6.きらめく薄紅のエンヴレイム
少女の周囲に薄紅色の炎で形作られた桜の花びらが現れた。
一見それは薄紅の色も相まって本物の花びらのように見え、無害のように思えてしまう。
「そう――」
けれど、その可愛らしい外見に込められているのは、あらゆるものを焼き尽くさんとする少女の感情を具現化したが如く灼熱業火。
一度身を焼かれ、脅威を理解していた鬼はそうであると予測し、
意識下で警笛を鳴らし続ける。
対して翠は、ただただ美しいと思った――彼女の放った最後の一言と生じた現象を目の当たりにするまでは。
「おまえが死ねばそれでいいのだから――あははっ!!」
加虐心、精神の高揚、期待感、それらが詰まった声色に背筋がぞくり、と凍る。
轟、と音が鳴って、鬼の躯体が少女目掛けて発射される。
やがて少女の眼前にまで迫ると、丸太と見間違うほどの太い腕を力の限り振るった。
全速力で走るトラックの正面衝突に匹敵するであろうエネルギーを秘めた腕が何者にも阻まれることなく直撃し、
少女の身体が吹き――飛ばない。
『……!』
鬼の攻撃は少女の薄い腹に当たることは無く、短剣の切っ先によっていとも簡単に防がれていた。
渾身の力で押し込んでも短剣の切っ先が自身の肉に突き刺さるのみで、少女の身体を吹き飛ばすまでに至らない。
「あら、寸止めしてくれたのかしら? こんなか弱い少女を痛めつけるなんてできない~って良心がうずいちゃった? 見かけによらず以外と紳士なのね――」
余裕綽々に、
ふふ、と純粋無垢な笑い声が鬼の耳へするりと入り込み、鼓膜を揺さぶる。
ぞくり。
自分より遥かに小さなヒトに、抱く恐怖。
――そんなことがあってはならない。
それを否定するかのようにもう片方の腕で連撃を試みた。
けれど、それを遮るようにゆらりと無数の桜の花びらが鬼とアケミの間に割って入り、内側から燃える様に花びらの形状が崩壊して、薄紅の劫火が顕現した。
視界に広がる劫火を前にして鬼に躊躇いが生じる。
だが、それすら叩き伏せてしまえば何も問題は無い――、と鬼は恐怖を呑み込んで、腕を下す。
しかし、劫火は鬼の丸太のような腕を、常温のバターを裂くようにいとも容易く溶かし斬った――。
「――――――――――――!!!!!!!」
想像を遥かに上回る威力に声にもならない悲鳴をあげる。
――これをまともに喰らえば。
鬼は咄嗟に後方に跳び退いて少女から距離を置こうとするが、そう簡単にいくはずもなく。少女は炎を纏わせた短剣を鬼のもう片方の腕に突き刺し、後退する鬼に引っ張られる形で少女の身体がふわり、と浮く。
「さあたいへん、はやく振りほどかないとあなた――身体の芯まで溶けちゃうわよ」
腕から肩に飛び乗った少女を引き離そうと闘牛のように暴れまわる。
成人男性の膂力であれば簡単にふるい落とすことが出来る、決死の暴れ。
だが華奢な身体のどこにそんな力があるのだろうか、少女は全く離れる気配がなく、それをひとつのアトラクションのように楽しんでいた。
鬼は我武者羅に暴れまわり、自身の身体を大木に強く叩き付け、跳躍し、地面に身を打ち付ける。
ズシンと鈍い振動が地を伝う。
だが、気付いた頃には既に少女の姿は無く、腕に突き刺された短剣も無い。
抉れた地面に肉片も無い。
「おーにさーん こ ち ら」
誘いの声が聞こえるやいなや鬼は筋肉を膨張させミサイルが如く勢いで高く跳躍。着地と同時に握り締めた拳を容赦なくその場に叩き付ける。
嵐のような連撃、その一撃一撃が普通の人間を殺めるには十分すぎる威力を秘めている。
が、当たらなければ意味は無く、
少女の場合恐らく当たっても意味は無い――。
鬼の大振りの攻撃は虚しく空を切り、その度に余裕を失い、翻弄され、その姿はまるで駄々をこねる子供のようで滑稽にも思えた。
対して、ひらひらと舞う彼女の動きはまるで蝶のようで幻想的だった。
紅い髪が夕日の光を取り込んで、きらきらと光る。
緩やかに、穏やかに、華麗に、優雅に、舞う。
ようやく当たった攻撃も、短剣によって簡単にいなされ無意味に終わる。
故に鬼は行動を変えた。
腕を地面に突き刺し、掘り起こした土を少女に向けてぶちまけ、視界を奪う。
こんなことをしても勝ち目はない、だが。
『GuAAA!!!!』
両の足を膨らませ高々と跳び上がる。
そして、とてつもない地鳴りと振動が後方で少女の戦いを固唾を呑んで見ていた《《翠の身体を揺さぶった》》。
「え」
黒い影が視界に映り込む。
赤い瞳、びっしりと体毛で覆われた何か――鬼が、こちらを覗き込んでいた。
鬼は翠だけでも仕留めようと、標的を切り替えていた。
『GAAA――!!』
轟く、勝利の咆哮。
この化け物にとって、殺意を向ける対象は誰だっていい、戦いなどどうでもいい。ソイツを殺せる隙が出来たのなら目の前の戦いを放棄して殺しに行く。
一人でも多くのヒトを殺せればそれでいい。
此れにヒトが持つような莫迦げた倫理観など無い――。
「う、わ――!!」
鬼の手が翠に迫る。
この人間は絶命する、奪ってやった、ざまあみろ、鬼の口に笑みが浮かぶ。
だがこの歓喜が、すぐに絶望に変わることを鬼自身が気付く頃にはもう、何もかもが手遅れだった。
「この……ックズが」
激しい殺気が燃え盛る森林に広がり、
鬼の手が熱を帯び、激痛が感覚を支配した。
「私にこんな仕打ちしてくれるだなんて、いい度胸してるじゃない」
薄紅の炎が翠を守るように展開され、鬼は上空に出現した炎の渦に弾かれて体勢を崩す。
翠はわからないことだらけの状況下でひとつ確信した。
「あぁ、そう? そこまで死に急ぎたいってワケね――イイわ」
彼女を怒らせたと。
短剣が煌めく。
左手の甲に刻まれた神秘的な紋章が薄紅の光を放ち、周囲に魔法陣のようなものが展開される。
無数の花びらが彼女の周りで急速に回転を始め、
炎熱を身近で浴びても燃えることがなかった黒いコートの端がじりじりと燃える。
無数の花びらが短剣の刀身に集束し、劫火によって新たな刃が形成される。
薄紅色の刀身を宿した剣――。
それはまるで神話に登場する、頂に君臨する輝く者を殺す炎の剣。
「劫殺しろ――ミラージュ・レーヴァテイン=エンチャント」
風に乗って空気が燃え、木の葉が焼却され大地が燃える。
この大規模な森林公園一つを瞬時に焼き尽くせるほどの熱量を帯びた炎剣を携えて、少女は鬼との距離を瞬時にゼロへ詰めた。
炎剣が攻撃の射程内に入った刹那、鬼の躰は燃え。
鬼が少女の接近に気が付いた頃には腕が蒸発し。
反撃しようと身を動かした時には、歯が焼け落ちて。
死を悟った時、皮膚は爛れ、骨は朽ち。
屈強な鬼の肉体はボロボロと崩れ、
巨体を支えていた両脚は一刀の内に両断された。
「――――…… ? 」
苦痛も無く、理解も及ばない。
神業の如き一閃に、鬼は自身が斬られたことにも拳が蒸発したことにも気付かずに、ただ紅髪の少女を睨みつけていた。
両脚を失い、バランスを崩した鬼のその面が、傾けられた炎剣の切っ先に自ら飛び込むように落ちていく。
嵐のような戦いの幕引きはあっけなく、
最後はその巨体の自重によって絶命した――。