて・・・本当は・・・・・・」
「本当は?本当は何だってんだよっ?」
よく分からない、よく知らない、という言葉は思わぬほどカナスの心を揺さぶった。
シェーナと過ごしていた時間は、それほど少なくないものだと自分では思っていた。カナスという人間を理解してくれたからこそ、少しずつシェーナとて打ち解けてくれたと思っていた。
それなのに、今更分からないと言われるのは心外だ。本当はなんてひどい、と言われている気がした。
そのときの自身の表情から余裕が一切欠いていたことをカナスはわかっていなかった。
「・・・っ・・・!」
「本当の俺は、何だって?」
カナスはせめて怒りを耐えながらシェーナを覗き込んだ。その精一杯の感情隠しが、彼の青い瞳をこの上なく冷たく見せていることを知らずに。
「・・・ひ・・・っ・・・!」
シェーナが喉の奥で悲鳴をあげる。それにますます苛立った。
もともと戦い続きで、気が立ちやすい状況にあったのだ。戦場に穏やかさは無用の長物だったから、ただシェーナを甘やかしていた頃の優しさが削げてしまっているのに無自覚でも仕方がなかった。
「シェーナ、さっさと言え」
「・・・・・・・ゃ・・・・」
シェーナの体を無理やりに持ち上げて視線を合わせようとしたときだった。
「!?」
ふっとシェーナの全身から力が抜けた。抱えなおせば、シェーナはくたり、と目を閉じたまま動かない。気を失ったようだった。
「「シェーナさま!」」
双子の声があがった。
「カナスさま、なんてことを。怖がらせたりして、ひどいです」
「シェーナさまがお可哀想です」
「・・・・・・」
横抱きにされたシェーナをのぞいてから、姉妹は一斉にカナスを批判した。
けれど、可哀想なのはこっちだと、カナスは毒付きたくなった。
(嘘だろ・・・気、失うくらいかよ?)
そんなに自分が怖かったのか。嫌だったのか。
そう思うと、怒りという熱さに満ちていた体内が、一気に冷えたようだった。
(俺はそんなにも、こいつの信用なくしちまったってことか?)
真っ白な顔色で眠るシェーナを見下ろし、カナスは強く唇をかみ締めた。
双子たちに非難されつつも、そのままシェーナを部屋のベッドに寝かせ、カナスはじっとその寝顔を見ていた。
また少し、痩せたようだった。
けれど病的というほどではなく、どちらかといえば、大人びてきたようにも見える。
人前に出ることができなかったシェーナが、一人で病院の患者たちと触れ合うようにまでなっているのだから、それも当然なのかもしれない。
陰の薄かったシェーナの顔には、いつしか自信のような強さが見られるようになっていた。
カナスが居ない間も、彼女は彼女なりに頑張ってきたのだろう。その成長が顔立ちにも表れてきたのかもしれないと思った。
いつしか、シェーナも変わるのだろうか。
無邪気な少女から、大人の女になって、そうして大切な相手ができるのだろうか。この手の中からすりぬけようとするのだろうか。
(それを見つけることのほうが、こいつのためなんだろうが・・・)
このまま突き進んでいけば、全て自分の思い通りだ。最初に“シアン”と言い張ったときにはこんなつもりじゃなかったが、予想をはるかに超えて自分に有利なものを手に入れた。手に入れて、しまった。周りが先に先にと行ってしまう。
けれど、それではシェーナの心は置いていかれたままだ。まだ成長しきっていないシェーナの心を置いて、また勝手に閉じ込めてしまえば、それは嫌悪したシェーナの父たちと同じになってしまう。だから、カナスは早くシェーナが育ってくれるといいと思った。自分で意志を持てるように、何が大切かを決められるように。
そうして、逃げたいのだったら早く逃げてしまえばいい。このまま流されきる前に、違う道を選ぶと言ってくれればいいと思っていた。
そうすれば、あきらめられた。自分では決めきれない、拒絶したくないこの状況を、シェーナが拒むか決めてくれればいい、と思っていた。
だが。
本当に、そのとき、カナスはシェーナを思い、手を離してやれるのだろうか。
(こんなことくらいで、必死になっていて・・・)
思った以上に、自分はシェーナに執着していたようだ。出したくない答えが、はっきりと見えていた。カナスは額に手を当てた。ため息が出るが、意外と動揺はなかった。
本当はちゃんと分かっていたのかもしれない
大体、同情じゃ片付かないことなんて先ほど明確な答えが出ていたのに。あんなに悔いていて、絶対に忘れるものかと誓った無念から庇護を与えたリベカよりも、シェーナのほうが大切なのだと簡単に言い切れたのだから。
だが、シェーナがこのまま大人になっていくのを嫌だと思っている自分を自覚すると、胸のむかつきがひどくなった。
(俺は・・・親父のようになりたくない・・・。自分のエゴで束縛して、閉じ込めて・・・相手の意志などおかまいなしの最低野郎にはなりたくない・・・!)
そしてじわじわとはいあがってくる嫌な感覚。カナスが人を好きになれないのは反面教師たる父ににあったのかもしれない。自分が好きになってそれを相手に拒絶されたときに、父親と同じことをするのではないかという恐怖感が彼をがんじがらめにしていたのだ。
だから、鷹揚と、泰然と、そうやっていつも心に鍵をかけていたのかもしれない。
一途に慕ってきて、簡単に騙せてしまうシェーナを、好きになりたくなかったのかもしれない。早く、逃げて欲しかったのかもしれない。深みにはまってしまう前に。カナスが自己嫌悪に陥る前に。
彼は、昏々と眠るシェーナから視線を外し、立ち上がった。
するとそのとき、かつん、と淡い音を立てて何かが転がった。拾い上げてみればそれは、シェーナがいつもつけているペンダントの石だった。ひどく大切にしているようで、眠るときですら外していなかった。シェーナを抱えたときにでもカナスの服に鎖が引っかかって、切れてしまったのだろう。半分しか残っていない細い金の鎖は古いもののようで、随分磨れているようだった。
(っていうか、何で金なんだよ?)
前々から思っていたのだが、その緑色の丸い石を彩るのは銀の飾りなのだ。フィルカでは銀を尊ぶのであるから、それも頷けるが、何故鎖を通すのは銀細工で、鎖が金なのか。
たぶん、それに見合うだけの鎖を与えてもらえなかったのではないかと容易に想像はついた。
カナスはその小さな飾りから、もはや役にたたなくなった金鎖を抜き取った。
「言えばいいのにな」
シェーナが望むのなら何を与えてやってもいい。いや、望まなくても勝手にいろいろ押し付けたりしたが。
カナスはクローゼットに備え付けられている小さな引き出しを開けた。相変わらず使われた気配もないまま、宝石が綺麗にしまわれている。全部彼が初期の頃にシェーナにあげたものだ。
少しは喜ぶかと思えば、なくしたりしたら怖いと、しまいこんでいて苦笑した。大体において、シェーナは人工的なものに興味がない。もっと素朴な、たとえば外に咲いている花なんかをとても喜ぶ。
そのときのシェーナの表情を思い出して、ふっと頬が緩んだ。
その瞬間を誰にも見られていなくてよかったとすぐに我に返ったが。
カナスが目的を達しようと、引き出しの中を一瞥したところ、銀の鎖はなかった。もともとアキューラには金の方が多いのだ。
どうするかと一瞬考えて、彼はペンダントトップを持ったまま、部屋を後にした。
「カナス様?お出かけですか?シェーナ様は・・・」
「まだ寝てる。ちょっと街に行ってくる」
「え?街?こんな時間にですか?」
「すぐ戻る」
途中で出会った女官に驚かれながら、カナスは馬場へ向かった。