忠実な従者は見誤る
ラビネ視点で物語を見ていた番外編です。短いです。
今まで自分が仕えていた主は理知的だと思っていた。
他人に言われるほど情がないわけではなく、むしろ情に厚い方で、でも何事も冷静に損得を見極めることができる人だった・・・はずだ。
けれど、その主が突然、暴挙とも言える行為に出た。
腕の中に、初対面の小さな少女を抱え、反目する父王に向けて一言。
「父上、これは私が引き取ります。名目は、“シアン”にでもしておいてください」
一体何を言い出すのですか、カナス様・・・。
***
「どういうおつもりで?」
「何がだ?」
宮の数少ない女官に引き受けた少女を預け、正装から普段の砕けた格好に着替えたカナスに、ラビネはうろんげな目を向けた。
「とぼけないでください。あの姫君を連れてきてどうするおつもりですか?」
「さあ・・・どうするかな?」
「カナス様」
にぃっと人の悪い笑みを浮かべるカナスは、ラビネの額にきつく皺が寄っているのが面白がっているのだ。
勿論それは分かっていたが、ラビネは冷ややかな視線・・・というよりは、むしろ睨みつけるに近いそれを主に向けた。
すると、さすがにカナスもふっと真面目な表情に戻る。彼は、降参と言うように両手を小さく挙げた。
「冗談だ。先ほども言っただろう。“シアン”にすると。それなら傍に置いておくのが普通だろう?」
「ご自分が何をおっしゃっているのかお分かりで?」
「何か問題があるか?俺には街の数ほどの妃などいなかったつもりだが」
父によって流された噂を皮肉に使うカナスに、ラビネはますます厳しい目を向けた。
「“シアン”の意味をお分かりいただいておりませんでしたか?」
「ちゃんと分かっているに決まっているだろ」
「では、何故?本気で今日初めてお会いしたような、小国の姫君をご正妃にするおつもりで?アキューラの唯一の王子たるあなたが?」
「まあ、そういうこともあるじゃねえか」
「ご冗談を。失礼ですが、あの姫君がご趣味でしたら、私はあなたの人格を疑います。まだ、ほんの幼い方ではありませんか」
「おいおい。それはあの姫さんに失礼だろ。あれでも16って言ってたじゃねえか」
「実際のお年よりも、まず見た目が問題でしょう。あのようなお小さい方にお相手をさせるおつもりで?長いお付き合いと存じておりましたが、幼子を手篭めにするご趣味がおありとは・・・嘆かわしい」
ため息をつきつつ、ラビネは、若干軽蔑まで含めてカナスを見た。
さすがに、それにはカナスが肩をすくめる。
「んな趣味ねえよ。俺はどっちかっていうと、ちゃんと“ある”方が好みだしな」
「ええ、そうでしょうね」
「・・・分かった風な口を聞くなっての、むかつくから」
気分を害した声を返されても、ラビネは引くことなくカナスに尋ね続けた。
「主が多少はまともな感性をもっていらっしゃるようで安心いたしました。それで?では、あの姫を宮までお連れしたわけは何ゆえでしょう?」
「何ゆえって。あんなちっこいのが殺されたら可哀想じゃねえか」
「・・・・・・・は?」
だが、けろりと返ってきた言葉に、今度こそ言葉を失う。
可哀想。
たったのそれだけ。
「あの・・・カナス様?」
「何だ?」
「あなたは、ご自分がおっしゃった言葉の重さが分かっていらっしゃるのでしょうか?」
「分かってるに決まってるだろ。何だ、そんな呆けた顔して」
またしても呆然としているラビネが面白いのか、カナスはくっくっと楽しそうに笑っている。
それを見ていて、ラビネは一瞬切れそうになり・・・しかし、寸でのところでとどまった。
一度大きく深呼吸をする。
「あなたはアキューラの王子ですよ?」
「そうだな」
「いずれはこの国を負うご立場」
「そのつもりだが」
「国を治めるためにはしかるべきご正妃が必要と思いませんか?」
「いいんじゃねえの?神国の姫君なら、その辺のアキューラ貴族よりよっぽど由緒ある血筋じゃねえか」
「・・・ふざけているんですか?」
「いいや。真面目に答えている」
「何を考えていらっしゃるのか私にはさっぱり分かりかねます」
「そんな思いつめて考えるなって。この先どうなるかってのもわかんねえしよ」
「カナス様っ!ふざけないでください!」
“この先・・・”という言葉は、ラビネの胸の内にざわりと嫌なものをわきあがらせた。
彼が言うとそれは洒落にならない。
ラビネの叱責に、カナスもさすがに黙り込んだ。
「・・・ま、そう根詰めるなってことだ」
「カナス様・・・」
主は深く背を預けた椅子の上で、両手を緩く組んだ。
「いいじゃねえか。今殺されなかったら、あいつはあいつなりの生き方を見つけることができるかもしれねえだろ?お前がいうようにガキみたいにちっこい姫さんがよ、国の責任負って命を落とさなくてもいいじゃねえか。あの男の言いがかりの犠牲になる必要なんかねえよ」
「それは・・・そうですが。しかし・・・」
「ラビネ、あの姫さんの背中見たか?」
「は・・・?あざのことですか?」
「いや。背中だ。・・・傷があった。それもひとつやふたつじゃねえ。何か鋭いもんで傷つけられたような痕が、いくつもあった」
「まさか・・・王族の姫君ですよ?」
「“シャンリーナ”か・・・」
カナスの呟きにラビネも眉を寄せた。
“シャンリーナ”という名前の呪われた子供。存在を表に出されなかった子供だというシェーナ姫。
けれど、初めて会った人間の言だ。
「信じるのですか?」
「嘘じゃねえと思うぜ。あのクソ野郎に約束を反故にされても、一切抵抗も見せなかった。なかなか、度胸がある女じゃねえか」
「・・・変わり身では?」
「それならそれでいいさ。俺は“あいつ”を気に入ったんだ。黒豹を懐かせるという芸当まで見せたしな」
「しかし・・・」
「とにかく、しばらくは“シアン”っつーことにしておけ。それで守ってやれるだろ。いずれ“時が来たら”上手く処理すればいいさ」
何を言ってももはや引く気がないカナスを知って、ラビネはため息をつき、頷いた。
「しかし、足枷になるようでしたら、先にこちらで処理いたします」
「ちびっ子を怯えさせることはやめてやれよ」
それでもラビネが発した冷たい言葉に、カナスはわずかな苦笑を見せた。
***
ラビネは気に入らなかった。
主は時折同情がすぎる。父王に反抗するあまり、負わなくてもいい咎まで背負おうとする。
だから、つけこまれるというのに。
虫の好かない妖艶な女を思い出して、ラビネはきつく眉を寄せた。
(釘を刺しておいたほうがいいのかもしれない)
カナスはあの小さな姫君を無害と信じているようだったが、女というものは狡猾だ。
いつ、態度を変えるか分からない。
これから進むべき道に小石ほどの障害もあってほしくはない。
だから、ラビネは主には告げずに新しく整えられた部屋へ向かおうとした。・・・が。
「マジかよ!?おい、医者!!」
「・・・っカナス様?」
廊下に飛び出してきたのは何故かカナスだった。
「あ?お前なんでこんなとこ・・・、まあいい。さっさと医者を呼べ。イマルの方がいいかもしんねえ」
「イマル医師ですか?どうかなさったので?」
まさかとは思うが、あんな弱々しい子供に手を出したのでは・・・と不審の視線を向けると、それに気がついたカナスがぎろりと睨みつけながら否定してきた。
「くだんねえこと考えているんじゃねえよ!また倒れたんだよ、あのチビ!ちょっと触ったら急にぱったり意識をなくしやがってっ!」
「触った?」
「だからちげえって!あいつが気に食わないことしたなら殴ればいいってそんなくだらねえことを言うからだな・・・。って説明は後だ、さっさとイマル呼んで来い」
「分かりました」
頭に血が上っているカナスと話すよりも言うとおりにしたほうがいいと判断したラビネは、すぐに踵を返す。
イマルによる診察が行われている間も、苛々とした様子の主をラビネはどこか不思議な心持ちで見つめていた。
(このような方だっただろうか・・・)
確かに二度も自分の目の前で倒れられたら心配をするのが人情かもしれない。
顔色が悪く、痩せた小さな少女の身を心配するのも、情が深い方なら分からないではない。
だが、こんなにもこの方をイラつかせるほどのことなのだろうか。
また怯えさせるかもしれないから出て行けと医師に言われ、面白くなさそうに自室に引き上げたカナスに尋ねた。
「そんなにもあの姫君のことが気になりますか?」
「あ?」
「あなた様らしくもない。随分と苛立っていらっしゃるご様子ですから」
「・・・らしくない、か?」
「ええ」
ラビネの指摘によって初めて気がついたといった感じのカナスに向かい、顎を引く。
すると彼は、ふっと大きく肩で息を吐き出した。
「かもな。・・・なんつーか、あいつを見ていると・・・苛々するんだよ。話通じねえしよ」
それに不憫だと、カナスは言った。
「あいつ、声もあげずに泣くんだぞ。その上、気に食わないなら殴ればいいって背中差し出しやがって・・・それが当たり前って顔してるんだ。自分は“シャンリーナ”だから殴られて当たり前なんだとよ。思った以上にあいつの背はひどかったぜ」
鞭の痕だけではなく、いくつもの焼鏝の痕があった。
抜けるように白い背中のそれはあまりに痛々しかったと、カナスは言う。
さすがにラビネも言葉を失った。アキューラ人の彼にはとても理解できなかった。
言い伝えの呪いなどのために、あのようなか弱い少女を、それも王族を痛めつける輩がいるなど。
「そこまでしておいて、国のために死ねってか。神国ってのには反吐が出る」
ただ利用されるだけの少女に、カナスはひどく同情しているようだった。
そこまで聞かされては、ラビネとて情がないわけではない。
人と話したこともろくにないのだと聞かされれば、とても釘を刺す心持ちにはなれなかった。
「・・・・おかわいそうに」
結局、出てきたのは同情の言葉だけだった。
「とりあえず、目ぇ覚めたら何か食わせねえとな。あいつ、何を食うと思う?」
むっとしたように、けれど、心配そうに尋ねてくるカナスに、一抹の不安を覚えないではなかったけれど。
***
それからも幾度かシェーナと話していては気を失わせるということを繰り返したカナスがイマルに説教されているのを見つつ、ラビネは口を出すことはあきらめた。
主は今、あの弱い生き物を庇護することに夢中になっているようで、外からぐだぐだと言っても仕方がないからだ。
あの少女がそれなりのものを与えられる生活に慣れれば、すぐに飽きるだろうという思いもあった。
だが、カナスは飽きなかった。
というよりも、神国の姫君はあまりにもラビネの知っている女とはかけ離れていた。
まともな食べ物を食べたこともなければ、ろくに外を歩いたこともなく、普通の人間なら与えられて喜ぶ高価なものも美しいものも大して興味を示さない。
気が弱く、カナス以外の人間には怯えた表情しかみせない、本当に小動物のような少女だった。
「っし、終わった!あとは頼むぞ」
「またお出かけになるので?」
いつもの1.5倍のスピードで雑務をこなしたカナスが立ち上がるのを見上げ、ラビネは内心で不穏を覚えた。けれど、主はそれを見抜いた様子もなく、ただ瞳を和ませる。
「ああ。今日はシェーナを川に連れて行ってやると約束したんだ」
「こう連日姫君を連れまわして・・・お熱が出たらイマル医師に叱られますよ。懲りない方ですね」
「そう言うなって。あいつ、すげえ楽しみにしてるんだよ。昨日から図鑑を見て、目ぇきらきらさせてよ。あそこまで喜ばれると連れてき甲斐ってもんがあるじゃねえか」
楽しそうに笑ったカナスに、はっとラビネは息を呑む。
こんな屈託がなく、穏やかな表情を見たのは、どれぐらいぶりのことだったかと考えてしまったからだ。
「何だよ?」
思わずじっと見つめてしまったラビネを不審そうに主が見下ろしてくる。
ラビネは小さく首を振った。
「いえ・・・。随分あの姫君が気に入ったご様子だと思いまして」
「そりゃ、あれだけ素直に懐かれりゃ・・・あー、お前は懐かれてないもんなあ」
だが、少し悦に入った様子のカナスに、今度こそ驚いて固まる。
「あいつ、ようやく笑うようになったんだぜ。お上品ににこにこしてるだけだけどな。それでもすげえ進歩だと思わないか?」
これがまた愛らしいのだと笑うカナス。
彼は、幼い子供でも育てているつもりなのだろうか。それとも・・・。
いや、きっと親のような気持ちに違いない。
「カナス様・・・」
「何だよ、さっきから」
じろじろ見るなと言われ、ラビネはふっと息を吐いて視線を書類に落とした。
「姫君と遊ぶのは結構ですが、ご予定は忘れないでくださいね」
「予定?」
「ディジョンに出立するのは明日ですよ」
「は?」
頭上でうっかりといった声がした。
「・・・忘れていたのですね?」
視線を再び上げれば、むすっと口を引き結んだカナスの顔がある。
「別に忘れちゃいねえよ・・・忘れちゃ」
「はあ・・・」
「なんだよ」
「いいえ、お遊びもほどほどに」
ちっと舌打ちを残してカナスは部屋を出て行った。
その姿が見えなくなってから、ラビネは今度こそ大きくため息をついた。
(軍事のご予定を忘れることなど一度としてなかったのに・・・・)
一体彼の中で何が変わっているのだろうか。
カナスがあきらかに変わったと認めざるを得なかったのは、シェーナが熱を出したという理由だけでディジョンへ行くのを翌日に繰り越すなどと言い出したからだ。
(本当に何を考えていらっしゃるのか・・・)
確かに、気の毒な姫君だと思う。
今まで国王に魅入られて来たどの姫君よりも、彼女の境遇は悲惨だった。
けれど、主が手元に置いておくほど入れ込む理由が、どうしてもラビネには分からなかった。
取り立てて美しいわけでも、機転が利くわけでも、朗らかなわけでもない。
痩せぎすで、引っ込み思案な、褒めるべきところが見つからない少女だ。
(確かに、あの黒豹を飼いならしているのは目を見張るほかはないが)
彼女の歌に懐いた猛獣。
“歌使い”という名は確かに伊達ではないかもしれない。だが、それだけだ。
彼女の歌を上手く使うことも考えられるが、カナス自身は十分に民の意を受けられる人間であり、彼女の今までの境遇に憤っていることからも、彼がその選択をするとは思えなかった。
役に立つというわけでもないのに、何故主はあの少女を愛でるのだろう。
何度呼びに行かせても返ってこないことに不安を覚えて、ラビネは自らシェーナの部屋に向かった。看病をするといって、昼から音沙汰がなく引きこもっているカナスを引きずり出すために。
(少し、離した方がいい)
ラビネは決してシェーナが嫌いなわけではなかった。
ただ、ふさわしくないだけだ。彼の主には。
カナスにはしかるべき地位につき、しかるべき相手を並べてほしかった。
「あっ、長官」
王太子直属の近衛長官であるラビネを見つけ、衛兵が敬礼をする。
「カナス様は?」
「はっ、それが何度かお呼びしているのですがお返事がなく・・・」
彼は困ったように、閉ざされたままの細工が施された白いドアを見つめた。
主人の許可なく、しかも妃にすると連れてきた女性の部屋に入ることなどできないからだ。
「わかった。私がお呼びする。お前たちは気にしなくていい」
意に縛られないのは、建祖たる伯爵家の血を引き、カナスの家庭教師もつとめたラビネくらいのものだ。
「カナス様、失礼とは存じますが入らせていただきます」
ノックに返事がないことを確認して、ラビネは部屋のドアを開けた。
急ごしらえの部屋なので、寝室と広間が別れていない。ガラステーブルとソファが並ぶ向こうには、薄い天幕の張られたベッドがあった。
窓際、日差しの良く入るそこに人影がある。
「カナス様?」
しかし、返事がない。
ますます不審を深めて近づいて、あと数歩のところで彼は足を止めた。
その瞬間、鳥肌が立った気がした。
驚きの中に、恐れがあったせいかもしれない。
主は、瞳を伏せていた。
自らの左手の袖を、眠っている少女に握らせたまま、自身も眠ってしまったようだった。
「・・・・・・カナス様」
「・・・ん?」
小さく、吐息のような声を漏らせば、カナスがぴくりと肩を揺らす。
そしてすぐに、青い瞳がラビネを見つめた。
「ラビネ?なんだ、お前・・・勝手に入ってくるんじゃねえよ」
「・・・いえ、幾度お呼びしてもお返事がなかったので」
「あ?呼んだか?」
「ええ。気づかれませんでしたか?」
まだ眠そうにあくびをしているカナスに、努めて冷静な声で尋ねた。
すると首を伸ばした彼が、少しバツが悪そうに答える。
「悪いな、うたた寝してたみてえだ」
「そのようですね。・・・・珍しい」
「まあな」
面を苦笑に変えたカナスは、未だつかまれたままの袖を見つめながら・・・いや、正確には安心しきった様子で眠るシェーナの横顔を見つめながら、言った。
「こいつを見てたら寝ちまったみたいだ」
その瞳が、ひどく穏やかな色を浮かべていることに、ラビネはざわりと胸の内が騒ぐのがわかった。
カナスはそのまま、少女の黒髪に指を絡めている。
それに、どうみても眠ったままのシェーナがほわりと小さく笑った。
安心しきった様子はまるで赤ん坊のようだ。
それを見たカナスの頬にも柔らかな笑みが浮かぶ。
ラビネはようやく理解した。
(私は愚かだ)
同情がすぎることがあるのは確かでも、カナスが浅ましい魂胆に気がつかないはずがなかったのに。
辛い経験をしているからこそ、彼の人を見る目は確かなものになっていて、ちゃんと引くべき一線を分かっている人だったのに。
そのカナスが自らそばにいようとする。
それは、紛れもなくシェーナに裏がないから。だから彼はここまで可愛がろうとするのだ。
彼女には邪気がまったくない。無知ゆえに、純粋。
その透明さが、気を張り続ける生活をするカナスの癒しにもなっていたのだろう。
それに、彼が気がついているかどうかは別として。
(できることならば・・・気がつかないほうがいい)
それは臣下としての願望だ。
いくら無邪気でも、癒しになっても、やはりしかるべき女性を立てるべきだとまだラビネは思っていた。
それはきっとシェーナのためでもある。
カナスの行く道は険しすぎ、このガラス細工のような少女にはとても堪えられないだろうから。
壊れてしまう前に、離してやったほうがいいのではないか。
そう思うのに、主はつかまれた袖を引き離すかどうかためらっている。
まるで彼自身が離してほしくないようにも見えた。
ただまっすぐ、柔らかく、眠り姫を見つめている。
ラビネは自身の胸の奥が重くなった気がした。
もうとっくに、手遅れになってしまっているのかもしれない、と。
***
それは、すぐに答えになって表れた。
「なんだと!ナルマンが!?」
「はい。どうか、急ぎお戻りを。殿下以外にあの方を止められる者はおりません」
「っ馬を引け」
息を巻いて跪いた家臣の言葉に、カナスはすぐに反応した。
その切羽詰まった声に、否が応でも軍の中に緊張と不安が走る。それを察知したラビネは踵を返そうとしたカナスの前に立ちはだかった。
「何だ!どけ!」
カナスが息も荒く怒鳴りつけてくる。
それだけにはとどまらず、強引にラビネを押しのけようとした。
「お静まりを。冷静さを欠いていては相手の計略に乗ることになります」
それに対して、いつもの言葉で主を止めようとする。
効果的に、カナスはぴたりと立ち止まった。
「あなたが駆け込めばそれだけ弱みとなりましょう。彼らに付け入る隙を与えるべきではありません」
「・・・・・・」
「いくらナルマン公とて、王太子殿下の妃を無体を強いることはないでしょう。そう焦るほどのことはありません。シェーナ様にはお気の毒ですがしばしの我慢を・・・」
「黙れ」
だが、いつもどおり冷静な意見を進言していたラビネを、底冷えするような低い声が遮った。
ぎくりとラビネが頬をひきつらせるほどに、深く押さえつけられた怒りが垣間見えた。
「邪魔を、するな」
彼を射抜いた青い瞳は、刃物のように鋭かった。
戦場で敵をみなすのと同じそれ。
邪魔者は全て排除するとでも言いたげな視線だった。
言葉ではなく、視線で屈服させたカナスは、黙り込んだラビネを置いてさっさと黒馬に向かった。
完全に感情が先に立っている。
ラビネは悟った。
もう、とっくに手遅れだったのだと。
(・・・傷つくのはあなたなのに)
一人で立つことすらできない少女を選べば、それだけ背負う重さが増えるのに。
そんなこともわからないほど、あの少女に溺れたのだろうか。
いつか、この選択を後悔するだろうとラビネは思った。
感情のままに選び取ったものを、後悔する日が来るに違いない・・・と、カナスの消えた先を見ながら思った。
***
けれど、その予想は当たらなかった、
決して主は「後悔」しなかった。
予想通りにカナスは苦労をしたし、自分の感情すらわからなくなって、そのうちに自身も傷ついていたと思う。
それでも小さな姫君を想う心は決してなくさなかった。
失わざるを得なかった少年の頃の柔らかな心を取り戻すかのように、彼女を愛で続けた。
怯えてばかりの儚い少女は、カナスが与えたものによってラビネが考えていたよりもずっと強くなって、主を支えた。
そうして、望んでいた未来も、ずっと彼が得ることができなかった心の平穏も全て手に入れたのだ。
「カナス様、すごいです!空が水に写っています!綺麗ですね!」
「ああ、そうだな」
シェーナが瞳を輝かせて笑う。
カナスも、それを見て満足そうに笑った。
ラビネでは決してさせることができなかった穏やかなそれ。
いままで誰も主の心の隙間を埋めるほどの存在にはならず、彼は一人で全てを呑み込み背負い続けなければならなかったし、主も誰かとそれを分かち合おうだなど思ってなかっただろう。
凶行を繰り返す父親を止められなかった咎で自らをただ罰しているかのような痛々しさすら感じていた。
けれど頑固な彼は、今はシェーナにその一部を預けている気がする。
(まったく・・・私は見る目がない)
笑いあう二人を見るたびに、ラビネは苦笑を禁じえない。
あのとき、自分が“正しい”と思った行動をしていたらどうなっていただろう。
シェーナは怯え、きっとカナスには懐かなかっただろう。
そしてカナスは大切な者のために自分を大切にしようとは思わなかっただろう。
それでは、この平和な今はやってこなかったかもしれない。
(人の縁というものはわからないな)
ラビネは幸せそうな二人に背を向けた。




