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歌姫は再び絶望の淵を歩く

暗いです。

―――1週間後。


「また、あの歌が・・・」

「まだ目を覚まされないんだな・・・カナス様」


臓腑を痛むような悲しい歌声に、王太子の居城であった“水繋城”の門番は顔を曇らせた。

まるで壊れたレコードのように繰り返されるシェーナの歌は、『再生』の歌であるはずなのに、それを耳にした誰をも悲しませ、泣きたい気分にさせた。

篭城に適する水上の城は、すっかり陰鬱な空気に取り込まれてしまっていた。


「あれから、一週間か」

「・・・あきらめるしか、ないのかな?」

「馬鹿言えよ!あの方は“軍神”だぞ!いつだって死線を乗り越えられた方じゃないか!そんな簡単に死ぬもんかっ!」

「オレだって信じたいさ!けど・・・、けど・・・もう、一週間だぜ」


片割れに胸倉を掴まれた門番は、悲痛な声で言った。

うなだれたその様子に、もう一人の門番も黙り込む。


「ようやく、ここまで来たのに。やっと、理想の世になると思ったのに・・・。この国は、一体どうなるんだ・・・?」

「・・・目を、覚まされるさ。きっと」

「・・・・・そうだと、いいな」


二人の門番が、城を振り返る。

暖かなアキューラの気候にふさわしくない、冷たく凍えるような風に囲われてしまった建物を。



城の中、シェーナはずっとカナスの傍にいた。

その傍らでずっと歌い続けていた。

それでも、カナスは目を覚まそうとしなかった。


「シェーナ様、どうか横になられてください。随分冷えてきましたし、お風邪を召されては大変です」


イマルは何度そう言っただろう。

しかし、シェーナはその言葉にまったく反応を見せずに歌っている。


「シェーナ様・・・」


シェーナは外部からの接触を全て切り離してしまったようだった。話しかけても、手を触れても、ちっともそちらを向こうとしない。

ただ、自分の世界に引きこもって、ふと思いついたときに歌い始める。それ以外は黙って泣いているだけだ。

イマルの指示で双子がシェーナに毛布をそっと掛けた。

だが、ありがとう、とはにかんだように笑うシェーナの姿はなかった。イマルはため息をついて、またしても例のものをジュシェに渡す。

ジュシェは当て布で口を押さえ、それを香炉に炊き、シェーナに向けて仰いだ。

少しすると、シェーナがくたりとカナスの眠るベッドに倒れる。

ジュシェとニーシェは協力して、そんなシェーナを同じ部屋に移動されたベッドに運び寝かしつけた。こんなことが毎晩繰り返されていた。


「「先生・・・」」


不安そうな双子の表情にイマルも沈痛な面持ちになる。


「こんなことが良くないのは分かっているよ。だが、こうして強制的にでも眠らせなかったら、シェーナ様のほうが変調を来たしてしまって危うい。それはカナス様の本意ではないだろう」

「カナスさまはいつ目を覚まされますか?」

「カナスさまが目を覚まされれば、きっとシェーナさまもお元気になられます」

「そうだね・・・そうなんだが・・・」

「何かできることはありませんか?」

「私たちに出来ることなら何でも」

「・・・・すまないが、私たちはただ、待つことしかできないんだよ」


イマルの言葉に、双子の表情が歪んだ。気の強い姉妹の泣きそうな顔に、イマルは瞳を伏せた。


「すまない。できるだけのことはやった。あとは殿下の生命力に賭けるしかない」


イマルが駆けつけたとき、既にカナスは心肺停止状態だった。

組織の損傷部、および外傷を縫合し、強心剤で奇跡的に脈動復活したものの、失った血の量が多く、彼の体は最低限の生命を維持するのが精一杯だったようだ。

このまま眠るようにして逝くか、再び目を覚ますかは半々の確率だった。

この先は気力の勝負。病は気からという言葉は決して嘘ではない。いかに生きたいと願うかによって、運命は変わるのだ。


「私たちは信じて待っていて差し上げよう」

「「・・・・はい」」


不承不承頷く姉妹の気持ちは痛いほどわかった。

イマルとて、歯がゆい気持ちでいっぱいだ。

だが、これ以上できることは何もないのだ。


「君たちは、シェーナ様をお世話してあげなさい。それが今できること。大切なことだよ」


勿論、と首を縦に振る双子を残し、イマルは部屋を後にした。

そして彼は天を仰ぐ。

イマルが見込んだタイムリミットは一週間。

それで意識が戻らなければ、もう戻る可能性はないに等しい。

それでも信じたくなくて、彼は一週間半から二週間、とタイムリミットを恣意的に伸ばした。


(まだ・・・まだ、望みはあるはずだ。きっと・・・)


ぎゅっと拳を握り締めてそう自身に言い聞かせるイマルは医者失格かもしれない。冷静な判断ができていないかもしれない。

それでも彼は信じ続けた。いつでも生命力にあふれていた彼の主が、再び目を覚ますことを。



その日、ラビネがその場にいたのはただの偶然だった。

カナスが意識を失う間際、彼が宣言したとおりに、初代国王と共にアキューラの礎を築いたと言われるリカレド伯の子孫であるラビネは、宰相として、事実上この国を動かしていた。

いや、動かしているというよりも、かろうじて保っているというくらいだ。

カナスが無理を押してまであの場で彼に位を付けたのは、現国王が亡くなりその矢面に立つべき自分が政務を執れないことを分かっていたから。

あの宣告がなければ、アキューラという大国は各地の反乱と旧体制の貴族たちの反発で、国としてのまとまりを失っていただろう。

アキューラは武を尊ぶ国。

力の強い者こそが王になる。そして王は誰にも支配されない。だから、王位は自ら宣言する。

その証となる、宝剣を持って名乗ったものこそが、この国の王。

そして一度名乗った王の命は絶対。

だからこそ、国事を預けられた“宰相”たるラビネの指示は各地に効力を及ぼせるのだ。とはいえ、現実は前王の圧政からの解放を単純に喜ぶ国民が、ただ無条件に「新体制」を歓迎しているだけなのだが。


(この先考え方の違うものも出てくるだろう・・・。そのときは、どうするか・・・) 


カナスはよくラビネに理想を語っていた。それを実現するための策もよく語り明かした。

けれど、理想と現実は違う。

“軍神”として国民の中に畏怖と尊敬の念を抱かれているカナスでなければ、断行できないものはたくさんあった。

いつ不満や疑念が爆発するかもしれない綱渡りの不安を抱えながら、ラビネは久々に主の下へ帰ってきたのだった。


「・・・・?あれは・・・・」 


ふと、三階のバルコニーに白い姿を見つけた。月はとうに天頂をすぎていて、闇のなかにぼんやりとした白い影だけが浮かんでいる。

歩を止めたラビネに、護衛兵の一人が振り返った。


「ラビネ様?」

「ああ、いい。お前たちは先に休んでいろ」

「しかし・・・」

「大丈夫だ。明日からもやることは山積みだ。休めるときに休むといい」


部下にねぎらいの言葉をかけ、ラビネは一人でその人影に近づいた。おおよその検討どおり、彼より一回り小さな人影は、裾にわずかな刺繍を施しただけの真新しい真っ白なローブに身を包んだシェーナだった。


「シェーナ様、このようなお時間に何をなさっておいでですか?」


ただ、シェーナは引きこもってばかりで、また心が壊れてしまっていると聞いていただけに、問い方は慎重になる。

誰もが畏敬の念を抱かずにいられないほどの能力を持ちながら、心の脆弱な少女。

カナスが大切に慈しんでいた少女を代わりに守ってやることが使命であるとラビネは分かっていた。

だから、返事が返ってこないことが分かっていても、できる限りの穏やかさで言葉を続ける。


「このような場所にいてはお風邪を召されます。お部屋にお連れいたしましょう。さあ・・・・」

「・・・・・・・ラビネ様・・・」

「え?」


まさか反応があるとは思わずに、ラビネはシェーナを促そうとしていた手を止めた。

シェーナはゆっくりとラビネを振り返り、その黒い瞳で見つめる。

その一瞬、ラビネの中に走ったのは確かに悪寒だった。

シェーナの顔色は悪く、頬の赤みも消え、瞳には何の感情もない。ただ、泣きはらした目尻だけが痛々しく赤くなっていた。


「シェーナ様・・・」

「神は・・・許してくれるでしょうか?」


思った以上のひどい状態に、ラビネは息を呑む。そんな彼の様子を気にした風もなく、シェーナはつと夜空を見上げた。


「・・・神?」


彼女が好む言葉、そしてカナスだけでなくラビネも信じない言葉を、思わず復唱する。


「私の過ちを、正してくれるでしょうか?祝福をくださるでしょうか?」

「シェーナ様?何を・・・・」

「ラビネ様、申し訳ありませんでした。いえ、この国の人すべてに、私は謝らなければなりません。こんなことで、その罪が軽くなるとは思えませんけれど・・・」


困惑するラビネに向かって、シェーナは微笑んだ。

けれどそれはシェーナの笑顔とは思えないほどのぎこちなさだった。

昔の、笑い方をしらないままのシェーナのような不自然さだった。


「もし、奇跡があるなら・・・あの方にも、謝っておいてください。ごめんなさい、と」


そう言って、シェーナは手すりに手をかけた。暗くて最初ラビネは彼女が何をしようとしているのか分からなかった。

だが、月明かりに白く輝く人影が、ふわりと宙に浮いたのを見て、ラビネは血相を変えて飛び降りようとしていたシェーナの肩をつかみ引き戻した。

シェーナの軽い体が、どさりと尻餅をついたラビネの上に乗る。


「何をお考えですか!?」


再び立ち上がろうとするシェーナの腕をつかんで引きとめ、ラビネは信じられない思いで尋ねた。


「ご自分が何をなさろうとしていたかおわかりですかっ?」

「・・・離してください」

「ここから落ちれば、ひとたまりもないのですよ!」

「知っています。そのために私でも越えられる柵をさがしたのですから」


平然と頷いたシェーナに、ラビネは絶句した。

一方で、そんな魂胆を果たさせないために、より強くシェーナの腕を握り締める。生気が感じられないほど細く、折れそうなシェーナの腕を、現に引き止めるために。

けれどシェーナは首を傾けて、静かな声で言った。


「ラビネ様、手を放してください。私は・・・こんなことくらいしかできません」

「こんなこととはどういうことです!死ぬ気だというのですか?そんなことをしてカナス様が喜ぶとでもっ?」


カナスの名に、途端、感情のなかったシェーナの瞳が揺れた。

ずっと、彼女に気を使った屋敷の人間たちは彼の名前をシェーナの前で上げようとしなかったから。

だから、もろかった。

シェーナは虚勢を崩されて、しゃっくりあげ始めた。


「だ・・・って・・・私が・・・・わたしが・・・あんなことを言ったから・・・っ」


何をしゃべらず、何にも反応せずにいるなかで、シェーナはずっと考えていたのだ。

もし、あのとき、自分が止めなければ。そうすればこんなことにはならなかったのに、と。

スロンが笑ったように、シェーナが偽善を振りかざさなければ、カナスは今も息災だったはずなのに、と。


「あれは・・・」

「私が、いけないんです。私が・・・何も分かっていなかったのに、私が分不相応な口を出したから・・・っ。私は、いてはいけなかったんです。いつも、いつも、いつも、私は人を不幸にすることしかできない。私なんて、拾わなければカナス様はこんなことにならなかった。全部、私が“神に見捨てられた子”だから・・・シャンリーナの私が生きているから、こんなことになったんです。私なんてさっさと死んでいればよかった!私なんか生きていたって仕方がなかったのに!カナス様はみんなのために必要で、私なんて誰にも必要じゃないのに!」


シェーナは、らしからぬ力でラビネを突き飛ばした。不意をつかれた彼の手から腕を取り返して、彼女は再び柵をつかむ。だが、ラビネは容赦のない力でそこに留まろうとするシェーナの指を引き剥がそうとした。指が白くなるほど柵にすがりつくシェーナとラビネの間でもみ合いになる。


「シェーナ様、手をお放しください!」

「いやです!私が、死んだらいいんです!シャンリーナは生きていたらいけないんです!けれど神は、シャンリーナの災いを耐えた人々には祝福をくださいます。シャンリーナの命と引き換えに、幸福をくださいます。だから、私が死んだらカナス様は助かるかもしれない・・・いえ、きっと助けてくださいます。だって、私を・・・こんな私に親切にしてくれました。だから、きっと神は祝福をくださいます、よく災いを引き受けたって・・・っ!だから、私が死ねばいい・・・」


―――パン!


静かな夜更けに、乾いた音が響いた。

同時に走った頬の痛みに、シェーナは目を丸くする。へたりと座り込んだシェーナの呆然とした視線を受けながら、ラビネは険しい顔をした。



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