プロローグ・2『記憶の断片 2021年8月10日』
(本当に、出たっ……!)
異形の存在・鬼を前に、初の遭遇となる青年は萎縮する。
ちらりと視線を横に逸らすと、既に紅髪の少女・アケミの姿は隣に無く。
異様な威圧感を放つ異形の鬼に怖気づくことはなく、一直線に駆けて行っていた。
彼女が躯体を前へと押し出す際、蹴りあげた地には微かな亀裂が生じ。その衝撃は風となって青年の五体を駆け抜けていく。
アケミが紋章の力によって発生させた薄紅色の炎が意思を持つかのように四方から鬼に迫り、その分厚い肉を炎の咢が喰らい、焦がしていく。
けれど鬼の勢いは止まることは無く、軽自動車が如き質量と太さの腕を力の限り振るい、か細い少女目掛けて無慈悲に叩き付けた。
直撃を受けた地面は爆ぜたように砕け散り、亀裂は青年が立っている場所にまで走り、その一撃の重さを物語る。
生身の人間が喰らえば絶命必死の鉄槌。
しかし彼女は笑みを浮かべていた。
「ふっ、ふ……あはははは!」
まるでジェットコースターでスリルを楽しむかのように、
あるいは談笑を楽しむ生娘のように。その笑みは純粋無垢であった。
そして拳を握りしめ、がら空きになっていた鬼の横腹に容赦なく叩き込んだ。
『Gi――!?』
それは決して生娘が放っていい一撃ではなく、
生命から発されてはならぬ鈍重な音と何かが砕け散る音が夜闇に轟き、重さ2トンは下らない鬼の肉体はまるでピンポン玉のように勢いよく吹き飛ばされていった。
『Ha――Ha――GaaaAAaaAarrrrrrrrrr...』
人の頭蓋よりも大きい口の端からたらりと垂れる紫色の血。
生娘の一撃を受けた鬼の腹部は激しく損傷し、生きているのが不思議だと思えてしまう状態。しかし、それが華奢な少女が繰り出した一撃による損傷であることも十二分に不可解である。
目の前の少女は今まで食してきた同種とは別次元の何かだと認識した鬼は殺意に満ちた瞳でソレを睨みつけると、
狩りの構えではなく、殺めるための構えを取った。
「ふふ、あと10秒時間をあげるわ。さぁ、はやくしないと死んじゃうわよ?」
「やっばいな、あれ完全にスイッチ入ってる……」
加勢しようとしていた青年はその考えを改め、彼女の邪魔にならない場所で大人しくしていようと一人と一匹から距離を置く。
鬼はそれとは真逆にアケミめがけて弾丸のように前へと跳び出し、嵐のような連撃を繰り出した。
風を切る音は絶え間なく鼓膜を揺さぶり、鬼の荒い息遣いは見る者に恐怖を植えつける。
しかしそのどれもが躱され、虚しく空を裂くばかり。
「はい残念、時間切れ」
アケミの左手の甲に刻まれた紋章が光り、着火点のようにそこから炎が吹き荒れる。炎は彼女の掌へと集束し、花びらから短剣のような形状へと変化させ、彼女が短剣の柄の部分を握った瞬間。
それは火の粉を放ち、炎では無く物質へと変化した。
「紋章武具・展開――」
灼熱の炎で形成された短剣は蜃気楼を生み出しながら薄紅色の火花を散らす。
短剣を携え、薄紅の炎を纏う紅の少女。
鬼神の如き恐ろしさと紅い華のような美しさを併せ持つその姿に、青年が見惚れていた僅か数秒のうちに静かに戦いの決着がついた。
「さようなら」
短剣は易々と鬼の腕を斬り伏せ、突然の激痛に悶絶し体勢を崩した鬼の肉体を一呼吸のうち――目にも止まらぬ早業で真っ二つに両断した。
切断面から燃え移った炎は瞬く間に鬼の全身を包み込み、やがて異形の者はその肉片一つ残らず薄紅の炎によって滅却され、この世から消滅した。
「ふう。さ、帰るわよ」
「えっ? あ。お、おう……」
勝利の余韻に浸ることは無く、アケミはあっさりと何事も無かったかのように踵を返した。
その足取りは軽やかで、激しい戦闘での疲労を全くと言っていいほど感じさせていなかった。というより、疲労など一切なく。彼女にとってこれは準備運動程度の認識であった。
未だに気持ちの切り替えが出来ずにいた青年は生返事で答えると戦闘の爪痕が激しく刻まれた道路を見てぼそりと呟いた。
「どうすんのこれ……」
【きおくはここでとだえた】