虐げられた姫君は大国で自らを知る2
元々の1話があまりにも字数が多いので分割して修正しました。
「・・・う・・・ん・・・?」
まぶしい。そう思ってシェーナはまぶたを揺らした。するとぺしりと額に冷たいものが乗った。
「う、うぅん・・・?」
「起きたか?」
どうやらそれは濡れタオルのようだ。その刺すような冷たさを意識すると、びっくりして飛び起きる羽目になった。
「冷たい・・・っ」
「そりゃ、裏の雪水につけといたからな」
「・・・・・??」
上半身を起こしたシェーナは、そこで知らない声が聞こえることに眉を寄せた。
そして、おそるおそる横をみると、そこには栗色の髪の青年がむすりとした様子で座っていた。
「・・・・?だ・・・れ・・・?」
「誰って、さっき会っただろう。カナス。カナス=フェーレ」
「・・・・アキューラ・・・の王子殿下?」
「そうだ」
頷いたアクアマリンの瞳には確かに覚えがあった。
いや、瞳だけではない。
確かにこの顔は広間で上段にあった顔だ。それを認識すると、意識を失う前のことが少しずつ甦ってきた。
「・・・・・・・・・私、死・・・死んだん、じゃない・・・んでしょうか?」
「はあ?」
シェーナの問いかけにカナスは不審そうな表情を浮かべる。それにシェーナはびくりとした。
「あ?何びびってんだ?」
「・・・・・・」
「何だ、何か言えよ」
「・・・・・・・・・・・・・・男・・・の人と、こ、こうやってしゃべったこと、ない、です・・・・」
ぶっきらぼうな口調を向けられたシェーナが消えそうな声で告白すると、カナスは今度不思議そうに眉を浮かした。
「さっきもしゃべっただろ」
「・・・・・・・・」
「あんなに気が強かったのに。こっちが素か?」
「・・・・・・・・」
「おい?」
「・・・さっきも、初めてでした。あんなに・・・たくさんの人の前でしゃべったの」
「そうなのか?」
「・・・・はい」
頷くと、ぼろりと涙がこぼれた。それはぼたぼたぼたぼた頬を伝い落ち続ける。
しかしシェーナはそれをぬぐおうともせず、ただ黙って待っていた。
「・・・おい、泣くなら泣くなりの顔をしろよ」
「?どういうことですか?」
「どういうって・・・泣くのは悲しいからだろ?だったら、悲しい顔しろっての」
「悲しい?・・・悲しくないです」
「じゃあ何で泣くんだよ?」
「それは・・・涙が出てくるからです」
「だから!その理由を聞いてんだろ!」
苛立ちが限界に達したのだろう。
カナスはがたんっと立ち上がってシェーナをにらんだ。短気というのは本当らしい。
それにしても怒ると怖い。
びくっとすくんだところ、もっと涙が出てきた。
「・・・怖いのか?」
「怖い?コワイ・・・それ・・・なら、それならわかります。あの・・・今・・・少し・・・怖いです」
「ああ、怖かったのか。さっきも。思い出したんだろ?」
何故か納得顔のカナスに問われて、首をかしげたシェーナは少ししてから頷いた。
「はい。・・・・さっきは、とても怖かったです。あんなにたくさん・・・人がいたのも、他国の国王陛下などという偉い人に会ったのも、・・・・豹・・・を、見たのも初めて、で・・・」
「豹は初めてだったのか?」
「はい。あんな大きい動物・・・初めて触りました。ちょっと怖かったですが、触るとあたたかくて、とても優しい気持ちを持っている子でした。そういえばナルは・・・どこですか?」
「裏庭につないである」
「・・・あの・・・ナルに・・・ナルに、あ・・・会わせて、もらうことできない・・・ですか?もう会えないと思って・・・いて・・・だから・・・せめて、一目でも・・・」
「もう少しよくなったらいくらでも会わせてやる」
「ほんとうですかっ?」
「本当だ。だから、まず泣き止め」
「・・・あ・・・え・・・と・・・はい、ごめんなさい。ごめんなさい・・・あの・・・少し待ってください。ごめんなさい」
そう言って、シェーナはじっと石のように動かなくなった。嗚咽すらこぼさずにただ黒い瞳から雫だけをこぼす。
それをしばらく見ていたカナスは、まだ涙が止まりきってないシェーナに業を煮やしたように、節くれだった指でシェーナの頬をこすった。
「っ・・・な・・・なに、何をするんですか?」
またびくっとシェーナは肩を震わせ、身を引いた。
触られたことに驚いたのだ。
「いつまでも泣き止まないからだろ。何かお前、変だな。涙くらい拭けよ」
その過剰反応振りはカナスの方がびっくりしたくらいで、彼は気まずそうに手をひっこめると頭を掻きながらそんなことを言った。
「・・・・・・・・拭く?」
「泣きながら固まってる奴、初めて見た。人形みたいで気持ち悪い」
「・・・すみません。ご不快にさせましたか?も、申し訳ありません・・・」
「いや、ご不快とか・・・本気で言ったんじゃねえけど。ああもう、何なんだよ!お前ちっこいんだから、ガキらしく泣きゃいいじゃねえか。それを気配消すみたいに泣いてて・・・、ガキいじめてるみたいで胸クソ悪いんだよ」
「・・・?子供じゃありません。もう16です」
「俺より6つも年下じゃねえか。そんなもん、ガキだ、ガキ。・・・あのよ、別にここがアキューラだとか、俺の前だからとかそんなんで縮こまんなくていいぜ。俺がいるのが嫌だったら出ていてやるし、そうならそうとちゃんと言えよ」
もどかしそうにカナスは言い、椅子に逆戻りした。
そういえば随分粗末な椅子に座っていると思う。
ベッドの脇にちょっと座ってるだけだからいいのか、背もたれもない木の丸椅子だ。
けれど、シェーナは王族の品格はその座るものに表れると教わってきた。いついかなる状況でも、王を支えるものは贅を尽くしたものであるべきで、そのような自らの下にあるものに常に気を配ることが、椅子と同じく王の下にあり、王を支える民への心配りを示すのだと。
それこそが高貴の証明であると。
だからシェーナは、カナスはやはり、品位がなく野蛮で粗野な人間なのだと思った。ぶっきらぼうな言葉遣いもそれを裏打ちしている。
だからシェーナは冷めた瞳で、見た目だけは文句なしの王子様であるカナスを見つめた。
「いえ、縮こまっているわけではありません。いつもこうです」
「・・・あ?いつも?」
「はい。こういう風な泣き方なだけです。だから、あなた様がいらっしゃるからというわけではありません。どうぞお気になさらずに」
そう述べるシェーナは別に虚勢を張っているわけではない。ただ、泣いて「うるさい」と世話役に怒鳴られることが嫌だったのと姫君は無様に泣いてはならないという王族教育のたまものでこうなっただけだ。
わあわあと声をあげて泣いたことはもうずっとない気がする。
どうせ、泣いたってだれも助けてくれないのだから、こうやって黙って泣くのが一番いいといつしか思うようになっていた。
淡々と事実を言うシェーナに、カナスは絶句したようだった。
「あの・・・こんな泣き方はお気にさわりますか。申し訳ありません」
「いや、謝られてもな・・・」
「・・・・そう・・・ですか・・・」
驚きで何を言ったらいいのか分からなくなっているカナスの反応を見て、シェーナは黒い睫を振るわせた。
そして悲壮な表情で唇を噛み、彼に向かってすいっと背中を向ける。
「申し訳ありませんでした・・・どうぞ。ご存分に」
「・・・・どうぞって、何が」
そんなシェーナの行動に対して、カナスの不審な声がかかった。
シェーナは肩越しに振り返りながら、不思議そうに彼を見る。
「何・・・って・・・あの・・・?な・・・殴らないのですか?」
「はっ?!」
またガタン。カナスが椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
そしてがしっとシェーナの両肩を掴んで、自分の方へ向かせた。
「お前、何を言っているんだ?!」
「・・・どういうことですか?誰かの気分を損ねたら罰を受ける。当然のことです」
「当然?お前・・・、お前は姫なんだろう?それなのに・・・」
「はい。フィルカの“歌使い”は穢れをはらう存在です。人の心の痛みや苦しみを和らげるために“歌”を歌います。けれど、私はシャンリーナですから、人の憎悪を膨らませる存在でもあります。だから私のせいで気分が悪くなったらこの身で罰をうけます。神から与えられた“歌”を私に対する憎しみを晴らすために使うのはいけないことです。シャンリーナは自らの体で穢れを引き受けることが役目です」
「・・・っちょっと見せろ!」
「きゃああ!!」
カナスが突然シェーナの服をひっぱった。
そこで初めてシェーナは悲鳴を上げる。
さっきの緊急事態は別として、異性の前で肌をさらすことは戒律で厳しく禁じられている。
「やめてください!嫌ですっ!」
「うるさい!」
シェーナが抵抗するのでびりっと白いローブが避けた。
147センチしかない小さなシェーナが、どう考えても男の力に勝てるわけがない。
「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、シェーナは真っ青な顔でがちがちと歯を鳴らした。
「これは・・・・」
失神しそうになっているシェーナの背を見て、呆然とした声があがった。
「さっきも、もしやと思ったが・・・お前、これ・・・」
シェーナの背には腰のあざの他に、幾筋もの赤い、いや、むしろ傷が沈着したような赤黒い鞭の痕や丸い火傷の痕が残っていた。
肌が白いせいで、それは余計に痛々しく見える。
「これが・・・罰だと?」
ぺたり、とシェーナの傷跡にカナスの手が触れる。
その瞬間、自分とは違う体温に恐怖したシェーナは喉にこもった悲鳴をあげ、ぱたり、と倒れこんだ。
「え?おい!お前、おいっ!?」
「・・・・・・・・」
驚いたカナスががくがくと揺さぶるが、シェーナは目を覚まさない。彼女は許容量オーバーのせいでついに失神してしまったのだった。
再びシェーナが目を覚ましたのは、もう星空が輝いているころだった。
起き上がったシェーナは窓を開けて、満天の星に感動の声をあげた。
「きれい・・・手が届きそう」
シェーナは周りをきょろきょろと見渡して、誰もいないことを確認すると、そっと窓の外に身を乗り出した。
空に手を伸ばすと、指の間を流れ星が流れていく。
フィルカの気候はあまりよくない。晴れの日のほうが少ないくらいで、いつも雲に覆われたどこか陰気な空だった。
だから、こんなにも澄んだ空が珍しくて、シェーナは小さな胸を弾ませていた。
「そうしていると、夜空に溶けそうだな」
だが、ふと後ろからかかった声に、彼女はぎくりと身をすくめた。
驚いたというレベルではない。心臓を直接冷たい手で掴まれたような、臓腑も凍るような恐怖におののいたのだ。
シェーナは慌てて窓を閉め、うずくまった。
そして頭を抱えて丸まり、がたがたと震える。
まるで、無力な小動物のように。
「どうした?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。外には出たりしません。絶対に外へは出ません。だから、熱いのは嫌です。やめてください。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい・・・っ」
「シェーナ・・・」
小さい体をさらに小さくするシェーナの前で、カナスは立ち尽くした。
あの火傷の痕は、彼女が塔を出ようとするたびにつけられたものだったようだ。
その恐怖が骨の髄までしみこんでいるのだろう。
哀れなほど蒼白になって震えていた。
カナスはシェーナの前に膝を折って、彼女を見下ろした。
「ここはフィルカじゃない。アキューラだ。だから、お前を罰する奴はいない」
「・・・・・?」
「もうお前は外へ出たんだ。もう、“神に見捨てられた子”なんかじゃない。もう隠れなくていいんだ」
カナスの優しい声に、シェーナはおずおずと顔を上げる。
だが、カナスを認識した瞬間、逃げるように背中で壁を移動し始めた。
その体がまた別の意味で――カナス自身に怯えているせいで――ぶるぶると震えているのを見て、彼はため息をつく。
「怖がらせちまったか。仕方ねえな」
カナスは立ちあがり、持っていた皿をことんと部屋の中央にあったガラスのテーブルに置く。
「朝から、何も食ってないだろ?簡単なもんしかないけど、食え」
シェーナは部屋の隅からその皿をじっと見つめた。
白いパンに、肉がたくさん挟まっていた。その周りには見たこともない果物がならんでいる。
それでも動こうとしないシェーナに、カナスはまた息を吐いて踵を返した。
「俺はいなくなってやるから、ちゃんと食えよ。用があるならそこにある鈴を鳴らせ。後のことは女官に頼んでおいてやる」
シェーナがそれに頷く前に、彼は宣言したとおり部屋から出て行った。再び静寂がシェーナを包む。
それでもシェーナは縮こまったまま閉ざされた扉をただ見つめていた。
そして次の日。
「お前、何も食ってねえじゃねえか!」
夜が明けて大分経ってからシェーナの部屋を訪れたカナスが苛立った様子で詰め寄ってきた。
それにシェーナは怯えまくり、毛布をかぶって壁に張り付いていたが、無情にもカナスはそれをべりっと引き剥がす。
そして転がったシェーナの頬を両側からつかみ、覗き込んできた。
「!!」
「お前ちっこいんだから、ちゃんと食え。食わないといつまでもそのまんまだぞ」
「・・・・・・ぁ・・・あの・・・」
「それとも何か。フィルカのお姫様はうちの飯など食えねえと?お上品な食べ物以外口にあわねえって言いたいのか」
カナスが間近で憎々しげに言い捨てたので、シェーナはぶんぶんと千切れるほどに首を振った。
反抗的と思われていいことは何もない。
「た、たべました・・・」
「ああ?減ってねえのにくだらねえ嘘を吐くな」
「ほっ本当です。あの、お皿の隅にあった紫の果物、食べました」
カナスが振り返ると、確かに小枝にびっしりとなっていた親指の爪くらいの小さな果実がいくつかなくなっていた。
しかし、彼の眉間のしわは取れない。
「こんなん食ったって言わないだろ。何でパンは食べないんだよ」
「お肉・・・」
「肉?」
「お肉は食べたことがないから。みんなが、他の生き物を殺して食べるなんて野蛮だって、そういって・・・“歌使い”は神の力を分けられているのだから汚れちゃいけないんだって言われました」
外の世界と隔絶されていたシェーナは幼い頃に言われた言葉をそのまま信じ、肉が食卓に上らないことを気にしたこともなかった。
だが実際は、“王族”の食事を下の者たちが取ってしまっていたのだ。
フィルカは必ずしも豊かな国ではないから、下の者たちは奪えるものはできるだけ奪おうとする。
疫病神のシェーナから何かを奪うことなど何の罪でもないと信じているのだ。
その事実に気がついたのは、むしろカナスの方だった。
「俺が昔、フィルカに行ったときには、露天商で普通に肉を売ってたぞ。神殿にも行ったが、奴ら普通に豪勢な食事でたんまりと肉を食っていた」
「フィルカに来られたことがあるのですか?」
だが、シェーナが食いついたのは別のところだった。
「俺は自分の目で世界を見ることにしている。だから、父の遣いをなるべく受けて、諸国を回っていた。フィルカもそのときに立ち寄った。だが、いまはそんなことどうでも・・・」
「他の国にも足を運んだことがあるのですか?いくつもの国を?どんなところを?」
狭い世界でしか生きていないシェーナは、カナスの言葉に目を見開いた。見たことがない世界、それはどれほど楽しいだろう。想像だけで胸が騒いだ。
初めて見るシェーナのキラキラした表情に調子を崩されたカナスは、どうしていいかわからずにとりあえずシェーナの頬を両側に引っ張ってみた。
するとまだ子供のように柔らかい頬は思った以上に伸びる。きょとんとしたシェーナの表情もあって、カナスはくっくと笑い声をこぼした。
「・・・なんですか?」
その問いかけが遅れてしまったのは、カナスの笑顔にびっくりしたからだ。
やんちゃな子供のような笑い方にシェーナは目を丸くする。
怖い人というイメージが急に払拭され、よどんだ空のように思っていた彼の背景が、色鮮やかできれいなものになった。そうしてみると、カナスはやはり童話の王子様がぴったり似合う人だと思った。
そう思うと、触られていても怖くて震えるということはなくなっていた。
ひとしきり笑った後、彼はまだぷにぷにとシェーナの頬を指で触りながら、軽く謝った。
「悪い悪い。それにしても、こんなガリガリのくせして餅みたいな頬の奴は今まで見たことがない。おっまえ、気持ちいな」
「はい・・・?」
「お前は他の国に興味あるのか?」
「・・・?あ、はい!私は自分の国も回ったことがありませんから、外の世界とはどんなものだろうと、そればかり考えて生きてきたので」
急な話題変更に最初ついていけなかったシェーナだったが、思い至ると何度も首を縦に振った。
「広い草原も、海の潮の匂いも、小川のせせらぎも、砂の乾いた風も、一面の真っ白な雪もみんなみんな遠くの世界で、本でしか見たことがないんです。夢でなら行ったことがありますけど。旅をなさったのならそういう景色もご覧になったことがあるんですよね?」
「・・・河なら馬を飛ばせばすぐそこにあるし、海なら3日あれば見れるぞ。雪は・・・もう少ししたら降るんじゃないのか?北に行けばお前が言う雪景色くらい当たり前だし、砂漠が見たいなら遠出になるが今度の派兵についてくるか?」
「え?」
何を言われたのかシェーナの頭ではあまりよく理解できなかったが、とりあえずここにはいろいろあるということなのだろうと納得しておく。
そこにその景色があろうがなかろうが、見に行くという選択肢をもたないシェーナにはずっと関係がないことだったからだ。
だから、カナスが行きたいなら連れて行ってやると言う意志を示しても、何もわからなかった。
ただぱちぱちとまばたきだけを繰り返すシェーナに息を吐いて、カナスは「まあいい」と手を離した。
「それはまた今度だ。今はお前が食うか食わないかの話だな。俺が言いたかったのは、お前が、肉を食べれないのかってことだ。だったらこっちだっていろいろ手間かけなきゃいけねえんだよ」
「・・・手間、ですか?」
「当たり前だろ。俺は肉が好きだし、ここの人間も皆、肉を食べる。だから食事に肉料理が上がることなんてしょっちゅうだ。けど、お前が食べられないっていうなら別の用意をしなきゃならんだろうが」
「え・・・っと、あの、いいです」
「何がだよ」
「お肉だけ私の分も食べてください。間違って運ばれてきたとき、いつもルーナが・・・あの、侍女が親切で食べてくれました。私は、その残り物でいいです」
「・・・親切だと?」
「だって、私は食べたらいけないんですから。ただでさえ、神のお心に添わない姿なのに、“歌使い”の血まで汚したらもっと神を冒涜することになってしまいます。そんなことになったら、ますます国が荒れてしまうかもしれません。災厄が多いせいでルーナもお腹をすかせていましたし、私の代わりに食べてルーナが満たされれば、それだけ一つ悲しいことが減るでしょう?」
「馬鹿か!お前ッ!」
両手を祈りの形に組んで満足そうなシェーナを、カナスが思い切り怒鳴りつけた。
その大声にシェーナはまたしても怯え、壁にぺったりくっついたが、カナスはベッドに乗り上げたあげく、彼女の顔の両脇に手をついてにらみつけた。
「何が神のお心だ。昨日からずっと言おうと思ってたんだけどな、てめえらみんな腐ってんだよ。何かにつけちゃ、神様神様って。てめえらでなにもしやしなくて、都合の悪いことは全部お前のせい。黒髪に生まれて何をしたわけでもねえのに、閉じ込められて、食いもん横取りされて、気に入らないことがあれば殴られて。そんだけ冷遇した挙句に自分の国を守るために、命を捨てて来い?それに大人しく従うお前もお前なんだよ。どう考えてもおかしいだろうがっ!」
「・・・っ・・・」
カナスの怒気に触れ、またシェーナの瞳から涙がこぼれた。もうあまり泣かなくなっていたと思っていたのに、何故か彼にはよく泣かされる。
けれど怖いからだけかといえばそうではない。
彼の言葉は、シェーナの心の深淵を何故か熱くさせる。
何かが言いたいような、もどかしさが胸にこみ上げてくるのだ。
昨日と同じく無言で泣くシェーナを見て、カナスはがんっと壁を殴りつけた。
その振動と音に、シェーナの身が縮こまる。
それにちっと舌打ちをした彼は、シェーナからはぎとった毛布を再び彼女に頭からかぶせ、そしてその上から抱きしめた。
途端、シェーナがばたばた暴れるので、またしても舌打ちをし、子供にするようにひょいと膝の上にのせる。
まだシェーナは暴れていたが、向かい合う姿勢で乗せているため、ぎゅっと力を込めれば簡単に押さえ込めた。
「直に触ってねえんだから、いいだろ。大人しくしろっての」
そう言って首根っこを押さえつけたまま、背中を撫でてやる。
「泣くときは声あげて泣けよ。そんな風に泣いてたってちっともつらいのはなくならねえだろ。嗚咽こぼしたって誰も咎めやしない」
「・・・・・・」
「むしろ何の音も立てずに泣かれたら、俺が悪いことをしたかどうかもわかんねえだろ。俺は鈍感だからな、言われないとお前を傷つけてるかどうかもわからないんだよ。だからそんな風に泣くんじゃねえよ」
「・・・・・・」
「っておい?」
だが、いつの間にだかぱったりやんでいた抵抗を不審に思ったカナスが毛布をはいでみると、またしてもくたりとシェーナが気を失っていた。
「くそ、またかよ」
毒つきつつもカナスは、軽い体を抱え上げてシェーナをベッドに寝かしてやった。
ついでに頬に残る涙の跡をふきとってやる。
「ちっこい生き物が泣いてんのは、気分よくねえなあ・・・」
大きな手がふわふわしたねこっ毛の前髪を撫でた。
「あんときゃそれが一番手っ取り早かったとはいえ・・・、“シアン”か・・・。こんなに怯えてんじゃ、かわいそうだったな」
カナスのため息交じりの呟きは誰に聞かれることもなくすぐに消えていった。
# #
「食えっつってんだろ。さっさとしろ」
「・・・・でも・・・」
「見せてやっただろうが。フィルカの経典の何処にも肉を食ったらいけないなんて書いてないだろ。お前がそんなにやせててちびっこいのはちゃんと栄養つけてないからだ。だから食え」
「それは・・・ご命令、ですか・・・?」
シェーナがびくつきながら上目遣いで尋ねてくるのに、カナスはまたしてもいらっとした。
「命令ならなんだってんだ?」
「それなら、従います。アキューラの王子の命に従うようにときつく言われていますから」
「お前は・・・っ」
しかしその苛立ちのままにシェーナの腕をつかもうとすると、彼女はぎゅっと目をつぶって震え上がるのだから消化不良なことこの上なかった。
言いたいことの半分も言えない。
けれどそう毎回毎回失神されるのも厄介なので、カナスは舌打ちでごまかした。
それがまたシェーナを萎縮させていることも知らず。
「別に・・・逆らったらフィルカを冷遇するとか、そんなつもりはこれっぽっちもねえよ。どうせお前の親父はそれを心配してそう言ったんだろ。そんなくだらないことするわけねえだろ」
その言葉に目に見えてシェーナがほっとしたのが分かった。それもまた、カナスを苛立たせる。あまりに犠牲的精神がすぎるシェーナに腹が立つ。
「そんなことはしねえけど。お前は、とにかく食え。お前が食べるまで、俺はここにいるからな」
「・・・・・・・」
「嫌ならさっさと食べろ」
自分だけの問題だと知ったシェーナはさっきよりも少し拒絶の色を強くしたが、やがておずおずとフォークを取って肉の欠片に突き刺した。
だが、その感触が怖かったようですぐにぱっとフォークを放してしまう。
それでもカナスが少し離れたところからじっと見つめているのを知ると、もう一度そのフォークを手に取った。
「う・・・・」
口に入れようとしては離し、入れようとしては離し、を何度も繰り返すシェーナに、自ら短気だと自覚のあるカナスの背後にはイライライライラと淀んだ空気がどんどん溜まっていった。
そしてシェーナが手は口に近づけているくせに、顔をフォークから遠ざけようとする自己矛盾な行動に出たとき、ついにそれが爆発する。
「てめえで食えねえなら口に突っ込むぞ、このガキ!」
「ひっ」
青ざめたシェーナの手からフォークを奪い取り、シェーナの目の前に差し出す。
「いいか、うちの医者が診断したお前の状態を教えてやろうか?低血糖に、軽度の栄養失調。成長に支障がでるぎりぎりの数値だとよ。そのうえ、運動不足による筋肉痩衰。つまり、お前はいろいろ足りないものだらけなんだよ。ここにいる限り、そんな不健康なままでいられてたまるか。これからはちゃんと食ってちゃんと動いて、普通の人間になれ」
そのためにはまず肉を食え、とカナスは押し付けた。
全体的に小さく折れそうな四肢をしているシェーナは蛋白質不足が顕著だ。それを補うには肉食が一番手っ取り早い。
けれど、やはり長年の刷り込みを越えるのはなかなか難しいようだ。息を止める勢いで口を閉ざしている。
「・・・だから大丈夫だって言ってんだろ。お前の親父も、他の神官もみんな食ってるって」
唇まで押し付けたのに拒絶するシェーナに嘆息し、カナスは結局その肉片を自分で食べた。
「うまいぜ、これ」
「・・・・・・」
「食べたことねえお前のためにわざわざいい肉を市場から買ってきて、味付けも工夫して木の実を使って、それでも食べてもらえないんじゃ料理人も報われねえなあ」
指先でフォークを弄びながら、彼はシェーナの情に訴える作戦に出た。ぴくりとシェーナが反応する。
「この肉だってお前の皿にならなければ、もっと別の奴に食べてもらえたのに。捨てられたら、捌かれ損だな」
「・・・っ」
捌く、という生々しい言葉にふぅっとシェーナの意識が薄らぎそうになる。
だが、気絶したらこの皿の料理を容赦なく口に突っ込むと言われて、必死に現に留まった。
気がついたら口の中が肉でいっぱいということだけは避けたい。そんなことになったら、死んでしまう。
「一度食ったら平気になる。まずは少しだけでも食べてみろよ」
「・・・でも」
「何だ?」
ようやく得られた反応に、カナスが耳を傾けた。
「でも・・・・あの、鳥は、生きていて・・・温かくて・・・、食べるなんてそんな・・・」
「ああ、それは俺も思ったことがある」
「え?」
これは当然予想していた反応だった。彼はフォークで新しい肉を刺し、しげしげと眺めた。
「子供の頃、何気なく見た鶏小屋にひよこがいて、気に入ってよく見に行っていた。大人になっても見分けがつくくらい、毎日。だが、ある日、そいつらがいなくなった。探していて、鳥小屋の番人が鶏を捌いているのを見た。それでその日は鶏肉料理。ぞっとしてとても食べられなかった」
「・・・ぅ・・・」
「けどな、人間ってのはそういう生き物なんだよ。腹が減ったら他の命を食べる。肉だって魚だって生きて動いてたもんだ。それを食べるってのは、確かに罪深い行為だよな。けど、命ってそんだけか?」
気分が悪そうに手で口を押さえていたシェーナは、問いかけに首をかしげた。
「お前は確かに、肉も魚も食ったことねえんだろ?でも、果物は食べるだろ?野菜も木の実も。それは命がないのか?」
「・・・・え?」
「俺も受け売りだからちゃんと伝えられているのか分からないが、植物だって生き物じゃないのか?芽吹いて、背を伸ばして、花を咲かせて、実をつけて、それって生きてるってことじゃないのか?植物には血が通ってないから食べていい。動物は血が通っているから食べてはならない。誰が決めたんだ、そんなこと。そんなもの人間の勝手な思い上がりじゃないか。花は太陽に向かって伸びる。伸びるって生きてるってことじゃないのか?」
「・・・・・・・・」
「生きている限り、他の命を犠牲にしなければならない。世界はそうやって決まっていて、人間は命を踏みつけない限り生きられない。だったら、その踏みつけた命を自分の糧にして、もらった命のひとかけらも無駄にしないようにしなければならない。それが、生きるってことじゃないのか?」
「・・・・生きる・・・」
「まあ、俺は偉そうな能書きを垂れられる器じゃないがな」
瞬間、カナスは自分のしてきたこと、そしてこれからもするであろうことを思い、自嘲した。
そう、彼はまぎれもない軍人なのだ。
命を語れるような高尚な世界にはいないのだ。
「昔、ショックで肉が食えなくなった俺に、偉いじじいが言った言葉だ。確か、お前と同じで、どっかの神官だったな。そんなじじいの言葉なら、俺が言うよりはちょっとは説得力あるだろ」
わずかにある良心の痛みに耐え、カナスが口の端を上げて笑う間、シェーナは己の心と戦った。
心というか、既成概念だ。
いつまでも黙り込んでいるシェーナに、カナスがため息をつく。
「ま、やっぱり急には無理か。信仰だなんだかんだとくだらないことを言っているだけよりは考えてるみたいだし、これ以上無理強いはしねえよ」
カナスはフォークの先の肉を自分でもう一切れ食べ、皿を片付けようとした。
だがそのとき、シェーナが彼の置いたフォークに手を伸ばした。
がたがたと手が震えているせいで、上手く刺すことができなくて四苦八苦している。
見かねてカナスが刺したものを差し出してやると、彼女はぎゅっと目をつぶったまま小さく口を開け、おそるおそる口の中に入れた。
小さな欠片にすぎないのに、一噛み一噛みにひどく時間をかけ飲み込むタイミングを見計らっているようだ。
ようやくごくんと喉が動いたときには、シェーナはへとへとになっていた。
「大丈夫か?」
「・・・はい」
「不味いか?」
その問いに、彼女は少し考えてから首を振った。
「いつもと、同じ味です。“命”の味でした」
「・・・そうか」
その答えにカナスはぽんとシェーナの頭頂部に手を置いた。
「えらかったな」
そのまま子供をほめるときのようにぐりぐりと頭を撫でる。いい気分だった。
だが、ふと目の前のシェーナの顔が段々と赤くなっているのに気がつく。
「ん?お前、どうし・・・、またか!」
そして、気がついたときにはもう遅かった。
ぱたり、とシェーナが腕の中に倒れ込んでくる。
「今度は何が原因だ?顔真っ赤じゃねえか。大丈夫か、こいつ?」
今は怖がらせたつもりないぞ、とぶつぶつぼやきながら、カナスは医師を呼びに行った。
その日いっぱい熱を出したシェーナは、起きた途端にむっつりしたカナスに体を縮こまらせる羽目になった。
「何が原因なんだ?」
「・・・え・・・」
「そんなに何回も何回も気を失うほど、俺が怖いのか?」
「ち、違います」
シェーナはふるふると首を振ったが、心の中では「たぶん違うと思います」、と訂正していた。
確かに怖いのは事実だが、「カナス」が怖いかと言われればそうじゃないと思う。
シェーナは基本的に人が苦手なのだ。
いつ怒られるのかびくびくしていなければならないから。
「じゃあ何故、そんなに失神するんだよ?毎回、医者に怯えさせるなと釘を刺される俺の身にもなってみろ」
「・・・すみません」
カナスの苛立ちが伝わってきて、シェーナはますます小さくなる。
だが、彼はシェーナを殴ったりしないので、いつもよりも震えは小さくてすむ。
「謝らなくていいから理由を教えろ」
「理由、ですか・・・」
そう言われてもシェーナだって分からない。別に気絶したくてしているわけではないし。
それもついさっきのあれはまったく理由がわからない。
頭を撫でられたのが駄目だったのだろうか。
けれど、あのときは何も怖くなかったのに。
カナスの笑い顔を見ていたら、心臓がどんどんどんどん速く脈打って、熱くなって、気がついたらベッドの上で眠っていたのだ。
彼のことが怖いせいだと思っていたシェーナには、もう何がなんだか分からなかった。
「何かあんだろ。普通に話せるときもあるんだからよ」
「・・・え・・・と」
だからそんなことを言われても困るのだ。
しかし、答えないとまた怒られるのではないかと思い、シェーナは必死に搾り出そうとした。
「さ、触られるのが、駄目なのかもわかりません」
「それは俺も考えた。が、俺が頬を引っ張ったときは気絶しなかったじゃねえか。逆に毛布越しでも気絶するときがあった」
けれど即却下を食らって、シェーナは困ってしまう。
眉を下げて頼りなさげな表情を浮かべていると、やがてカナスはあきらめたようだ。
ふぅっと一際大きなため息をついた。その音にシェーナはぎくんと肩を跳ねさせる。
ため息は嫌いだ。
ときとしてそれは直接的な苛みよりも胸に深い傷を残す。
「ああ、もういい。一応気をつけてやるけどな、どうなるかはわからん」
「・・・あの」
シェーナは半ば追い立てられる気持ちで口を開いた。踵を返そうとしていたカナスが動きを止める。
「もしかしたら、顔・・・怖いのかも・・・」
しかし、その言葉は鬼門だったようだ。ぴしり、と明らかにカナスに青筋が立ち、部屋の温度がマイナスに転化した。
「・・・顔?てめ、あの極悪親父ならまだしも美男子と評判のこの俺の、どこが怖いって?」
いや、今の顔が十分怖い。シェーナはがたがたと毛布の下に頭をもぐらせた。
もっともすぐに取り上げられたが。
おまけに完全な嫌がらせのようにずいっと覗き込んでくる。
綺麗な青い瞳にシェーナが映っているのが見えた。鼻先も触れそうだ。
「----っ」
あまりの至近距離に驚いたシェーナは飛びのいて背中の壁にへばりついた。
すると、面白くなさそうにちっとカナスが舌打ちをする。
体を起こした彼はがしがしと頭を掻きながら、呟いた。
「マジかよ。柄が悪い自信はあるが、面だけは万人受けすると信じてたんだがな」
カナスには自分が格好いいとの自負があった。
自意識過剰ではなく、幼い頃からの周りの反応から単なる事実として知っていたのだ。
中身はどうあれ、外見だけなら100戦100勝。
しかし、その今までの確固たる事実を覆され、しかもシェーナの半端でない怯え方に、面白くないを通り越して、ショックさえ覚えたのである。
「ふーん、そうか。顔が怖い、か。そうだな、俺もあのじじいの息子だし、怖いやつには怖いのかもな」
「す、すみませ・・・」
棒読みになっているカナスの台詞に薄ら寒いものを感じて、シェーナは背中の壁にへばりつきながらも謝った。
「いいよ、別に。謝られるとむしろへこむ」
「・・・・ごめんなさい」
「謝るなって言ってるだろ。お前悪いことしたのかよ?」
そういわれてもよく分からない。
ただ、カナスの機嫌がよくないことはわかるので、シェーナはもう一度謝罪を繰り返した。
ついでに、思い至った理由もたどたどしく伝える。
「えっと・・・、たぶん、顔を近づけられると怖いのはまた、こ、殺されそうになるかもって思うからだと・・・」
「はあ?またって言ったか、今。いつ俺がお前を殺そうとした?」
しかし思い切り怪訝そうな顔をされてしまい、さらに「ごめんなさい」を繰り返す羽目になった。
「謝らなくていいから、説明しろ」
「でもおこ・・・」
「あ?怒ってねえよ。言っとくけどな、このままお前がごまかすほうがむかつく」
「っ・・・」
「だから話せって」
再三促され、シェーナは怯えながら口を開いた。
「国王陛下に謁見を賜っていたとき、です」
「ああ、くそじじいは確かにお前を始末しろっつったな。けど、それを止めてやったのは俺じゃねえか」
「・・・止める?」
「あそこから連れ出してやっただろ?」
「でも・・・、口、ふさいで、息ができなくしました」
「口?」
「顔をくっつけて、口をふさぎました。苦しくて、死んじゃうと思ったんです!」
カナスがどういうことだという表情を浮かべるので、シェーナはひどいという非難を込めて少しだけ声を荒げた。
それを聞いたカナスは一瞬すべての時間を止めて、それから大爆笑した。
「何で笑うんですか?」
シェーナが尋ねても、カナスは笑っていて答えない。
そのまま無視されている状況に、じわりと涙が浮かんできた。
(え・・・どうして、泣けて・・・?)
無視されることなんて当たり前すぎて、悲しいと思ったことはなかったのに、何故か鼻がつんと痛い。
シェーナはごしごしと手で潤んだ瞳をこすった。
「うわ、何泣いてるんだよ?」
それに気がついたカナスが驚いた様子で、シェーナの頬を触った。
「悪かったよ。笑ったりして。泣くな」
「う・・・っく・・・うえ・・・っ」
「な、何だ?あ、触ったら駄目なのか?じゃあ、触んねえよ」
しかし、シェーナはそっと触れたカナスの体温に、ますます泣けてきてしまった。
自分では気がついていなかったが、嗚咽までこぼして。
手を引いたカナスは、泣き止もうと必死に袖で涙をふき取るシェーナをじっと見つめていた。
「・・・ぅ・・・ぐす・・・っ」
「お前、普通に泣けたじゃねえか」
ようやく衝動的な涙が収まってシェーナが鼻をすすったとき、そんな言葉が届いた。
え、と視線をあげると、カナスが満足そうな表情を浮かべている。
「これで一つ、人間らしくなったな」
にいっと歯を見せて楽しそうな笑みを一つ。
ちっとも上品な王子様じゃなけれど、その表情にふわり、なのか、きゅう、なのか分からない不思議な気持ちが胸に沸き起こった。
「??」
シェーナはその意味を図りかねて、胸元を握り締める。
するとその行動をどう思ったのか、カナスがふと真面目な表情に戻った。
「って、泣かせといてそんな言い方はねえか。悪かったな。笑ったりして」
「え・・・?」
「え?って、お前のこと笑ったりしたから悔しかったんだろ?」
「・・・・?」
悔しい、という気持ちがどういう気持ちか分からなくてシェーナは首をかしげる。
だが、「違うのか?」と尋ねられると、上手く答えれそうにもなくてとりあえず頷いておいた。
「悪かった。けど、馬鹿にしたわけじゃないぜ。・・・ん、いや、まあちょっとは馬鹿にしたのかもしれねえが」
いろいろ分からないので黙ったままただ見つめるシェーナに、カナスはバツが悪そうに正直に言った。
「でも、いくらなんでもキスを知らないとは思わないだろ。殺されるかと思ったってお前・・・っ」
そのくせまた、思い出して肩を震わせている。
「・・・・・キス?」
「それくらい童話でも出てくるじゃねえか。それを・・・」
「キス・・・」
しかしちっとも謝る気がみられないカナスの様子など、シェーナはもう気にかけていなかった。
回転の遅い頭で聞いたことがあるような言葉を反芻する。そのうちにようやく思い至って、かあああっと耳まで真っ赤になった。
「おい、まさかまた倒れるんじゃ・・・」
「なんで、ですか?」
カナスの心配をよそに、シェーナはか細く震える声で尋ねた。
「何故、そんなことを・・・」
「何で、か・・・まあ、一番てっとりばやかったっつーか、なりゆきかな?」
「そ、そんないい加減な気持ちで、あ・・・あんな破廉恥な行為をするなんて・・・っ」
「破廉恥?殺人未遂の次は、破廉恥か。面白いな、お前の発想は」
「面白くありません!大体、よく考えてみるとあなたの言葉は間違っています」
「お?珍しいな、反論か。どういうことだ?」
完全に面白がっているカナスに、シェーナは半分涙目になりながらもキッとにらみをつけた。
「あんなの、口付けなどではありません」
「ほう?」
「だって、何か・・・く、口の中に入ってきて、気持ち悪かったです。やっぱりあれは、あなたが毒でも盛ろうと・・・」
しかしそこまで言って、カナスがぶっと噴き出した。そのまま、またしても大爆笑である。
腹いてえ、と涙まで浮かべる。
「な、なんで・・・」
「本当にお前はお子様だな。清廉ってのは、裏を返せば無知なガキってことか」
「子供じゃありません。もう16歳になります」
「それ、最初の日にも聞いたな。なんでそんなにガキって言葉には反応するんだ?」
「子供ということは、親の責任が問われるということです。私はもう16です。だからお父様に関係なく、自分のことは自分で責任を取らなければなりません。子供だと思われては困るのです」
「・・・・またそれか」
シェーナの真面目な説明に、今の今まで笑っていたカナスが急に苦虫を噛み潰した表情になった。
「父親だ国だって、そればかりだな。自分の心で思うことはないのか?」
「?何をですか?」
子供扱いされて悔しいとか、チビと言われるのが嫌だとか。そんな思いをシェーナは一度として持ったことがないのだから、カナスの問いには首をかしげるばかりだった。
「なんでそんなに周りのことを気にしてばっかなんだよ?お前だって自分の感情くらいあるだろうが」
無垢で愚かなシェーナに苛立ち、カナスは不機嫌な声音で言った。
「私の父はフィルカの国王であり大司教の位にあります。私が間違ったことをすれば、王の権威が揺らぎ、民を混乱させることになりまねません。私のせいで他国の不興を買えば、父である王の責任が問われ、民を苦しめる結果となります。父に、成人の際に言われました。これからの私の行動は私一人の責任であり、誰もその咎を代わりに負ってはくれないのだと。だからこそ、大人としてしっかりと身を慎んで生きろと。だから、子供と言われると困ります。すべては私の責任とはっきりさせなければならないのです」
「・・・くそ」
その不機嫌の理由を何一つ理解しない、できないシェーナは一点の懐疑もなくそう告げる。
言われたとおりに生きること以外シェーナは知らない。
無知は疑問や不満をもつことさえ彼女から奪ってしまっていた。
「そう言いつつ、自分らの尻拭いに娘を差し出すか。とことん、最低だな」
だから、カナスの不愉快そうな言葉の意味はちっとも分からないのだ。
「おい」
「何でしょうか?」
父親に対する悲しみも悔しさも憎しみも、何も感じていないシェーナの淡々とした顔の傍に、彼は手を伸ばしてきた。
「触るぞ」
「え・・・、は、あ・・・ど、どうぞご随意に」
先ほど「触らない」と言った手前、ちゃんと一応の伺いを立てるカナスに、シェーナは小刻みに震えながらもぎゅっと目をつぶって頷いた。
すると、頭にぽんぽんと手のひらが落される。
「お前は知らないことが多すぎる。だから大人ぶらなくていい。確かにお前は成人しているかもしれないが、中身はまだ子供なんだ。責任だの何だの、そんなことは気にしなくていい」
「でも私は、王家に生まれています。だから、生きていてはならないシャンリーナでも育てられました。だからこそ、王家の責任を果たさなければその意味が・・・」
「シェーナ」
「!」
カナスに名前で呼びかけられたのはこれが初めてだった。
だからシェーナは驚いて口を閉ざす。覚えていたのだと、そんな些細なことに目を丸くしていた。
「王家の責任ってのは俺も分かる。国民の税金でいい暮らしをしているんだ、そりゃあそれなりの責任がついて回る。けどな、お前は何も享受してこなかった。自由もなく冷遇されて、責任ばかりを負わされてきた。それは、違うんだよ。お前は何も悪くないし、何の責任もない。あったとしても、もう十分果たしてきたと言えるだろうよ」
「・・・よく、わかりません」
カナスの言葉は難しくて、シェーナは首を僅かに横に傾ける。けれどカナスの手がとても優しい触れ方なのだけは分かった。
「まあ、わかんねえのも分かる。そのうち分かるようになるといいな」
「・・・?」
「納得できねえなら、こう思っとけ。ここはどこだ?」
「ここ・・・?アキューラ王国の都市ラコベーゼです」
「そうだ、ここはお前が生まれ育ったフィルカじゃない。アキューラの民が信仰するのは戦いの神キルファード、あとは己自身。お前が敬愛する残酷な神様はここにはいない。つまり、お前の常識はここでは通用しない。赤ん坊と同じだ」
その言葉に、ここが見知らぬ地で一人ぼっちだということを今更突きつけられて、シェーナはわずかに表情を曇らせる。ルーナがいなくなってしまった今、シェーナと共にアキューラにいるフィルカ人はいないのだ。だれも、シェーナについては来てくれなかった。
そんなシェーナの不安を感じ取ったのだろう。
頭に置かれたままだったカナスの手が、くりくりと頭を撫でた。
「怖がらなくても平気だ。これからいろいろ知っていけばいい。お前が今まで知らなかったことも教えてやるから」
「王太子殿下・・・」
とくん、と温かい高鳴りがシェーナの胸にあった。
すると不思議と近くにある彼の顔を見上げても、全く怖くない。
シェーナが見つめる目の前で、何故かカナスの表情が奇妙なものに変わった。
「気持ちの悪い呼び方だな。家の者にそう呼ばれるのは好きじゃない。名前で呼べ、名前で」
「名前、ですか?」
「まさか覚えてねえとか?」
「ちっ、違います。カナス=フェーレ様・・・ですよね?」
上目遣いでおずおずと尋ねると、彼はにやっと笑う。そしてついでのように、シェーナの頬をふにふにとつまんだ。
「そうそう。よく覚えてたじゃねえか。カナスでいいぜ。お前は俺の婚約者だからな。俺もシェーナって呼ぶし」
「そんな畏れ多いこ・・・と、・・・?!こ、婚約者ってどういうことですか?」
垣根を感じさせないカナスの言葉に恐縮して首を振ったシェーナは、だが、途中で目をむいた。
恐ろしい単語が聞こえてきたせいだ。
「そのままの意味だ。后にするとの名目でくそ親父んとこからお前を連れ出した。だからお前は俺の婚約者。まあ、そのつもりでフィルカから差し出されてきたんだから何の問題もないだろ」
「・・・・・・」
「あ、こら!気失うんじゃねえ!」
思わずふらっと倒れ掛かったシェーナは、肩をがたがた揺さぶられ今回はすぐに正気に返った。
「ど、どどどういうことでしょうか??」
しかし、現実を見ることは到底できなくて、今にも死にそうな震えた声で再び尋ねる。
「だから、お前と俺がそのうち結婚するってことだって」
「な・・・・なぜでしょう?」
「それがお前を助けるのに一番手っ取り早かったから」
あのままじゃ、マジで殺されてたぞ。
渋い顔でそう言うカナスに、ぞっとしないわけじゃなかったけれど。
「でも、何故助けてくださったのですか?」
助けてもらった礼よりも先にそんな疑問が口から出てきた。
「うん?ちっこいのが単身乗り込んできた挙句、ちょっと触ったくらいで倒れちまうほど小心なのに必死になって弁明して国を守ろうとすんのが印象的でな。それに、どう見ても凶暴な獣を歌一つで懐かせるなんて馬鹿な賭けをする度胸と、そのくせ難癖つけられても国さえ守れればって、あがかないで死を受け入れようと潔さが気に入った。あとは、せっかく綺麗な歌を歌えるのに、こんなことで死んじまうのはもったいない、と思ったからかな」
「カナス様・・・」
「俺の后になるとでも言っておけば、もう手は出されないからな。わかったか?感謝しろよ?」
またほっぺたをひっぱられて、シェーナはとりあえず頷いた。
「で、でも、そのお話はその場を切り抜けるための方便ですよね?本気でけ・・・っ、結婚とかするわけがありませんよね?」
「は?何言ってるんだ、お前。今更冗談でしたなんて言えるかよ」
「え・・・」
「するに決まってるだろ、結婚」
あっさりとシェーナの期待を裏切るカナスに、彼女にしては珍しく食って掛かった。
「ええ・・・っ?な、何でですか?!だって、カナス様は今まで何人の王女を召し取られても妃にはなさらなかったではないですか!国の数ほど美しい愛人がいるってお噂なのに・・・」
「・・・まあ、そういう噂があるのは事実だが」
「あ・・・、も、申し訳ありませ・・・」
「あれだな。噂の内容ってのは、アキューラの王子は希代の色好きで美姫の噂を聞きつければその女を手に入れるために国に攻め入るってところだろ?愛人ばかりを増やすロクデナシの王子で弄ぶだけ弄んだらさっさと捨てて次の女に目移りすると」
「・・・そ・・・それは・・・」
大まかには合っているため、シェーナはどう否定していいかに頭を悩ませた。
ただ、ここ何日かの彼をみているととてもそんな風にはみえない。
むしろ、ぶっきらぼうだけれど、優しくて、気を遣ってくれる人なのだと思う。
それを伝えようとどうにか言葉をまとめていたシェーナだったが、カナスが肩をすくめて言った言葉に凍りついた。
「まあ、すげえ大まかに言えばあってんだけどな」
「・・・・・・」
せっかく一生懸命にフォローをしようとしていたのに、本人にぶち壊されてシェーナは落ち込んだ。それから急に嫌悪感が沸いてくる。
やっぱり清廉を第一に育てられているシェーナにとって、人の気持ちを弄ぶなど言語道断、神への冒涜も甚だしい。
シェーナは無言で、ぺしっと頬に触れていたカナスの手を払い落とした。
「ん?」
「見損ないました。・・・いい人だと、思ったのは間違いでした。あなたはやはりとてもひどい人です」
今までの弱々しい印象から一変して、凛とした強さでにらんでくるシェーナに、カナスが目を細める。
そして何故だか唇の端を持ち上げた。
「へえ、いい人と思われていたわけだ。それは嬉しいね」
「もうそんなこと思いません。近づかないでください」
「そういう顔もできるんだな。どこにそのスイッチがあんだか、今一歩わかんねえけど。今度は倒れないのか?」
「怒っているので倒れません」
「そうか、怒ると倒れないのか。覚えておこう」
呑気に言うカナスに、シェーナは尖った声を返した。
「そんなことはどうでもいいです。あなたみたいな人と結婚なんて冗談じゃありません。取り消してください」
「そんなことしたらお前、殺されちまうぞ」
「それでもいいです。道に反する人と一緒にいるくらいなら、死を選びます」
シェーナの国では一度結婚したら離婚はできない。もちろん、愛人など公に持てるわけがない。
性について非常に厳格な国風なのだ。とくに現実を知らず、聖書の教えだけを叩き込まれているシェーナにとって、教義で禁じられていることを破るなどまさに万死に値する行為だと思っている。
「・・・そうか、お前、こういうのは駄目なわけか」
嫌悪の表情も露に、きっぱりと言い放ったシェーナに、カナスは何故かくっくと笑った。
「笑うなんて・・・。どれだけ人を冒涜すれば気が済むのですか?」
「まあまあ、最後まで聞けって。言っただろ。大まかにはあってると。ってことは違う部分もあるわけだ。そこまで聞かずに決めつけちまうのか、お姫様は」
「・・・わかりました。お話の続きをどうぞ」
確かにカナスの言い分にも一理あるので、シェーナは口を閉ざして姿勢を正した。
しかし、カナスからの距離は十分にとっておく。
「なるほど、しっかりとしたプライドをお持ちのわけだ。ちょっとからかおうとしただけなんだがな。まあいい、続きね、続き」
軽い調子で言った彼は、シェーナの冷たい眼差しを気にした様子もなく、腕を組んだ。
「確かに俺が前線指揮を取って攻め込んだ中には、女目当ての国もある」
「な・・・っ」
「ちゃんと聞けって。いいか、確かに俺は軍の統括的地位にいる。けどな、次の侵攻場所を決める権限まで俺にあると思うか?領土、外交、経済。国の一大事だぜ?そんな決定権があるのは誰だと思う?俺に命令できるのは?」
「・・・・王子殿下より偉いのだから、国王陛下・・・ですか?」
「そうだ。じゃあ美姫がいると噂のところに派兵を命じるとして、その姫様は誰の好みということになる?」
「下命なさるのが、国王陛下なら・・・国王陛下・・・?」
「正解。つまり女が欲しいのは、俺のくそじじいで、俺は関係ない。これはアキューラの上層部の奴らならみんな知ってることだ。すでに何人もの愛妾を囲っている50を過ぎたじじいがさらに17、8の娘を手篭めにするんだ。世間体の悪さに、俺が矢面に立たされているというわけだ」
確かに、シェーナに対しても「余の好みは・・・」とか、「余が所望したのは・・・」とか、自分のことばかりを並べ立てていた。それをおかしいと感じたシェーナの感覚は間違っていなかったようだ。しかし、納得がいかない面もある。
「・・・そんな・・・ご子息の評判をさげるようなことを何故?」
「評判が下がれば下がるだけいいんだよ。あの自己顕示欲と権力欲に取り付かれてる親父はいつまでも俺に地位を譲りたくはない。上層部は金と力で押さえつけているし、俺の評判が悪ければ譲位をと望む声も国民からは上がりにくい。ただでさえ戦勝を重ねているんだ。人格的な問題で足をひっぱりたいんだろ」
そう話すカナスの表情は、いままでで見たことがないくらい剣呑なものだった。
そういえば、御前でシェーナをかばってくれたときも、かなり嫌悪の表情を浮かべていて、仲が悪いとは思わないでもなかった。父親にそんな仕打ちをされるなど、どれだけ悲しいだろう。
「まあ、そんなわけで山ほど愛人がいるなんて噂が立てられてはいるが、実際は一人もいない。そこらへんの姫の愛人を抱えまくってんのはうちの好色親父。大体、本気でオトしたい女がいたらいちいち国を潰したり隷属させたりしなくても、この俺の容姿なら正攻法でオチるっての」
「・・・すみません」
シェーナは180度様相を変えて、うつむいたまま謝罪した。
「誤解をしてしまいました。申し訳ありません」
「お前なあ・・・最初からちゃんと言わないお前が悪い、くらい言えるようになれよ。ていうか、最後の台詞にも突っ込みなしかよ」
「え?ええと・・・すみません?」
「・・・はぁ・・・。だから謝るなって。からかおうとして悪かった」
「いえ、カナス様は悪くありません。私は何も知らずに・・・」
「わかったわかった。んじゃ頬出せ」
「・・・わかりました。どうぞ」
今度こそ殴られると悲壮な覚悟を決めて顔を上げたシェーナは、カナスの手が動いたのを見てぎゅっと目をつぶり、唇をかみ締めた。
だが、両側から軽く押しつぶされるように頬を触られて、怪訝に瞳を開くことになる。
「お前の頬って気持ちいいんだよな。柔らかいし、すべすべしてるし」
「あ、の・・・?」
まるでパン生地でもこねるように両親指でぐにぐにと押されるのは、変な感じだ。痛いわけではないが落ち着かない。
「昨日も思ったんだが、結構癒されるな」
「は・・・はあ・・・?」
「よし、終わり」
「何がでしょうか?」
それもカナスは突然ぱっと手を離したかと思えば、わけのわからないことを言うのだ。
シェーナとしては首をかしげるしかない。
「お前が俺に悪いことをしたと気にしているみたいだから、詫びを取り立てさせてもらった。これからもお前が気に食わないことしたら触らせろよ」
「・・・え・・・?」
頬を触らせることで無罪放免されるのかと、シェーナは目を丸くした。
「え・・・あの・・・いいの、ですか?」
「何が?」
「何がって・・・そんなことで」
「そんなことでいいんだよ。お前がしてんのって、そんな程度のことだけなんだからな」
「・・・・あの・・・」
「ぐだぐだ言うな。さあ、飯食うぞ、飯。今日もちゃんと食べろよ、シェーナ」
「は、はい・・・!」
名前を呼ばれるとどきっとする。シェーナの名前を呼ぶ人はほとんどいないから、慣れていないのかもしれない。
でも、胸のあたりがくすぐったい感じの温かさが生まれる。
しかしそのせいで、結婚の話がかなりうやむやになってしまっていることにシェーナが気がつくのには、数日後のこととなった。