歌姫は真実の幸せを得る
優しい響きが耳元に落ちる。
温かな手が頬に触れて、びくっとシェーナの体がわずかに震えた。
「あの・・・いま・・・・・・?」
シェーナの黒い瞳に、深みのある明るいブルーの瞳が写った。常よりもきらきらとしていて、美しいと思うのは、カナスの表情が穏やかだからだろうか。
「なよっちいくせに、芯は誰にも負けないくらい強い。そんなお前から目が離せなくなった。お前が笑うようになって嬉しかった。懐いてくるのが可愛くて、こいつにとっては親みたいなもんなんだろうとは思いつつも、好きになるのをやめられなかった」
「・・・・っ・・・」
シェーナの頬に朱が走った。好き、という言葉はどうしてこんなに恥ずかしくて、嬉しいのだろう。
自分で言うのは平気だったのに。
そんなシェーナの頭をカナスはぽんぽんと撫でる。
「そういう素直な反応が可愛いって知ってるか?お前の価値は歌にしかないなんて、そんな馬鹿なことはない。お前が笑うとみんな幸せな気分になる。病院でも、ただ歌うだけじゃなく、一生懸命に勉強をして怪我人の介護をしてやってた。だから、皆お前を慕うんだ。お前が誰より親身になってくれると知っているから。ただ歌っているだけじゃ、少し特異な力があるだけじゃ、あれほどまでに慕われることはない。現に俺よりもずっと民に好かれていたじゃないか。それは、お前が優しい性根の持ち主だからだ。俺もお前のそういうところが、とても好きだ。一緒にいてほっとするから、お前をそばにおいておきたかった」
歌だけじゃない、とカナスは教えてくれる。
もし歌が必要なだけだったら、ナルが死んで歌えなくなったシェーナの面倒をみたりしない、と。
それには納得する部分もあって、シェーナは頷きかけたが、すぐにふるふると首を振った。
優しいといわれる資格は自分にはない。
「でも・・・私は・・・人を嫌ったり、します・・・」
「リベカのことか?あんな女嫌って当然だ。ひどいことを言われたんだろう?」
「そんな・・・」
「むしろ俺は嬉しいけどな」
だが、そんなシェーナに意外な答えが返ってきた。人を嫌いになることが嬉しいとはどういうことかと、彼女は瞳をぱちぱちとさせる。
そんなシェーナを見て、カナスがにいっと笑った。
「俺のことを独り占めしたいということだろう?それだけ俺のこと、好きだって裏返しじゃねえか」
「っわ・・・、ぁ・・・え・・・」
今度は耳まで真っ赤になったシェーナに、彼は浮かべる表情を苦笑に変えて言った。
「俺のほうがよっぽど嫉妬むき出しだったんだがな」
「え。嫉妬・・・?な、何に?」
「・・・お前のその、思い出の奴に」
何に対しても平然と立ち向かいそうなカナスとは似つかわしくない嫉妬という感情にシェーナが目を丸くすると、彼はシェーナの手の中の金鎖を指差した。
「あんなにも感情を押さえ込んでいた頃のお前がもう一度会いたいと願っていて、俺が何をやっても興味を持たないくせに、それだけは肌身離さず持っているから・・・俺よりよっぽど大切な奴なんだろうと思ってむかついて、ひどいことを言った」
「そんな、ちが・・・!」
「ああ。違うんだとさっきお前が言ってくれた言葉で分かった」
聡いカナスが分かったと言ってくれたのだから、ちゃんと分かってくれたのだろう。
そう思ってほっと息を吐いたシェーナの両頬をカナスが包みこむ。
どきん、とまた心臓が鳴った。
「こんな俺でも、まだ、好きでいてくれるか?お前よりもずっと心が狭い俺でも?」
「す、好きです!すごくすごく好きです!」
「敬語に戻さなくていいぞ。子供っぽいお前の口調は可愛い」
「え・・・、え・・・っと、す、好き。カナス様のこと、大好き・・・です」
しかし繰り返し好きということは照れくさくなり、シェーナは結局「です」と消え入りそうな声で付け加えてごまかした。くくっと笑ったカナスが、綺麗な笑顔のまま顔を寄せて唇を掠め取る。
「―――!」
びっくりして逃げようとしたシェーナだったが、頬を質にとられていて後ろに下がることができなかった。
「その会いたかった奴よりも俺のそばにいたいほど?」
問いかけを貰ったとき、まつげが触れそうなほど近くにカナスの顔があってシェーナはとぎまぎとしたが、彼の瞳が思いの外真剣なので、一生懸命に答えた。
「あの、い、一緒にいたいのは、カナス様だけだから。あの人に会いたかったのは、お礼を言いたかったから。そのとき、私、お礼をちゃんと言えなかったから。でも、カナス様と会えなくなるなら、もう会えなくてもいい。お礼を言えなくてごめんなさい、ってそうやってちゃんと心の中で謝ることにします」
「・・・そうか」
カナスは嬉しそうに目を細めて、シェーナのこめかみにキスをした。
目元を染めながらも、シェーナはそれを受け入れる。
だが。
「あ・・・、で、でも、カナス様・・・は?」
「は?」
再び唇を重ねようとしたカナスの動きがぴたりと止まった。そしてやや不機嫌そうに言う。
「俺はお前が好きだって言っただろ?」
「で、でも・・・さっき大切な人って・・・思い出を忘れたくないって・・・り、リベカさんですか?」
「馬鹿か、お前は」
ぎゅっと鼻をつままれてしまった。
嫌がるとすぐにやめてくれたけれど、カナスはあきれ返ったとばかりの表情をしている。
「どこの世界に、自分を裏切って死ぬような目に合わせた奴の思い出を大切にする奴がいるんだよ。それに俺はもともとリベカがそんなに好きじゃない。不憫には思っていたが」
「で、でも・・・リベカさんはいつか一緒になろうって言われたって・・・」
「言ってねえよ。ベルをちゃんと姫として扱えるようにはする、とは言ったけどな。俺はお前以外を妃にする気はない。そのための“シアン”だろ」
「!ほ、ほんと・・・に?」
「当たり前だ。“王禦妃”の宣言はお前が思っているよりも重いもんなんだぞ」
そう言って、彼はラビネが説明してくれたのと同じ内容の王禦妃の説明をしてくれた。
やはり本当なのだとシェーナの瞳が潤む。
そんなシェーナの目尻に口付け、頭を撫でてくれたカナスは、急に憂いた色を浮かべながら「大切な人」のことを教えてくれた。
「そうじゃなくて、俺が忘れたくないのは、忘れたらいけないと思うのは、母親違いの兄と姉のことだ。二人とも、俺が14のときに父に殺された」
「―――っ!?」
重い、あまりにも重い話だった。
カナスにはすでに嫁ぎ先で亡くなった姉リーリアの他に、本当は7つ違いのイリィ、そしてラバースという10も離れた兄がいたのだという。
二人とも表向きは流行り病による病死ということにされているが、真相はまったく違うのだそうだ。
ラバースはスロンの最初の正妻の子で王太子の座にはあったが、体が弱く、争いが嫌いな穏やかな性格の人だった。そしてイリィはスロンが侵略した国の姫を妾にし、その間に生まれた姫。イリィの母は珍しい赤髪の美しい人だったためスロンは大層寵愛していたが、祖国に帰ることを願い続け衰弱して死んでしまったという。イリィはそんな母親そっくりに育ち、王も娘たちの中で一番に可愛がっていた。
「イリィ姉上は、とても明るくて社交的で・・・母違いの俺のところにもよく遊びに来てくれた。俺がいつも宮に一人だったから、心配してくれていたんだ」
「・・・一人、ですか?」
「一人っつってもお前みたいにどこかに閉じ込められていたとかじゃない。ただ、母は父の会心を買うのに必死で・・・いや、俺を後継ぎにすることに必死、と言ったほうがいいか。とにかく、宮にいないでどこかに出かけてばかりだった。小さい頃は乳母であるグィンの母を本当の母だと思っているくらいだった」
「どうして・・・?」
「母は俺を、・・・父のことを憎んでいたからだ」
カナスの母は、もともとスロンの従弟の婚約者だった。
それをスロンが無理やりに召し上げ、従弟を無実の罪で殺してしまった。
幼い頃から将来を誓っていた婚約者を奪われた悲しみは、憎しみに変わり、おだやかだった彼女の性格は一変してしまったという。
彼女は、カナスを産んでからは、憑かれたように王位をわが子に望んだ。
王母として、この国の頂点に立つことこそが、彼女の心の支えになっていた。
「たまに顔を合わせれば母は俺にラバース王子に負けるな、とそればかりを吹き込んで。あの王子は穏健派といわれているが、実際はただの臆病者で、彼が王位を継げば他国に容易に侵略されてしまうと。王のやり方に反対しているのは、他国の圧力に負け、他国と通じているからだと。お前は、王のように強くなれ、そして裏切者のラバース王子を追放して王位を継げ。それがこの国の発展、ひいては民のためと・・・繰り返し言い聞かされていた。俺はそれをずっと疑ったことがなかった。たまにしか顔を見せない母が望むとおりにしていれば喜んでくれる。そんな妄信が、俺の中にあった」
だから、カナスは強くなった。
父を尊敬し、父のようになろうと思った。
戦火をひろげるべきではないと繰り返し主張していた兄を、臆病者と蔑んだ。
そして、子供の頃から戦場へ足を運んだ。
「でも、それは全部間違いだった」
カナスは苦しそうな表情をシェーナに見せた。
そして、ぎゅっとシェーナの肩を抱く腕に力を入れる。
「ある日、姉上が、俺に会いに来た。俺は諸国を歴訪するのに夢中になっていて、ほとんど1年ぶりに会った。はつらつと美しかった姉上は痩せて、ひどく具合が悪そうだった。どうしたのかと尋ねると・・・兄といがみ合うのはやめてくれ、と言った」
あのときの悲しそうな顔をカナスは忘れない。
いつも笑ってカナスを励まし続けてくれた彼女の、初めて見る涙を。
そのとき、王宮は第一王子派と第二王子派でまっぷたつに分かれてしまっていた。
そもそも第一王子は父に反対ばかりしていて、国王の側近たちはこぞって父王に従順なカナスをかつぎあげようとしていたからだ。
「俺は嫌だった。兄は口を開けば開戦をするなと、軍力に頼るな民が不幸になる、と俺のやることを否定していた。自分の体が弱いから、父の期待に応えることができる俺を妬んでいるんだと、周りに言われるまま信じていて・・・だから、そんな兄と和解をするなんて無理だと思った。いくら姉上の頼みでも。それでも姉上は、せめて一度ちゃんと話をしてほしいと、兄の肩を持ってばかりで・・・それも気に入らなかった」
カナスはその日以降、姉と会わなかった。
何度か便りを貰っても、返そうとしなくなった。
そうしてまた半年がすぎた。
だがそこで、カナスは絶望を知ることになる。
きっかけは母の死だった。
病に倒れた母は、死の床でカナスを拒絶した。
彼が知らなかった母親の真実を突きつけ、夫を、息子を呪いながら亡くなった。
信じていた何もかもを壊され、足元が揺らいだ気持ちだったとカナスは語った。
「俺は父を信じられなくなった。母にそんな仕打ちをした父を憎んだ。そうして初めて姉上の言葉に耳を貸す気になったんだ。だから、姉上に会いに行った。でも会えなかった」
「・・・どうして・・・ですか・・・?」
「何故か父が会わせようとしなかったんだ。俺はそれを不審に思った。大体、姉上はもう20を超えていた。その上の姉は14で嫁いで、他の妹たちも幼い頃から嫁ぎ先が決まっていた。それなのに、何故イリィ姉上だけ・・・と、俺は隠れて姉上に会いに行った。各王女に与えられる宮にはいなかった。いたのは、王宮の・・・それも、後宮の奥、だ。ラビネが探してくれた」
「後宮・・・国王陛下の、奥さんがいるところですか?」
「そうだ。女を閉じ込める、一見きらびやかで、牢獄のような場所。姉上は・・・数年前から父の慰め者にされていた。それも父の子を宿していた」
「!?」
シェーナの瞳が限界まで見開かれる。そんなシェーナに触れるカナスの手も震えていた。
今でも耐え難い怒りのために。
「実の娘に、だぞ。畜生にも劣る・・・そんな男の血を引いてると思うと、ぞっとする。姉上はずっと俺に伝えたかったんだ。あの父を信じてはいけない、と。でも俺はそれに気がつかなくて、その上、姉上を逃がしてあげられるほどの力もなくて・・・俺は兄に、ラバースに会いに行った。そのときもう大人だった兄なら何とかしてくれると思って」
24になるところだった兄は、父の悪行の数々を知っていた。愚かな弟とは違って。
一方的に嫌悪していたカナスを、鷹揚に許してくれる懐の広い、優しい人だった。たくさんのことを話して、この人こそが王になるべきだとカナスは思った。
体が弱い分は自分が助けようと、今までの確執を乗り越えてそんなことを思えるほどに気持ちの良い人だった。
イリィは必ず助けてみせる、とラバースは固く約束してくれた。
けれど、それは次の悲劇の始まりに過ぎなかった。
その次の週、ラバースとイリィが死んだという知らせがカナスの耳に入ったのだ。
「どういうことかと慌てて王宮に行けば、二人は兄妹でありながら道ならぬ恋に落ちて・・・二人で毒を飲んだのだと・・・姉上が宿していた子は、兄の子だと・・・そんなでたらめな話になっていて・・・。けれど、二人とも亡くなったのは事実で・・・あいつに殺されたんだ、あの父に・・・っ」
「カナス様・・・!血が・・・」
かみ締めた唇から血を流すカナスにシェーナが慌てて細い指を当てる。
するとはっとしたようにカナスが思いつめた表情を消した。
「・・・すまん。感情的になった」
シェーナは何と言ってよいかわからず、ただ緩く首を振る。カナスはふっと息を吐くと、淡々とその続きを話した。
「その後、兄が謀反を企てていたとして兄の側近たちは皆処刑され、父は王位を得るために自分の血縁者をすべて殺した疑いがあるんだが、兄上が集めていたそのときの証拠やその他の悪行の数々の証拠もすべて燃やされて、何も残らなかった。残ったのは兄の不名誉だけ。対外的には病死とされつつも、兄と姉の二人は死後王族の位を剥奪され、国内でいなかったものとして扱われるようになった。悔しかった。何もできなかった自分が憎くて憎くて、それでも思いとどまったのは、兄が小姓に託していた書簡があったからだった」
決して短気を起こしてはならない。自分にもしものことがあっても、はむかったりしないように。王の不信が激しくなればなるだけ風当たりは強くなるかもしれないが、後を託せるのはカナスだけだから。君を信じている、と。
そのときの彼には力がなかった。
王に歯向かえるだけの力がなかった。ここで無茶をすれば、兄や姉の犠牲が何のためだったのかわからないままになってしまう。
だから好機を待った。
殺したいほど憎い男の下で少しずつ力を手に入れ、準備を整え、復讐を果たす日を待った。
そしてようやくそれを遂げたのだ。
「だが、あの男を殺したからといってあの二人のことを忘れるなんてできない。俺はずっと覚えておかなければならないんだ、真実を。一人の権力者が引き起こした悲劇を。あんな父よりも、俺よりもずっと人格者で、この国をよくできたはずのあの人たちを失くした痛手を決して忘れてはいけないんだ」
厳しい自戒を課すカナスに、何人もが忘れろと言った。
仕方のないことだったと。
カナスは決して兄に劣っていたわけではない、
ただ、まだ子供だっただけだと。
けれど、カナスは絶対に忘れたくない。
何があっても、自分がどれほど苦しんでも、絶対に忘れないし、自分は至らないのだと思い続ける。
忘れたくない大切な人たち、というのは、そう言う意味だと彼は語り終えた。
いつも自信にあふれている瞳に悲しげな色を浮かべて。
その瞬間、ぼろぼろとシェーナの頬を涙が伝った。
「・・・な・・・なんだ、お前が泣くな。悪かったよ、気分がいい話じゃねえな。お前は忘れろ」
優しい言葉に、シェーナは首を振った。
そしてぎゅうっとすぐ近くにあるカナスの首に抱きつく。
「お・・・ぼえてる・・・、私も・・・覚えてるから、はんぶっこしてください・・・」
シェーナの行動に驚いていたカナスの表情が、不思議そうなものに変わった。
戸惑ってシェーナを抱き返すこともできないようだ。
「私・・・ぜんぜん、なにも、できないけど・・・、でも悲しいの、教えてくれれば、歌うから。カナス様が泣きたいときに泣ける、ように・・・歌うから・・・。だから、一人でがまん、しないでください。悲しいこと、分けて・・・わたしにくれれば・・・そうすれば、悲しいの、少しは減るかもしれない・・・です」
びくり、とカナスの体が一度だけ震えた。
そのまま少し固まったあと、そろそろとシェーナの髪を撫でてくる。
触れるのをためらっているような、どこかぎこちない手つきだった。
「・・・お前は、本当に優しい奴だな」
だが、その言葉が終わると同時にぎゅうっと強い力で抱きしめられた。
ちょっと苦しいと思ったが、耳に落ちた熱い息にそんな息苦しさなど霧散してしまう。
「お前の方がずっと苦しくてつらい思いをしてきたのに・・・それでもお前は、それだけ優しいんだな。・・・ありがとう」
彼は泣いているような声だった。
本当は泣いていなかったのかもしれないけれど、シェーナはそれだけでまた泣けてきてしまった。
ありがとうと、その言葉をシェーナに与えてくれたのはカナスが初めてだった。
シェーナはその彼のためだったらいくらでも自分を捧げられる。
いや、捧げるとかそういった犠牲的精神ではなくて、自分から何かをしてあげたいと思う。
悲しまないでほしいと思う。
それがシェーナの“願い”だ。
今はまだ、何もできないけれど。好きだという気持ちしかあげられないけれど。いつかもっと役に立てるようになりたい。落ち込んでいるときは励ませるようになりたい。きっとなるから待っていて。
そう伝えると、カナスはシェーナの涙を舐め取って、しょっぱい味のするキスをくれた。
いつものように不意打ちじゃない。逃げようと思えば逃げられたけれど、シェーナは息がかかる距離で一度びくっとして、それでも逃げ出さないようにぎゅっと目をつぶっていた。それに微かに笑う気配があったのは覚えているけれど。
「・・・・ぅん・・・っ??」
しかし、すぐに離れると思った唇はちっとも離れてくれなかった。
ぺろりと薄い唇を舐められたことにびっくりしてぱちりと目を開け、ついでに何だと尋ねようと口を開けば、ぬるっとしたものが口の中に入ってくる。
もっと口付けが深くなった。
一度だけこんな口付けをされたことがある。
初めて、会ったあのときだ。カナスは別に殺そうとしたわけじゃないと笑いながら言っていたけれど、変な感覚がするし、心臓はどきどきと壊れそうだし、息ができなくて苦しいし、で、どうしたらいいのか分からない。
生理的な涙が出てきて、シェーナはカナスの肩を叩いた。
このままでは死んでしまうと本気で思った。
するとようやくカナスが離れてくれる。
「・・・は・・ぁ・・・っ、ひ・・・ひどい・・・です・・・」
必死に酸素を求めるシェーナに、カナスが思い切り呆れた顔を見せた。
「・・・あのな、お前・・・鼻ついてるだろうが」
「鼻?」
「口で息できなかったら、鼻でしろよ。口呼吸だけで生きてるのか、お前は」
また鼻をつままれて、シェーナは嫌そうに首を振る。
そして恨めしげにカナスを見上げた。
「あの、口をふさがないでください。・・・ちょ、ちょっとだったらいいですけど」
少し恥ずかしそうに付け加えたシェーナの言葉に、カナスは意外そうに目を開いた後、にやっと笑った。
「へえ、ちょっとならいいのか」
「え・・・あ・・・たっ、たまに・・・なら・・・」
確認される恥ずかしさに顔を真っ赤にしたシェーナが体を引いて、とんっと背中を壁にぶつけた。
けれどカナスも腕を伸ばして壁に手をついてしまったので、シェーナは彼の腕の間に閉じ込められる格好になる。
「お前がお子様なのは分かってるからこの先は我慢してやるが、たまに、って条件は飲めないな」
「・・・ぇ・・・」
「こればっかりは俺の好きにさせろ。じゃねえと、いつ狼になっても文句言えないぞ」
「オオカミ・・・?」
何を言っているのかちっとも分からずにきょとんとなったシェーナの唇に、ちょんと一瞬だけ柔らかな感触があたる。
そして次にまばたきしたときには、ふわりと体が浮いていた。
「カ・・・カナス様!下ろして・・・お、お怪我ひどくなります・・・っ」
カナスがシェーナを抱えたまま立ち上がったのだ。真っ赤になりつつも、心配して、下ろして欲しいと体をよじるシェーナだったが、「お前が暴れるほうが痛い」と言われて途端に大人しくなる。
数歩の距離を足がつかないまま移動され、ぽすんとベッドの上に下ろされた。
同じくベッドの端に腰掛けたカナスを、シェーナは眉を下げて見遣る。
「あの、だ、大丈夫ですか?」
「ああ。てかお前、普通にしゃべれるなら普通にしゃべれ。その方が可愛い」
「か・・・っ、かわ・・・かわいくない!・・・です」
「生意気だな」
「痛いっ!」
故意に敬語を付け加えた罰のように、頬をぐにっとつままれて、シェーナはわざと悲鳴をあげた。
本当はそんなに痛くなかったが、ひどいとカナスをふてくされた表情でにらむ。
だが、少しは優しくしてくれるかと思いきや、にやにやと笑っている彼は意地悪を言うだけだ。
「そうか、痛いか。だったら舐めといてやる。こっち向け」
「ち、ちが・・・いいです!そんなに痛くないからっ!」
「遠慮するな」
「ほんとに平気、平気だから」
必死に拒絶すると、カナスの爆笑が聞こえてきた。
「やっぱり面白いな、お前は」
「ひどい・・・!」
「知らなかったのか?俺は結構性格悪いぞ。お前が拗ねる顔も好きだしな」
「・・・ぅ・・・」
確かに、今までも散々からかわれてきた気がする。思い返せば、いくらでも意地悪?された記憶がよみがえる。
背を向けたままむぅっと黙り込んだシェーナを、カナスが後ろから抱き込んだ。
「それでも俺が好きか?俺のそばにいるか?」
冗談めかしているのに、どこか不安そうな音を感じさせる声だった。
他人の感情に疎いシェーナだけれど、人の声にこもる微妙な響きの違いを聞き分けることだけはできる。
「・・・・好きです、だから、そばにいたいです」
だから、シェーナはちゃんと答えた。
拗ねたりもせずにきちんと答えた。
この先何度聞かれても、どんなにむくれていたとしても、自分は同じ答えを返すだろう。そばにいたい、と。
「これから・・・何を知っても・・・何があっても、か?」
「はい。私、カナス様が好きですから。ずっとずっと好きでいます」
シェーナはそうっとカナスの腕に触れた。自分を包み込む強い腕。
「・・・そうか」
ありがとう、とまた彼が小さな声で呟いた。
胸いっぱい幸せな気分になって、シェーナは微笑む。
ほんの半年前のシェーナからは想像もつかないほどの、愛らしい笑顔で。
# #
「信じられませんね」
「・・・って・・・!うるせえよ」
ぺしりと傷口を荒く治療され、カナスは顔を歪ませた。
怪我が痛いというよりも、どちらかといえばバツの悪いのをごまかしたい気持ちが大きかった。
それが分かっているからイマルもこれみよがしにため息を吐く。
「自業自得ですよ。いくらなんでもそこまで節操なしとは思いませんでした」
「別に俺は・・・」
「言い訳は結構です。しばらくは安静にしておいてください。くれぐれもシェーナ様に近づかないでくださいね」
「何でお前にそんなこと言われなけりゃなんねえんだよ」
「かえってトラウマになられては困るのはあなたでしょう。先生の言うとおり大人しくしていてくださいね。大丈夫ですよ、やることは山積みですから退屈はいたしません」
「・・・ラビネ」
反対方向から降ってきた声に、カナスは苦々しげに視線を向けた。
「てめえ、よくもまったくの法螺話を俺に吹き込んだな。俺になんつった?」
「あなたがはっきりしないので、お手伝いをさせていただいたまでです」
「んだと?」
シェーナが故郷に帰りたがっているようだとカナスに伝えたのは、ラビネだった。
もちろん、彼はシェーナがカナスをちゃんと好きでいることを知っていて、お互いにどうしたらいいのか分からないでいた二人にちゃんと思いを伝えあって欲しいと、発破をかけたのだ。
「よかったではないですか。シェーナ様のお気持ちを確かめることができて」
とはいえ、騙されたカナスにしてみれば素直には喜べない。
「よくないですよ。シェーナ様を寝込ませたのはどこの誰ですか」
その上、イマルにチクリと嫌味を言われて彼は完全に黙り込
んだうえで視線を逸らした。
想いを伝えたあの日、いろいろな話をして、すれ違っていたことを二人で修正した。夜になってもまだ話していて、そのうちに眠ってしまった。
まだ、日の昇る前に目が覚めたのはカナスのほうで、彼は寝息を立てているシェーナを飽きずに眺めていた。
同じ寝台にいるのはとても久しぶりで、その上背を向けずに腕の中で気持ちよさそうに眠っているシェーナが可愛かった。
だから、ちょっと魔が差したのだ。
ふわふわとした幼い頬に口付けて、かぷりと耳を甘噛みしたところまではいたずら心だった。
けれど、シェーナが「ぅ・・・んん・・・」と妙に甘ったるい声を出すから、ついつい押さえていた欲望が暴走してしまって・・・。
「信じられませんよねえ?普通、何も知らない、まだ精神年齢的にかなり幼いの少女の寝込みを襲いますか?」
「だから、してねえっつってんだろ!このボケ医者!」
「自分のしたこと棚上げして人に八つ当たりしないでください」
「まあ、仕方ありませんよね。カナス様はいろいろ我慢なさっておいででしたから。お若いんですし、そういうこともありますよね、ええ」
「怪我が治ったらぶっ殺す、お前ら」
ラビネの年若い少年でも見るかのような眼差しが余計に勘にさわり、カナスは物騒な台詞を吐いた。
彼らは大げさに言うが、実際はちょっと首にキスマークをつけたところで、シェーナが目を覚まして、服を脱がそうとしたのがばれてパニックになられ(シェーナは男の人に肌を見せるのはいけないことだと思っているので)、暴れた彼女の膝が怪我に当たって滅茶苦茶痛かったというだけだ。
(格好悪ぃ・・・)
思い返しても、自分が情けない。
おまけにシェーナは、そのときのショックに加え、カナスの怪我を悪化させたことに驚き、熱を出した。
ジュシェとニーシェにはカンカンに怒られ、イマルには嫌味を言われ続け、ラビネには馬鹿にされる始末。
苦虫を噛み潰したような表情で、カナスは近くにいたグィンに林檎を投げつけた。それが大量の書類を抱えていたグィンの顎に見事にクリーンヒットする。
「っったあ・・・何をなさるんですか?!」
「喉が渇いた。さっさとそれ剥いて飲み物持って来い」
「そんな・・・私にあたらないでくださいよ。自分が悪いんじゃないですか」
「あ?」
「い、いえ!何でも・・・」
カナスの乳兄弟は相変わらず一言余計だ。
カナスと共に山で奇襲を受けた際、必死で彼を守ろうとして片目に傷を負ってしまった。隻眼となったグィンに、カナスは安全な文官として高位を与え、その労に報いようとした。けれどグィンは今までと変わらずカナスの傍にいることを望んだのだ。
隻眼では軍にはいられない。それでもただの従者として、尉官がなくても傍にいたいと彼は言った。
“あなたみたいな滅茶苦茶でわがままな人の面倒をみるのは楽しいですから。それに片目しかなくても盾くらいにはなりますよ”
自分は恵まれている。そう、強く感じた瞬間だった。
「でもあれですね。カナス様は何でも卒なくこなす方かと思ってましたけど、女性の扱いに失敗することもあるんだなあと、ちょっと安心・・・」
「さっさと行って来い!」
「はっ、はいっ!」
とはいえ、口が滑りすぎるのは問題だ。
再び投げた林檎を避けつつ慌てて出て行くグィンに苛立った気持ちのまま息を吐くと、肩を震わせたイマルが逃げるように出て行くのが目の端に写った。
このままでは自分も八つ当たりされると思ったのだろう。
さすがに分かりやすく笑いはしないラビネは、気に食わない微笑のまま、グィンがちらけて行った書類を綺麗に積み直してカナスの前に差し出した。
「とりあえず、こちらの書類を片付けて、お気を静めてくださいね。国王陛下」
「・・・・・・覚えてろよ」
歯軋りをしたカナスに、ラビネがにっこりと笑った。
一方のシェーナは。
「・・・うう・・・」
「大丈夫ですか、シェーナさま」
「まだ苦しいですか、シェーナさま」
「・・・・・だ、大丈夫・・・」
双子に両側から看病されつつ、ほかほかと火照った顔を毛布の中に半分以上埋めた。
起きたら何がなんだか分からない状況で、とりあえず服をひっぱられたことにびっくりして思い切りカナスのわき腹を蹴飛ばしてしまった。勿論わざとではなかったのだが。
「・・・カナス様、大丈夫かな・・・?」
熱に浮かされ、ぽやんとした瞳でシェーナは呟いた。するとジュシェとニーシェが怒りも露に答える。
「まあ!あんな方のことを心配なさる必要はありません」
「そうです!シェーナ様に手を出そうだそうだなんて不届千万。天罰です」
「・・・??」
どうもこの姉妹はやたらとカナスへの評価が辛い。一度どうしてか聞いてみたいところではある。
とりあえず、シェーナは一番気になったことを尋ねてみた。
「手を、出すって・・・何?」
「「・・・・・・」」
すると二人そろって黙り込む。それから急ににこやかな声で答えてきた。
「何でもありませんよ」
「そうです、気になさらなくていいんですよ」
「そ・・・う・・・?」
「そうですそうです」
「・・・あの、じゃあ・・・首の、虫刺され・・・?赤いの、病気、じゃない・・・?カナス様、うつらないか、なあ?」
「・・・・大丈夫ですよ。全然、ちっとも平気です」
「むしろ、感染源はあちらです」
「馬鹿、余分なことは言わないでいいの」
「ご、ごめん。ジュシェ」
「さあ、シェーナさま、もう少しお休みになりませんと」
「そ・・・そうです。お休みになれば熱も下がりますよ」
「・・・・うん・・・」
ぼんやりとした頭では、半分以上何を言っているのか分からなかった。とにかく言われたとおりに、目を閉じて眠ろうとする。
すると知恵熱に浮かされたシェーナはすぐにうとうとと眠りに引きずり込まれていった。
しばらくして、シェーナは眠りながらふわりと幸せな笑みを浮かべた。
次回で完結です。




