虐げられた姫君は醜さを知る
それからシェーナは何日かに一度、病院を訪れて集まる人々のために歌うようになった。カナスは忙しいのでもう一緒に来てくれないけれど、イマルやジュシェやニーシェに付き添ってもらっているうちにシェーナも少しずつ人前に慣れてきて、今では一人でも歌えるようになった。ただし半刻以上は駄目だとカナスにきつく言われているので、毎回申し訳ない思いに駆られる。特別に頼まれたときはちょっとだけその人のために歌ったりして、実は約束を破ってしまっているときもあるのだけれど。
最近では公衆病院だけではなく、戦場で傷ついた兵士たちが入院する軍事病院にも顔を出すようになり、そこでも安らぎを提供するようになっている。もちろん、最初は民間とはくらべものにならないほどの重傷者の様子と充満する血の匂いに卒倒しかけたけれど、シェーナなりに勉強をして簡単な包帯替え位ならできるようになり、今ではみんなの前でただ歌うだけではなく、病床の一人ひとりを看病し声をかけることもするようになった。
そんなシェーナの様子は瞬く間に広がり、今ではティカージュ中、いやアキューラ南方の都市のほとんどで噂されるほどである。
曰く、王太子殿下の今度のご寵姫は、慈愛に満ちた小さな聖女だと。
そんなわけでシェーナの評判はすこぶるいい。
出歩くようになってから少しずつ体も強くなってきたようで、出かけるたびに微熱を出していたのだが、今では滅多なことがないかぎりは元気だ。ジュシェたちに話す声が大きくなり明るくなったとよく言われるようになった。
そんなある日のこと。
カナスが突然2,3日、屋敷を留守にすると言い出した。
「こっちは気にせずに病院行ってもいいけどな、俺がいないからって無茶はするんじゃねえぞ」
口うるさいカナスがいないことで、これ幸いとシェーナが全ての人の要望に応えようとするのではないか、と彼はそれを心配しているようだった。
けれど、シェーナは別の心配で白い顔を青ざめさせていた。
「・・・あ・・・の・・・、また・・・」
「ん?」
「また・・・あ、争い・・・ですか?」
また他国との戦争で、カナスが傷つくのではないかと心配したのである。
そんなシェーナの不安を彼は一蹴した。
「違う。単なる私的な用事だ。そんな顔しなくていいぞ」
彼は軽く笑いながら、シェーナの頬をひっぱる。ふるふると首を振って嫌がったシェーナは、それでもほっと息を吐いた。
「よかったです。お気をつけて、行ってきて下さい」
「何だ、ちょっとは寂しがるかと思ったのに。清々した顔して送り出すもんだなあ」
「え・・・、あ、ち、ちがいます!そういうことではなくて、ただ、カナス様がこれ以上お怪我をなさらなくてもよかったと思って・・・」
「そうか、怪我をしなければ俺なんていてもいなくても同じってことか」
「ちが・・・、そんなことないです!カナス様がいらっしゃらないと、すごく寂しいです!」
拗ねたような口調を作られ、おろおろしながら必死の弁解を図るシェーナだったが、見上げた彼の面が言葉とは裏腹にとても楽しそうだったので、からかわれたのだと悟った。
「ひ、ひどいです・・・っ」
真っ赤になりじわりと涙を浮かべるシェーナを、彼は後ろから抱えこんだ。
「悪かったって。お前があまりにつれないから、つい、な。けど、お前が寂しがってくれると知って安心した」
「寂しくなんてありません。カナス様なんて、好きにどこかに行ってしまってください」
「まあそういうなよ。なるべく早く戻ってくるからさ」
「別にいいです。ゆっくりしてきてください。寂しくないですから」
ふてくされた気持ちでシェーナは言い返す。けれど、くきっと顔を上に向けさせられて、唇を掠め取られた。驚いて顔を真っ赤にしたシェーナに、カナスがにやっと笑う。
「唇とんがってたぞ。そういじけるなよな」
「――――っ」
破廉恥な振る舞いを彼はちっとも悪びれない。前に接吻は特別な人としかしたら駄目で、だから軽々しくしてはいけないのだと必死で諭したが、爆笑されて終わっただけだった。だからシェーナはいつも不意打ちに心臓を壊れそうに動かして、熟れたトマトのように首まで赤く染めることになる。しかもタチが悪いことに、彼は戸惑うシェーナを見て喜んでいる節があるのだった。
今もひどく満足そうにシェーナの頬をつついて遊んでいる。
「カナス様!」
シェーナがキッとにらみつけても何のそのだ。
「本当に自己主張が出るようになったもんだなあ。俺は嬉しいぞ」
「そ、そういう話をしているんじゃありません!ごまかさないでください!どうして、いつも意地悪をするのですか?!」
「ん?そりゃお前が・・・」
目を細めたカナスが答えようとしたとき、遠くで銅鐘の音が聞こえた。街の門が閉まる一刻前を知らせる音だ。
「もう行かねえと間に合わなくなるな。なら、それは宿題な。帰ってきたら答え合わせするから、考えとけ」
「は・・・?」
「じゃあな、風邪ひくなよ」
「え・・・あ・・・あの・・・っ」
もう一度だけぽんとシェーナの頭を撫でて、彼は離れていく。あっという間に先まで行ってしまったカナスに、まるでコンパスの違うシェーナが後から追いつくのは無理な話で、代わりに二階に登った。バルコニーからは馬場が見える。やはりカナスは愛用する黒馬と一緒にそこにいた。
「カ・・・カナス様っ!」
シェーナは両手をメガホンのようにして、精一杯の声を出した。
するとカナスは少し不審そうに、後ろを振り返る。声の発信源がわからなかったようで、少しきょろきょろとしていたが、すぐにシェーナを見つけて驚いた顔をした。
「あの・・・、い、いってらっしゃい、です!」
シェーナの見送りの挨拶に、彼は一瞬間を溜めて、噴き出したようだった。それから手を振ってくれる。それが嬉しくてシェーナがバルコニーから身を乗り出して大きく手を振り返すと(背が小さいので、そうしないと見えないのだ)、またしても肩を震わせて笑っていた。
そんなやりとりに、周りにいる兵士たちも微笑ましそうに笑っている。
なんで笑われるのだか良く分からなかったが、カナスが中に入れと指で指示をしても、彼の姿が見えなくなるまでずっとそこで見送っていた。
「なんだか姫様、最近、元気ないな」
「やっぱりカナス様がいらっしゃらないから」
「仲がいいからなあ・・・」
そんな声を知っていても、シェーナはしょぼんとした気運を持ち上げることができなかった。
カナスが出かけるといってから、実はもう5日目だ。
最初2、3日で帰ると言っていたのに、待っていてもちっとも帰ってきてくれない。何かあったの?と不安に思って聞くが、屋敷の誰もが首を振った。「大丈夫だから」とそればかりを繰り返す。そのくせ、シェーナを見ると気まずそうな顔をするのだ。
その居心地が悪くて病院に来てしまったけれど、患者たちに却って心配をかけていれば世話がない。はあ・・・とため息をついていると、親に連れられて見舞いに来ていた子供たちがシェーナに野花を持ってきてくれた。
「ひめさま、これあげるから、げんきだして」
「あ・・・ありがとう。きれいですね、とても嬉しいです」
幼い子たちにまで気遣われていることを知り、シェーナは嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。
「ひめさま、さびしいの?」
「え・・・」
「カナスさまがいないから、さびしいんだっておかあさんがいってたよ」
「さびしいなら、今日はあたしたちがお歌うたってあげるよ。ね?だから元気だして、ひめさま」
子供たちはそういって、椅子にすわっているシェーナのまわりを囲んで元気良く歌い始めた。シェーナが子供たちに良く歌ってあげているお遊戯の歌だ。
実はシェーナは自分でも歌を作る。一人ぼっちの塔に置いてあったオルガンで、暇をもてあましては次々に歌を作り続けていた。それは、誰にも気持ちを伝えることができなかったシェーナの唯一の感情の昇華方法だったのかもしれない。
だから、そのときの歌はとても悲しいものが多い。けれど、最近シェーナが作る歌は明るく、楽しいものだ。子供たちでも楽しめるように簡単な音と軽快なリズムをたくさん取り入れている。
シェーナの心が明るいものになったからこそ、そういう歌を思いつくことができるのである。
子供たちが歌うその歌は、シェーナのように特別な“声”でなくとも、心を温かくさせた。
「・・・ひめさま、どうして泣いているの?うまくなかった?」
「違うんです。みんなが、歌ってくれたのが・・・とても嬉しかったから。誰も、私に歌ってくれる人はいなかったから。私のために歌ってもらうのは、初めてでとても嬉しかったんです」
「えー、どうして?お母さんに歌ってもらったことないの?」
「お母様は私が生まれたときに死んでしまいました」
「そうなの?じゃあ、お父さんは?」
「お父様は・・・あまり顔をあわせたことがないので」
「えー、へんなの。お父さんもこもり歌くらいうたってくれるよ。なあ?」
「うん、とうさん音痴だけどな」
「あのね、うちはねえ、お父さんもお母さんもお歌が上手なんだよ。むかしねえ、河の向こう側に渡す舟で歌っていたんだって」
「こ、こらっ!」
今まで微笑ましく見守っていた親たちが、慌てて子供の口をふさぎに来た。無神経な子供たちの発言に焦ったのだろう。
「姫様、申し訳ありません。この子に悪気があったわけでは・・・」
「え?大丈夫です。一人ぼっちは慣れていますから」
しかし、シェーナのずれた答えは、またしても大人たちを困惑させるものだった。シェーナにしてみればただの当たり前の事実でも、それが当たり前ではない人々にとっては重い話だ。顔を見合わせている彼らに、ようやくシェーナは自分がまずいことを言ったのだと気が付いた。
「あ。え・・・えっと、あの、今はカナス様とか・・・ジュシェとかニーシェとかたくさん、居てくれるので、寂しくないです」
付け加えると、あきらかに皆がほっとした顔をしているので、シェーナは自分の返答が正解だと思って胸を撫で下ろした。
すると、口を押さえられていた男の子が、母親の手をどけて突然言った。
「じゃあ、カナスさまに歌ってもらえばいいじゃん」
「こら!またこの子は・・・っ」
「ひめさま、カナスさまと仲良しなんだろ?だったら、そうすればいいよ」
そうだそうだ、と他の子供たちからも声が上がる。
「え・・・、えっと、カナス様は、歌は・・・歌わないと思いますけど・・・」
というか想像ができない。
シェーナが奇妙な想像しかできず困っていると、周りの大人たちも同じ気持ちだったのか小さく肩を震わせていた。
「なんでー?ひめさま、たのんでみなよ」
「カナスさまって何でもできるすごい人ってお父さんがいってたよ。んっとね・・・ぶんぶんりょうどう、だっけ?」
「ちがうよおにいちゃん。ぷんぷんだよ」
たぶん、この兄弟は文武両道と言いたいのだろう。微笑ましい間違いにシェーナや他の大人たちはくすくすと笑った。
「でも歌はなあ、いくらカナス様でも」
「凛々しい“軍神”の名が下がってしまう感じがするわね」
アキューラでは戦地の英雄として名をはせるカナスにはやはり女々しいイメージは似合わないと彼らは言う。するとまた別の子供が爆弾を投下した。
「でも、カナスさまだって、じぶんの子供には歌ってあげるでしょう?だったら、ひめさまにも歌ってくれるよ、きっと」
「え?」
その威力は絶大で、その場が一気に静まり返る。その子の親は青ざめて、わが子の口を両手で覆った。
その場で唯一何も分かっておらず、きょとんとしたシェーナに、親が傍に居ない子供が続きを引き継ぐ。
「カナスさまにはね、赤ちゃんがいるんだよ。その子に会いにいってるから、いまいないんだって。ひめさま、しらないの?」
「赤ちゃん、ですか?」
「んとね、おかあさんがね、子供がいるのにケッコンしてあげないのはひどいねって」
「・・・え・・・」
がんっと頭を鈍器で殴られたようだった。血の気を引かせたシェーナの耳に、情報源の子供をどうにか連れ出そうとする大人たちの声がかすかに届く。
(・・・子供・・・?カナス様の・・・?)
地面がぐるぐると回っているような気持ちの悪い感覚にシェーナが酔っていると、矍鑠とした老人の厳しい声が割り込んできた。
「そうじゃ、あのだらしのない王子めが」
声の主は、杖をつき真っ白な髭をたくわえた老人だった。
「上辺に騙されてはいかん。あちこちに愛人をつくるだけに留まらず、子をなした娘を側室に迎えてやることもなく日陰の身に捨て置くとは。本性ここにみたり。結局あの若造の性根は父王と同じ、腐っておるのだわ。この病院の再建も所詮は人気取りよ」
「じいさん!あんたここの世話になってるくせになんてことを言うんだ!」
「ふん。わしとてこのようなところにいたくはないわ。無理やり入れられたんじゃ」
「だったら出て行けよ!入院したい奴はたくさんいるんだ!あの方に文句があるなら、公衆病院がなかったころと同じように街医者にかかればいいだろ!かかれれば、だけどな」
「腰抜けが。アキューラに領土を奪われ、傷つけられた怒りはどこにいったのじゃ。牙だけではなく民族の誇りもなくしたか」
「なんだと!」
「そもそもアキューラとは敵同士。どれだけの同胞がアキューラ人の手にかかったか。それを思えば、狂王の息子がわれらのために尽くすのはせめてもの罪滅ぼしとして当然ではないか」
「そんなカビの生えたような昔話をいつまでひきずっているんだよ。ここがアキューラの領地になる前だって、別の領主に搾取されていただけじゃないか!貧しくてろくに食べていけなかったのを、変えてくださったのはカナス様だろ!感謝こそすれ侮辱するなんて・・・!」
「何も知らぬ若造が・・・」
「この石頭のもうろくじじい!」
「あ・・・あの、喧嘩は、やめてくださ・・・」
一発触発になった老人と血気盛んな男性を見て、親たちは子供を連れて去り、それができなかった子供たちはシェーナの後ろに隠れてしまっている。
シェーナとて怖かったが、どうにか場をおさめようと立ち上がった。
すると若い男性のほうはちっと舌打ちをしつつも「すみません」と頭をさげてくれた。だが、苛立ちはおさまらなかったのか近くにあったバケツを蹴ってその場を去っていく。
一方、老人はそのしわくちゃの皮膚に埋もれている小さな目でシェーナを見つめていた。
「神国フィルカの“歌使い”の姫が、神をもおそれぬ野蛮人の慰み者とはなんとも嘆かわしい」
「え・・・」
「あなたもまた、あのリベカと同じ運命たどろう。その前に、はよう逃げなされ。あの男はあなたのように性根の美しい娘が信ずるに値しない、非道な男だ。利用され捨てられる前に、ここを去りなされ。フィルカの聖女よ」
不気味な表情でそう告げた老人は、かつかつと杖の音を響かせながら病院の奥へと姿を消した。
「シェーナ様!何事でしょうか?!」
遅まきながら騒ぎを聞きつけた兵たちがやってきたのを見て、シェーナはぺたん、と崩れ落ちた。
頭の中がもうぐちゃぐちゃで、何を考えたらいいのかすらわからなかった。
その日の夜、シェーナは久しぶりに熱を出した。
繰り返し繰り返し見る夢は、カナスと誰か知らない綺麗な女の人と、その腕に抱かれている赤ん坊の姿。手を伸ばしても全く届かない、幸せそうな家族の姿。
(カナス様・・・っ)
呼んでも、見送ったあのときとは違ってカナスは振り返ってくれない。シェーナは一歩踏み出そうとして、ずるりと暗闇に引き止められる。真っ暗な黒い霧のようなものが、黄色に光る怪しい目をぎらつかせてシェーナを覗き込んだ。
(ひ・・・っ!)
『お前に、あそこにいけると思うのか?父親にも愛されなかったシャンリーナのお前が。あの温かい場所にいけると思うのか?自分も幸せになれると思うのか?』
闇は囁きかけてくる。
『立場をわきまえよ。お前は呪われた子。存在自体が罪の子供。何かを望んではならないのだ』
光る目を持つ霧の形が、父親になった。
『償いなさい、生涯をかけて。生まれてきたことを、償いなさい。お前は、常に人を不幸にするのだから』
(・・・おとう・・さま・・・)
『誰かに愛されることを望むなど、業腹も甚だしい。わきまえなさい、自分の立場を』
(・・・・・・・)
どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
繰り返し繰り返し言われてきた言葉なのに。
どうして今、頷くことをしたくないのだろう。
理由はわからなかった。けれど、シェーナの中に芽生えた何かが、従順にすべてをあきらめていた頃に戻りたくないと叫んでいる。
(・・・や・・・です・・・)
『何・・・?』
(いや、です。私だって、誰かに愛してもらいたい。ひとりぼっちに戻りたくないっ)
『生意気な小娘めが・・・!!』
シェーナの慟哭に怒りを称えた闇が、襲ってくる。全身に巻きついて、ばらばらに引きちぎろうとするくらいに締め付けてくる。痛みで呼吸もままならない。
(・・・く・・・・、・・・るし・・・い・・・、た・・・すけて・・・)
「・・・・ナ・・・」
「・・・・っ・・・」
「シェーナ!」
せめて息苦しさから逃れようと手を伸ばした瞬間、自分を呼ぶ声にはっと目を覚ました。びくんっと全身が一度硬直し、すぐに弛緩する。
「滅茶苦茶にうなされてたぞ。大丈夫か?」
「・・・・カ・・・ナスさま・・・?」
冷や汗で額に張り付いているシェーナの前髪を掻き揚げて、青い瞳の彼は自分の額と温度を比べているようだった。
「熱いな。風邪ひくなっていっただろうが。また無茶したのか?」
「・・・いつ、お帰りに・・・?」
「少し前だ。そうしたらお前が寝込んでいると聞いて・・・起きれるか?それなら水飲んだほうがいいぞ」
シェーナは言われるまま半身を起こし、グラスに注がれた冷水を口に含む。冷たい水が喉を通っていくと、どきどきと早鐘を打っていた心臓がゆっくり静まっていくようだった。
そんなシェーナの頭を、カナスは撫で続けていてくれる。
「それにしても、怖い夢でもみていたのか?あんなにうなされるなんて滅多にあるもんじゃないぞ」
「・・・夢・・・」
その温かさにとろりとなっていたシェーナは、はっと目を見開いた。ある種の恐怖を抱いた瞳でカナスを見上げると、彼はすぐにその感情に気が付いたようで意外そうに眉をそびやかした。
「どうした?俺がどうかしたか?」
「カナス様は・・・、い、今まで、どちら・・・に?」
「ああ。帰ってくるのが遅くなって悪かった。2つ隣の都市のレギーダというところにいたんだが、案外いろいろと手間取ってな」
「ど・・・どうして・・・ですか?」
「どうして?どうしてって・・・もしかしてなんでそんなところに行ったのかって聞きたいのか?」
こくん、と頷く。
「何で?お前、そんなんに興味もったことなかったじゃねえか」
「で、でも、知りたいです」
強固に言い張ると、彼は弱ったな、と口の中だけで呟いて、頭を掻いた。それからシェーナの髪のてっぺんをくしゃくしゃと混ぜる。
「なんつーか、昔の知り合いがそこにいてな。ちょっと訳ありなんだ、そいつ。だから住むところとか、いろいろ世話してやってるんだよ。そいつに会いに行ってただけで、また戦争が起こるからその準備とかそういうんじゃ全然ないぜ?」
曖昧な説明するカナスに、シェーナの胸の内は深く沈んだ。
顔を曇らせたシェーナをどう思ったのか、カナスは「まあ、あれだ・・・」と奇妙な口ごもりをする。
「お前が心配するようなことは何もねえってことだ。さあ、もう寝ろ。また熱があがるぞ」
「・・・・・はい」
確かに頭がくらくらとする。こんなことでは、ちゃんと話せない気がした。
カナスは再び横になったシェーナにシーツをかけてやりながら、ぽんぽんとその背を叩く。
「寝ろ。ここにいてやるから。またうなされたら起こしてやる」
「・・・・いいです」
「え?」
「いいです。カナス様もお疲れでしょうから、お部屋でお休みになってください。風邪かもしれないし・・・ここにいてうつってしまったら大変です」
「別に俺は・・・」
「それに。・・・それに、一人にしてください。一人で眠りたいんです」
優しい申し出をシェーナは頑なに突っぱねた。カナスが絶句している気配が伝わってくる。それでも彼に背を向けたまま、シェーナは振り返らなかった。
「わかった。じゃあ、出て行く。ゆっくり休めよ」
「はい。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
かつかつかつ、ぱたん、と。
部屋の中から人の気配が消えた。その途端、眦から涙が零れ落ちる。
何故だか分からないけれど、涙が止まらなかった。
シェーナはシーツの中で、声をあげぬまま、ただ肩を震わせていた。
それからシェーナは徹底的にカナスを避けた。
とりあえず姿を見つければ逃げ、話しかけられても逃げ、業を煮やして追いかけられたときは小さい体を生かして隠れた。
とはいえ、いつまでもそんなことが続けられるわけもなく、ため息をついてとぼとぼと歩いていたところを待ち伏せされてつまみ上げられた。
「何なんだよ、お前は。この間からおかしなことばっかしやがって」
そのまま連行されて椅子の上に正座をさせられたシェーナは、先ほどからずっと下を向いている。
「何があったんだよ。俺がいない間に、誰かから何か聞かされたのか?」
「・・・・・いえ、何も・・・」
「言いたいことは人の目を見て言えと教えただろ」
だが、カナスはかなり苛立った様子でシェーナの両頬を掴んで自分の方を向かせた。視界に広がった彼の怒っている表情に、シェーナはぎくりと顔色をなくす。こういうときのカナスはとても怖い。
「シェーナ、もう一度聞く。何があったんだ?」
「あ・・・あの・・・」
当初刷り込まれた恐怖のせいで、がくがくと震えていると、彼はちっと舌打ちをして寄せていた顔を離してくれた。そのまま両手をあげて数歩後退し、距離をとる。
「また気絶でもされたらたまったもんじゃないからな」
だが、口調は相変わらず怒っているので、シェーナの怯えはなくならなかった。おどおどと視線を下に向けるシェーナに、カナスが問いかける。
「何なんだよ、また神サマか?」
「ち・・・ちがい・・・ます」
「違うのか。じゃあ、何だ」
「・・・・・・」
またしても黙り込んだシェーナを、彼はしばらくの間辛抱強く待っていた。だが、それでもシェーナが口を割らないのを知ると、はあっと思い切りよくため息をつく。
「そんなに嫌ならもういい。要は俺が近づかなきゃいいんだろ」
「え・・・・」
「無理強いして悪かった。そこまで嫌がられてるとは思ってなかったんでな」
「・・・・っちが・・・!」
シェーナはただ、自分の中で感情を持て余しているだけだけだ。カナスが嫌いなわけではない。
(嫌われる・・・?!)
投げやりな口調にぞっとして、彼女は慌てて背を向けたカナスを引き止めた。
「待ってください!あの・・・っ、リベカって人を知っていますかっ?」
しかし焦りすぎて、いきなり胸に秘めていたはずの疑問をぶちまけてしまった。部屋を出て行こうとしていたカナスが、驚きの表情で振り返る。
「お前、その名前をどこで・・・」
「病院で、お、おじいさんが・・・・そうやって・・・」
「じいさん?・・・もしかして、頭が禿げてるくせしてやたら長い白髭を伸ばしてて、杖をついてる目つきの悪いじいさんか?」
頷くと、彼は肩で息を吐いた。なにか、あきらめたような様子だった。
「そうか。だから・・・。どうせあのじいさんのことだ、俺に対する罵詈雑言を並べ立てていただろう?」
「・・・あの、カナス様には、小さな御子様がいるというのは、本当ですか?」
どうせだったら聞いてしまおうとシェーナは勇気を出してそれを口にした。だが返ってきたのは至極あっさりとしたものだ。
「本当じゃない」
「・・・えっ?」
ふうっとため息をついたカナスは、ドアのところからまたシェーナの椅子の前まで戻ってきた。
「で、でも!おじいさんだけではなくて、みんながそう・・・、カナス様にはまだ赤ん坊の子供がいらっしゃると・・・」
屋敷にいる女官たちからちゃんと聞いたのだ。
彼には1歳くらいの隠し子がいて、時折ふらりといなくなるのは、その子と母親のところに通っているらしい、と。近隣の都市で、子供を抱えているカナスの姿を見たとの証言がいくつもある上、屋敷内でも子供の話をする彼の言を聞いた者がいるのだそうだ。たくさん愛人説はガセだが、モテるのは本当だし、あの人なら子供の一人や二人いてもおかしくないし、で、信憑性が高いのだ、と付け加えてもらった。どうして子供ごと傍においてあげないのかについては、身分違い説、不倫説など諸説あったが、とりあえず彼女たちの一致は、いくら女たらしでも、子供ができたなら責任はとるべきで、薄情だということらしかった。
「なんだそれ」
カナスは頭が痛そうにこめかみを人差し指で押さえた。
「ここの奴らはどいつもこいつも俺のことを何だと思ってやがるんだ?」
「えと、女たらし、ですか?」
「言わなくていい。お前に言われるとへこむ」
「す、すみません・・・」
しゅん、といったん頭を下げたシェーナであったが、すぐに顔を上げた。
「あの、本当じゃないって・・・?」
「ん?ああ、誤解だ、誤解。っつっても、わざと誤解させてる自覚はあるんだがな」
「誤解・・・ですか?え・・・お子様がいらっしゃるというのが?リベカさんという方はそのお相手ではないのですか?」
「待て。ちゃんと説明してやるから」
混乱を生じたシェーナの肩をぽんっと叩いて、カナスは隠された真実を教えてくれた。
確かに彼がレギータに行ったのは、リベカという女性に会うためだったという。
リベカはもともと彼の世話係をしてくれていた女官の一人だった。気立てがよく、器量も良かった彼女は父王の目にとまり、やがて戯れに手を出されたのだという。けれど、純粋なアキューラ人でもなく奉公にあがる程度の家柄の彼女を、父は側室にすら迎え入れる気はなく、適度に遊ばれてやがてぼろきれのように棄てられてしまった。そのやり方もえげつなく、飽きた女が視界に入るのも目触りとばかりに王宮から追放し、首都の市民権も剥奪してしまった。市民権がなければ奴隷の身分まで落ちるしかない。
何年も仕えてくれた彼女が父の気まぐれでそのような不遇に合うのが気の毒で、カナスは当初、自分が持つ別の屋敷で彼女を働かせようとした。しかし、そこで困ったのは彼女が国王の子供を既に身ごもっていたことだった。それが国王に明るみに出れば、リベカは殺されてしまう。そこで、彼は自分の影響力が強い南方のレギータに居を与え、働けない彼女のために定期的に訪れて世話をしているのだ。
「ま、待ってください。どうして、子供がいると、こ、殺されてしまうのですか?」
「・・・あいつは、自分の血を引く子供をひどく嫌う」
「え・・・?」
「王位を継ぐことができる資格をもつ王子は特にな。グラウスはまだ子供だし、亡国の王族の血を引いてるから王位を継ぐことを阻止するのは容易だからいいとして、純アキューラ人の俺なんか目障りの真骨頂だろうよ。前に言っただろう?あいつはできるだけ長く王位に留まり、自分の権力を維持し続けていたいのだと」
リベカはもともとがカナス寄りの娘だった。そのリベカが自分の子供を、それも男児を産めばカナスと結託して王位をねらうかもしれない。用済みの女にそのように煩わされるくらいならば、消してしまえ。これが国王の思考なのだとカナスは嫌そうに説明をしてくれた。
「だから、リベカを守ってやる必要があった。子供の存在も、父にはばれないようにしなければならなかった。いつ秘密がばれるともしれないから、リベカは肉親のもとに帰ることができないし、人目を避けるように生活をしていて他に面倒を見てくれる人間がいないんだ。腹の大きい頃はよく行っていたから、見られていたんだろうな。だからといってどう否定していいのかもわからんし、ほっといたらいつの間にか俺の子供にされていた。まあ、こういうわけだ」
「・・・そうなんですか・・・」
「ちなみにその病院にいたじいさんってのは、リベカの一族の長で、彼女の祖父だ。ティカージュがまだアキューラの支配下になかった頃に、このあたり一帯を治めていた国の大臣だった人で・・・幼いリベカを人質代わりに奉公に上がらせることになって、その上、この先、日陰の身をよぎなくされたんだ。当たり前だがアキューラをひどく憎んでいる」
シェーナはあの老人の目つきを思い出して、ぞくっと身を震わせた。そんなシェーナの肩を、カナスは安心させるようにぽんぽんと叩いてくれる。
「下手にこのことが知れて、リベカやその子供が狙われるかもしれない。だから、このことを知ってるのはラビネとグィンそれにイマル、あとレギーダでリベカの世話をしているグィンの母と叔母くらいなもんだ。屋敷に残っていた連中は知らないから、仕方がないが・・・一応、あの噂は伏せておけと言ったんだがな」
まさかあのじじいが、とカナスは毒付いた。
「・・・でも、病院で患者のみなさんも知っていました」
「あ?」
「最初は、子供たちに教えてもらったんです。カナス様だって、自分の子供には子守唄を歌ってあげているだろうと」
「・・・・そうか。噂ってのは足が速いもんだな」
ふいに、カナスは真剣な表情になった。
今までレギーダだけだったものが、こうやって二つ隣の都市の下層にまで広まっている。このままじわじわと広がっていけば、遠くはなれた首都に暮らす父の耳に入ってしまう。とはいえ、各地区の貴族は確証が取れるまでは下手なことは上申しないだろう。できればその前に・・・。
「カナス様?」
そんなカナスの思考など読めるわけもなく、シェーナはただ首をかしげた。
「あ・・・いや。ところで、お前、それで機嫌が悪かったのか?俺に子供がいると思ったから?」
「え・・・っ、あ・・・あの・・・」
鋭い質問に、シェーナはそうだともちがうとも言えずにうろたえる。
「何だ、他の女がいると思って怒ってただけか。やきもち妬くなんて、また珍しいってか、初めてだな」
「やきもち・・・ちっ、ちがいます!」
(そんなまるでカナス様をひとりじめしたいというようなことなんて・・・そんな大それたことなんて!)
大それたこと、そう自身で思った瞬間、シェーナの背筋にぞっとしたものが走り抜けた。何かがわからないけれど、ひどく恐ろしい。
「なんだよ、照れなくても・・・」
「違います!!」
だから、納得しながら嬉しそうなカナスの言葉は、とにかく全力で否定した。
「シェーナ?そんなに声張り上げるほどやきもちって思われんの嫌なのか?それは少し傷つくぞ」
からかうような口調のカナスの顔には、苦笑が浮かんでいた。しかし、それを認識する余裕はシェーナにはない。ただ、どくんどくんとやたら大きくなった心臓の音を感じ、喉までせりあがってきた恐ろしい何かにおびえていた。
「私は・・・私は、そんな・・・そんなつもりじゃ・・・そんな風に思ったらいけないんです。カナス様が他の誰と一緒にいられようが、それを嫌だなんて思ったら、そんなこと・・・っそんなことを思ったら駄目なんですっ!」
「・・・シェーナ?」
そのうちに感情がかなり高ぶってしまって、カナスの不審そうな声にも止まらず、シェーナは頭を抱えた。
「私は、望んじゃいけない。罰当たりなことだから、カナス様が、他の方を大切にしていても、私はそれをど、どうにもできなくて、それを悲しいって思うなんて、駄目だって!私は何も望んだりしたら・・・ごめんなさい、お父様!ごめんなさいごめんなさい・・・っ」
「っおい、落ち着け」
シェーナは恐慌し、謝り続ける。恐ろしいものの正体はいまやシェーナの中ではっきりと像を結んでいた。
シェーナの脳裏に繰り返しよみがえるのは、鞭を振るう父の姿。無邪気に寄ろうとして振り払われ、穢れと罵られた。どうして本の中の父親のように手をつないでくれないのか、抱き上げてくれないのか、頬をよせてキスをしてくれないのか、わめく幼いシェーナに、与えられた罰だった。
“そなたが愛されることを望むのか。我が国に災いを招くそなたが、何故愛されると思うのか。望んではいけない。すがってはいけない。そのたびに、そなたは人を不幸にする。その運命の下に産まれた哀れな子よ。愛されようと望むではない。執着を持つでない。それは心の平穏を乱し、醜い感情を呼び覚ます。やがてそれは神の怒りに触れ、一層の災悪を招こう。何も望まず、心穏やかに清廉な気持ちで、神に尽くし続けない”
呪詛のようにシェーナを縛り続けた言葉。
それが、自分の中の感情に名前がつけられた瞬間に、再びシェーナを闇に引きずり込んだのだった。
いままでただシェーナはカナスが居てくれてただ、嬉しかった、楽しかった。カナスは時折怖いけれど、優しい人だったから。けれど、その優しさが他の人に向いているのだと知った瞬間、ひどく収拾のつかない嫌な気持ちに変わってしまった。
胸の中を重くするこの感情が“嫉妬”という執着からのものだったとすれば、それはシェーナの罪だ。嬉しいの中に、禁じられていた気持ちも芽生えていたのだ。
だから、父は夢に出てきた。シェーナを戒めるために。今一度、思い出せと。シェーナが何者か、どれほど罪な存在なのかを。
“お前は神に見捨てられた子供なのだから――・・・”
喉の奥で、悲鳴が押しつぶされた。恐怖に心が真っ黒に染め上げられる。
「何も望んでない、何も何も何も!だから、誰も不幸にしないで。私のせいで、カナス様を不幸にしないでください。撤回します。愛されたいなんて望まない、一人ぼっちでもいい。だから、私のせいでカナス様を巻き込まないでください。罰を受けるのは私だけで十分です。こんな醜い私だけで十分です。だから、ごめんなさい、許してください許してください・・・っ」
「シェーナ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさ・・・」
「落ち着け。大丈夫だ、何も起こらない。怖がらなくていい」
カナスは頭を抱えて嘆き泣くシェーナを抱えるように抱きしめた。だが、シェーナは幾度も首を振る。「駄目なんです。私は、誰かに望んではいけなかったのに・・・それなのに、こんな、醜い気持ちを抱えて・・・私は・・・そばにいてほしいと、私のことを、愛して欲しいと、そうやって望んでは・・・だめだと・・・あ、あんなに教わったのに・・・それなのに・・・・・・っ」
「いいに決まってるだろ!何が悪いんだ!」
「駄目です、私はシャンリーナだから・・・の、望むと、その人をふ、不幸にすると・・・」
「馬鹿!俺は不幸じゃねえぞ。むしろお前がそう言ってくれて嬉しいし、逆に幸せだって自信をもって言ってやるよ。お前の神サマとやらに」
そんなシェーナの頬をつかみ、瞳を覗き込んだカナスは語気荒く言った。
「カ・・・カナス・・・さ、ま・・・?」
「お前、俺が他の女のこと気にかけてるのが嫌だったんだろ?子供がいると思ったら、嫌だったんだろ?それは、お前が俺のことを少しは好きでいるってことだろうが。それで、なんで不幸だよ?むしろ有難てえって思うだけだろ」
「・・・で、でも・・・私、こんな、嫌な・・・嫌だって、そういう気持ちが・・・」
「当たり前だろ、お前は人間なんだから。嬉しいことがあれば、嫌なことだってある。楽しいときがあればつらいときだってある。マイナスの感情を持って何が悪い?」
「で・・・も・・・」
「だったらお前の神サマに言ってやるよ。ざまあみろ、ってな。いくら敬虔に尽くされても、お前はシェーナに嫉妬されるほどの執着を持たれるほど好かれてるわけじゃない、ってな」
「・・・カナス様・・・っ」
どうしてこんなにも不信心な言葉なのに、シェーナの体は歓喜で震えるのだろうか。彼は、どうして苦しくて苦しくて仕方なかったものを、すとんと消してしまえるのだろうか。
「ありがとな。お前は苦しかっただろうが、俺はお前が嫉妬してくれて嬉しい」
「・・・・・・っ・・・」
「シェーナ、いいんだ。人間が愛されたいと望むなんて当たり前なんだから、いくらでも望んだっていい。なにも我慢する必要はない」
カナスの声はゆっくりゆっくりとシェーナの中に染み入ってくる。かつて父親につけられた鎖が、彼の言葉で少しずつ外れていく。
「お前は愛されるに値する人間だ。素直で、純粋で、優しくて。俺よりもずっと愛されてしかるべき人間なんだよ。それでもお前は誰からも愛されないと言い張る奴がいるなら、あざわらってやる。俺はお前を大切に思っているし、可愛いとも思ってる。これでそいつの言葉は確実に覆されただろ。最低限、俺という人間はお前を愛しいと思っているんだからな」
「・・・う・・・あああぁ・・・っ」
シェーナは、ぎゅうっとカナスの肩のあたりを握り締めて、声を上げた。涙と嗚咽がこぼれて止まらない。それを恥ずかしいと思わなければいけないと思うのに、カナスがずっと頭を撫でていてくれるのにむしろ安堵してしまった。
(温かい・・・)
頬を寄せる胸は温かく、耳に聞こえる鼓動は穏やかだった。
シェーナの凝りを取り除いてくれるのはいつもカナスだ。彼は、誰も与えてくれなかったものを、シェーナに与え続けてくれる。
彼が自分にとって特別な人だと、シェーナでも分かる。けれどその感情はとても不思議なものだ。
ぽかぽかと陽だまりのような暖かな気持ち。そして、氷の下の湖のような暗い気持ち。反すると思うのに、両立するその感情は何なのだろう。
(・・・でも、こうして・・・そばに、いてくれればなんでもいい・・・)
泣くというのは疲れる行為だ。
それを教えてくれたのもそういえばカナスだった。ナルが、死んでしまったあと、あのときもシェーナをこうして抱いていてくれた。
(ずっと・・・いてくれたら、いい・・・のに・・・)
快い疲労感に包まれながら、シェーナはすぅっと眠りに落ちていた。
幸福な夢を抱いて。
# #
「刷り込み、か・・・」
「はい?何かおっしゃいましたか?」
「いい。お前には何の返答も期待してない」
「ひどいです!たまにはお役に立つかもしれないでしょう。さあ、どーんと聞いてください!」
「いや、万年、女に振られるしか能のない奴に聞いても仕方ねえ」
「・・・っ人の傷を簡単にえぐりますね、あなたは!」
「事実だ」
さっくりと自分の乳兄弟を切り捨てたカナスは、やれやれと視線を膝に置いていた本に落した。
「珍しいですね、カナス様が心理学の本をお読みになられるなんて」
すると、すぐさま復活したグィンが覗き込んでくる。カナスはまだ居たのかという目つきで彼を見た。「心理戦はお得意じゃなかったんですか?今更なんのお勉強を?」
「うちには、成長途中のまっさらな子供がいるんでな。歪ませたらまずいだろ」
半分適当な答えをするカナスに、グィンは納得顔で頷く。
「ああ、シェーナ様ですか。日に日によく笑うようになっていかれましたね。初めてお会いしたときは表情も少なくて、怯えてばかりでいらしたのに。この間も、“がんばってください”とそれはお可愛らしい笑顔でお言葉をかけてくださって・・・・」
思い出したのか、うっとりとした表情を作るグィンを、カナスは今度こそ本気でにらみつけた。それに気がついたグィンがびくっと引きつった表情をうかべ、慌てて部屋の隅まで後退していった。
「あ、や、じゃ、じゃあ私はこれでっ」
そのまま逃げ出したグィンにちっと舌打ちをして、カナスは再び書へ視線を落した。
「グィンが血相を変えて逃げていきましたけど、何か?」
するとくすくすと笑いながらラビネが入ってくる。グィンとの会話を聞いていたに違いないのに言わないところがこの男のいやらしいところだ。
「シェーナが可愛いんだとよ」
もう隠すのも面倒で言ってしまえば、ますますラビネの笑みは深くなる。
「ああ、すっかり皆に猫かわいがりされていらっしゃいますからね。人間、あんなにも邪気のない笑顔を向けられれば、ほだされて当然でしょう。とはいえ、シェーナ様が歌っていらっしゃる間は、皆の手が止まって少々困っておりますが」
「ああ・・・最近、歌を作るのにはまってるらしいからな」
病院に来る子供たちに聞かせるのだと、シェーナは嬉しそうに言っていた。カナスが小さなオルガンを与えてやったのも、それに輪をかけているらしい。
「未来の妃殿下が人気者なのはよいことではありませんか。民もみな、あの方なら、と歓迎なさっていますよ」
「・・・・・・・」
だが、ラビネの言葉にも、カナスは不機嫌そうな表情を崩さなかった。
「シェーナ様が誰にでも笑いかけるのが気に食いませんか?」
「・・・別に」
その言い方はそうだと言っている様なものだった。それに自分で気がついて、ますますカナスは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「そんなにご心配なさらずとも、シェーナ様が貴方様を一番慕っていらっしゃることは変わりませんよ」
ラビネが笑うのも無理はなかった。
この頃のシェーナはカナスを見つけると、誰よりも嬉しそうな顔をして、とてとてと雛鳥のように寄ってくる。忙しいと拒絶すればこっちが切なくなるほど悲しそうな顔をするので、シェーナを溺愛しているジュシェやニーシェ以外の女官にも、ひどいと総攻撃に合うほどだ。
そんな素直すぎる感情表現をするシェーナだから、誰の目からもカナスのことが好きで仕方がないのだということが見て取れた。だが。
「・・・雛が初めて親鳥を見たのと同じだ。ただの・・・刷り込みだろ」
カナスはふっと息をついて、本を投げ出した。
愛されることを望んではいけないと言ったシェーナ。そんな彼女に、“愛しい”という言葉を与えたのはおそらくカナスが初めてだったのだろう。
だから、シェーナは懐いてくる。けれどそれは、子供が親に抱く、無邪気な慕わしさで。
ただ、シェーナは肉親の愛情を求め続けているだけだ。
そもそも、あんなパニックになった“嫉妬”という感情も、カナスの知っているものとは違う。
外へ連れ出してくれた初めての人間。
たぶんシェーナの中ではそんな位置づけで、「初めて」だから特別で、置いていかれるのではないかと不安になった。そんなところだろう。
どれもこれも、何かが違う。
シェーナを可愛いと思っているのに、そんな慕われ方はわずらわしいような、重いものに感じてしまう。
だったら、何ならいいのかと言われれば答えられないのだが。
(違う、俺の答えは分かってるんだ。だが、それが「正解」かどうかがわからない)
「迷ってらっしゃるようですね。まだ、答えは出ませんか?」
問いかけるラビネを、カナスはじろりとにらんだ。とはいえ、グィンのように血相を変えたりはしない。嘆息して、カナスはいつもの視線を向けた。
「イマルが言っていたぞ。ラビネはおそらく勘違いしていると」
「おや。あの方がそんなことをおっしゃいましたか?」
「シェーナは不憫すぎると。性根が綺麗過ぎるがゆえに犠牲的精神が強くて、いっそ哀れだと。“憐憫”を抱いて“同情”するのは当然だろうってな」
「確かに。けれど、私はイマル医師とは違う答えを導きますね」
「何?」
「聞きたいですか?」
ふふっと笑うラビネにむっとしながらも、カナスは視線で先を促した。
「それですよ」
「あ?」
「あなたが、私などに意見を求める。それが答えです」
謎かけのようなラビネの答えに、カナスの眉間のしわが深くなった。それを見て頃合と思ったのか、ラビネはぱさりと腕に抱えていた書類をサイドテーブルに置いた。
「控えさせておいた駐屯団からの連絡です。こちらは本国からの指令書になります」
「・・・これは・・・!」
はっとカナスの顔つきが変わる。ラビネは頷いた。
「早く、答えを見つけられるといいですね。心の迷いは剣に出ます」
「・・・・そんなことでドジを踏んだりはしない」
「もちろん。この私が全力でお守りしますよ。あなたは、この国の未来になくてはならないお方ですから」
「準備は?」
「着々と」
「そうか」
どさりと深く椅子に腰掛けなおして、カナスは両手を組んだ。そんな彼を一人にすべく踵を返したラビネは、それでも部屋を出て行く寸前、こんな言葉を残していった。
「あなたは、正義感が強い人です。だから弱い人間を見捨ててはおけない。けれど、リベカとシェーナ様、何が違うのでしょうね?私が言いたいのはそういうことです」
ぱたん、と閉じられた扉を瞳に写して、カナスはふぅっとため息をついた。
(リベカのときと何が違うか?何もかもが違げえよ。リベカは俺より年上で、しっかりした女だった。シェーナは、危うい。まだ、まっさらな子供だ。俺次第でどうにでも変わっちまう。どうするか迷っても仕方ねえじゃねえか)
こちらを向かせようとすれば簡単に向いてしまう、可愛い少女。自分が変えたと自負のある純粋な少女。彼女が“特別”だという自覚はある。
だがそれは親みたいな気持ちなのだろうか。けれど、親兄弟になってやりたいわけじゃないとはっきりいえる。他の奴に笑っているとむかむかする。笑えてよかったな、とただ思う時期は過ぎた。
では、女としてみているのだろうか。けれど、庇護する気持ちが強すぎて、欲望を抱いたことなどない。
ラビネは、カナスが迷っているというその事実こそが、答えなのだと言いたいのだと知っている。カナスとて最初はそう思った。だが考えれば考えるだけ、違うような・・・そうであるような・・・定まらないものがどんどん膨らんでいく。
「・・・わかんねえ」
カナスは思い切り天井を仰いだ。
「そもそも俺がどう思ってたって、あいつが“刷り込み”なのは変わんねえじゃねえか」
親に対するような感情を捻じ曲げていいはずもない。
シェーナは他を何も知らない。ただ、「初めて」だから懐いているだけ。本当にカナスという人間が好きなのかもよくわからない。あの状況で差し出された手があれば、自分ではなく他の誰かに懐いていただろう。
それを考えてカナスはむっとした。むっとするってことは、そうなのか、とまた自問する。答えはわからない。自分のことなのに。
(・・・駄目だ、集中しなければ。ラビネの言ったとおりになっちまう)
カナスは首を振って、書類を手に取った。
『ザイーツ連合可決。ギルディ、イジィ、マーファン族支援策。数週のうちに国境付近において衝突の可能性』
『マモナク戦線布告ヲ行ウ。急ギ兵ヲ招集セヨ。敗走ハ許サレナイ』
どうして、平和は長く続かないのだろう。
ほんの数ヶ月の穏やかな虚像は、もろくも崩れようとしていた。