ニコレットの願い
「―――――――!!」
跪き、端正な顔が歪み、ポロポロと瞳から滴が伝っている。何か言っているが、声を聞き取れない。ニコレットが見たことないほどアデルが動揺し、泣いている。ずっと苦しそうなアデルの様子にニコレットの胸がズキッと痛んだ。止まらない涙を止める方法をぼんやり考えていると突然視界が闇に襲われた。
「起きてください。お嬢様」
起きない主に侍女が声を掛けた。ゆっくりと瞼を上げたニコレットの瞳に自室の見慣れた天井が映り、パチパチと何度か瞬きした。
「夢を見ました。断片的な、アデル様が泣いてましたが……まぁうちには関係ありませんよね。どうしてか気分が晴れない。昨日ワインを飲みすぎた?」
ゆっくりと体を起こしながらブツブツ呟くニコレット。ニコレットの気分を変えるために侍女が窓を開けると青い空に虹がかかっていた。ニコレットは美しい景色に笑みを溢す。
「坊ちゃんより今日はゆっくりしていてよいと申しつかっておりますが」
「お兄様はもう出かけましたのね。ワインの試飲を夜通しされてましたのに」
「お嬢様とは体のつくりが違いますから。こちらを預かっております」
長期休みのため帰省したニコレットはシリアンと兄妹水入らずで月見酒をしていた。ニコレットの発案の事業をシリアンが手掛け成功したお祝いに二人で盛り上がっていた。これからの明るい未来に何度も乾杯した記憶はあるがベッドに入った記憶はない。途中で眠った自分をベッドまで運んでくれた兄の優しさにニコレットは笑みを深めた。楽しい時間を思い出し気分が変わった所為か重たかった体は軽くあり、ぼんやりしていた頭はスッキリとした。
ニコレットは侍女から渡された書類を見て、目を見開き驚いた。
「お見通しですか。私の決めたことなら応援してくださるとおっしゃっていた通りです」
ニコレットは兄からの贈り物を大事に胸に抱き、窓辺に座り遠くに見える森を眺めた。かすかに見える森から煙が漂い兄が魔物の討伐に行っているのがわかった。魔物の遺体は放置すると腐敗し病が蔓延するので燃やして灰にする決まりになっている。ニコレットは兄や騎士達を迎えるための準備をするように侍女に命じ、自分の支度を始めることにした。
***
学園に戻ったニコレットはお茶会に招待されていた。キラキラとした金の瞳を持つ金の卵から生まれたばかりの無垢な雛、ではなく第二王子の婚約者であるお姫様の私的なお茶会に。キラキラとした金髪の恋に夢中なお姫様の瞳はうるうると濡れている。姫の手元には新聞記事。新聞の表紙を飾るのは平民の娘が王子に嫁いだというシンデレラストーリーである。
「このようなことが……、卑しい平民が王族に」
第二王子は誰にでも気さくで、女生徒には特に優しい。明るく気さくで王族らしくないが、王子としての分別はわきまえている。敬愛する兄の統治する世の邪魔はしないように民を大事にするという教えをきちんと守っているだけでも王子の心を知る者は少ない。
「姫殿下、落ち着いてくださいませ」
「殿下は姫様に夢中ですわ」
ニコレットをはじめ、招待されている女生徒達は姫を褒め、不安の種を丁寧に否定していく。
蝶よ花よと育てられた純粋なお姫様。ニコレット達にとって、理解できない思考の持ち主でも金の卵は丁重に扱う。
昔から決まっていた婚約者を蔑ろにし、婚約破棄して利益のない婚姻した王子様に待っているのは廃嫡。王太子ではなくても国の重鎮となる王族の顔は暗殺を防ぐため新聞に載せるのは禁止されている。新聞には王子の顔が鮮明に描かれていた。王家が王子に見切りをつけたということだ。そんな事情を想像できるのはきちんと教育を受けた者だけ。ニコレットは上位貴族ではないが、情報収集が趣味のため知っている。もちろん第一王子の友人のシリアンも。
「おそれながら貴族令嬢としてではなく、お友達として発言させてくださいませ。お二人は恋仲ですが、この婚約は国と国の契約です。そんな簡単に破棄できるものではありません。もしも殿下がそのようなことをされれば、きちんと責任をとってくださるでしょう。いえ、私が責任もって、ふふふ」
「姫様よりも未来の王弟妃にふさわしい方は想像できませんわ」
「物語の姫君のように可憐で、神々に愛されたかつての聖女様のように優しい存在を姫殿下以外に私は知りません。おそれおおくも、殿下には勿体ないご縁とどうしても思ってしまいます……。ですが私は女神のように美しい王族にお仕えでき光栄至極に存じます」
ニコレット達は第二王子が馬鹿じゃないことを知っている。残念ながら美しいお姫様に恋はしていない。もしも第二王子が恋をしても婚約者を蔑ろにすることはない。婚約者に隠して愛人や妾を囲うかもしれないが、それは男の嗜み。国の利益を損なうようなことさえなければニコレット達は構わない。
もしも国益を損なうようなことをすれば第一王子の信者達が動くだろう。まぁ第二王子も第一王子の信者のようなものだが……。もしも第二王子にとって兄以上に情を向けられる存在ができたら奇跡かもしれない。無自覚のブラコンであるニコレットは姫を優しくなだめながら、次の策を練りはじめた。
***
「その本は?」
「新人作家の物語です。つい夢中で読んでしまいました」
ニコレットのお抱えの作家が書き、王族にも気に入られた物語。将来を約束した王子と姫が様々な困難を乗り越え結ばれる王道の物語。人気があるのは物語の内容ではなく、美しい挿し絵に豪華な装飾なのに平民でも手を出せる低価格。利益は少ないが、兄が価格を決めたのでニコレットに異存はない。シリアンの目論見通り贈り物には最適な本はよく売れた。作家は有名になり未来の王弟妃という富豪のファンもついた。
「王道ストーリーですが、王道には王道の良さがありますから」
「婚約者と苦難を乗り越え結ばれるか……」
「当たり前のことですが、その当たり前は簡単ではありませんのね。世界には民族により、いえ、国や身分は関係ありませんか……。人それぞれ色々な考えがありますものね。私はアデル様が選ぶなら異存はありません。どんな道を選んでも幸せを願います」
「ニコレット……」
アデルは淑女の笑みを浮かべるニコレットとの未来を想像し口許を緩めた。ニコレットは新たな収入源となった本を愛しそうに見つめ、煌びやかな表紙を優しく指でなぞった。
「馬鹿みたい。こんなつまらないお話が売れるの?きっと名作になる?子供向けの絵本?親が決めた道を突き進むなんて自分っていうものがないじゃない。自分で決められない馬鹿が悲劇のヒロインって自己主張しながら嘆くんじゃない。つり橋効果で結ばれた王子と姫は平和になれば物足りなくなるのが目に見えてるじゃない。くだらない」
試作の本をニコレットから渡されたククリは途中で読むのをやめた。パラパラとページをめくり、美しい挿絵があれば手を止め眺めていたが。挿絵だけでも物語の大筋はわかるので、最後は馬鹿にしたような物言いで酷評した。ククリの馬鹿にしている世界観はニコレット達が生きる社交界と同じ世界観である。王家や当主の方針に従うのが貴族というもの。貴族は平民から搾取して豊かな暮らしを送っている。ただ貴族の犠牲のもとで平和な国が維持されている。平民も貴族も持ちつ持たれつという考えをニコレットが何度説明してもククリは理解できなかった。
「俺も守れるようになりたい」
赤面した顔のアデルのか細い声はニコレットには届かなかった。ニコレットはアデルの声に我に返り、今度の第二王子主催の舞踏会の説明を始めた。王族とのお付き合いをほとんどアデルはしてこなかった。ククリを穏便に夫人に迎えるためにはアデルと王子がうまくお付き合いをする必要があった。利益があれば第二王子は優遇してくれる。利益がなくても、おもしろみがあれば協力的になってくれるだろう。利益もおもしろみもニコレットなら用意ができる。ただアデルの顔を覚えてもらえばやりやすくなる。そして王族とのお付き合いはニコレット達がアデルと縁を切ったら、アデルが頑張らないといけない。さらに裕福になるための統治は望んでいない。ただ最低限は領主としての役割を果たして欲しい。果たしてもらわないとニコレットの悪夢が現実になってしまう。
「アデル様を信じております。ですが基本は大事ですのよ」
ニコレットは優しく微笑みながらアデルへの教育を再開した。
アデルはニコレットとの時間が増えたことに喜んだ。アデルはニコレットの願いを叶えたい。ニコレットの期待に応えるために励むアデルはニコレットの心の内は知らない。