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虐げられた姫君は自らの歌を知る

設定が下手すぎて長さがバラバラになりがちですが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

ようやく4分の1くらいですが、最終話まで執筆済のため、毎日更新予定です。

その日はなんの変哲もない日常の一つのはずだった。

ある知らせが飛び込んでくるまでは。


「何だと!?ザリカナがっ?」

「はっ。昨晩、ロデート族と一部で交戦が起こった情報が。現在被害を確認させている最中です」


ザリカナはアキューラの支配下にある最南端の領地だ。小さな村が集まっているだけの地区だが、岩壁に囲まれた南からは難攻の場所。


「馬鹿な。何故こんなにも早く・・・。手を出すなと伝えたはずだぞ!」

「現場の指示は徹底していたはずなのですが・・・申し訳ありません!どちらから戦いを仕掛けたのか、何故そうなったのか、まるで情報が混線しておりまして、詳細は不明です」

「ここでぐだぐだ言っていても埒があかん。ザリカナに向かう。急いで出立の準備を」

「ははっ!」

「伝令兵!前線に伝えろ。戦線はその場で維持。領土外への侵攻は一切禁ずると」

「承りまして!」

「ラビネ、中師一団すぐにティカージュの二門に配備させろ。ザリカナには大師三団、戦馬二隊、衛固一班。追加招集はその都度だ。ティカージュ、ランドワス、リバーエイの全駐屯兵へ出撃準備を促しておけ」

「了解いたしました」

「最小限の身支度ができ次第俺は出る。黒馬(キーファ)の用意をさせておけ」

「はっ」

「ぐずぐずするな。事態は一刻を争うと思え!たるんでいる奴がいれば容赦なく張り飛ばせ!」


屋敷全体が、一瞬にして重苦しく、緊迫した空気に支配された。


ばたばたと兵士が走り回る音、命令を飛ばす声、不安にあおられた女官たちの囁き。

初めて感じる“戦争”特有のぴりぴりとした雰囲気に、シェーナはただただ呆然とするしかなかった。せわしなく行き来する人々を柱の影から怯えながら見ているだけのシェーナに、人の中心で指示をとばしていたカナスがふと気がついた。

彼は長い足ですぐに近づいてくると、顔色をなくしているシェーナの頭をぽんぽんと叩く。


「こわがんなくていいぞ。ここには誰も攻めてこねえから」

「・・・カナス様・・・は、せ、戦場に・・・行かれるのですか?」

「・・・悪いな。明日は、砂丘見せてやるって言ったのに。しばらくおあずけだ」

「そんな・・・そんなことは、どうでもいいです。戦争・・・ということは、人がまた、傷つくのですか・・・?」


シェーナの問いかけに、カナスは言葉を返さなかった。彼は、初めて見たときと同じ、温度を感じさせない、透き通った青い瞳でシェーナをただ見つめる。シェーナのお腹のあたりが、ちくんと痛んだ。


「・・・それが、俺の役目だ」

「カナスさま・・・」


かすれた声だけがシェーナの口からこぼれおちた。


「綺麗事だけじゃうまくいきっこねえ。俺たちの国は領土を広げている。その波に飲み込まれる前に一矢報いようと噛み付いてくる奴らもいる。そんな奴らから領民を守るのも俺の仕事だ。以前は違う国の奴らだったとしても、民族が違っても、今はうちの国民なんだ。支配下においた以上、他国から守るのは義務だ。ただ、あいつらにはあいつらの正義があるし、俺たちには俺たちの正義がある。どっちが正しくて、どっちが悪いなんて一概には言えない。ただ、はっきりしているのは、俺の邪魔をするなら、その敵は排除するまでということだけだ」

「・・・・・」

「お前に理解しろなんてことはいわねえよ。ただ、非難されようがなんであろうが、俺は俺の道を行く。それがどれほど他人を傷つけても、だ」


領土争い、というものを間近に感じたことがないシェーナは、カナスの言っていることの半分も理解できていなかったのかもしれない。

ただ、カナスの冷たい表情が、何故か悲しげに見えた。彼が、決して争いを望んでいるようには見えなかったのだ。

だからシェーナは何も言えなかった。肯定も否定も何も返せなかった。ただ、その真っ黒な瞳にカナスの表情を写し続けていた。まるで吸い付くように、お互いを黙って瞳に写し続ける。


「カナス様!御愛馬の支度が整いました」


背後からかけられた兵士の声に、カナスが「今行く」と振り返る段階になって、ようやくシェーナは金縛りから逃れた。そして今まさに踵を返したカナスの背を掴む。


「シェーナ?」

「あの・・・あの・・・」

「どうした?」

「・・・カナス様も、戦われる・・・の、ですか?王太子殿下なのに・・・?」

「ああ。人の影にいるのは好きじゃないんでな」

「で・・・っ、でも、お怪我を・・・もし、されては・・・」

「前線で命を張っている兵士がごまんといるんだ。奴らに命を賭けさせておいて、自分だけ安全な場所にいるなんてことは許されないだろう。俺を信頼して指揮を任せてくれている兵士たちへの最低限の誠意の示し方だ」

「そ・・・」


シェーナが言葉を失い、心配に瞳をゆらすと、カナスはにぃっと笑った。


「安心しろ。領内への侵入など一切認めない。そのようなことになれば”“軍神(ルカル)”の名が泣くからな」


シェーナの不安などお見通しのくせして、カナスはわざと違う答え方をする。


「お前はここでいつもどおりの生活をしていればいいんだ。この俺がいる限り、こんなところまで火種が波及することなどないのだから」


彼はぐしゃぐしゃとシェーナの頭を撫でた。


「屋敷の奴らに世話焼かせるんじゃねえぞ。よく食って、よく寝ろ。そんで背でも伸びたらめっけもんだな」

「・・・・?・・・・あ、の・・・ち、小さいほうが好ましいと・・・このあいだ・・・」


聞いたような気がする。

こんなときに聞く質問ではないのかもしれないが、シェーナはそのことに食いついた。思うままに話せと、最初から言い含められているからだ。

そして、その言葉は強くシェーナの中に残っていた。


あのときもこうやって乱暴ともいえる手つきで頭を撫でられていて、小さくて可愛いと言われた。そのあとで、「そのままでいろよ」と言われて・・・だから、シェーナはこのまま小さいままでいることを、自分に刻み込んでいたのに。

するとカナスは、あの夜と同じようにまたぷっと吹き出した。


「いや、まあ・・・ちっこくてもかまわねえけど。てか、覚えてたのか。あれはな、意味が違うんだよ」

「え・・・意味、ですか?」

「ああ。とはいえ、今は説明してやるだけの時間はねえし。ま、わかりやすくするとこういうことかな?」

「・・・・カナ・・・?」


くい、と顎を引っ掛けられ、シェーナの白い喉元がはっきりとさらされる。苦しくない限りで上げさせられたシェーナの幼顔に、かがみこむようにしてカナスが口付けた。


「!!」


突然唇をふさがれたシェーナも驚いたが、周りも一瞬ざわめいた。それで人がたくさんいるということをさらに意識させられたシェーナはびくんっと違う意味で硬直してしまう。

だが、すぐに口付けを解いたカナスはそんなシェーナの怯えに気がついてくれたのか、自分の胸にシェーナを押し付けた。そうすれば、小柄なシェーナは完全に外から見えなくなる。


「・・・ス・・・さま・・・どういう・・・」


動揺の中、思わず先ほどさえぎられた言葉の続きをつむぐシェーナの耳に、吐息で笑う声が届いた。


「今度は気絶しなかったか。えらいな」


まるで子供を褒めるような口調で彼は言う。そのあと耳元でぼそりと呟いた。シェーナだけに聞こえるように。


「小さいから可愛いってだけならこんなことしねえよ。その意味考えな」

「意味・・・?」


カナスは難しいことばかりをシェーナに要求してくる気がする。言葉の意味、行為の意味。シェーナはそんなものを考えたことがない。いつも与えられる“意味”は、憎しみか嫌悪、そして嘲りだけだったから。


けれどカナスは、いや、彼だけでなく外の世界には、たくさんの“意味”があった。分からないシェーナに彼はよく「考えろ」という。教えてもらうのではなく、考えろ、と。


そして考えるたびに、いろいろな感情を知る。少しずつ、それでも着実に、シェーナは籠の外に広がっていた世界に馴染んできていた。


「・・・わかりません・・・」


けれど、やはり今でも、カナスの言いたいことの半分もわからないままだ。今回も全く検討がつかない。素直に音を上げるシェーナに、カナスは瞳にからかう色を浮かべた。


「そりゃ、お前の頭じゃすぐにはわかんねえだろうよ。俺が帰ってくるまでには、分かってるといいな」

「カナス様・・・でもほんとうに、わたし・・・」

「じゃ、行ってくる」


戸惑いを色濃く滲み出したシェーナをさえぎり、彼はその頬に軽い音を立てて口付けを送る。

またしても突然のことに目を丸くし固まったシェーナの頭をぽふぽふと撫でたカナスは、それきり振り返らずにまた人の中心に戻っていった。


彼は二三言、ラビネと言葉を交わすと、そのまま廊下の先へその姿を消した。


「・・・あ・・・っ」


どうか危ないことは・・・いや、それは無駄であろうから、せめて怪我だけはしないでほしいと、そう伝えたかったのに、すっかりごまかされたことにシェーナが気がついたのは、それからさらに少ししてからのことだった。 

シェーナはまたしても黒い瞳を不安に揺らし、胸の前で指を組んだ。


(神よ、どうかカナス様にご加護を)


日ごろから信仰など馬鹿らしい、と公言してはばからない彼の身を神に祈るなどなんと都合のよいことか。滑稽で、冒涜に値する行為なのかもしれない。


それでもシェーナは、祈らずには居られなかった。

この戦いによって傷つくであろう多くの命よりも、まず栗色の髪の青年のことを。


***


それから三週間がすぎようとしていた。ここ何日かで届けられた報はすべて吉兆で、まもなく争いもアキューラの勝利で終結されるという。


「シェーナさま、シェーナさま!いいお知らせですよ!」


ティカージュの宮に来て以来、シェーナの世話をしてくれているジュシェとニーシェの双子の姉妹が、シェーナの部屋に笑顔で駆け込んできた。

シェーナの一つ上なだけの彼女たちは、アキューラの平均身長である164センチよりもうすこし大きく、体つきもずっと大人っぽい。そんな二人に囲まれているとシェーナは12くらいの子供にしか見えなかった。


そして、そんな幼い外見のシェーナを二人は本当の妹のようにひどく可愛がっているのだ。


まず姉のシュジェが、シェーナの両手を手で包み込んで、きらきらとした瞳でシェーナを覗き込んできた。


「早馬の情報によりますと、ザリカナの砦で休戦協定が結ばれるそうですよ。いえ、もうきっと、結ばれたはずですわ。やはり殿下はさすがです。傭兵稼業で栄えている暴れ者のロデート族をこうもたやすく鎮圧なさるなんて」

「“軍神”の御名は伊達じゃありませんもの。よかったですね、シェーナさま!殿下も、もうすぐお戻りになりますよ。やっとお会いできますねっ」


妹のニーシェは横からシェーナに抱きついてくる。そしてすべすべの頬にどさくさまぎれに頬摺りをした。


「ちょっと、ニーシェ!ずるいわよ、なにやってんの!」

「ジュシェこそ、手なんか握っちゃってずるいわ!片方私にも握らせて!」


きゃんきゃんとシェーナを取り合い、くだらない言い争いをすることはいつものことなので、シェーナは今更気にも留めていない。それよりもむしろ伝えられた話に心を奪われていた。


「・・・カナス様が・・・」


シェーナは言いつけどおり、できるかぎり今までどおりの生活を続けていた。カナスに無用な心配をさせないために。それでも毎晩、隣にあった気配を感じては切なくなり、日に何度も祈りをささげていた。

無事でありますように、早く争いが終わりますように、と。


「・・・・よかった・・・」


ほうっとシェーナが小さな息を吐いたのは、ようやくその願いが叶いそうだからだ。

思いつめたような表情で祈るシェーナの姿を知っている二人は、その安堵の声を聞き、顔を見合わせた。そして、競い合うようにシェーナの両腕に自らの腕を巻きつけるのをやめ、そっと優しい手つきでシェーナの手の甲を撫でてくれる。


「ご安心なさいませ、シェーナさま。殿下は我が国が誇る最強の将です。南国の少数民族ごときに遅れをとるなど、ありえないことです」

「他愛もない戦であったと、お戻りになられたらお笑いになるでしょう、きっと」

「・・・お怪我は、ないでしょうか・・・?」

「大丈夫ですよ。そのような話はまったく伝わっておりません」

「ご健勝のまま戻られ、南国の様子のお土産話をシェーナさまに聞かせてくださいますよ」


おずおずと尋ねたシェーナに、ジュシェとニーシェはにっこりと笑った。その包容力のある笑顔に、シェーナもようやくほころぶように笑う。

やはりカナスがいなければ笑うことの少ないシェーナの久々の笑顔に、二人の侍女が盛り上がったのは言うまでもない。


「シェーナさま。せっかくですから、おめかしして殿下にお会いになられましょう」

「そうです、お久しぶりにお会いになられるのですから、びっくりさせて差し上げましょう。着ていただきたいご衣裳もたくさんありますし。いつもシェーナさまはなんの凝らしもない白いローブばかりで。もちろんそれでも大層お可愛らしいのですけれど」

「今日から御髪は椿油でお手入れしましょうね。お体もお風呂あがりに香油でマッサージして」

「いえもう、お体を洗うところからたっぷりお世話させていただきますわ」


きゃあきゃあと勝手に喜んでいる双子に、シェーナは目をまん丸にする。

やたらと世話を焼きたがる彼女らなのだが、世話をされること自体に慣れていないシェーナにしてみればむずむずと落ち着かず、むしろ申し訳ないと思ってしまう。


「・・・い、いいです。自分で、やれます」


しかし、控えめなシェーナの主張は、かしましい姉妹にあっさりと無視された。




カナスたち一団がティカージュに凱旋したのは、それから4日後のことだった。だが、街のお祝いムードとは裏腹に、屋敷には不穏な空気が漂っていた。


「え・・・、会えない・・・ですか?」

「申し訳ありません。いったん停戦の運びとはなりましたものの、未だ所用がございまして。しばらくはお部屋にひきこもりになられると」

「・・・・・・・」


その言葉にうつむいたシェーナの耳もとで、いつもは着けない大振りのイヤリングが悲しげに揺れた。


ここ数日、姉妹のお人形になっていたシェーナは、なんでも「せっかくだから」といって身につけさせられ、主の帰宅を知ってからもすぐには解放されなかった。

ようやく二人の気が済み、家にいるというのに装身具をつけ、銀糸の刺繍が入った瑠璃色のローブを着せ掛けられた状態で、彼の私室を訪ねてみれば、その前でカナスの従者で、乳兄弟でもあるグィンに止められてしまったのだ。


会えると期待していた分、落胆は大きい。それもそこにいるのに、顔を見ることすら拒否されてしまったのだ。シェーナのしおれようは傍目にもあまりに明らかであった。


「シェーナ様・・・。あの・・・」

「ちょっと!どういうことですかっ!」


グィンが困惑の限りで声をかけようとするのと同時に、シェーナの後ろからきつい声があがった。


「シェーナさまはそれは心を痛めておいででしたのに!毎日毎日ご無事をお祈りなさって」

「それなのに、お忙しいからと顔も見せないだなんて!いくらなんでもあんまりです!」


双子はグィンにまったく物怖じせずに詰め寄る。その剣幕に、グィンは一歩後ずさった。


「これは・・・少し、事情がありまして」

「事情!?どんな事情ですか?」

「こんなにもご心配なさっていたシェーナさまをないがしろにするほどの事情ですか?!」

「・・・いえ、それは・・・」


王子の従者でそれなりの地位にあるグィンではあるが、年下の姉妹の追求に両手をあげ、たじたじになっていた。それでも容赦なくシュジェたちは迫っていく。


「どういうことですか?ご説明を」

「このままではシェーナさまがお可哀想です。ご説明を」

「え・・・っと・・・それは・・・」


視線を反らせ、一度閉ざされたままの扉を振り返ったグィンは、気の強そうな美貌の二人に逃げ場がないほど囲まれ、軽く頬を引きつらせた。


シュジェとニーシェは、純粋なアキューラ人ではなく、一世代前に王国の支配下に置かれた東の少数民族ルナード族の娘たちだ。高い身体能力を誇る彼らは女性であっても幼い頃から武道を叩き込まれており、筋のいいものは暗行御使として王家に仕えている。

しかし、少数民族の宿命どおり、その一部の者たちを除いては、場末の闘技場や貴族の下働きとして奴隷同然の貧しい暮らしを強いられていた。

この姉妹も貧困に窮した親にほんの子供のころに奴隷商人売られた。そこで数年訓練を叩き込まれた後、競りにかけられる前に同じような子供たちのリーダーとなって商人の元から集団脱走を試みたが、哀れにも捕まり責任をかぶって処刑されるところだったのを、たまたまカナスが見つけて助けたのだ。それからは恩義を返すために、カナスのために働いている。

が、ものおじしない生来の性格に加え、豪胆なカナスの影響をモロに受けているのでこうやって遠慮のないこと極まりないのだ。

ルナード族の気質どおり、気に入らない者には容赦なく、懐にいれた者は万難を排して全力で守る。

なまじっか下級兵よりもよっぽど腕が立つので扱いに困ることもしばしばではあるが、彼女らの審人眼に間違いがあったことはないので、重宝されている。

そういう点では彼女らがシェーナを心から気に入り、あれやこれやと言わなくても世話を焼きたがるのは良いことなのだが、こんな詰問されるとなっては困ってしまうのだった。


「だから、今はいろいろ立て込んでいて・・・」

「何に立て込むの?」

「いつもは勝ったら馬鹿騒ぎのくせして」

「ちょっとも顔を見せれないってどういうこと?」

「殿下ってそんなに薄情でしたっけ?」

「せっかくシェーナさまをお出迎えのために着飾ってもらったのに」

「そうよ、こんなにもお可愛らしいのに。殿下に見せるのはもったいないくらいとは思うくらいの、私たちの力作なのに」

「あ、ええ。もちろん、そのご衣裳、とてもよくお似合いですよ。瑠璃色が映えてとても・・・」


このままでは首でも絞められるのでは、と顔を引きつらせていたグィンが、慌ててシェーナのほうへ視線を向ける。

しかし。


「グィンさまに褒められても仕方がありません」

「そうです、別にグィンさまに見せるためなんかじゃありません」


冷たい声ですげなく言われ、ますます嫌な汗をかいた。とってつけたような褒め言葉が気に入らなかったようだ。


「それより殿下は、何故出てこないのですか?」

「なにかまずいことでもあるんですか?」

「まさかとは思うけど、戦場で他の女にうつつを抜かしてしまったとか?」

「まさか。いくら殿下が噂ほどではないにせよ結構な女好きとはいえ、今はシェーナさまがいらっしゃるのに」

「そうよね。そんなことがあったら許さないわ」

「いくら殿下でも許さないわ」

「お前たち、何を言っているんだ!いくら手の早いあの方でもそんなことあるわけがないだろう!この戦を最速で終わらせるためにどれだけ苦労して」

「そうですよね」

「ですよね」

「「じゃあ、何で?」」


声を合わせてずずいと詰め寄る双子に、グィンが再び口ごもったときだった。


「・・・・もういいです・・・」


消え入るようなか細い声に、扉の前に居た三人の視線が集中した。

「カナス様がお嫌なら、戻ります。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「シェーナさま・・・」

「でも・・・」

「良いんです。わがままでした。私など、お目通りにかなう価値はないのに・・・お会いしたいなどと、身の程を知らず・・・」

「シェ、シェーナ様!カナス様は決してそのようなおつもりでは・・・っ」


言葉の途中でぽろぽろと涙を流し始めたシェーナに、グィンは血相を変えた。


「どうか、そのようなお顔をなさらないでください!本当に、誤解なのです」


姉妹もシェーナの傍に飛んでいって、慌ててかがみこむ。


「シェーナさまっ、泣かないでくださいまし」

「シュジェとニーシェが必ず殿下にお会いさせてあげますから。そんな風に泣かないでくださいませ」


精一杯のいたわりの言葉に、シェーナは首を振った。


「いいんです・・・あの方のご迷惑になっては・・・」

「グィンさま!どうしてこんなひどいことができるのですかっ!」

「そうです!殿下もグィンさまもひどいです!」

「いや・・・そんなつもりでは・・・」

「こんなにもお優しいシェーナさまを泣かせるなんて、いったいどういうおつもりですか!」

「せっかく殿下にお会いになられると喜んでいらしたのに、泣かせるなんてっ!」

「い、いや・・・本当にそういうつもりじゃ」


双子が激昂した声をあげたときだった。


「てっめえ!なんでもう少しまともな対応ができねえんだよっ!」


ばんっ!と思い切りよく開かれた扉に、背をくっつけていたグィンはつきとばされて床に転がった。

すぐさま起き上がったグィンの胸倉を、部屋の中から出てきたカナスが掴む。


「こいつはすぐ泣くから、泣かすなっつっただろうが!だからてめえはトロいっつってんだよ!女相手に、うまい説明ひとつできねえのか!」

「ひえ・・・っ申しわけありませんっ!」

「それにさっきから聞いてりゃなんだ?好き勝手いいやがって!誰が女好きで手が早いって?」

「いえ、お、女好きは私ではなくて、シュジェが・・・」

「いえ、言ったのはニーシェです」

「な!シュジェが言ったんじゃない!」

「ち、違うわよっ!ニーシェじゃない!何を言ってるの!?」


挙句に聞かれていたとばれて、双子が責任の押し付け合いを始めたが、カナスにじろりとにらまれて二人とも肩を小さくすぼめた。


「あー、どいつもこいつも・・・。特にグィン、お前が使えない奴だということは良く分かった」

「そ、そんなぁ~、カナス様ぁ」

「気持ちの悪い声を出すな!・・・ッ!」

「あ!そ、そうだ!大丈夫ですか?安静にしていなさいとイマル医師(せんせい)が・・・」

「・・・てめえが、変な誤解させなきゃそうしていられたな」

「ご、ごめんなさいぃ~!!」


情けなく眉尻を垂らす1つ上の乳兄弟をため息とともに見遣ったカナスは、グィンから手を離すと首の裏側に手を当てて気まずそうにシェーナを伺った。


「あー・・・まあ、その・・・悪かったな。お前、こういうの駄目だろ?だから、な」

「カナスさま・・・っ」

「そのお姿は・・・っ」

シュジェとニーシェの驚きの声があがった。それは今更で、先ほどからシェーナはずっとそのせいで声が出なかったのだ。

カナスは左肩から腰にかけてぐるぐるに包帯を巻かれていて、その上に白いシャツを引っ掛けただけの姿だった。

「まったく。結局飛び出していくくらいでしたら最初からご説明申し上げればよかったではないですか」

やれやれ、といった口調でさらに出てきたのはラビネだった。彼も頬に大きなガーゼを貼り、袖からのぞく右手は白い包帯に包まれていた。

「それはグィンが悪い。でなければ、せめてこの仰々しい包帯がとれるまでは隠し通せた」

「確かに。グィン、(あるじ)様のご意向を果たせないようでは従者失格と言われても仕方がないぞ」

「申し訳ありません!」

グィンをたしなめるラビネのそばに、双子がぱたぱたと寄り添ってくる。

「ラビネさままでお怪我を!?」

「大丈夫なのですかっ?利き手ではありませんか!」

「ああ、大事ない。安心しなさい」

「・・・・お前らはまずラビネを心配すんのかよ。はあ・・・」

主である自分よりもラビネを優先する双子に、カナスは呆れたため息をついた。すると彼女らは思い出したようにカナスを振り返る。

「そうです、カナスさま。何故このようなお怪我を?」

「大勝であると聞いておりましたのに。このような小さき戦でお怪我を負われるなどいままでになかったこと」

「ま・・・いろいろあってな」

「お怪我はひどいのですか?」

「10針縫った程度だ。動けないわけじゃないが、イマルがうるさくてな」

「縫った?大怪我ではありませんか!」

「一大事ですよ!このようなところにおらず、床についていなくては!」

話を聞いて急に真っ青になる姉妹に、カナスは苦笑する。

「さっきまで勝手に言ってたくせにな。大丈夫だ、大げさに聞こえるだけで、実際たいしたことはない」

「何をおっしゃいますか。熱もおありになるというのに」

すると、イマルまでもが姿を現した。

「数日は安静になさってくださいとあれほど申し上げたのに。また傷が開いたらどうするおつもりですか?」

「だからたいしたことはねえって・・・っつぅ・・・!」

「ほう、たいしたことはございませんか」

「馬鹿野郎!触ったら痛ぇにきまってんだろっ!」

容赦のないイマルは、カナスの背をぐいっと押したのだ。してやったり、という顔をするイマルを、顔を歪めたカナスがにらみつける。

「強がりはその辺にして、早くお休みくださいませ。ここまで戻ってくるのに、体力も消耗していらっしゃいます」

「ち・・・っ、わかったよ。悪いな、シェーナ。この口うるさい医師がいいって言ったら呼ぶから」

「そういや、土産あんだぜ」と小さく笑うカナスを黒い瞳に映したまま、シェーナは凍り付いていた。目の前の喧騒と言葉はずっと頭に入ってきていない。ただ、カナスの体に巻きついている白い包帯の生々しさだけを感じ、どくんどくんと心臓が嫌な音を立て続けていた。

(怪我・・・カナス様が・・・怪我を・・・)

シェーナの脳裏に、ナルが人を襲ったとき広がった血の染みが浮かび上がった。それはどんどんと広がっていき、目の前までが鮮明な赤い色に染まった気がした。同時に、ぞっと体中を冷たいものが駆け巡る。

(・・・あ・・・)

「そうそう。その格好、結構似合って・・・・シェーナっ!?」

振り返ったカナスの驚いた声が上がる前に、シェーナは床に倒れこんでいた。

「「シェーナさま!!」」

双子たちの悲鳴のような呼びかけが届かないところまで、意識を闇に明渡してしまっていた。


「・・・・う・・・ぅん・・・」

「目、覚ましたか?」

「・・・・カナス様・・・?」

「ああ。大丈夫か?」

すぐそばにあるアクアマリンの瞳。よく通るテノール。温かい大きな手のひら。

昨日まではなくて、今確かにここにあるもの。

「・・・・・・カナス様・・・」

「う、わ!何だよ、何を泣いているんだ?」

シェーナの黒い目からすぅっと涙が零れ落ちた。

「帰って、きて、くださったのですね・・・」

「・・・・。当たり前だろ。何だ、そうじゃないほうがよかったのか?」

「いいえ、いいえ。そんなことありません。お戻りになられる日を、指折りお待ちしておりました」

「シェーナ・・・」

シェーナの心からの言葉に、カナスの目が細められた。しかし、その後でちっと舌打ちをする。

「カナス様?」

「いや。こんな体じゃなけりゃ、とっくに抱きしめてるのにと思ってな」

「こんな体・・・、そ、そうです!お怪我の具合は・・・っ」

シェーナが慌てて起き上がると、カナスは隣でうつぶせに寝そべっていた。

「―――っ!」

「こら、見んな。怖いだろう?」

瞬間、息を呑んだシェーナの目元を、カナスは片手で覆い隠した。

しかし、もう見てしまった光景は消えない。まだ新しい傷は肉の赤い色を見せ、彼の浅黒く引き締まった背を痛々しく飾っていた。

「イマル、さっさとしろ。こいつがまた倒れたらどうしてくれる」

がたがたと震えるシェーナを知り、カナスは首だけで背後を振り返った。

そこではイマルが呆れ顔で処置道具を広げている。シェーナが目を覚ましたのは、ちょうど包帯を取り替える時間だった。

「そう思うのでしたら動かないでください」

「ぐ・・・っ」

消毒薬をしみこませたガーゼを押し付けられたカナスは一度くぐもった苦痛の声をもらしたが、あとは歯軋りで耐えているようだった。視界を奪われ、再び床に押し戻されたシェーナは音だけでその痛ましさを知り、自らの顔に置かれているカナスの指をぎゅっと握る。

「・・・ああ、心配してくれてんのか。平気だって」

「平気ですか。そうですか」

だが、カナスの言葉に答えたのはシェーナではなく、イマルだった。

「~~~~ッ、てめえ!何さらに遠慮なく押し付けてんだよっ!」

イマルはこれ幸いとさらに別の薬を容赦なく塗りこんできたのだ。火のついたような痛みに、カナスは声にならない悲鳴と罵声を上げる。

「いえ、シェーナ様がいらっしゃるなら、どれだけ手荒くしても無様なお姿をお見せにはなられないでしょうから、遠慮せずやらせていただいたまでのことです。それに、たっぷり塗りこめたほうが利きがよいのですよ。早く治りたいでしょう?・・・はい、これで終わりです。包帯を巻きなおしますから起き上がっていただけますか」

くそ、とカナスは毒付いて、のろのろと起き上がった。

「もう少し刺激の少ない薬は作れないのか、やぶ医者め」

「良薬は傷に痛し、というでしょう」

「口に苦し、だろ」

「似たようなものです。よろしいですよ。ご不便でしょうが、このままお休みくださいね」

「ああ」

「わがままを聞いて、シェーナ様と同じベッドにして差し上げたのですから、くれぐれも余分なことはなさいませんよう。安静にして置いてくださいね」

「下世話な想像をする前に、こいつを診ろ」

ようやくシェーナの視界が戻ってきた。再び起き上がろうとするシェーナを押し留めて、イマルがその脈を取る。

「もう大丈夫です。びっくりなさって貧血を起こしただけでしたから」

「そうか」

ほっと吐き出したカナスの息がシェーナのねこっ毛をふわふわと揺らした。

「では、私はこれで」

「ああ。そうだ、あいつらはうるさいから入れるなよ」

外で気を揉んでいる双子やグィンを思い出して、カナスが言うと、イマルはくすくすと笑いながら返した。

「大丈夫だとお伝えしておきます。カナス様は、シェーナ様をお慰めすることに集中してください」

「ふん」

「シェーナ様はとても良い方ですね。そんなにも慕われて、うらやましい限りです」

先ほどのシェーナの言葉を揶揄しているのだろう。「では」と去っていったイマルの表情はいたずらめいていた。

「・・・っったく、あの医者は・・・」

「カナス様・・・お怪我は・・・」

またしても舌打ちをするカナスを、シェーナはおずおずと上目遣いで伺った。今にも泣きそうな目元に、唇が落ちてくる。こぼれる前の涙を吸い取るように。

「大丈夫だっつってんだろ。こんなもん、すぐに治る」

「けれど、あんなにひどい・・・」

「昔、もっと大怪我したこともあるんだ。それに比べれば。久々だから皆が大げさなだけだ」

珍しく太刀傷など作ってしまったから、動転しているだけだとカナスは説明する。しかし、シェーナは胸がふさがる思いだった。

「私が・・・、私がお傍にいたから・・・」

自分の不幸が彼にまで伝染してしまったのだと、シェーナは蒼白になってこぼした。

「は?ちげえよ」

しかし、その疑惑はカナスに瞬殺される。

「そんなくだらねえ迷信なんかあるわけないだろうが。不意打ちをかけられたんだよ。情報が漏れていたんだ。完全に現実の争いの一環で、人の企みにすぎない。お前がいう神サマの怒りなんて何の関係もない」

「・・・でも、私がお祈りをしてしまったから。奉る歌もなく、ただ欲張りに祈ってしまったから。だから、そのことに神はきっとお怒りになって・・・」

「こら、お前、耳は付いているんだろう。情報が漏れたってのはな、裏切り者がいるってことなんだよ。私利私欲のために仲間を裏切った奴がいる。そんな腐った性根の奴が引き起こしただけの事件でな、それを見抜けなかった俺の責任でもある。神サマ神サマって笑わせんじゃねえよ。天におわすというその神サマは、その裏切り者ほどのなにもできやしねえ」

「・・・けれど、神が罰を与えるために、誰かに二心をそそのかしたら・・・・・・」

はっ、とカナスは鼻で笑った。

「人に裏切りをそそのかすなら、それはもう神サマじゃねえだろ。ただの、世俗にまみれた薄汚い権力者どもと同じだ。気まぐれでそんなことをするというのなら、それは魔物だ。大体、理由がなく人は裏切らない。結局は自分のために、それを引き起こす。神なんてのは、ただの言い訳、戯言にすぎない。結局あるのは“人”の欲望だけだ」

「・・・カナス様・・・」

やはりカナスは神を全否定する。それだから怒りに触れてしまうのでは、とシェーナは怯えたが、口に出すことはしなかった。それなら一度お怒りとやらを感じてみたいものだね、と前にカナスが馬鹿にしきった様子で言ったことがあるからだ。

あのような冒涜を再び繰り返しては今度こそ取り返しの付かないことになるのでは、とシェーナは怖かった。

しかしやはり表情で言いたいことは伝わってしまうらしく、カナスはふぅっとため息を付いた。

「ま、いいや。お前はそうやって神を信じて生きてきたんだからな。何でもかんでもこじつけたくなる気持ちもわからんでもない」

カナスの優しいと思うところは、こうやって、シェーナを否定しきらないところだと思う。きっと信仰の強いシェーナに鼻白むことも多いと思うのに、それがお前だからなあ、と言って最後は譲ってくれる。だから、シェーナはこんなにも信仰の違う彼を慕うことができるのだ。

「けどな、たとえ仮に神がいるとしてもだ。断じてお前のせいじゃない。俺はお前がどれほど敬虔な神サマの信者かを知っている。そんなお前の祈りを罰に変えるようなことを、マトモな神サマはしやしねえよ。こう思いな。お(・・・)が(・)祈って(・・・)いて(・・)くれた(・・・)から、俺はこの程度の怪我で済んだんだ、と」

とても前向きな発想に、シェーナは目を見開いた。

「それだったら、俺も信じてやるよ。神サマとやらを」

驚いたシェーナに、カナスはにやっと恐れもなにもない笑みをみせる。その途端、シェーナの心臓はどきんっと跳ね上がった。その衝撃が何故なのかわからず、けれどますます鼓動は高鳴るばかりで、シェーナの頬が見る見る間に赤く染まる。

それを自覚したシェーナは、慌ててぱっと半身を起こすと、カナスからは見えない方向に体を向けた。手でほっぺたを触ってみるが、やはりそこはひどく熱を持っている。

(な・・・ど・・・どうして・・・・)

何故、こんなことになっているのか、ちっともわからない。カナスが怖いなんてことはもうずっと前に克服したはずだったのに。

「おい」

動けないカナスがくい、とシェーナの肘の辺りを引く。こっちを見ろということだとわかっていたが、シェーナは首を振ってベッドから逃げ出そうとした。

「シェーナ、逃げんな!こら・・・、痛・・・ぅ・・!」

「カナス様っ?」

床に足をつけ、後は脱兎のごとく走り出せばそれでよかったのだが、カナスが苦痛の声をあげたのでシェーナは慌てて、大きなベッドの上を膝で這った。

「大きい声を出したからですか?大丈夫ですか?あ、せ、せんせいをお呼びになったほうが・・・っ」

枕に顔をうずめる彼のそばで、おろおろと触れようかどうしようか、手を伸ばしたり引っ込めたりする。すると、突然その手をつかみとられた。

「これで逃げられないな」

驚いてカナスを見遣れば、顔を上げた彼の顔には満足な笑みが浮かんでいた。ちっとも痛そうではない。

「だ、騙したんですか?」

「騙してはいない。痛いのは事実だ。が、少し大げさに言ってみた」

「・・・ひ、ひどいです!」

「お。久しぶりに見たな、お前のむくれた顔」

「ひどいです、カナス様!私を騙してばっかりで!」

「騙してはいねえよ。お前の反応を見て遊んでるだけだ」

「それを騙していると言うんです!」

「なんか、前もこんな会話したな」

懐かしむように、カナスは目を細めた。それをシェーナは思い出せなかったが、彼がじっと見つめてくるので居心地の悪い思いをすることになった。

「そうでしたか?・・・それより、大丈夫なのでしたら、手を離してください」

「離したら逃げるだろ」

「それは・・・。けれど、私が居ないほうがゆっくりとお休みになれます」

「阿呆。お前がいるほうがいいから、こうやって捕まえてるんだろうが」

「な、何故ですか?お邪魔では・・・」

「シェーナ」

つと、カナスが真剣な表情でシェーナを呼んだ。どきり、としてしまったけれど、また引っ掛けられているだけではと思い、シェーナは必死で平静な顔を装おうとする。

けれど、意外にも彼はその表情のまま続けた。

「ありがとうな」

「・・・え?」

「毎日、無事を祈っててくれたんだろ。俺は神は信じてねえが、お前のその気持ちはすごく嬉しいぞ」

そういって彼はとても優しい笑みを浮かべた。シェーナの目がぱちぱちと何度も瞬く。

「それにその格好も。俺のためにしてくれたんだろう?いや、あいつらにされただけか?まあいい。一応はめかしこんで出迎えようとしてくれたんだろ。ちょっとくしゃくしゃになっちまったが、よく似合ってる。こんなクソうぜえ怪我なんかしてなかったら、お前が可愛い格好で笑って迎えてくれたと思うと悔しいな」

あまり動くことができないので、カナスは、ふかふかのベッドに膝立ち状態のシェーナの頬を撫でた。その表情はまだ優しいままだ。優しい、というか、愛でているというほうがしっくりくる眼差しかもしれなかった。

すると耐えていたはずのシェーナはぼふっと音がしそうに一気に茹で上がった。心臓も壊れそうにどきんどきんと脈を刻む。

「何だ、照れたのか?」

それを見たカナスは、一転してちょっと意地の悪い笑い方になった。

「そうか。お前もそういう感情持つようになったのか。なら、そのうち俺の魅力にもちゃんと気が付いて、惚れるかもな」

「え・・・惚れ・・・?どういう・・・」

しかしシェーナにはその意味がわからない。いまだ赤い顔をしつつも首をかしげると、カナスに苦笑された。

「・・・ま、その日は遠そうだ」

「カナス様?」

「いや、こっちの話だ。なあ、シェーナ」

「はい?」

「もうしばらくここにいろ。看病代わりに、顔を見せていろ」

え?と聞き返すが、間違いではなかったらしい。隣に横になるように指示され、シェーナはおずおずとそれに従った。カナスは間近に寄ったシェーナの顔を確かめるように指で触れた。

その仕草にどきどきとまたおかしな鼓動の乱れを感じたが、シェーナは肩を震わせるくらいで我慢しようとする。

「ちゃんと食べていたみたいだな?色艶がよくなってきた」

「はい。シュジェとニーシェがとてもよくしてくれました」

「ああ、あいつらはお前がひどく気に入っているからな。ちょっとうっとおしいが。お前も嫌なことは嫌って言えよ。じゃなきゃ自分らの趣味のほうへエスカレートしてくぞ」

「そんな・・・。二人はとても優しいです。いろいろお世話をしてくれて、手つきもすごく丁寧で。とても嬉しいです」

シェーナは自国で自分の世話をしてくれてきたルーナを思い出し、ちょっと悲しい気分になった。ルーナはいかにも面倒だといわんばかりにシェーナを扱った。自分の気に入らないことがあればすぐに髪をひっぱるし、物を壊してしまうし、びくびくとして毎日を過ごさなければならなかった。ルーナはシェーナが嫌いだったから仕方がない。そう思っていたはずなのに、ここでの温かさを知ってしまうと、あの日々がどれほど冷たいものだったかを思い知らされて、そんなにも嫌われていたのだな、と胸が痛くなるのだ。

(もっと・・・何かしてあげられればよかったのかな?そうしたら、ルーナも、あそこまで嫌わないでいてくれたかもしれない・・・)

理不尽な扱いをされ続けていたのに、シェーナはそれでももしかしたら自分が悪かったのではないかと考える。カナスに知られたら「このお人よし!」とまた怒鳴られるところではあるが、それでもシェーナの変化の兆しではあった。

シャンリーナだから嫌われて当然。泰然と受け止めてきたその宿命を、もしかしたら何かすれば変えられたのかもしれない、と、そういう“意志”を持つようになったのだから。自分の行動で何か変わっていたのかもしれない、と思えるようになったのだから。

とはいえ、シェーナの思考はとかく自分が悪かったのは、と行きがちなので、必ずしもいい傾向とは言い切れないのではあるが・・・。

それはともかくとして、あんなこともしてくれた、こんなこともしてくれた、と双子をつたない言葉で褒めるシェーナの話を、カナスは彼女の頭を撫でながらずっと聞いていた。途中、一緒に川の字で眠ったといえば「もうするな」とむっとした顔をしたり、この地方の民族衣装を着せられたといえば、楽しそうに「今度見せろ」と言ったりしながら。

だが、そのうちに、カナスが眠そうにあくびをかみ殺し始めた。

「あ・・・お、お休みになられますか?」

「ん・・・、わりぃな。あのヤブ医者の薬、やっと効いてきたみてえだ」

痛み止めの薬を飲んでいるせいで、眠くなるのだという。シェーナはだったらと起き上がろうとしたのだが、カナスはまた腕をつかんで留め置いた。

「カナス様?」

「俺が寝るまでここにいろ。お前の顔みてると、痛いのもまぎれる気がするんだよ」

「お怪我が痛むのですか?!」

「そりゃあ、まあそれなりにな。そう言ってるだろ、我慢できないほどじゃねえけど痛いって」

けろりとした顔をしていたカナスだが、シェーナの話を聞くことでその痛みを紛らわせていたのだろう。一人で黙っているほうが痛みを強く意識してしまうことをよく知っているシェーナは、すぐに逆らわずに彼の横に膝を伸ばして座った。

そしておずおずと手を伸ばし、カナスの栗色のさらさらの髪を撫でる。いつも彼にこうされると心地が良いことを思い出しながら。

「何だ?」

カナスの声に笑みが交じった。せめて痛みを紛らわせようとするシェーナの意図が分かったのだろう。

「・・・だ・・・大丈夫・・・ですか?」

「ああ。お前の手、冷たくて気持ちがいいな」

目をつぶりながら彼はそんなことを言う。シェーナは特段体温が低いわけではないので、たぶんカナスのほうに熱があるのだ。シェーナの表情はますます曇った。

なにか少しでも苦痛を和らげることができればいいのに。こんな自分でも何かできたらいいのに。

そう思うと同時に、シェーナは口を開いていた。

指の間を流れ落ちるようなカナスの髪を撫でながら、幼い頃から知っているメロディを口ずさんだ。それは誰も歌ってくれなかった子守唄。それでも自分ではない誰かのために歌えと教えられた、古くから伝わる子守唄だった。

顔も知らない誰かのためにではなく、たった一人への安らぎを与えるために初めて歌う。

「・・・・・・お前・・・」

初めは何気なく聞いていたカナスだったが、突然がばりと顔を起こした。その行動にびっくりしてシェーナは慌てて口をつぐむ。怒ったのかと思ったのだ。

けれどカナスは綺麗な青い瞳でじっとシェーナを見つめたあと、破顔した。

「歌えたじゃねえか、シェーナ」

「・・・え・・・」

「その様子じゃ無理してるわけじゃないようだな。よかったな」

言われて、そういえば自分はずっと歌えなかったのだと気が付いた。

「あ・・・っ!」

あまりにも自然と歌えていたので、今更ながらにシェーナは驚く。まったく怖い記憶を思い出すこともなかった。そんなシェーナの頬を、カナスはぴたぴたと撫でる。

「お前の歌声は気持ちがいいな」

「ほ・・・ほんとうですか?」

「ああ。さすが“歌使い”だな」

けれど、ただ歌が戻ってきたことよりも、カナスが褒めてくれることの方がもっと嬉しい。シェーナにしては珍しく興奮して、彼に詰め寄った。

「歌ったほうが、カナス様は少し楽になりますか?」

「少しじゃねえぜ。痛みも気にならなくなるからな」

「!じゃ、じゃあ、お休みになるまで歌っています」

「シェーナ?」

「私でもカナス様のお役に立てることがあるのなら、したいんです」

瞳を輝かせて笑うシェーナに、カナスは一瞬虚をつかれたようだった。それから何故か、くにっとシェーナの頬をひっぱる。

「にゃ・・・はにふるんでふか?!」

「・・・いや・・・なんかとまどったっつーか・・・なんとなく、だ」

「ふえ?」

「んじゃ、せっかくお前がそう言ってくれてるんだし、頼むわ」

「え・・・、あっ、はい!」

頼られたという思いが、疑問を吹き飛ばし、シェーナの瞳をますます輝かせる。嬉しそうに頷いたシェーナは、取り戻した美しい歌声をいつまでも惜しげもなく響かせていた。


   #                                #

「これは・・・驚きですね」

一週間後、イマルが感嘆の声をあげるのに、カナスは自慢げな笑みを向けた。

「やっぱよくなってるだろ」

「はい。もう抜糸できますよ。本来ならもう数日は様子を見なければならないのですが」

「ここ何日か調子がよかったからな。あいつのおかげで痛みも少なかったし」

シェーナはカナスが治療にあたる際、いつもそばにいて『沈静』の歌(シェーナがそう名づけているようだ)を歌っていた。それを聞いている間は不思議と痛みが半減する気がし、イマルにも驚かれたくらいだ。それだけではない。シェーナは事あるごとに彼のそばによっては、違う歌を披露してくれた。どうやらシェーナは自分が役に立てるということが本当に嬉しいらしく、「喉が痛くなる」とカナスが口をふさがなければ、冗談ではなくずっと歌い続けていただろう。けれどそのおかげで、日一日と回復していくのが良く分かった。

「ご自分の体で証明なされては認めるしかないようですね。確かに、古の時代、医者は神官で、薬は祈りでしたから。実際に、諠や舞によって、不治の病が治ったという話は数数え切れないほどあります。医学を超えた力というものが存在することは否定できませんね。まして由緒正しい“歌使い”のお血筋ですから」

「“歌使い”か。ナルのことといい、今度のことといい、俺たちにはない“力”があるのだけは確かだな」

「あえて医学的に説明するとすれば、シェーナ様の声は脳になんらかの作用を及ぼすのでしょうね。それによって肉体にも好影響が出てくる、ということでしょうか。なんにせよ、シェーナ様だけの特別な能力です」

イマルはほとほと感心したようにそう分析をする。超現実主義と名高い彼をそう言わしめるのであるから、やはりシェーナの“歌”は特別なのだろう。

「実は、ラビネ殿も同じようなことを申していましたよ」

「ラビネも?」

カナスの副官も、奇襲の際、カナスをかばって腕を負傷していた。カナスの傍にいることが多い彼もまた、シェーナの歌を聞くことが多かった。だからであろう。

そう考えるとフィルカが“神の国”と呼ばれるのはあながち間違いではないのかもしれない。奇跡を起こす力を持つ王族の姫君たち。

けれど、その影で疎まれ利用され続けたシェーナを思うと、やはり嫌悪感しか生まれず、神とやらを信仰する気にはならなかった。

「・・・それで、実はお願いがあるのですが」

「願い?」

ぎゅっと眉を寄せていたカナスは、ためらいがちなイマルの声にいつもの表情で顔を上げた。

「はい。今まで半信半疑だった私が申し上げるのは心苦しいのですが・・・。シェーナ様の歌を公営病院にやってくる者たちにも拝聴させることはできないでしょうか?」

「病院に?」

「ええ。そのような希望が実はもう何人もから上がっていまして」

イマルはもともと貧しい者たちがかかる公営施設の医師であった。しかしひょんなことから、カナスにその腕を見込まれて、彼の主治医となっているものの、「貧しい人々を多く救いたい」という彼の願いを叶えるべく月に三度、公営病院に出張すると共に、週に二度、カナスの屋敷の一部を解放して怪我人を無料で診察をしているのである(病人は屋敷に病が蔓延する可能性があるため許可がおりなかった)。

そうやって、彼の屋敷にやってくる者たちが、漏れ聞こえてくるシェーナの歌声を聴いて、いたく感動しているのだという。その声を聞けば痛みや病が軽くなるという噂が流れ、解放している離れの反対側、カナスたちが住んでいるスペースの側の外壁の外には、老人やまだ幼い子供を連れて座り込んでいる者もいるそうだ。

最近屋敷から出ないカナスはその話に驚きを隠せなかった。

「このままでは勝手な噂が噂を呼び、数が増えてしまうのではないかと心配しています。いつ聞こえるともしれない歌を外で待ち続けているのは、それが聞こえれば一時的に気分がよくなるとはいっても、決して病人や怪我人にとってよいことではありません」

「何故そんな愚かなことを?病院に行けばいいだろう。そのための公営施設じゃないのか?」

「もちろん、公営病院の診察費は街の私設病院に比べれば格段に低いです。けれど絶対的に病床数が足りては居ません。医師も軍事病院からの派遣が主で、こうも戦争続きではそちらに人手が割かれるばかり。それに反してやってくる貧しい者の数は増える一方で・・・できるかぎりの治療はしていますが、一人ひとりに割ける時間は少ない。畢竟、一部の重傷者のみが付ききりの看病を受けられ、あとは苦痛もおさまらぬうちに家に帰されるのです。そういった者たちの家族が、せめて痛みを和らげてやりたいと、藁にもすがる思いでやってくるのでしょう」

「・・・・・・本当に、この国は病んでいるな」

突きつけられた現実に、カナスは重い言葉を吐いた。

戦争を繰り返し、領土を広げる国王。その一方で国内はおろそかになり、手中におさめた新領地は戦場の影響で荒れ放題。流入した一部のアキューラ人が搾取し、虐げられる大勢の少数民族。そして広がるアキューラへの反発。

民なくして国は栄えず。

そんな始祖の言葉を無視した強引な拡大政策。ただ、己の名を歴史に刻むための愚かな侵攻。それを実現してきた己への嫌悪感に、カナスは唇を噛んだ。

口の中にわずかに血の味が広がる。

気が付いたイマルが慌てて止めさせたが、その苦さは消えなかった。

「申し訳ありません。貴方様を責めるつもりは毛頭なく・・・我々は感謝しているのですよ。有名無実を化していた公営病院を、昔のように貧しい者たちが利用できるようになったのもカナス様のお力添えあってのことです。そうでなければより多くの者たちが、儚い葉露となっていたことでしょう」

イマルの慰めが胸に痛かった。けれど、この痛みを忘れてはならないのだ。

果たすべきことを果たすまでは。

カナスは息を吐いて、再びイマルを見遣った。

「話を戻そう。で、だから盗み聞きさせているくらいだったら、シェーナの歌をちゃんと病院で聞かせてやろうと?」

「・・・・はい。できれば、定期的に。そうすれば暑い外で待つ者もその日に病院に来ればいいですし、それに、私の元に来た患者さんに、戦火に巻き込まれ入院している子供たちにも聞かせてやってほしいと、何度もそう懇願されておりまして。病院にいる動けない者にも聞かせてやることができれば、と」

「病院・・・か」

イマルの気持ちも分からないではなかった。

しかし。

「駄目だ」

「カナス様」

「分かってる。この先、反感情を抑制し街の治安を維持するためにもいい案だとは思う。だが、あいつはただでさえ体が弱い上に、血にだって弱いんだぞ。病院にいって自分の体調を悪化させないといえるのか?」

「・・・それは・・・」

「それに、何でも無茶する奴だ。俺のときを見ただけで分かるだろうが。自分が“役に立てる”と思えば、自分のことを顧みない。逆にどうするんだよ、そいつらが毎日押しかけてきたら。助けてほしいと大勢がすがってきたら。あいつに壊れるまで歌わせるのか?それじゃ、あのくそじじいと一緒じゃねえか」

カナスの指摘に、イマルは言葉を失った。確かに人々は苦痛からの解放にすがりたがるだろう。それを負担する側のことを考えずに。奇跡に執着した民衆が暴走したら、と思うと、恐ろしかった。

イマルもシェーナの奇跡に浮かされていたのかもしれない。大勢の人を救えるという目先のことだけにとらわれ、その担い手のシェーナにどれだけの負担がかかるか、彼女がどれだけか弱い存在であるかを無視してしまっていた。これでは彼女を利用してきたフィルカの神官たちと同じだ。

一瞬でも否定したカナスに、非難する目を向けたことが恥ずかしかった。

「申し訳ありません・・・」

イマルが頭を垂れたときだった。

「わ・・・私、平気です!」

「シェーナ!?」

突然、シェーナがドアを開けて室内に入ってきた。

「ごめんなさい・・・。カナス様たちがいつまでも出てこられないので、何かあったのかと心配で・・・」

話し込んでいたせいで、いつも数分で終わる診療が長引いていたのだ。それで、シェーナは不安になったのだという。扉の外でうろうろとしていたところ、自分の名前が出てきたのでつい聞いてしまったのだ。

「あの、私、大丈夫です。みなさんのために歌います」

「馬鹿、気にしなくていい。お前には無理だ」

「む、無理じゃありません!」

「やめとけ。言葉は悪いけどな、無尽蔵にたかられることになるぞ。一時のやすらぎじゃ段々満足できなくなる。そういう要求に全部答えるつもりか?大勢を相手に、たった一人で?」

「大丈夫です!私・・・私、一日中歌っていたこともありますから」

「何?」

シェーナの言葉に、カナスはイマルと顔を見合わせた。

「病気が流行っているときは皆が不安になります。だから、朝に半刻、昼に半刻、夜に一刻歌うのが決まりです。その合間に、大臣や他の神官に頼まれて、彼らが病にかからないためにも歌っていました。直接は会いませんでしたけど、昇殿を許された商人たちも塔の外にたくさんいたから暇があれば歌いました。だから一日くらいだったらずっと歌えます。大丈夫です」

カナスの隣で、イマルが口元を押さえ瞳を伏せた。カナスはぎりっと拳に爪を立てる。そうしておいて努めて冷静に尋ねた。

「で、お前は平気だったのか?そんなことをして?」

「・・・えっと・・・それだけいっぱい歌ったあとは、2日くらい、熱を出しました。その間歌えなかったので、とても怒られてしまいましたけど・・・でも、今はそのときよりも元気がありますから、大丈夫です。きっと、カナス様のお役に立てます」

だが、にこっと笑うシェーナに結局耐えていたはずの怒りが爆発する。

「っこの馬鹿!」

「ひっ!」

「何でお前はそうなんだ!利用されてばっかで・・・、自分しか自分をわかってやれねえんだぞ!」

「カ、カナス様・・・どうか、お静まりを。シェーナ様がおびえていらっしゃいます」

「うるさい!イマル、こいつに本当に歌わせたいか?こんなやつに、あいつらを助けろと言いたいか?」

「申し訳ありません!」

己の浅慮を心から悔いて、イマルは90度まで頭を下げた。確かに、シェーナの心根は優しすぎ、自己犠牲が過ぎる。これではくいものにされるというカナスの言葉は至極もっともだ。

しかし、何を言われているのか理解できないシェーナは、カナスの「こんなやつ」という言葉にひどく傷ついていた。

「・・・ご・・・め・・・なさ・・・」

シェーナはカナスの剣幕に驚いてぺたんと床に座り込んだまま、ぼろぼろと泣き出した。

「わ・・・わたし・・・役に立て・・・るなんて・・・そんな、お、おこがましいこと・・・い、言って・・・」

「っ馬鹿、違う」

カナスはいち早くその勘違いに気がついて、シェーナをひっぱり起こした。自分がしゃがんでやりたいがまだ怪我が引き攣れるように痛むのだ。

彼はぽすんと胸にシェーナを押し付けると、その背中をぎゅっと抱きしめてやった。

「俺はな、お前が心配なんだよ。すぐ無理しちまうだろ。全員の希望は叶えてやれないのに、お前は全員を救おうとする。それじゃあお前が壊れてしまう」

シェーナはカナスが「やれ」といえば、「もういい」というまで歌い続けるだろう。それがわかっているからカナスは慎重にならざるをえない。利用しようと思えば簡単に利用できてしまうがゆえの、恐ろしさがそこにはあるのだ。

「・・・でも、苦しんでいる・・・ひとが、います。民は、大切だと・・・カナス様は言っていました。だったら・・・」

「俺にとってはお前も大切なんだよ。お前の犠牲にしてまで、民の安息を望んではいない」

「そんな。ひどいです、苦しんでいる国民がいるのに」

非難を向けるシェーナの瞳に、先ほどの苦さが再びこみ上げた。カナスはふいと視線をそらせて押し殺した声で言う。

「だから、お前を犠牲にしてまで、っつってんだろ。誰もこのままでいいなんて言ってねえだろうが。それについてはちゃんと、別の方法を考える」

「・・・でも、私にも救える力があるんですよ、ね?カナス様は、私の歌を褒めてくれました。それは、嘘でしょうか?」

「嘘じゃねえよ。お前の“歌”には確かに特別な力がある」

「だったら、この国の方のためにも歌わせてください」

「シェーナ!」

眉を寄せ、カナスが振り返る。視線の先で、シェーナは無表情に近い笑顔を浮かべていた。目が何の感情も浮かべていない。

「私は、そのためにいます。誰かの心を安らかにするために、神がこの声をくださったのです。それを使わなければ罰があたります」

「また、神サマかよ・・・」

“義務”を語るときのシェーナはいつもこんな顔をする。

カナスは心底舌打ちをしたい気分だった。シェーナの歌を聞くうちに少しはその存在を認めてもいいかと思っていたが、やはり忌々しい。神から与えられたのは奇跡という名の鎖なのだろうか。

しかし、それでもシェーナは少し変わったのかもしれなかった。

むっつりと黙り込んだカナスに、しばらく経ってシェーナはごく控えめに主張してきた。

「カナス様・・・あの、私、誰かの役に立つということをしたいんです」

「・・・・・・」

「・・・・あ、や、役に立てるか、わからないですけれど・・・で、でも、このあいだ、カナス様が私の歌を喜んでくださったのが、とても嬉しくて・・・。役に立つって言ってくださって、本当に、こんなに嬉しいの初めてで。歌うのは、決められたこと、だったから。誰も、カナス様のようにおっしゃってくださった方はいなくて。・・・あの、もしかして、誰かが喜んでくれるかも、しれないなら。それに・・・民が平穏であれば、カナス様も、す、少しは、うれしいですか?」

その言葉を言うのにシェーナはどれほど勇気を振り絞ったのだろうか。頬が赤く染まり、苦しそうな息でそうやって告げる。きっとカナスが怒っていると勘違いしているので、怖かっただろうに。

それでもシェーナは、伝えたかったのだろう。

自分が歌うことで、誰かが喜んでくれるかもしれないならそうしたい。そして、それがカナスのためにもなるのだったら余計に。

神の使命であると共に、自分もそれを願うからだと。

いつもの神様一辺倒で押してくるのではないシェーナの表情は、さきほどまでのあきらめ漂ううつろなものではなく、紅潮しどこかきらきらとしていた。

「だ、駄目ですか?私は、お邪魔でしょうか・・・・」

涙目でおずおずと問いかけてくるシェーナに、カナスは嘆息した。こんな顔をするシェーナの願いを否定する非情さは持ち合わせていない。

「いや」

「・・・え・・・」

「お前が自分で望むのなら、反対はしない」

「本当ですか?」

「ただし、だ」

だが、ぱっと表情を輝かせるシェーナに、しっかりと釘は刺しておく。

「お前は体が弱いんだから病人に近づくのは禁止な。あと、俺が許可しないときは歌うな。そうしないとお前はすぐ許容量を超えちまうだろう?これを守れるなら、病院に行ってもいい」

「はい。はい!守れます」

何度も首を縦に振るシェーナは嬉しそうに唇を指で押さえて、何かをこらえようとしているみたいだった。

「そうか。イマル。ってことで、あとの細々したことは任せる」

「は・・・分かりました」

「カナス様、ありがとうございます!」

珍しくシェーナがはっきりと大きな声を出す。振り返っていたカナスは腕の中にいるシェーナを見下ろして、苦笑に似た淡い笑みを浮かべた。

「嬉しいのか?」

「はい!」

「そうか。きっと、病院の奴らも喜ぶぞ」

「本当ですかっ?」

「ああ」

カナスが頭を撫でると、シェーナはまるで尻尾を振る子犬のように嬉しそうな顔を見せた。

「そうだ。その際にはジュシェとニーシェにも付いて来るように言っておけ。あいつらは腕が立つからな」

「あ、はい。頼んできます」

そのままの勢いでぱたぱたと駆け出したシェーナの後ろ姿に、「頼むんじゃなくて、命令すりゃいいんだけどな」とカナスが呟く。

その姿が見えなくなってから、カナスはどさりと元いた椅子に腰掛けた。

「・・・申し訳ありませんでした」

その横に立ちすくんでいたイマルが、これ以上ないというほど後悔した表情でうつむいている。

「別に。あいつがそうしたいなら、それでいい」

カナスの声音は、シェーナに向けたものよりもひどく冷ややかだ。それに主の怒りを垣間見たイマルは崩れるように平伏した。

「申し訳ありません!私が、余分なことを言ったばかりに・・・」

「シェーナが自分でやりてえっつってんだから、やらせりゃいい。そう言ってるだろうが」

「しかし」

「今回はもういい。過ぎたことだ」

「・・・はい」

「だがな、もう分かっただろう。あいつは、本当に自分のことをないがしろにする。俺たちが信じられないくらい、簡単にな。あいつに何かをさせたいのだったら、そこを考えろ。これ以上あいつを犠牲にすることがないように、その確信を持ててから話を持って来い」

「肝に銘じておきます」

イマルはもう一度深々と体を折りたたんだあと、促されて立ち上がった。

カナスは何か考え込むように、肘置きに頬杖をついて違う方向を見ていた。

「・・・カナス様」

「何だ?」

「私は、以前カナス様がおっしゃった“いつもより深い同情”は別の名前を持つ違う感情なのだと思っておりました。おそらくそれは、ラビネ殿も同じであったでしょう」

「・・・・・・」

「けれど、あのシェーナ様を拝見していると、カナス様のおっしゃった意味がわかります。都合よく利用され続けていたシェーナ様を守り、安心できる場所をつくって差し上げたいと、そう思うのはまともな人間なら当然であると、そうおっしゃった真意が。あの方は、あまりに穢れを知らなすぎ、そして不憫すぎる。貴方様が同情心からでも、ここまで親身になるのも納得がいきます」

痛ましそうなイマルの言葉に、カナスは返答を返せなかった。

昔、彼らに向かってそう言ったときは確かに『同情』であった。けれど、今この胸に存するこの感情は、本当に『同情』なのだろうか。カナスが数多してきた『同情』の、程度の深いもので片付けられるのであろうか。

何故だか、イマルに難しい問いかけをされた気分であった。


          #                           #

シェーナは物陰で震えていた。なぜかといえば、見たことがないほどのたくさんの人の気配がすぐ傍にあるからだ。

シェーナを公営病院に連れてくるにあたって、カナスも付いて来たのであるが、そのせいで病人だけでなくその家族やら親族やらなにかに理由をつけて来たがった者が多かった。カナスは前線で名をはせるばかりか、こういった病院を建て直しなど慈善事業の普及に努めてもいるので、民衆にとても人気があるのだという。

その上、浮名を流してばかりの(それは実体を伴っていないのだけれど)カナスが、最近寵愛してやまないと噂の姫君を見てみたいという俗な気持ちも働いているようだった。

「・・・シェーナ」

突然、背後からかけられた声に、シェーナはびくっと震え上がった。振り返ると、非常に気まずそうなカナスが立っている。

彼はため息まじりに言った。

「悪いな。なんだか話が大げさになっちまって。俺が“視察”とか言ったから悪かったのかもしんねえな。黙って来ればよかった」

「・・・あ・・・」

「人が多くて怖いんだろ?」

もともと白い顔からさらに血の気を引かせて、カーテンの陰に身を隠しているシェーナの頬を、大きな手が両側から包み込んだ。

「こんなに震えて。止めるか?やっぱりお前には無理だ。こんなことは」

シェーナの尋常でないほどの震えが直に伝わったのだろう。カナスは眉を寄せて、そんなことを言い出した。

「あいつらは、俺がうまく解散させてやるから。そうするか?な?」

それはとても魅力的な申し出だった。しかし、しばらくカナスを見つめていたシェーナは、首を振り、彼から一歩離れる。

「・・・・っ・・・や・・・やれます・・・わたし・・・」

本当はカナスの言葉に従いたい。そうすれば逃げられる。けれど、彼の心配そうな青い瞳を見ていて、気が付いたのだ。

どうして、自分がここにいるのか、を。ここにいたいと思ったのか、を。

「せ、せっかく・・・、私の歌を、き、聞きたいとそうやって、思ってくれる人がいるなら・・・。ちょっとでも、役に立てるなら・・・私、がんばります」

「だが・・・」

「ごめんなさい、カナス様。私・・・私、決めたのに。カナス様は駄目だとおっしゃったのに、我侭を言って、自分からやると、言ったのに。だから・・・にっ、逃げません」

シェーナの意志に、カナスの瞳が驚きに見開かれた。うつむきがちのシェーナの足はがくがくと震えており、一人で立っているのがやっとの状態であるのに、それでもシェーナは「やめよう」というカナスの手を拒絶したのだ。

恐怖はある。でも、逃げたくない。

何故そんなことを思ったのだろうか。前のシェーナだったら絶対に思わないことだった。怖いことからは逃げたくてたまらなかった。

けれど、カナスが笑ってくれたから。綺麗な歌だと褒めてくれたから。ありがとうと言ってくれたから。役に立てることもあると教えてくれたから。

そのときの正の感情が急に湧き上がってきて、「逃げたくない」と思ったのだ。こんな自分でもなにか、できることがあるのだと、知りたいと思ったのだ。どんなに怖くても。

それは、初めての、シェーナの“願い”だった。そして、シェーナの勇気の結晶でもあった。

「なら、手つないでてやるよ」

その覚悟を感じ取ったカナスは、無理だと否定をすることなく手を差し出した。

「倒れそうになったら支えてやるから、できるところまで頑張ってみろ」

その言葉はなんと優しいのだろう―――・・・・

きゅうっと胸が痛くなるような感覚に陥って、シェーナは拳の形で自分の胸元を掴んだ。そして反対の手は、おずおずとカナスの手のひらの上に乗せる。

彼の手はとても温かいと思った。触れているところだけではなく、とくんとくんと脈打つ胸の中までが温かくなっていく気がする。

シェーナは優しい人が好きだ。それは境遇が恵まれていなかったから。だから、ジュシェもニーシェもイマルもラビネも屋敷の人たち皆がとても好きなのだ。

けれど、カナスはそのなかでも特別だった。他の人たちと違って怒るから怖いときもあるし、ドキドキと心臓がおかしくなりそうなくらい苦しくなるときもあるけれど、大方は一緒にいられるととても嬉しくて、ほっこり幸せな気持ちになる。そう、今みたいに、とても安心できる。

「・・・カナス様はお日様みたいです」

「お日様?」

思いついたまま呟いた言葉に、カナスが首をかしげた。

「一緒にいるとぽかぽか温かくて、私の心の中も明るくしてくれます。逆にカナス様がいないと、暗くてとても寒い気持ちになります。だから、お日様みたいです。私、お日様が大好きです」

彼は驚いた顔をして、それからシェーナとつないでいるのと反対の手で口元を覆った。そして顔を背けてしまう。

「カナス様?・・・あの・・・わ、私・・・悪いこと言いました、か?」

その仕草にシェーナは慌てた。思ったままに言ったことで、気分を害させてしまったのかと悲しい気持ちになる。カナスに嫌われることだけは、どうしても嫌だった。

だが、カナスはそっけない言葉で否定をしてくれた。

「別に言ってない」

「え・・・。そう、ですか?ならよかったです」

ほっと息を吐いて、頬をほころばせるシェーナに、彼は困ったような視線を向けた。

「・・・お前さ」

「はい?」

「・・・やっぱいいわ。何でもねえ」

けれど、彼は結局何も伝えてくれない。再び不安になったシェーナは、まだつないでいてもらえる手を自分からきゅっと握り締めた。

「な、何ですか?私、悪いところありますか?だったら直します。言ってください」

「そういうんじゃねえよ」

「でも・・・。私、カナス様に嫌われたら、どうしたらいいのかわからないです。すごく、たぶん、他の誰に嫌われるよりも悲しいです。だから、教えてください。どうすればいいですか?」

必死になる。感じたことがないほどの焦燥感に、シェーナは慌てていた。

誰かに嫌われたくないとか引き止めたいとか。そういう感情はずっと小さなころに失くしてしまったと思っていたのに。

自分の中の強い思いを自覚すると奇妙な気分だったが、それでも彼女はそれを黙殺できなかった。「だから、違うって言ってるだろうが」

泣きそうな表情をしていたのだろう。「んなことで泣くなよな」とため息をつきながら、カナスがぐしゃぐしゃとシェーナの頭を撫でてくれた。

いつもの仕草に、シェーナの体から張り詰めていた力が抜ける。

「お前は今のまんまでいい。嫌いだなんて一言も言ってないだろうが」

それにとても嬉しい言葉をもらうことができた。だが、すぐに再び不安に襲われる。

「・・・あの、これから嫌なところがあったら、すぐに言ってください」

「ん?」

「ちゃんと、直しますから。あの・・・これからも、き、嫌い、にならないでくれますか?」

黒い瞳がまるで捨てられた子犬のような頼りなさで、カナスを見つめた。彼は一瞬、奇妙な表情をのぞかせて、それからまたぽんぽんとシェーナの頭を撫でる。

「ああ、わかった」

肯定の返事をもらえて、シェーナは嬉しさに舞い上がりそうだった。にやけた変な顔をしそうだったので、えへへ、と下を向いて自分だけで笑う。だから、カナスがまるで痛いかのような、罪悪感に満ちた瞳をしていることにまったく気が付かなかった。

さっきまでとは打って変わって幸せな気分で促されるまま人前に出たシェーナだったが、突然たくさんの人の顔を見つけてびくんっと体を硬直させる。別の人と話しているカナスの陰に隠れるようにこそこそと歩いていたけれど、好奇の視線から逃れることはできなかった。

「ちっちゃい。あれがフィルカの“歌使い”?まだ子供じゃないの?」

「あんな子供の歌でご利益があるのかね?」

「やっぱり噂は噂にすぎないんじゃないのか?」

「物をかぶって頭を隠しているなど、なんと、無礼ではないか」

「やだ、カナス様は美人しか相手にしないって話じゃなかったの?まるで大人と子供よ。ちっともお似合いじゃないわ」

「許せないわ!あんなちんちくりんのどこがいいのかしら?ちっとも可愛くないし、私のほうがまだましだと思わない?」

「神国だからって特別待遇なのかしら?カナス様もお可哀想に・・・」

「ねえ、あのおねえちゃんだあれ?へんなかっこうだよ。お庭につるしてあるまあるいおにんぎょうみたい」

ざわざわと聞こえてくる声も、ちっとも友好的なものではない。シェーナの手のひらはどんどんと冷たくなっていって、つないでいるカナスにも伝わった。

「おい、大丈夫か?」

冷や汗をかいているシェーナの額に、振り返ったカナスが触れる。途端にきゃあっと高い声が上がった。それに驚いてシェーナは身を引いたが、彼は人目をまったく気にした様子もなく、温度を分けるかのようにシェーナをぎゅっと抱きしめる。今度は女性だけではなく、群集全体がどよめいた。

「カ、カナス様・・・、み・・・みんな・・・おどろいて・・・」

「言いたいことは好きに言わせとけ。どうせ自分たちに都合のいいようにしかとらないからな。それよりお前、本当に血の気が引いてるぞ。大丈夫なのか?」

シェーナは慣れていないが、カナスは好き勝手に噂されるのは日常茶飯事のことらしい。どうでもよさそうに言って、シェーナの背をぽんぽんと叩いている。

それがあまりにいつもどおり、屋敷にいるときと同じリズムだったので、段々とシェーナも落ち着いてきた。

「・・・はい。大丈夫、です」

「そうか?」

「はい」

シェーナがはっきりと頷くと、彼は顎を引いて群集の側に向き直った。

「見たら分かると思うが、この子は俺の一番大切な姫様だからな。本当は人目にさらしたくないんだが、この優しい姫様が病人や怪我人のためになるならと頼むから連れてきてやったんだ。ありがたく思いこそすれ、いわれのない中傷をするなら俺が許さない。ついでに、これはフィルカの正装だし、コレをかぶってんのは、こいつが陽の光に弱いからなんだよ。何も知らないくせに、くだらねえこと言うんじゃねえ」

凛としたよく響く声に、その場が静まり返った。

気にするな、といいつつも、しっかりとシェーナへの批判を聞いていたらしい。カナスの機嫌を損ねたことに、その場の空気が沈殿する。シェーナは自分のせいでと狼狽し、どうしようと瞳を揺らめかせたあとで、とりあえず重い感情を取り払おうと『浄化』の歌を歌い始めた。最初、声が出るのか不安だったが、歌ってしまえば場所はどこも同じ。それともどうにかしなければという思いが強かったせいだろうか。どちらにせよ、静かだった中庭にシェーナの歌声はよく響いた。

ふっと一曲を歌い終わり息を吐いたシェーナの耳に、まず届いたのはカナスの声だった。

「あいかわらず美しい歌声だな。それに、よく響く。塔で歌っていたとは聞いたが、いつもの声は小さいのに、どこにそれだけの声量があるか不思議だ」

そんなことをいいながら彼は、よくできたと褒めるようにシェーナの頭をくりくりと撫でる。

「少しは・・・皆様のお気持ちが落ち着かれたでしょうか?」

「少しじゃないだろ。ほら、見ろ」

促され、怖い思いと戦いながらカナスの陰から頭を出すと、わあっと歓声が上がった。大きな音に一度は驚いて引っ込んだシェーナだったが、再びおずおずと顔を出せば、人々の大勢は笑顔を浮かべていた。心が軽くなったと驚きの声をあげる人もいれば、中には涙を浮かべて両手を合わせている老人の姿もある。

「どいつもこいつもお前の虜だな」

「私・・・役に立てたでしょうか?」

「そう思うなら聞けばいい」

そう言ってカナスが指差した先には、あどけない5歳くらいの女の子供の姿があった。片腕を薄汚れた布で吊られているその子はくりくりとした緑の瞳でシェーナを見上げて、にこっと笑う。

「おねえちゃん、お歌じょうずだね。もっと歌って」

初めてもらった幼子からの賛辞に、シェーナは目を丸くした。

「こ、こら!シェーナ様になんと言う口を!」

慌てて護衛兵がその子供をつまみ出そうとし、飛んできた母親が女の子の無事な方の手を引っ張って連れ戻そうとする。すると子供がわんわんと泣き出した。

シェーナはおずおずとその子の前に歩み出て、同じ目線までしゃがみこんだ。

「泣かないでください。元気が出る歌を、歌いますから」

今度は『快喜』の歌を口ずさんだ。途端、子供は泣き止んで、そのうちに嬉しそうに笑顔を浮かべる。それに、シェーナも嬉しくなって笑い返した。

歌だけでなく、心温まる光景にそばで見ていた人たちも満ちたりた笑顔になっていた。

子供のために歌ってくれたことに、しきりにお礼を言う母親が、女の子を抱えて群集にまぎれたあとからは、どうか怪我の痛みを和らげてほしいという老人の声があがり、『沈静』の歌を歌った。もともと、イマルからもそのように頼まれていたので長めに歌う。

病院なだけあってその歌は人々に一番喜ばれた。怪我の影響で歩けなかった子供が思わず立ち上がるという事態も起こって、奇跡だとあちこちから声が飛んだ。

「ありがとうございます」と涙をこぼして平伏する両親に恐縮をして、シェーナはカナスを戸惑った瞳で振り返る。するとカナスはシェーナの肩を抱いて、また頭を撫でてくれた。

少し恥ずかしかったけれど、彼が満足そうに笑ってくれているので、とても嬉しくなった。皆に喜ばれるのも嬉しいけれど、カナスが喜んでくれるのが一番嬉しい気がする。どうして、そんな風に思うのかは分からなかったけれど。

そんなシェーナだから、もっとお願いしたいと上がる声に、カナスが厳しい表情を作った理由もまったく分からなかった。

「私、まだ平気です。聞きたいというのなら・・・」

「駄目だ。俺の言うことを聞くと言っただろう?」

「そう・・・ですが。でも・・・」

喜んでくれているのに、と、後ろ髪を引かれるような思いでいたが、カナスが「シェーナは体が弱くてすぐに倒れるから、これ以上は無理だ」という説明をし、皆がしぶしぶながらも納得をしたのであきらめるしかなかった。

それでも「また来て下さい」と言われて、しびれるような嬉しさに包まれる。

いつでも、と答えようとしたのを、カナスに止められて首をかしげたけれど、この日、シェーナが自分の価値を見出すことができたのは確かだった。





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