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虐げられた姫君は大国で自らを知る3

元々の1話を3分割した3つ目です。


それからというもの、カナスはやたらとシェーナをあちこちに連れまわすようになった。

長い間ほとんど太陽に当たらない生活をしてきたシェーナは日ざしに弱く、直接肌を焼くと真っ赤になってしまうことが1日目で分かった。

だからシェーナはどこに行くにしても頭にフードをかぶり、足丈まであるローブに身を包んで行動しなければならない。

けれどそんなことはどうでもいいくらいにシェーナは浮かれていた。

氷水に冷やさなければならないほど肌が腫れてしまっても、自分の足で土を踏みしめることができたことに感動して、痛みをほとんど感じてないほどだった。


「カナス様、カナス様。見てください!何か影が・・・泳いでいます!」

「そりゃ、川には魚くらいいるだろ。釣るか?」

「魚!え、釣る・・・そんなひどいことを言わないでください。・・・あ、あれはなんでしょう?何か咲いています」

「こら、走るな」

「きゃ・・・っ」


緩い土手を駆けようとしたシェーナは、しかし、裾を踏みつけて前のめりに転がりかかった。

それを後ろからカナスが抱きとめる。


「だから走るなって言っただろうが。何回転べば気が済むんだ?」

「あ・・・ありがとうございます。で、でも、離してください。もう平気ですから」

「そう言ってまた転ぶのがお前だ。連れてってやるからこのまま抱えられてろ」


ひょいっと半分カナスの肩に乗せられて、シェーナは移動させられた。

好奇心いっぱいで子供のようにあちこち駆け回りたがるシェーナは、落ち着きと体力がないという理由でこうやって運ばれることが多い。

150センチに満たないシェーナを180センチあるカナスが抱えるのはかなり容易なのである。

もちろん、シェーナは当初強固に拒絶したし、気絶しかけたりもしたが、慣れというのはおそろしいもので、今は絶対に嫌だとは思わない。

長距離を歩いたことがないシェーナの足はすぐに疲れてしまうし、カナスはこうと決めたら何を言っても絶対に下ろしてくれないし、なにより自分では見られない高い位置からの世界がまた違っていて興味をそそられるのもあったからだ。

だから、今は抱えられた場合は素直に彼の肩につかまることにしている。

ただ、シェーナが全身ローブに包まれているので、従者からすると、なんだかてるてる坊主を抱えているように見え、ひそかに笑いを誘っていることは知らなかった。


川のすぐ傍で下ろしてもらったシェーナは、その透明な水の流れる様子に瞳を輝かせた。


「綺麗・・・。水が流れる音も、とても涼やかで気持ちがいいですね。川ってこんな風に気持ちがいいものなんですね」

「気に入ったか?」

「はい!水、触ってもいいですか?」

「それはいいが、落ちるなよ。もう冷たいぞ」

「大丈夫です。落ちません」


いささか過保護の傾向があるカナスに笑みを見せて、シェーナは手のひらを流水につけた。

じん・・・としびれるような冷たさがあったが、それさえも感動したように、シェーナは嬉しそうな表情を作り上げる。


「カナス様、ここの水はとても冷たくて綺麗です。ナルにも見せてあげたいです」

「あー、あいつなあ。お前以外に懐かねえから、鎖からはずすわけにもいかねえんだよ。散歩はちょっと無理だな」

「どうしてですか?ナルは大人しいです」

「だからそれはお前に対してだけだっての。餌やるにも一苦労なんだぞ」

「そうなんですか・・・駄目なんですか・・・」


しょぼん、と肩を落とすシェーナの頭巾ごしに、カナスが頭を撫でた。


「まあ、気長に待ってろ。そのうちにしつけられたら、一緒に出かけられるようにしてやるから」

「本当ですか?」

「あまり期待されると困るが、努力はする」

「はい、ありがとうございます」


シェーナは嬉しくなり、頬を染めて頭を下げた。

いつの間にやらすっかりと打ち解けているシェーナである。

今度は岩に座って足をぱちゃぱちゃと川につけているシェーナに、カナスがふと思い出したように言った。


「俺は明日からデジョンに行く」

「・・・デジョン?」

「南方の町だ。各地方都市の駐屯軍との連携を確認してこれからの戦略を練らなきゃならないんでな。ついでにあちこち行かなきゃなんねえから、しばらく留守にするが、屋敷で大人しくしてろよ。お前の世話はちゃんと部下に頼んでいくから安心しろ」

「え・・・しばらく帰ってこられないんですか?」

「何だ?寂しいのか?」

「・・・違います」

「寂しいなら寂しいって言えよ。そうしたら行く前に十分可愛がってやるから」

「可愛がるって何ですか?」

「そうだなあ、俺がいない間の分の埋め合わせにずっと一緒にいてやろうか。動くときは抱えてやるし、飯も食わせてやるし、ついでに添い寝までしてやるってのはどうだ?」

「結構です」


ふざけた返しにシェーナは頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向いた。


「遠慮しなくていいぞ」

「してません。どうぞ勝手に行ってきてください」

「ひでえな。後で寂しくなって泣いてもしらねえぞ」

「泣くわけがありません」

「そうか?不安が顔いっぱいに出てるけどな」

「!」


シェーナは驚いてぺたぺたと自分の顔を触った。すると、それを見たカナスが笑い出す。


「何だ、やっぱり不安なんじゃねえか」

「だっ、騙しましたね!」


揶揄交じりの言葉に、ひっかけられたことを知ったシェーナはすっくと立ち上がってカナスから離れようとした。

川の中瀬に向かうシェーナの腕を、カナスは慌ててつかみとる。


「こら、やめろって。川を甘く見るな。お前みたいなちっこいのは、簡単に流されちまう」

「こんな浅いところで流されるわけがありません」

「浅く見えて深いところがあるんだっての。初心者は言うことを聞いておけ」

「カナス様の言葉には嘘が多いです。よく騙されますから」

「このやろ、可愛くねえな」

「だって、本当のことです。離してください」

「嘘じゃねえよ、ちょっとからかって遊んでるだけだろ?」

「それを騙しているというのでしょう」

「賢くなったなあ。お前」

「ふざけないでください!あっちに行って!」


シェーナは掴まれた腕を振りほどこうとぶんぶん振り回し、まだ自由なほうの手でカナスの体を押しのけようとする。もちろん、シェーナの非力ではぴくりとも動かない。

えい!えい!と必死になるシェーナを、カナスは鷹揚に眺めていた。


「無駄だって」

「離してください!」


押しのけるのが無理だとようやく悟ったシェーナは逆に腕を引き抜こうと引っ張った。

そのとき踏ん張っていたはずの右足が小石を踏んでずるりと滑る。足場が崩れたシェーナは背面から思い切りよく水辺に倒れこんだ。


「!!?」


ばっしゃーん!

水しぶきがあがり、それが太陽の光をきらきらとはじいた。それを綺麗・・・と手を伸ばしたシェーナは、しかし、冷たい川に落ちたのに冷たくないことに驚いて後ろを振り返った。


「・・・っこの馬鹿!」

「カ・・・カナス様!?」


シェーナの下になり、水に濡れたのはカナスだった。


「何もないところでもよく転ぶお前が、こんな石の多いところでじたばたすんじゃねえよ!あー・・・くそ、びしょぬれじゃねえか」


尻餅をついた格好でシェーナを膝に乗せているカナスはぶつぶつ言いながら、川底についた左手を持ち上げた。

手首をぶらぶらとさせて水気を払う間も、シェーナの腰に回した腕はそのままである。

そのせいで彼の上から降りることができないシェーナはただ、おろおろと視線をさまよわせるばかりだ。


「あ・・・の・・・、ご、ごめんなさい」

「全くだ。冷てえし。ほら」

「ひゃあっ」


ひやりとした手を頬にくっつけられて、シェーナはびくっと肩を跳ねさせた。

するとカナスは面白がってその冷たくなった手を顔のあちこちに押し付けてくる。


「お前、あったけーな。あったまるまでこうしてるか」


触られるたび、冷たさにぶるっと震えるシェーナだったが、自分のせいだからと黙って耐える。

しかし、するりと首の裏の付け根に触れられたとき、今まで以上に肌があわ立った。


「や・・・ぁ・・・っ」


くすぐったいような、気持ちが悪いような変な感覚だ。いつの間にかカナスの手は温かくなっているのに、一番冷たかったときよりもぞわぞわする。


「う・・・や・・・」


頬に朱を走らせて逃げ出したい衝動と耐えていたシェーナだったが、突然カナスが手を離してくれたので詰めていた息をほっと吐いた。

しかし何故急に離れたのか疑問で、後ろを伺うように振り返る。

何か考え込んだような表情を浮かべていたカナスは、その視線に気がつくといつもの人を食ったような顔になった。


「もうあったまったからいい。ほら」

「きゃ・・・っ?」


シェーナをひょいっと腕だけで持ち上げ、できるかぎり濡れないようにしてやりながら、彼は立ち上がった。水を含んだ彼のズボンがざばりと重い音を立てる。

絶対に肌まで染みて冷たかったと思う。それなのにカナスは肩に乗せたシェーナのローブの裾が濡れていることに気がついて、そちらを心配した。


「おい、こっちの裾持っとけ。落さねえからつかまんのは片手で十分だろ。濡れたとこほっといたら風邪をひく」

「あ・・・はい。でも・・・カナス様のほうが濡れてると思います」

「俺は頑丈だからいいんだよ。お前みたいにちょっと日に当たっただけで熱を出すひ弱なチビが濡れたらすぐに風邪をひくに決まってる。目に見えてんだよ」

「ひ弱じゃないです。今はもうお日様に当たっても大丈夫です」


むっと頬を膨らませたシェーナは、反論に上体を起こしかけてバランスをくずした。

落ちそうになるのが怖くて、慌ててカナスの首根っこにぎゅうっと腕でしがみつく。

するとカナスは喉で笑いながら、シェーナの背をぽんぽんと叩いた。


「安心しろ。絶対落とさねえよ」

「・・・はい」


シェーナを騙してばかりだけれど、カナスのその言葉は信用ができると思った。

だからシェーナは腕の力を緩めて、ただ彼に身を預けた。

けれど帰ってからシェーナは熱を出し、結局、カナスの冗談のとおりに、何から何まで世話を焼かれ、四六時中一緒にいる結果となった。




シェーナの熱がさがったのを見届けてから、一日遅れで出立したカナスがいなくなって一週間。

シェーナの元気は日に日になくなっていった。なくなっていったというか、元に戻っていった。

彼がいるときだけ、シェーナは常にない正の状態だったのだ。


「ナル、ナル。ご飯です」


それでも裏庭で飼われている黒豹の傍では、ほんのりと笑う。猛獣を飼いならしているということで薄気味がられているシェーナは屋敷の者たちのも遠巻きにされていた。

がつがつと肉の塊に食いつくナルのそばにしゃがみながら、シェーナは一人とりとめのない話をする。


「今日も・・・気持ちが悪いと言われてしまいました。今日は厨房の下働きたちです。ナルのご飯をもらいにいったら・・・そう言っているのが聞こえてしまって・・・」


ぺろりと肉塊をたいらげたナルが、不安そうに赤い瞳でシェーナを見つめた。


「いいんです。そんなこと昔からよく言われていました。ここのほうがましです。だって、憎まれているわけではありませんから。生まれてこなければよかったとは言われませんから」


ぐぅ・・・とナルが鼻を鳴らして、シェーナの頬にこすりつけてくる。シェーナの悲しい気持ちを感じ取って、なぐさめてくれるのだろう。


「ありがとう、ナル。そうですね、あまり暗い顔をしていてはカナス様に怒られてしまいます。あの方はすぐに怒りますから」


そうは言いつつも、シェーナは彼を思い出してほわりと笑った。しかし、次の瞬間にはすぐに意気消沈する。


「あの方に・・・あまりお世話をかけてはいけませんね」


シェーナは世話をしてくれる女官たちのため息を知っていた。


“フィルカの姫様、またろくに食べもしないで・・・”

“カナス様がいらっしゃらないからお元気がないのはわかるけど、困るのよね。私たちがしっかりお世話をしなかったみたいで・・・”

“カナス様が手ずからお世話なさっていたから、お高くとまってるんじゃない?私たちみたいな下々の者に世話をされることに文句があるのよ、きっと”

“図々しい。国に売られた姫のくせして。大体、あんな子供、カナス様とはつりあっていないわ。あんなに麗しくてお優しい方なのだから、もっとお似合いの方はたくさんいるのに”

“お優しい方だからこそ、見捨てておけなかったんじゃない?なんにせよ、カナス様のようにお忙しい方のお手をわずらわせないでもらいたいわ”


ほんとよね、と不快も露に頷かれたことを思い出して、シェーナは瞳を伏せた。

カナスは屋敷の人間や軍の部下たちにとても慕われている。彼がよくふざけて言う“容姿のよさ”もあるだろうけれど、誰に対しても分け隔てのない気さくな性格が好かれる本当の理由だとシェーナでも分かる。

当初カナスがかなり怖かったシェーナですら、いつの間にか一緒にいて触られるのも平気になってしまった。

あの人にはきっと人を惹きつける特別な何かがあるのだろうと思う。

そして頼りにされる人気者ゆえにとても忙しいのだとももう知っている。

そんなカナスの余計な重荷にはなりたくはない。


「よし、頑張って元気をださなければ。ナル、見ててください。ナルを見習って、今日はちゃんとお肉を最後まで食べます」


シェーナが両こぶしを可愛らしく体の前で握るのを見て、ナルがべろりとシェーナの頬を舐めた。

大きなナルの舌で顎から目尻まで一気に舐められてびっくりしたシェーナだったが、ナルがそのままふさふさの毛並みでじゃれついてきたので、励ましてくれているのだと知って微笑んだ。


「ありがとう、ナル。そうです。カナス様が私のほっぺたをお気に入りのようで、痩せたら承知しないと言っていました。怒られる前にちゃんとしなくては」


そうやってまるで猫とじゃれつくようにナルと檻の中で遊んでいたシェーナだったが、突然ナルが毛を逆立てて低く唸り始めたのに驚いた。


「ナル・・・、どうかしましたか?」


慌てて落ち着かせようと額の辺りを撫でたが、ナルの唸り声はやまない。

すると人目からなるべく隠されるようにある頑丈な檻に、見知らぬ一団が近づいてきた。


「ほう、これが噂の黒豹か。ほんに小さき娘が懐かせているものよの」

「・・・誰・・・ですか?」


その中心にいた黒い身丈のローブを身につけた横幅の大きい中年の男がシェーナをじろじろと見つめた。


「取り立てて挙げることもない普通の娘だな。娘、お前が魔性の力でその獣を飼いならしたというのは本当なのか?」


開けっ放しだった檻の扉の向こうから尋ねられるが、探るような男の目つきにぞっと背筋が冷たくなり、シェーナはナルの影に隠れた。

ナルはそんなシェーナをかばうように牙をむき出しにする。

吠え立てるナルに男はひるみ、慌てて連れてきた兵士の後ろに後退した。


「な・・・なんと・・・わ、わしを誰だと思っている!」


男の声が情けなく震えている。

それを知ると逆にシェーナは怖くなくなり、おずおずとナルの首から顔を上げた。

そこで、男のそばにいつもナルの檻の管理をしている下男の姿を見つけた。

シェーナの視線に気がつくと、下男ははっとして視線をそらしつつも、何もわからない彼女に説明をしてくれた。


「シェーナ姫、こちらはマルナン公爵閣下です。大元老院の第二委員会議長をお勤めで、また、このラコベーゼの知事グラウス王子の後見人にあたられるお方です」


アキューラ王にはカナスの他に、まだ8つになったばかりのグラウス王子、その他娘が4人いるのである。

グラウス王子は身分が低い母を持つため到底王位継承権が認められず、首都から離れたこの街で形ばかりの知事職に就いている。実質は彼の後見人たるマルナン公がこの地を治めているのだった。

偉い人だ、とシェーナは再び萎縮する。

けれど失礼があってはカナスや自国に迷惑がかかるとどうにか勇気を振り絞って立ち上がった。


「お初にお目にかかります。わたくしはフィルカ王国第一王女シェーナ=ロワデセルと申します。先ほどはこのナルがご無礼を働いたこと、代わって謝罪申し上げます。・・・ナル」


頭を下げたシェーナに促され、ナルはくぅんと鳴いて威嚇体制から腹ばいになった。

それを見ていたマルナンの一団からはおおっと驚きの声が上がる。


「これはまた・・・、随分しつけられておる。豹は獰猛で人に懐かぬと有名であったが。特にこの黒豹はあの陛下に対してさえ時折は牙を向くと聞いていたが・・・どれ、わしも一つ芸をさせてみたいものだな」

「マ・・・っマルナン様!危のうございます!!その豹は姫にしか一切心を開かず、世話係の私でも手を焼いているほどでありまして。どうかお近づきにならないよう・・・」


檻に近づくマルナンを、下男が顔色を変えて止めようとした。しかし、マルナンはその忠告を鼻で笑う。


「たとえ手慣らされたとしても獣は仕える人間を選ぶのだ。お前のような下賎な下働きには懐かぬだろうよ。とはいえ、このような小娘にできて、わしにできぬはずがなかろう」

「しかし、これはカナス様に対しても隙あらばと狙っているほどでして」

「ははっ、あの王子が獣に舐められたか。愉快なことよ。小娘にさえ牙を抜かれた獣を従わせることができないとは。わしがあの小僧よりも優れていると示すいい機会ではないか」

「しっ、しかし、あの御身にもしものことがありましては・・・」


何を言ってもまともに取り合おうとしないマルナンに、下男は額にびっしり汗を浮かばせた。

どう考えてもカナスよりも格段に威厳のないこの男に、獰猛な黒豹が懐くわけがない。手を伸ばしたが最後、食いちぎられるのがオチだ。そうなっては自分の首が・・・。


「姫!黒豹を撫でていて差し上げてくださいませんか?」


苦境に立たされた下男は、くるりと振り返りシェーナを見た。突然の依頼にシェーナは目を何度かしばたかせる。


「そのほうが、ナルも落ち着くと思うのです」

「小僧!まるでわしでは懐かせられぬと言いたげだな」

「と、とんでもございません!ただ、猛獣は繊細な生き物でもあります。初めての人間には格別敵対意識が強く、このように見知らぬものに囲まれていては警戒心からとっさに飛び掛る可能性もあります。マルナン様はグラウス王子の後見人として多忙を極められる方。万一、かすり傷一つでも負われ、ご公務に支障がでては損失は計り知れず・・・。万一の可能性までも排し、マルナン様の安全を何よりも優先するのは、ラコベーゼに住む者として当然でございましょう」

「・・・ふむ。まあ、そこまで言うのならば、仕方がない。娘、その獣を落ち着かせるがよい」

「は、はい」


下男の持ち上げに、まんざらでもない様子で頷いたマルナンは、居丈高にシェーナに命じた。

シェーナは慌てて頷き、ナルを撫でながら「少し大人しくしていてください」とお願いをする。それで一度は黙ったナルだったが、マルナンが触れそうにまで近づくと途端に地響きのような低い唸り声を上げた。

ルビーのような真っ赤な瞳が敵愾心たっぷりにマルナンをにらむ。シェーナが慌ててぎゅっと首に抱きついても、もはや無駄だった。

鼻先まで十センチを切るか切らないかのところに、ぶくぶくと太った手が寄ると、ナルは大きな咆哮を上げた。途端、マルナンは悲鳴をあげ、その場に腰を抜かす。

シェーナが抱きついていなければ、おそらく噛み殺されていただろう。

慌てて兵士たちが彼の重い体を檻の外に引きずり出したが、ナルはそのあとも幾度も吼えかかった。


「な、な、な・・・こ・・・この獣ふぜいが・・・っ」

「申し訳ありません!ナル、ナル、落ち着いてください。お願いです」


シェーナはマルナンの怒りを知り、必死にナルをなだめようとしたが、一度本能に火のついたナルは唸り続け、足の爪でざりざりと地面を掘っている。

獲物に今にも飛び掛りそうなその様子に、誰もがシェーナも危ないと思ったが、やはりナルはシェーナだけは襲おうとしなかった。

そのことにマルナンがますます憤りを強める。


「何故その娘だけ近寄れる!わしを愚弄しておるのか!」


理不尽な怒り方をする男に、下男とシェーナは共に途方にくれた。


「許さん!許さんぞッ!わしが小娘に劣るわけがないのだ、わしは獣を懐かせるまで帰らんぞ!」


いい大人がそんな意固地にならずとも・・・というのが大方の見方であっただろう。

ナルの咆哮やマルナンの怒鳴り声に、いつの間にか屋敷中の人々が集まってきていた。

しかし、マルナンは周囲の視線を気にせず、わめきちらす。


「娘!その獣に何をしたのだ?わしに懐かせぬようにして、わしを襲う気か!」

「ち、ちが・・・っ」


もともと人の怒鳴り声にひどく弱いシェーナは怯えて、咄嗟に否定の声がしっかりと出てこなかった。

それだけなのに、人々が不安そうに、いや不審そうに、眉を寄せてシェーナを見ている。その多くの視線にさらにシェーナは怯え、真っ青になって震えた。


(怖い・・・怖い・・・っ・・・)


涙が出てきた。どうしていいかわからず、シェーナはナルを支えしながらかろうじて立っている状態だった。

その不安がナルに伝わり、ますますナルが吼えるという悪循環を繰り返す。


「お前のその心持はあの王子に吹き込まれたものか?あやつめ、わしをひどく厭うておるからな」

「!ち・・・っ、ちがいます!」


けれどそれが自分以外に、カナスへの疑いになると知ったとき、思っていた以上の声が出た。

とにかく彼に迷惑をかけては駄目だと思ったのだ。

その気概だけで必死に声をあげる。


「私はそんなことを思ってはいません。決してです。カナス様も、マルナン様に二心を持っているなどということはあるはずがないです。お会いして日は浅いですが、あの方はとても誠実でやさしいいお方だと自信を持って申し上げられます。そのような卑劣なことを私にも誰にもお命じになるはずがありません!」


突然のシェーナの語気の荒さに驚いたのだろう。気圧されたように一歩引いたマルナンは、しかし、すぐに再び無理な注文をつけてきた。


「そうか。では、その獣を黙らせ、大人しくさせてわしに差し出してみよ。それができれば、お前たちに疑心がないことを信じてやろう」


シェーナはすぐにナルを撫で、抱きしめ、黙らせようとしたが、興奮のスイッチが入ったナルはちっとも大人しくならなかった。人が多くなりすぎて、警戒心が強まっているのだろう。

どうしよう、とシェーナが瞳に涙を浮かべたとき、下男が助け舟を出してくれた。


「シェーナ姫、お歌を歌われては?」

「・・・歌・・・?」

「カナス様から、姫は歌でナルを懐かせたとお聞きしております。きっと姫の歌を聞けば、気が落ち着いて大人しくなることでしょう」


それを全く思いつかなかったシェーナは、ぱっと表情を明るくした。

振り返れば、下男の他にも遠巻きにしていた女官や護衛兵たちが「そうですよ」「きっとできますよ」と励ましてくれる。

皆、主人であるカナスへのマルナンの言いがかりをやめさせたいのと共に、シェーナがカナスを必死になってかばったことで、初めてシェーナに対していい感情を持ってくれたのだ。


「はい、そうします」


シェーナは浮かんでいた涙を手の甲でこすり、すくっと立ち上がった。そして両手を祈りの形にしてから、前にナルに聞かせたのと同じ“歌”を歌い始める。


心地よく響くシェーナの“歌”はすぐにナルだけではなく、その場にいた人々も魅了した。

言葉は誰一人理解できない。けれど、その降り注ぐようにも感じる高く澄んだ声に誰もが心を和ませる。

だから、シェーナがナルが大人しく地面に腹をつけたのを見て歌うのを止めたとき、皆がもう終わりかとため息をついた。


「ナルが座ってくれました。よかったです。これでいいでしょうか?」

「なるほど。確か、フィルカの王女は“歌使い”と呼ばれると聞いたことがある」


シェーナが嬉しさに頬を染めて振り返ると、彼女の歌に心奪われたマルナンが笑みを浮かべてシェーナを手招いた。


「まさかこれほどとは思ってもいなかったな。美しい声で鳴く小鳥だ。是非、手に入れたくなった」

「・・・?」


その指示に従って檻から出たシェーナは、突然マルナンの私兵に両側を固められたのを不思議そうに見た。


「そういえば、よく顔を見ていなかったな。どれ、見せてみよ」

「!!?」


急にマルナンに手を伸ばされたと思えば、体を逃がす前にぱさりとフードを脱がされた。

まぶしさにも弱いシェーナは突然当たった強い光に驚いて「やっ」と小さく悲鳴を上げる。

そのまま檻に逃げ込もうとしたシェーナの腕を両脇にいた兵士が捕まえた。

見知らぬ男に触られた恐慌で、シェーナは今度こそ大声で悲鳴を上げた。

途端、大人しくなっていたナルがシェーナを掴んだ兵に飛び掛ってきた。檻のすぐ傍にいた彼はあえなくその鋭い爪の餌食となる。男の腕と腹部を切り裂いたナルは勢いでマルナンにも牙を向け襲い掛かろうとした。


「ひっひぃいいっ!!」


マルナンの絶叫と女官たちの悲鳴が重なった。

シェーナは突然の惨状に呆然とするしかない。

だが、まさにマルナンに噛み付こうとしたナルがぴたりと途中で動きを止めた。その後、がう、ぐあぅ!と暴れるナルは、苦しそうに首を振っている。

鎖の長さがそこで足りなくなり、ナルの首輪が強く締まったのだ。

下男が慌てて持っていた麻酔の針を何本もナルに刺した。

ナルが暴走したときのために医師からあらかじめ渡されていたそれのおかげで、ナルはしばらくしてからようやく動かなくなった。

獣の咆哮と暴れる鎖の音が消えると、場はし・・ん、と静まり返った。


「て、手当てを・・・っ」


誰かがうめき声すらあげずに転がっている私兵に気づき、そんな声をあげる。

それを皮切りに一気にパニックのような状態になった。

その喧騒も気にならないほど放心しているシェーナに、しばらくしてから息の詰まった声がかけられた。


「き・・・ききさまら、ゆっ、許さんぞっ!どうしてくれよう!」


同じく先ほどまで放心していたマルナンだった。今度こそもう立てないのか、地べたに尻をついたままシェーナをにらんでいる。


「わ、わしをこんな目に・・・っ、あ、あわせおって!許さぬ!許さぬ!許さぬ!」

「・・・・あ・・・」


ようやくまともに言葉の意味を掴むことができるようになったシェーナは、マルナンの怒りように身をすくめた。


「おい、貴様ら、その獣を連れて行け!始末してくれるわ!」

「はっ」

「ま、待って・・・待って、くださ・・・っ。ナルを、ナルを連れて、行かないで・・・っ!ナルは、私の大切な・・・っ」

「この人殺しの獣が大切だと!?貴様!やはりわしを殺す気かっ!」


シェーナは必死になって静止を懇願したが、怒鳴りつけられびくりと喉に声を詰まらせる。

ただ、首を振り震えるシェーナの両肩を後ろにいた2人の兵士が掴み、脇を持って抱えてシェーナの足を浮かせた。


「い、いや・・・いやっ!」


シェーナは恐怖に涙を浮かべ、必死に暴れるが逃げられなかった。


「マルナン様?!姫様に何をっ?」

「これはしばらく我が屋敷で引き取る。わしを襲った罰を受けさせんとな」

「そんな!これは事故ではありませんか!姫様は何もしていません!」

「そうです!シェーナ様はそんなおつもりなど欠片もなく・・・」


屋敷の者たちが非難の声をあげたが、マルナンはそれをすべて無視した。


「心配せずとも、殺しはせんわ。そうなればあの王子も黙ってはおらんだろうしな。まあ、しばらくは我が家でさえずってもらうとしよう。貴重な楽しみができたことよ」


結局マルナンはシェーナの歌を手に入れたかっただけなのだ。


「ふむ。他の貴族にも自慢せねばな。ああ、王子には飽きたら返すと伝えよ。あの男のことだ。逆に厄介払いができて喜ぶかもしれぬがな」


高らかに笑ったマルナンは、何もできずに唇を噛む屋敷の者たちに見送られて出て行く。

そして、いやだ、と繰り返し泣き叫んでいたシェーナは、連れて行かれる途中で耐え切れなくなり、ぱたりと意識を失っていた。


      #               #

それから6日後、ラコベーゼに戻ってきたカナスは血相を変えてマルナンの屋敷を訪問した。

彼はラコベーゼに戻る途中で、屋敷からの伝令を聞いた。そして余裕のあった移動日数を削り、自分の屋敷にも戻ることをせずに駆け込んだのである。


「おや、王子。そのように息を切らしてやってくるとは。何かありましたかな?」

「マルナン公!どういうおつもりか!即刻、姫を返していただきたい!」


本音はふざけんな、さっさと返さなけりゃぶっ殺すぞ!であったが、それは必死に押さえておいた。


「意外ですな、浮名ばかり流しておられるあなたが、一人の女にそんなにも血相を変えるとは」

「あれは、私の妃になる姫です。それを、私に無断で連れ去るなど・・・事によってはいくらあなたでも許しませんよ」

「これはおかしい。世の中にはごまんと女がおり、そのほとんどを望むことができるあなたが、あのような平凡な娘を選びますか。まったく、人の趣味とはわからぬものだ」

「これ以上、一言でも姫を馬鹿にしたらどうなるか試してみますか?」


せせらわらうマルナンに、カナスはこれ以上ないほどの冷たい声と眼差しで返した。

それに彼の本気を感じ取ったのだろう。

マルナンはすぐに薄汚い笑いを引っ込めて、ふんと視線をそらせた。


「あの娘ならば、そこの奥の部屋にいる。連れ帰るなり途中に捨て置くなり好きにすればよい」


指差された部屋のドアを、案内役を突き飛ばす倒す勢いで開けると、そこは異様な光景だった。

壁一面を覆うほどの黒い毛皮と、その壁の前にある透けるカーテンに囲われたベッド。

さらにその脇に置かれたピアノの周りには楽譜が散乱していた。窓辺のテーブルの花瓶には枯れた花が頭を垂れており、しなびたパンや果物を乗せた皿がいくつも積まれていた。


「シェーナ?!」


ベッドの上の人影を捕らえようとカナスが天幕のように吊るされているカーテンを引けば、やはりそこにはシェーナの姿があった。

しかし、彼が出かける前に見た姿とは随分と違う、生気のない顔でぼんやりとそこに座り込んでいた。

また何の声もあげずにただ人形のように泣いているシェーナに、カナスはぞっとする。

栄養状態が良好とは言い切れない中で育ってさえふわふわと柔らかかったシェーナの頬がげっそりと痩せていた。


「おい、シェーナ!しっかりしろ!」

「・・・・・・」

「くそ、何でこんな・・・っ」


カナスはひどく毒ついてシェーナの体に傷やあざがないか確認した。

幸いにも抜けるように白い肌にそれは見つからなかったが、折れそうに細い足首に銀細工の高価な足輪がはめられ、細い鎖でベッドの端とつながっているのを見て彼は腹の奥が煮えくり返る思いを味わった。

持っていた剣でその鎖を切ってやり、そっとシェーナの肩に触れる。


「シェーナ、俺だ。分かるか?」


返答はない。それどころか、カナスが肩を揺すったことにも気がついていない様子でぼんやりと虚空を見つめていた。


「シェーナ、おい、シェーナ!しっかりしろ!」


何度呼んでも反応は返ってこず、カナスは苛立ちにベッドの柱をこぶしの腹で殴りつけた。

その力の強さに、ぎしぎしとベッド全体が揺れる。それでもシェーナはただ生気の見られない黒い瞳から涙をこぼしているだけだった。


「あいつ、何しやがった・・・っ!こいつをこんな風にして・・・」


せっかく笑うようになったところだったのに。


カナスは怒りに瞳を燃え立たせ、自分の上着でシェーナの体を包むと、いつもとは違い横抱きにして立ち上がった。

今のシェーナにつかまることを期待することができないからだ。それもまた、彼の怒りに一層の火を注ぐ。

そのまま足早に部屋を後にしようとしたカナスだったが、急にシェーナが正気づいたように暴れ出したので驚いて足を止めた。


「シェーナ?」

「・・・ナル、ナル・・・ナル・・・・っ!」


シェーナは壁に向かって必死に手を伸ばしていた。

その先にあるものを見て、カナスは思い至った最悪の結果に指先が冷たくなる思いをする。


「ナル、ナル・・・ぅ・・・」

「あのクソ野郎・・・!」


戻ってくる間にナルの命がないことを考えなかったわけではない。けれど、殺した黒豹の毛皮を剥ぎ、よりにもよってシェーナの前に吊り下げるなど、あまりにも非道な処遇であった。

ナルの毛皮を掴もうと何度も空を握るシェーナの体を、カナスはぐっと抱きしめた。


「悪かった。俺がそばにいなかったから、こんなことに・・・」


もともとマルナンとは折り合いが悪いのだ。

カナスを疎んじている父王の腰巾着の一人で、かつ、彼がいなくなれば自身が後見を務める異母弟により重要な地位が舞い込むかもしれないと常日頃から考えている輩なのである。

そんなマルナンが、カナスのいない時期を狙い突然現れた彼の婚約者にちょっかいをかけることなど容易に予想がついたのに。それでもまさか自らの屋敷に連れ帰り、こんな風な事態になるとは思ってもみなかった。


「ごめんな、シェーナ」

「・・・っ・・・」


つらい声で謝罪をすると、シェーナは肩を震わせて、ますます涙をあふれさせた。

これ以上ここにいては彼女を苦しめるだけだと思い、カナスは身を切られるような思いで踵を返した。

シェーナが嫌がって手足を振り回したが、それでも足は止めない。それが今は最善だ。


「あとで、絶対に取り返してやるから。ナルはちゃんと供養してやる。だから今は帰るぞ」

「や、や、やぁ・・・っ!ナルっ!」


悲痛な声をあげるシェーナをあきらめさせるように、後から付いて来た部下に悲しい部屋の扉を閉めさせる。途端、ふっとシェーナの意識がなくなった。

その涙に濡れた寝顔を見ながら、いっそこのほうが彼女にとって幸せだろうと思う。

これ以上何も、シェーナには見せたくない。


(特にあの男の顔は・・・)


カナスはシェーナを抱えたまま、階段の上にいる男の顔をにらみつけた。

戦場で敵と対するときの闘志がむき出しの表情だ。

軍人でもないただの貴族はその迫力に飲まれて、後ずさった。それでも手の届かないところにいる安堵感からか、カナスの腕の中で気を失っているシェーナの姿を見て、馬鹿にしたように言った。


「王子もとんだ役立たずを選んだものですな。多少さえずるのが上手いかと思えば、黒豹が死んでからは泣いてばかりでちっとも鳴かなくなって。歌えぬ小鳥など何の用もない。はやく持ち帰っていただきたかったところ、引取りに来ていただけてちょうどよかった」

「貴様・・・っ」

「カナス様!」


暴言に激昂したカナスが情に任せて行動しようとしたとき、後ろで腹心と仰ぐ部下の声がした。

彼のかつての家庭教師でもあったラビネの、大人の落ち着いた声にカナスは動きを止める。

ラビネはカナスにだけ聞こえる声で言った。


「お怒りはごもっともでございますが、どうか我慢を。ここでいさかいを起こせば今までの苦労が泡となります」


カナスの理性と同じ事を、ラビネは忠告してくる。

カナスは、くそっと口の中だけで毒ついて、結局なにも言わずにマルナンの屋敷を出て行った。

ここが我慢の限界だ。挨拶などできるわけがない。その辺はラビネが上手くやってくれると信頼している。

馬車を呼び寄せる間、カナスはただ痩せてしまったシェーナの顔を見下ろして瞳をつらそうに歪めていた。



それから数日経っても、シェーナの様子は好転しなかった。

ラビネが聞き込んできた情報によると、ナルはマルナンの屋敷に連れて行かれてすぐに処刑され皮をはがれたそうだったが、シェーナはそれを知らされず、マルナンや興味を惹かれてやってきた貴族たちを満足させられるほどの歌が歌えれば、ナルを助けてもらえると信じていたようだ。

幾晩も幾晩も享楽にふける貴族のために歌わされて喉を痛めたシェーナに、マルナンが見せたのがあの黒い毛皮。

むごいことを、とマルナンの屋敷の下働きでさえ眉をひそめるほど、シェーナの絶望ぶりはひどかったらしい。

ショックで口も聞けなくなり、何も食べなくなってしまったそうだ。

さすがにまずいとマルナンは医師に見せたそうだが、シェーナの閉じてしまった世界を変えることができなかった。

引取りに来てもらえてよかったというのは詭弁で、内心かなり怯えていたのだという。


「・・・下衆が。いつか殺してやる」


それを聞いたとき、カナスは手のひらに強く爪を立てた。

シェーナはよくも悪くも純粋な子供だ。

ナルを助けられると信じ必死になったに違いない。

その上で裏切られた真実への悲しみはどれほどのことであっただろう、と怒りと共にひどく胸が痛んだ。


「衰弱状態からは脱したけれど、体と違って心のほうはそう簡単にはいきそうにもありませんね」


カナスの主治医を務める6つ年上のイマルは、眉をしかめ難しい顔をしていた。


「もともと気持ちの糸の弱いお方ですから、あのような非道な処遇に耐えられるわけがありません。気力がすっかり抜け落ちてしまっていて・・・。かわいそうに。これ以上ショックをあたえず、時間が忘れさせるのを待つ以外ありませんね」

「・・・・・・」

「シェーナ様の性格や今までの状態を考えると、正気に戻るかどうかは、はっきりいって半々の確率です。鎮静効果や逆に高揚効果のある薬草をうまく使い分けながら、地道に治療をしていきましょう。全力を尽くします」

「お前の腕で半分の確率、か?」


低く抑えたカナスの声に、イマルは沈んだ表情をさらに曇らせた。


「・・・申し訳ありません。このような病は、気の持ち様がすべて。自分自身で立ち直ろうとする心持ちがなによりの特効薬なのです。しかし、ただでさえ人と接するのを苦手とし、ご自分の殻にこもろうとする傾向があるシェーナ様のお心には、なかなかそのような気持ちがお生まれにならないでしょう。そうなると・・・」

「とにかくこいつが前向きになりゃいいってことか?」

「は・・・、まあ・・・大雑把にいえばそうですが。しかし、今のシェーナ様にお心に言葉が届くとも思えません。届いたとしても、逆に、余計お心を痛めるかもしれませんし。ここは静かな環境で十分に静養をするのが一番かと思います。北のリーガドーにある教会に世話を頼んでみてはいかがでしょうか?」

「いや。こいつは俺が面倒をみる」

「・・・カナス様?」


意外な申し出にイマルは目を見開いた。

そのあとで、控えめに主張をする。


「しかし・・・、カナス様はご多忙の身ではありませんか。まもなく南での開戦との噂も」

「まもなくといっても、数ヶ月は様子見だ。とはいえ、いつでも動ける準備はしておかなければならない。だから、こいつもティカージュに連れて行く」

「カナス様?!」


今度驚きの声をあげたのは、控えていたラビネだった。


「お待ちください。ティカージュは前線近郊の館です。いくら最前線からは数十キロ離れているとはいえ、最悪の場合は領内への侵入を防ぐ最終防衛となる都市。そのようなところに女性をお連れするのは・・・」

「ティカージュにだって女はいるだろう」

「それは市民なのですから当然でしょう。いくらなんでも、街娘と同列にすべきではありません。ましてシェーナ様はあのような状態なのですよ」

「そうです。人でごったがえすような騒がしい場所ではお心も休まりません。やはり、静かな場所に預けていかれるのが最良かと」

「最良?」


イマルの言葉に、カナスは目をすがめ、眉を上げた。


「では、俺の目の届かないところで、またシェーナを狙う輩がいないと言い切れるか?」


冷ややかな問いかけに、イマルとラビネの二人が途端に黙りこむ。


「マルナンのことだ。俺が血相変えて飛び込んできたことをあの父に言うだろう。そこまではいかなくとも、他の貴族たちに。そうなれば、俺の失脚を狙う奴らにシェーナがまた狙われないとも限らない。そうじゃないのか?そのとき、教会だの病院だのに預けておいて、到底対応できるとは思えんが。ティカージュには、信頼できる奴が多い。仮に俺やラビネがいなくとも、あいつを守れる」


その主張に反論できるだけの材料を、二人は持っていなかった。

しかし、ラビネは少し考え込んだ後で、カナスに尋ねた。


「シェーナ様は、あなたにとってそれほど大切な方なのですか?確かにお気の毒な境遇には私も同情します。けれど、同情だけならば・・・政局を左右するほどの弱点とはならないはず。あなたにとって同情や憐憫以上の存在であると、そのように認識を改めたほうがよろしいでしょうか?」


今度はカナスが黙る番だった。彼が答えるのをイマルも無言で待つ。


「・・・わからん。俺はいつもよりも多少深い同情だと思っているがな」

「カナス様・・・」

「生まれてからずっと、何の非もなくうとまれ続けて、都合よく利用されていたあいつが、もう利用されることなく安心できる場所をつくってやりたい。今まで知らなかったものを見せてやりたい。自分で望むことを知らないあいつに、希望をもたせてやりたい。それはまともな人間ならもちうる感情だろう?」


カナスは自信に満ちた瞳で二人を見た。


「そして俺ならそれができる。だったらできる限りで叶えようと思うに決まっているだろ。一度引き受けたんだから、もう利用されないように守ってやるのが筋だろう。大体、俺はまだあいつが声あげて笑ってるところを見てねえ。人間らしくしてやるって決めたんだ。その途中で誰かに邪魔をされるのは業腹だ」


その言葉に、イマルがぷっと吹き出した。


「俺ならできる、ですか。相変わらずの自信家だ。最初など、怯えさせて気絶させてばかりのように思いましたが?」

「うるせえな。最近は少し懐いてきていただろ」


ふん、と鼻をならして腕組をするカナスの耳に、今度はラビネの苦笑が聞こえた。


「まったく・・・それならそうと早く言ってほしかったです」

「何をだ?」

「いいえ。あなたがそこまで望むのでしたら、ということです。ティカージュには腕の立つ女官も用意しておきますから、安心してください」

「そこまで望む・・・?何か引っかかる言い方だな、ラビネ」

「そうですか?別に他意はありませんけれど」

「・・・まあいい。手配はお前に任せる。とはいっても、まだしばらくはこっちにいるがな。その間にもう少しマシにしておくか」

「これはまた随分と大きくでましたね」


イマルがくすくすと笑う。それにカナスも不敵な笑みを見せた。


「当たり前だろ。この俺に世話焼かせるんだ。よくならないわけねえだろ」


根拠の見えない自信をのぞかせるカナスに、年上の二人は苦笑にも似た笑みを浮かべたが、彼の言葉の証明がなされるには、1週間とかからなかった。


#. #


アキューラ最南端の州知事設置都市、ティカージュ。

風は温かく、大地は乾いた匂いをさせている。見られる植物の種類もラコベーゼとは大分異なり、花は原色の大ぶりのものが多く、背丈も平均して人の膝を超える程度だ。

そこに構えられる貴族の館も開放的なつくりで、開かれた回廊や部屋ごとに備えられているバルコニー、そして豊富な緑に囲まれた庭には噴水があり、それに通じる小川が引かれていた。

風通しの良いリビングの床にマットを引き、並べられたクッションと共に寝転がりながら書類を読んでいたカナスの元に、ぱたぱたと軽快な足音をさせてシェーナがやってくる。

ここ最近、よく見られる光景だった。


「カナス様、今日はブータンという果物を採らせてもらいました」


見た目毛虫のような長い毛に覆われた果物が入ったかごを、シェーナは嬉しそうにカナスに見せる。


「みたときは怖かったですけど、食べたらとても甘くて美味しかったです。だから、カナス様にもお土産に持ってきました」


ぺたんとカナスの前に腰を下ろしたシェーナの表情はあどけない笑顔に満ちていた。

カナスは起き上がると、シェーナの頭をぽんぽんと撫でる。


「気遣いは有難いんだけどな、何度か言ったが、俺はあんまり甘いもんが好きじゃねえ。だから、お前が食え」

「あ・・・そ、そうでした・・・」


途端にしょぼんと肩を落とすシェーナの頬を長い指がつまんだ。


「別に責めてるわけじゃねえよ。俺のことを気にしてくれたんだろ。ありがとな。気持ちだけもらっとくわ。俺のことはいいから、好きなだけ食いな。ようやく気持ちよくなってきたんだから、どんどん食ってどんどん肉つけろ」

「・・・あんまり太っちゃうのは嫌です。太っているのは怠惰の証だと教わりました」

「お前が食えるくらいの量で太るわけがねえだろ。安心してたくさん食え」

「本当ですか?だったら、お腹がいっぱいになるまで食べます」


シェーナは嬉しそうに笑って、教わったとおりに皮をむいて食べ始めた。

以前と比べれば食べる量は格段に増えたし、一緒にいる人間のせいか手づかみで食べることへの抵抗感もなくなっている。何より、よく笑うようになった。

おいしい、と頬を綻ばせるシェーナを、カナスは満足そうに眺めていた。

他の女官にも分けることを思い至ってシェーナが部屋を出て行くと入れ違いに、ラビネがやってくる。

彼は微笑ましそうな笑みを浮かべていた。


「すっかり懐かれたご様子ですね。なによりです」

「だから言っただろ、俺にできないことはねえって」

「今回ばかりはそうそう上手くいかないだろうと思っていたのですが・・・。これでは頭を下げるしかありませんね。お見事です」


からかいまじりにラビネが自分の胸に手を当てるが、何故かカナスはそこで表情を引き締めた。

そして窓の外へと視線を向ける。その先には、中庭の女官たちの輪の中にある小さな白頭巾の姿があった。


「その言葉はあいつが本当に元に戻ったら聞こう」

「カナス様?どういうことですか?」


すっかり元気になっているとしか思えないシェーナのどこにまだ問題があるというのか。

そう問いかけると、彼は深い嘆息交じりに答えた。


「あいつはまだ元に戻ったわけじゃねえ。見た目、大分元気になってるんだけどな。・・・どうしても歌うことだけはまだできねえんだよ」

「歌、ですか?」

「ああ。“歌使い”とまで呼ばれたあの姫さんが、歌おうとすると途端に声が出なくなっちまう。思い出すんだろうな、あのときのことを」


望まず歌わされ、ナルを奪われたときのことを思い出してしまうから。

カナスの脳裏に、喉を押さえてうずくまるシェーナの姿が浮かんでいた。真っ青な顔をして、震えて、今にも泣きそうな瞳をするシェーナ。


「あいつはずっと“歌”にしか自分の存在意義を見ることができなかった。それなのに、その“歌”が歌えないんだ。だから一人で焦って何度も歌おうとして、そのたびに怯えて声すら出なくなる。笑うようになってはいるが、夜はよくうなされているぞ」

「・・・そうなのですか」


何故夜のことを知っているのかという無粋な質問はしない。ただ、ラビネは痛ましい事実に表情を曇らせた。


「お美しい歌声でしたのに。まるで、天上からの調べのような・・・。あれが失われてしまっては残念でなりませんね」


彼女がナルを手なずけた際に聞いた美しい音楽を思い出す。まるで心が洗われるような、荘厳で気高く、それでいて優しい歌声を。

記憶の奥にある音を追いながら、カナスはため息をついた。


「まあ、焦らずに待つさ。それに・・・」


しかし、彼はそこで言いかけた言葉を飲み込む。

ラビネが促しても、首を振った。


「・・・いや。とにかく、このことには下手に触れるな。他の奴らにも言っておけ」

「御意」


意を得たラビネが頭を下げる。

それに頷きながら、カナスは飲み込んだ言葉を胸の中で反芻した。


(“歌”以外にも価値があるのだとあいつに分からせるためには、これは、かえってよかったといえるかもしれないしな)



宵がだいぶ深まった頃。

自分の部屋を抜け出したカナスは、二階広間のバルコニーで頼りない背中を見つけた。

シェーナは燦然と輝く月に向かい両膝を折り、指を組んで何かを祈っていた。

白磁の肌が月明かりに照らされて、いっそ銀に輝いているように見える。


「またここにいたのか?」


わざと足音をさせて離れたところから注意を引くのは、彼女の祈りを不躾に邪魔しないため。信仰のないカナスにはわからないことだが、シェーナにとって“祈り”とはとても大切な儀式だとはわかって、不用意に近づくべきでないと気を使っているのだ。

カナスの存在を認めたシェーナは振り返り、立ち上がると、彼の下に自分から近づいてくる。


「ナルのためにお祈りをしていました」

「・・・シェーナ」


また、という言葉をカナスはすんでのところで押し留めた。きっといい加減にしろという響きにしかならなかっただろうから。

それを聞かせれば、シェーナの顔が悲しく歪むだろうから。

けれど彼の表情を見て、シェーナは言いたいことを悟ってしまったらしい。

困ったような表情を浮かべて、「すみません・・・」と謝った。


「あー・・・別に、謝ることじゃねえけどよ」


カナスはごまかすように頭を掻いたが、シェーナはうつむいたままだった。こういうとき、自分の粗雑さが嫌になる。

カナスは軍人で、戦場でたくさん部下を失った。

けれど、振り返らない。

振り返ることは、死んでいった者たちへの冒涜で、前を向いているのが生きている自分の使命なのだとそういう信念で生きている。

そんな彼とこの繊細な少女とはあまりに違いすぎて、そのずれがよくシェーナの顔を曇らせるのだ。

なんと言ったものかと頭を悩ませていると、シェーナからぽそりぽそりと言い訳を始めた。


「すみません・・・でも・・・・、わたし・・・ナルに謝りたくて・・・歌えれば少しはナルの御霊も救われるかとそう思うのですが・・・、でも、それすらもできない。何もできない・・・だから、ただ安寧を祈るだけしかできなくて・・・ナルに、申し訳なくて・・・」


ナルが好きだった“歌”を歌えたらいいのに。

そうやって瞳を揺らすシェーナを見ているのはひどくもどかしい。


「お前が、毎夜そうやって詫び、祈っているんだ。その想いで十分だと思うぞ。少なくとも俺なら」

「え・・・・、カ、カナス様がお亡くなりになるなんて嫌です!そんなことおっしゃらないでください!」

「あ?」


しかし、急に血相を変えたシェーナはまったく違う意味に取ったようだ。

その勘違いに苦笑して、カナスは柔らかな白い頬を片側だけつねった。


「馬鹿。誰も俺が死ぬなんて言ってないだろ。たとえだ、たとえ。俺が死ぬわけねえだろうが」

「あ・・・そうですか。よかった」


その言葉にほっと息を吐くシェーナは、ひどく可愛らしい笑みを浮かべていた。


「カナス様までいなくなってしまったらどうしようかと・・・」


白皙の頬を薄く染め、黒檀の瞳をまっすぐに向けてくるシェーナに一瞬たじろぐ。それは初めてカナスの中に生まれた恐怖のようなものだった。


その境遇が不憫でならず、半ば怒りを感じながら、この存在を守ってやりたいと思った。自分に心を許し、ひどく懐くようになったかわいそうな少女が可愛くてならなかった。

けれど、その全幅の信頼を裏切ることがもしもあったら。もしも自分が命を落すことがあったら。今度こそシェーナは壊れてしまうだろう。

そして、その仮定は常にカナスには付きまとい続けているのだ。

だが、それと同時に彼の中に生まれるのは優越感に似た高揚。愛らしい生き物が何の打算も謀議もなく、ただ純粋に慕ってくれている。それこそ、その人格すべてを賭けて。それがたまらなく心地よい。


カナスは背の小さいシェーナの頭のてっぺんをぐりぐりと撫でた。


「お前は、可愛いな」


ぽつり、とそんなことをこぼしていた。

シェーナは最初、きょとんとした表情をつくり、それから顔を真っ赤にして首を振った。


「な、何を、おっしゃりたいのか、わ、わからないです」

「だから可愛いって。ちっこくて」

「ち・・・ちいさいと、可愛いのですか?アキューラではそんな基準があるのですね?」


とぼけた切り返しに、カナスはぷっと小さく吹き出した。


「あいかわらず笑わせてくれる」

「笑わせる?何故ですか?」

「いや、お前はそのままでいろよ」


その不器用すぎる優しさが、奢るということを知らない無欲さがどんなにもどかしくても、その優しく純粋な心を否定したいわけではない。

彼を苛立たせるのは、シェーナをその境遇に追いやった周りにであって、決してシェーナではないのだから。


「そのまま、ですか?でしたら、あんまり食べないほうがいいですか?」


だが、あいもかわらずずれたことを言うシェーナに、カナスが腹を抱えたのはいうまでもない。


そのあと、いつものように二人が余裕で眠れるベッドで、背中合わせに床に就いた。そうしはじめたのはシェーナを取り戻した少し後からで、絶望感や恐怖感に浅い眠りを繰り返すことしかできなかった彼女の傍に居て、なだめる必要があったからだ。


他人の気配や温度を苦手としていた彼女は、それで始終傍にいたカナスの気配に慣れた。幾晩も夜中に目を覚まし、震え、縮こまるシェーナを、その度に抱きしめ、頭を撫で、冷たい手に体温を分け与え続けていると、ある日ふとシェーナの目が正気づいた。

数週間ぶりに聞いた声はひどくかすれ、弱々しかったが、シェーナはわあわあと声をあげて泣いた。そのときの悲しい叫びをカナスは今も忘れることはできない。


“私が、シャンリーナだから”


シャンリーナはすべてを不幸にする。そう言われて育ち、すべて自分のせいだとシェーナは自らを常に呪っている。シェーナを産んだ母が死に、天災が続き、国が荒れ、戦争に巻き込まれたのもすべて自分が悪いのだと。


ナルも自分の犠牲なのだと、血を吐くような声音で言った。

否定するのは容易で、だが、理解させるのは困難だった。

そう言われ育った16年もの月日は簡単に乗り越えられるものではない。

だが、それでも、シェーナがそうやって慟哭したことが、悲しみを声に出すことができたのは、良かったのだと思わないではいられない。

ずっと心の中でだけ嘆いていた叫びを外に表すことができたのは、彼女が普通の少女らしくなってきたからだと思いたかった。

そのとき、一晩中シェーナは泣きじゃくった。

カナスは一晩中、シェーナに胸を貸していた。

そのときからかもしれない。

腕の中にいる存在を可愛いと思い始めたのは。

もしかしたら、単なる同情だけではないのかもしれないとそんなかすかな予感を覚えたのは。


(・・・俺がいなくなったら、か・・・)


左腕の上に頭を乗せる形で側臥していたカナスは、首だけで後ろを振り返った。

見れば、頼りない細い肩が規則正しく上下している。

シェーナはすっかり寝入っているようだ。

ごろりと今度は体全体で反転し、シェーナの背に覆いかぶさるように黒髪に頬を寄せる。

振動のせいか、かすかにシェーナが身じろいだ。それを逃がさないように腕で抱き留める。だが、シェーナはさしたる抵抗もなくすぅすぅと眠り続けていた。


(軽はずみなことはできねえな。気を引き締めてかかんねえと)


カナスは見えない敵がいるかのように、鋭い瞳で虚空をにらみつけた。


それはシェーナのためでもあり、ひいては自分のためでもある。

勿論、死んだら元も子もないが、それでもカナスはどこか自暴自棄なところがあった。

野望はある。使命感もある。そしてそれを実現するため、共に戦う仲間もいる。

それでも薄氷の上の命への執着は薄かった。たとえばある日突然、自分の生が尽きたとしても、申し訳ないとは思うが、悔しいとは思わなかったと思う。

だから戦い続けてこられた。命を削りあう所作が怖いと思ったことはなかった。


けれど、今死んだら、多分悔しいと思う。

この無垢で幼い心を持った少女を悲しませるのが分かりきっているから。

嗚咽をこぼす泣き顔が、ほわりとした野の花のような可憐な笑みが、失われてしまうから。

なにより、まだ、自分は声をあげて笑う姿を見たことがないのだ。人間らしくしてやると誓ったのに。

悔しくて、浮かばれないだろう。きっと。


(これが、未練ってやつ・・・か)


シェーナの艶やかな黒髪の先をいじり、カナスはふと苦笑を漏らした。

その吐息がかかり、シェーナの唇から「・・・ん・・・?」と寝ぼけた声がこぼれる。


「何でもねえよ、寝てろ」

「・・・ん・・・」

「いい夢を、チビ姫様」


からかい混じりに言って頭のてっぺんに口付けると、まつげの先をぴくぴくと動かしていたシェーナはまた規則正しい寝息に戻った。

見届けたカナスのアクアマリンの瞳が優しい色をともす。

そして自分も静かにまぶたをおろした。凪いだ、穏やかな気持ちで。

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